勇気をもって耐え忍び神に奉仕する
1,2 聖書にしるされた信仰の人々の生涯の記録からどのように益を得ることができますか。
神の偉大さを知らせ,神のみこころを熟知させて,私たちに勇気を与えるほかに,聖書はもう一つの方法で,神のみこころを行なうための勇気を私たちに与えます。それはどんな方法ですか。信仰の人々の生活の記録によってです。したがって聖書は,神がそのしもべたちに要求される事柄を示すだけでなく,神を恐れた人々がどのようにして神に嘉せられたか,その実際の例をあげています。そのため,彼らが私たちと同じような問題にぶつかった時どうしたか,エホバがどのように彼らを祝福されたかを知ることができます。この方法で私たちは,神への奉仕にたじろぐことなく,勇敢に行動するように勇気づけられるでしょう。
2 使徒パウロは,この励ましの源に言及して次のように書いています。「わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか」。(ヘブル 12:1,2,新口)ですから私たちは,キリスト教時代以前のこの雲のごとき多くの証人や,イエス・キリストおよび初期クリスチャンたちの生活を聖書で読み,彼らの模範から個人的に益を得,励まされて,私たちの参加すべき競争を勇敢に続行しようではありませんか。
3 エホバがしもべとしてお用いになる人はどんな人ですか。
3 ところが,多くの人は,神に奉仕する責仕があるのを知ると,その競争に参加するのをためらいます。たぶんその人たちは,私はふさわしくない,と思うのかも知れません。また私にはその資格がないと感ずるのかも知れません。また,神の御要求に沿えないかもしれないと思うのかも知れません。もしこれがいまのあなたの状態なら,神があなたへの教えのために聖書中にその記録を保存されている人々を見まわしてごらんなさい。「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には,知恵のある者が多くはなく,権力のある者も多くはなく,身分の高い者も多くはない。それだのに神は,知者をはずかしめるために,この世の愚かな者を選び,強い者をはずかしめるために,この世の弱い者を選び,有力な者を無力な者にするために,この世で身分の低い者や軽んじられている者,すなわち,無きに等しい者を,あえて選ばれたのである。それは,どんな人間でも,神のみまえに誇ることがないためである」。(コリント前 1:26-29,新口)神は,自分は賢いと考える者をお用いになっているのではなく,神に導きを求める人々をお用いになっているのです。神は,自信満々の人間に恵みを与えておられるのではなく,神に信仰をもつ人々を恵まれているのです。神が喜ばれるのは,だれよりも良くできる人ではなく,クリスチャンの兄弟たちの進歩に個人的な関心を寄せてそれを見守る人です。エホバに奉仕する人々は,そのみこころを行ないたいと思うだけの愛をエホバに対してもつ人たちです。―詩 25:4,5,9,12。ピリピ 2:4。
4 どんなタイプの人がエホバに奉仕してその是認を得たか,例をあげてください。
4 モーセはそのような人でした。彼は奉仕に召された時,どもりであったうえに80歳の高齢でしたが,それでも召しに応じました。(出エジプト 4:10-12; 7:7)ギデオンは『彼の父の家族のうちで最も小さいもの』でしたが,進んで奉仕し,エホバは彼を後援されました。(士師 6:15,16)アモスはしがない牧者であり,いちじく桑の実を摘む者でした。しかしエホバの預言者になりました。(アモス 7:14,15)またガリラヤから出た漁師ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネがいます。彼らは「無学な,ただの人」でしたが,イエスは彼らを使徒として選ばれました。(マタイ 4:18-22。使行 4:13)パウロのように,少数の人はかなりの教育がありました。しかし他の人々は,犯罪を犯したり,だらしない生活を送ったりして,かんばしくない過去をもっていました。けれども彼らが神に奉仕するために神に献身したときは,世故にたけていた者であろうと悪人だった者であろうと,それらの事柄をすべてうしろに捨て去って,神に奉仕する新しい生活をはじめました。―ピリピ 3:4-8。コリント前 6:9-11。
