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『神は不公平なかたではない』ものみの塔 1976 | 9月15日
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報いを必ず受けるのです。不公平はありません」― コロサイ 3:23-25。
まことに神の公平は,人類を益するすばらしい結果となってきました。神のみ前に是認された立場を得て永遠に生きる前途を選ぶための基礎は,少数の人のためにではなく,すべての人のために据えられています。この事実を認識する時,わたしたちは,できる限り多くの人を助けて真理の正確な知識を得させたいと願うはずです。また,えこひいきをしないように,そして他の人にどう思われるかを不必要に気にしないようになるはずです。エホバの公平にならう者となり,エホバに対するようにすべての事を行なう時,豊かな報いを受けることを確信できます。
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イエスのたとえ話はなぜ人々に助けとなりましたかものみの塔 1976 | 9月15日
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イエスのたとえ話はなぜ人々に助けとなりましたか
地上におられた時のイエスの目的は人々を助けることでした。イエスは人々,なかでも病気の人や,しいたげられた人を哀れみました。「彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていた」のをごらんになったからです。(マタイ 9:36)イエスはこれらの人々のために多くのいやしを行なわれました。ひとりのらい病人がひざまずいてイエスに懇願し,「あなたは,ただそうお望みになるだけで,わたくしを清くなさることができます」と言った時,イエスは哀れに思い,手を差し伸べて彼にこう言われました,「わたしはそう望むのです。清くなりなさい」― マルコ 1:40,41。
しかしイエスは,肉体のいやしよりも,はるかに有益な,そして永続的な方法で人々を助けることをされました。事実,いやしはイエスの行なわれたわざの中で主要な部分を成すものでは決してありません。いやされた人は比較的に少数でしたが,国のすべての人がイエスの教えを聞きました。
たとえ話はどのように助けとなったか
たとえ話あるいは比喩は,イエスの話を聞いた群衆に対するイエスの教えの中でも目立った部分を占めていました。聖書の記録はこう述べています,「実際,例えを用いないでは話そうとされなかった。しかし,ご自分の弟子たちに対しては,すべてのことを彼らだけのところで説明されるのであった」。(マルコ 4:34)イエスのたとえ話は,真に説明を求めた人々にとって特にどのように助けとなりましたか。まず第一にそれは霊的な事柄,神の道とお考えを人間に理解できるものにしました。イエスは,日常の出来事や人生の諸事を用いて抽象的な事柄や難しい事柄を説明されました。たとえの中に盛られている原則を理解するのに,人は‘高等教育’を必要としません。イエスのたとえ話は,今日においても,イエスがそれを話された時と同じく適用でき,また適切です。
例えば,恩知らずの奴隷のたとえ話の中で,互いに哀れみを示し,許し合わねばならないという原則を悟ることのできない人がいるでしょうか。このたとえ話の中でイエスは,6,000万デナリを奴隷に貸していた一人の王について語りました。王はその奴隷に懇願されたとき哀れに思って負債を許してやりました。ところがこの奴隷は出て行き,自分からわずか100デナリ(60万分の1に相当する)を借りている仲間の奴隷を見つけると,彼をとらえ,首をしめながらこう言いました,「借りているものをみんな返せ」。王は,哀れみのない
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