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「彼らは一致の中に伝道する」ものみの塔 1961 | 11月1日
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これはすぐれた記録です。雑誌のこの広範囲な配布によって,真理の探求に多くの人々の関心をよび起こしたことは間違いないでしょう。
クリスチャンのなすべき真の崇拝をさがし求めている人々は,つぎの経験が証明しているように「良い羊飼」の声を認めて,ただちにエホバの制度に従います。「私は自分の職業がら,おとくいさきの家でいつも聖書を見つけ出しては,どうにかしてその内容について少しでも話すようにしています。昨年のこと,やはりそのことをしていた時,真理を求めている青年を知るようになりました。彼は軍隊付牧師になることを考えていましたが,戦争を鼓吹するのは正しくないような気がしました。メソジストの牧師になることも考えましたが聖書を調べてみて彼らの教えが聖書と一致していないことを発見しました。仏教や瑜伽にさえ頭を突っ込んでみましたが,どちらも彼が求めていた真理のひびきをもっていませんでした。
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前にあるわざについての正しい見解ものみの塔 1961 | 11月1日
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はないのです! 神にむかって,『あなたに仕えることは,私の生涯の目的です。私はあなたの御心を行なうのをよろこびます。私の生命はあなたの奉仕 ― それがどんなものであろうと ― にささげられています』と言わないなら,その人の奉仕は,真心こめたものではありません。多分,その人は神への献身にともなう責任を取りたくないのかも知れません。しかし,献身を避けるなら,その人は恵まれた立場にはいりません。できる立場にいながら,イエス・キリストの模範に従わず,神に奉仕するための献身もせず,それを水の浸礼で象徴しないなら,その人はまだ生命に通ずる狭い道を歩いていません。ある意味において,その人はキリスト教国の宗教制度の成員独特の考え方をいまでも持っています。彼らも生活の指針として聖書の原則をいくらかうけいれています。しかし,彼らは決定をくだす権利を保留します。彼らは神をさばき,神の御言葉の中で彼らに都合の良いものを自分勝手にとりあげます。エホバの要求が何であるかを知っても,その全部に従うことは必要でないと心で決めるなら,その人はエホバを神として受けいれていません。それでは,神が彼をうけいれて,新しい世の生命を与えることなどどうして期待することができますか。神の要求を知っていながら,それを行なわない者たちについて,主の弟であるヤコブは,次のように述べています,「人が,なすべき善を知りながら行わなければ,それは彼にとって罪である」。(ヤコブ 4:17,新口)そのような人は,神への奉仕についての正しい見解を得るため,円熟した人の援助を必要とします。それらの人は,神の御言葉の知識を必要とするだけでなく,神の要求を認識することが必要です。
17 (イ)献身して洗礼をうけるなら新しい世に生き残れますか。(ロ)神は,彼に仕える者たちに何を求められますか。
17 もちろん,献身と洗礼そのものは,新しい世における生命を保証するものではありません。献身した人は,神に向かって約束した通りに生命を用いなければなりません。いわば「自分勝手の取りきめで」新しい世にはいれると期待することはできません。できるだけすこしの奉仕ですませようと努力する者は,最大のいましめをすでに破りました。そのことについて質問をうけたイエスは,永遠の生命を得るために次のことが必要であると言われました,「心をつくし魂をつくし,力をつくし,思いをつくして,あなたの神であるエホバを愛しなさい。また自分を愛するように,あなたの隣り人を愛しなさい」。(ルカ 10:25-27,新世)私たちの裁き主なるエホバ神は,人間の見るもの以上を見ます,「ヱホバはすべての心をさぐりすべての思想をさとりたまふなり」。(歴代志略上 28:9)エホバは私たちの行いを知るだけでなく,私たちの動機をもご存知です。私たちがエホバの奉仕に真心こめて努力しているか,また隣人に対する私たちの愛,隣人に救いを得させたいという私たちの欲求が,私たち自身に対するのと同じくらい大きいかどうかをもご存じです。神が最終的なさばきをくだす前の今こそ,私たちの心をしらべ,私たちの奉仕をしらべ,そして神が私たちに与えた肝要なわざについての正しい見解を持っているかどうかを調べる時です。
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