5 どんな考えは,エホバの奉仕に参加することに対して正しい見方をもつ助けになりますか。
5 たいせつなことは,あなたが神のみこころを知るまえにどんな人間であったか,ではなく,いまどんな人間であるか,ということです。あなたはエホバ神とその御言葉に堅い信仰をもっていますか。心をつくしてエホバ神を愛していますか。神の正義の新しい世における生命を心から望んでいますか。(ヘブル 11:6。マルコ 12:29,30。ペテロ後 3:13,14)ではためらう理由はなにもありません。人間の観点から見て,私にはできないかも知れないと考え,エホバへの奉仕を控えることがあってはなりません。むしろ,エホバがなぜこれほど欠点の多い私たち人間をお用いになるのか,その理由をよく考えてみましょう。使徒パウロはこう書いています。「わたしたちは,この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって,わたしたちから出たものでないことが,あらわれるためである」。(コリント後 4:7,新口)では,神を信頼して勇気を出し,エホバ神に対する献身をバプテマスであらわし,信仰の完成者イエスの模範に従いましょう。そして神がそのしもべたちにお与えになった伝道のわざに参加しましょう。
神の御国の伝道者
6 イエスは彼の弟子になった者すべてに対して,どんな活動のための訓練を施しましたか。
6 これは,神のいつくしみを受ける人すべての肩にかかっている責任です。キリストの生活に関する福音書の記録を勉強するとき,私たちはそのことを痛感します。「わたしについてきなさい。あなたがたを,人間をとる漁師にしてあげよう」とイエスは勧めておられます。「わたしに従ってきなさい」とイエスは言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。…わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい」。ではイエスに従った人々は何をしましたか。イエスご自身が行なわれていた仕事に参加したのです。「イエスは教を宣べはじめて言われた『悔い改めよ,天国は近づいた』」。(マタイ 4:19; 9:9; 11:28,29; 4:17,新口)彼らはイエスの弟子としてイエスから学び,ほどなく単独で派遣されるほど宣教の経験を積みました。最初にイエスは,「行って『天国が近づいた』と宣べ伝えよ」との指示を与えて,12使徒を送り出されました。(マタイ 10:5,7,新口)そののちに70人を選び,彼らにも同じ使命を与えてつかわされました。―ルカ 10:1-11,新口。
7 (イ)イエスの生涯において伝道はどれほど重要なものでしたか。(ロ)そのため弟子たちはこのわざをどのように見ましたか。
7 イエスは伝道のわざに専心されていたので,のちに総督ピラトに向い,自分が生まれた理由,また世に来た目的はまさに,「真理についてあかしをするため」である,と言われました。(ヨハネ 18:37,新口)そのことをよく理解していたイエスの弟子たちは同じく,真理のあかしを緊急事と考えていたので,役人から伝道を止めるように命令された時,次のように答えたほどでした。「神に聞き従うよりも,あなたがたに聞き従う方が,神の前に正しいかどうか,判断してもらいたい。わたしたちとしては,自分の見たこと聞いたことを,語らないわけにはいかないのである」。(使行 4:19,20,新口)彼らは,イエスが去られる少し前に,「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子と」せよ,と言われたことをよく知っていました。またイエスは昇天直前に彼らに次のような最後の言葉を残されました。「あなたがたは…力を受けて,エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,さらに地のはてまで,わたしの証人となるであろう」。(マタイ 28:19,20。使行 1:8,新口)イエスの弟子になることが,伝道者になるという意味であることを,彼らは間違いなく理解していたのです。
8 パウロはコリント人に手紙を書き送ったとき,伝道者としてのクリスチャンの責任についてなんと述べましたか。
8 使徒パウロは,イエス・キリストの足跡に従うすべての人にかかっている責任を非常に強く感じたので,コリントの仲間のクリスチャンに次のように書きました。「わたしが福音を宣べ伝えても,それは誇にはならない。なぜなら,わたしは,そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわいである。進んでそれをすれば報酬を受けるであろう。しかし,進んでしないとしても,それは,わたしにゆだねられた務なのである」。(コリント前 9:16,17,新口)私たちもみなそれと同じ責任の重さを感じなければなりません。そしてその点,パウロがコリントのクリスチャンたちを励ましたとおりにしなければなりません。「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」。(コリント前 11:1,新口)もし,イエスとその忠実な模倣者たちに目を留めて離さないなら,私たちも彼らと同じく,良いたよりの伝道の緊急性を感ずるでしょう。
勇気をもって耐え忍びわざを行なう
9 宣教において忍耐はどれほど重要ですか。
9 イエスは御父に向って,「わたしは,わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて,地上であなたの栄光をあらわしました」,と報告できるまでわざを続行されました。(ヨハネ 17:4,新口)そしてこれこそイエスの弟子である者すべての決意でなければなりません。それには忍耐が要求されます。信仰をもっているだけでは,あるいは伝道のわざに参加するだけでは足りません。「神の御旨を行って約束のものを受けるため,あなたがたに必要なのは,忍耐である」。(ヘブル 10:36,新口)ぶたが再び泥の中をころがり回るように,真理を見失って,再び古い世のならわしに逆戻りするのは,なんと愚かなことでしょう!「わたしたちは,善を行うことに,うみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる」。―ガラテヤ 6:9,新口
10 伝道区域の人々が良いたよりを聞かないときクリスチャン奉仕者はどのように考えるべきですか。
10 たしかにすべての人があなたの伝道する良いたよりに応ずるわけではありません。良いたよりの伝道者が何時間戸別伝道をしても,音信をごく簡単に伝える以上のことはできない地方もたくさんあります。人々は伝道者がすすめる聖書の文書を受けないかも知れません。そのため伝道者はがっかりした気持になるかもしれません。しかしもし自分が良心的に聖書の話を準備し,神のことばに対する人々の関心をよびおこすように真剣に努力しているなら,私の奉仕は実を結ばない,と考える理由がありますか。ありません。「弟子はその師以上のものではなく,僕はその主人以上の者ではない」。(マタイ 10:24,新口)すべての人が,イエスの言うことに耳を傾けたわけではありません。イエスの故郷の町の人々は,イエスを信じませんでした。イエスがガダラ人の地に行かれた時も,民衆は彼を歓迎せず,かえって「この地方から去ってくださるようにと頼んだ」のです。エルサレムではイエスは悪霊に取りつかれている,と非難されました。(マタイ 8:34。ルカ 4:16,28,29。ヨハネ 8:52)神の他のしもべたちも同様な反応に遭遇しました。
11 サムエルとノアが伝道したとき,その音信はどのように受け入れられましたか。
11 サムエルはイスラエルの神の預言者でした。そして彼が奉仕した人々は,神に属ける民として神により選びわかたれた人々でした。しかし彼らですらいつも聞いたわけではありません。サムエルはそういう事態に無関心ではありませんでした。人々が彼の良い助言を無視して王を求めたとき,サムエルは自分が失敗したと感じたようです。しかしエホバは彼の考えが間違いであることを指摘してこう言われました。「そは汝を棄つるにあらず我を棄て我をしてその王とならざらしめんとするなり」。(サムエル前 8:7)ノアに任命された伝道の仕事はもっとたいへんでした。人々は非常に堕落していたので,聖書は次のように述べています。「エホバ人の悪の地に大なるとその心の思念のすべてはかる所の恒にただ悪きのみなるを見たまへり。ここにおいてエホバ地の上に人を造りしことを悔いて心に憂へたまへり」。(創世 6:5,6)人々はノアの警告を聞こうとしませんでした。四,五十年の伝道ののち,その伝道に応じたのはノアの家族だけでした。ノアとその妻,ノアの3人のむすこと彼らの妻たちが箱舟にはいったに過ぎません。あとの者は「注意を払わなかった」のです。(マタイ 24:39,新世)ノアは伝道者として失敗したのですか。決してそうではありません。それどころかノアは,悪しき世が滅ぼされた時神によって保護された「義の宣伝者」として推奨されています。ノアは忍耐を示しました。―ペテロ後 2:5。
12 モーセはどんな状況のもとで伝道しましたか。そしてなぜそれを続けましたか。
12 また,モーセと,モーセが伝道するように任命された地域のことを考えてください。エホバはいく度もモーセをパロの所につかわして,ご自身のさばきを伝えさせました。彼がそのようにいく度も王宮を訪れたのは,いうまでもなくパロが善意を示したからではありません。もしかしたらパロはエホバの崇拝に加わるかも知れない,という気持でその訪問が行なわれたのではありません。むしろそれは,エホバのさばきを知らせ,エホバの御名を宣明するために,エホバのご命令に従って,反対をものともせず行なわれた訪問でした。「我わが手をエジプトの上に伸てイスラエルの子孫をエジプトの中より出す時には彼ら我のエホバなるを知ん」とエホバは宣言されました。(出エジプト 7:5)そういう状況のもとで伝道するには勇気がいりました。
13 エレミヤは奉仕でどんな経験をしましたか。私たちはそれからどんな益を得ますか。
13 エレミヤも奉仕において困難に会いました。神は彼に,『エレミヤよ,私はあなたに良い伝道区域をあげよう』とは言われませんでした。反対に神は,『あなたがエルサレムの人々に伝道すると,彼らはあなたと戦うでしょう』と言われたのです。事実そのとおりになりました。国民の背教のゆえにエホバが,彼らの上に滅びをもたらされる,ということをエレミヤが警告したとき,彼らは笑い,あざけり,ひやかしました。宮の近くで伝道していた時など,宮のつかさのひとりが,エレミヤの言ったことを聞いて腹を立て,彼を足かせにつなぎました。支配者たちはエレミヤを数回も獄に投げ込みました。ある時エレミヤは,そのことにひどく失望して,『神のことについてはもう話すこともすまい』と言いました。しかし彼はそういう気持を克服しました。(エレミヤ 1:19; 20:1,2,9)そして23年間そのことを伝えたにもかかわらず,人々はたいした反応を示しませんでした。「二十三年のあいだ…我これを汝等に告げ頻にこれを語りしかども汝らきかざりき」。(エレミヤ 25:3)そうしたことがあってもエレミヤは,40年後もやはりその仕事をしており,勇敢に伝道していました。彼は,エホバが彼をつかわして伝道させられたことが成就する時までその仕事から離れなかったのです。こうした勇敢な例こそ,「わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬ」くように,私たちを励ますものです。
落胆しても勇気を出す
14 最初によく聞いた人を再び訪問するとき,どんながっかりするような経験をすることがよくありますか。なぜですか。
14 あなたが神と神の御国について話しかける人のなかには,聞く人もあります。しかしそのうちの多くの人にあなたは失望するでしょう。そのことを知っておくのはよいことです。初めて会ったときにはよく聞いたのに,次に訪ねたときにはぜんぜん関心を示さない,という人にあなたは会うでしょう。イエスはその状態を,道端に落ちて,根をおろさないうちに鳥についばまれた種にたとえておられます。そういう場合には,悪魔が自分と同じ精神をもつ者を使って,神の御言葉を偽り伝え,そうすることによってその人の関心を奪ってしまったのです。ですから落胆しないでください。―マタイ 13:3,4,19。
15 なぜある人々は,しばらくの間は学んでいることに非常な喜びを示しながら,のちになってエホバの証者との研究を止めるのですか。
15 別の人たちはあなたが訪問する時,聞くだけでなく,喜んでその言葉を受け入れます。ですからあなたはその人たちに話したことを気持よく感じます。その後何回か訪問してもあなたを歓迎さえします。しかしそういう人のなかに,浅い土の中で急速に成長する植物のような人がいます。根を深くおろさないのです。親せきの者や友だちから嘲笑をあびせられると,それに当る気がないのです。聖書から学んだ事柄は真理だと知っているかもしれません。そして,あなたとの聖書研究をやめたほうが良いと思うと,むしろ申しわけなさそうに言うかも知れません。しかし,人間への恐れに支配され,神の戒めに従おうと考えるだけの神への愛がないために,結局は脱落してしまいます。―マルコ 4:5,6,16,17。
16 何が人々の生活からみことばを枯らしてしまいますか。
16 もう一つのグループは,いばらの中に落ちた種のようです。みことばを芽生えさせるかも知れませんが,あまりにも多くの他の事柄や問題にまといつかれて,そのための心配が多く,まずそのこと ― 勤務時間を長くすること,お客をもてなすこと,娯楽を追い求めること ― をしなければならないと思うので,時間がなくなってしまいます。そういう人たちは気持のよい人たちで,すわって話を聞きたいのはやまやまですが,どうにもその時間がありません,と言うでしょう。―ルカ 8:7,14。
17 こうした経験に対して私たちはどのように反応すべきですか。
17 あなたはそのような経験をすると,意気消沈し,失望しますか。そんなことがあるということを前もって知っておいて,失望しないようにしてください。むしろ,真理をかたくとらええ,『耐え忍んで実を結び』,あなたの場合は神のことばが,良い正しい心に受け入れられたのであることを証明してください。そして,熱心に奉仕を続けることにより,迫害に会って枯れたり,古い世の物質的利益のために神の新しい世の希望を捨てるような人間ではないことを示してください。神の御心を行ないつづける勇気をもっていることを証明してください。―ルカ 8:8,15。テモテ後 4:10,11。
18 信頼していた人にがっかりさせられたときはどうすべきですか。
18 これらの事柄に対して平衡のとれた見方をもつ人は,またほかの問題に対処する力も与えられます。そして個人的な問題のために元気をなくすようなことはありません。時には,クリスチャン会衆内の友だちですら,人をがっかりさせるようなことをすることが事実あります。彼らも正しいことをしようとするのです。でも不完全です。私たちもだれひとり完全ではありません。ではほかの人からがっかりさせられたならどうしますか。信仰の導師であるキリスト・イエスの残された模範をよく考えてください。
19,20 このことに関連してイエスはどんな経験をされましたか。そして私たちに益となるどんな模範を残されましたか。
19 人間としての生涯の最後の晩のこと,イエスは祈るために弟子たちと共にゲッセマネの園に行かれました。すると間もなく剣や棒を持った暴徒がやってきてイエスを捕えました。弟子たちは事のなりゆきを見とどけるまではそこにいましたが,そのあと,記録が示すとおり「皆イエスを見捨てて逃げ去った」のです。(マタイ 26:56, 新口)その晩おそく,大祭司の中庭で,ひとりの女中がペテロを見て,あなたもイエスの弟子のひとりに違いない,と言いました。しかしペテロは,「わたくしはその人を知らない」とやりかえしました。そういうことが3回ありましたが,みなその中庭で起きました。イエスは鶏が鳴いたあとペテロを見られました。(ルカ 22:55-61)しかしイエスの心は動揺しませんでした。イエスは,仲間の弱点によって神に対する自分の忠実をゆるがされるようなことはされなかったのです。イエスは天にいます御父に頼り,御父を信頼しておられました。
20 それから三日目,死人のなかからよみがえらされた時イエスは,しようと思えば自分を捨てた人々を責める機会がありました。が,どうされましたか。彼らのしたことを叱責されなかったのです。『お前たちはあの晩よくもあんなことをしたな。もう絶対に口を聞かないでくれ。これで絶交だ!』とは言わなかったのです。また,冷い態度を示して口もきかない,というようなこともされませんでした。反対にイエは,弟子たちと共に勉強し,共に祈って彼らが強くなるように援助されました。それは彼らが再び動揺することなく,神の勇気あるしもべであることを証明するためです。イエスは自分の感情よりも,弟子たちの忠実さを重視されたのです。私たちの従うべきなんという模範でしょう。―ルカ 24:44-50。
「力を合わせて戦う」
21 エホバの民の会衆との交わりに対してどんな態度をとるべきですか。
21 神への奉仕で忠実を証明したいと思う人は,感情を害したり,物質を追い求めたり,迫害のためにエホバの民の会衆から離れることはできません。真のクリスチャンにはみな,徳を高める霊的交わりが必要です。クリスチャンが,神への奉仕の備えをする所は,会衆の定期的集会です。また,勇気を出し耐え忍んで神のみこころを行なえるように信仰を強められるのも集会においてです。今日の神のしもべは,これらの集会に対して,初期クリスチャンと同じ見方をしなければなりません。初期クリスチャンは,同信の人たちと集まるためには,不便をいとわないばかりか,危険をもかえりみませんでした。激しい迫害がのぞんで,ヘロデ王がヤコブを殺し,ペテロを獄に投じても,他の者が恐れて集会をやめるようなことはありませんでした。戸を閉めきって集会を開くなど,必要な注意を払いながら,共に集まって祈り,励まし合いました。霊的に生きつづけ,またイエスの教えどおりに証言をつづける勇気を出すには,そういう集会が必要であることを彼らは知っていたのです。(使行 12:1-5,12-17)集会が必要なことは今日でも変りありません。真のクリスチャンはみな,トロアスの兄弟たちのように,神のことばを学ぶために集まる特権を尊重しなければなりません。パウロがしばらくの間トロアスの兄弟たちを訪問した時のことです。パウロは夜通し話して,集会は明け方までつづきましたが,兄弟たちはとどまって話されることを聞きました。(使行 20:7-11)エホバの民の会衆と集まる機会があるなら,それを十分に活用してください。このことについては,キリスト教以前の雲のように多いエホバの証者のひとりであるダビデの例から励ましを得てください。ダビデは言いました。「人われにむかひていざエホバのいへにゆかんといへるとき我よろこべり」。―詩 122:1。
22 エホバはどんな方法を用いて私たちが勇気をもつように援助されていますか。それで私たちはどんな決意をもつべきですか。
22 神を愛し,神のみこころを行なう人々には,なんというすばらしい励ましがあるのでしょう。正義を愛するがゆえに神の御国の伝道者になる機会をとらえて,他の人に『正義の宿る新しい天と新しい地』を指し示すすべての人に対し,エホバは聖書にしるされた忠実なしもべたちの生涯の記録を通してすばらしい励ましを与えられています。(ペテロ後 3:13)また,共に集まり,共に伝道するための準備をとおして,彼らが強くなり信仰のうちにしっかりと留まるよう援助されます。また,彼らが宣教において耐え忍び,『今は悪い時代なので』『時を生かして用い』,奉仕に励むようにご自身のことばを通して勧めておられます。(エペソ 5:15-17)エホバは,祈りのうちにエホバに近づく特権を彼らに与え,ご自身の聖霊をもって彼らを後援されます。もしあなたがこの神のご準備に定期的にあずかるなら,勇気を出すあらゆる理由があります。そして堅く立ち「一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い,かつ,何事についても,敵対する者どもにろうばいさせられないで」しょう。「このことは,彼らには滅びのしるし,あなたがたには救のしるしであって,それは神から来るのである」。―ピリピ 1:27,28,新口。
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エホバはモーセをパロの所にいく度もつかわした