この世とのまつわりに反抗する
1 神の友になる場合,どんな3つの妨害物がありますか。
神の御国のことを第一に保つことは,従順という積極的な行いだけを要求しているのではありません。悪行を避けることも必要なのです。この世の友となることは,神の敵になるということは神の御言葉から明白です。『世を友とするのは,神への敵対である。』(ヤコブ 4:4,新口)これは次のことを意味します。すなわち神の御こころを行うことに興味を持つクリスチャンは,神の友になる際の3つの大きな妨害物を認め,それらを避けるように学ばねばならない,ということです。それら3つの妨害物とは,悪魔サタンとその悪鬼たち,肉体である人間の不完全さ,そしてサタンが神であるこの世,というものです。―コリント後 4:4,エペソ 6:12。マタイ 26:41。
2 イエスは肉の欲,目の欲,そして持ち物の見せびらかしに対して,どのように反抗しましたか。
2 イエス御自身も次のことを認められました,『すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父から出たものではなく,世から出たものである。』(ヨハネ第一書 2:16,新口)これらの誘惑に反抗した彼の模範は,私たちの従うべき手本です。荒野で四十日四十夜を,神の御言葉の研究に費してから,自分自身のために奇跡を行い肉の欲をみたすようにとサタンにより誘惑されました。それは荒野の石をイエスの食用となるパンに変えなさい,という誘惑でした。イエスは神の御言葉に頼つてサタンを拒絶したのです。彼は神の御言葉から,自然の食物より霊的な食物のすぐれている性質を強調しました。次にイエスは見せものになり目の欲をみたしなさいと誘惑されました。つまり,宮の狭間から身を投げよと告げられたのです。神の御力は彼を守るであろうという風にサタンが巧みに聖句を曲解したことに対し,イエスはこう答えました,『あなたはあなたの神ヱホバを試みてはならない。』最後に,イエスがサタンを崇拝するなら,この世の政府の支配者という大きな力と地位がイエスに提出されました。しかし,イエスはそれにかかわり合いを持つことを拒絶し,こう言われました,『「あなたの神ヱホバを崇拝し,エホバ神のみに聖なる奉仕を捧げねばならない。」と書かれている。』― マタイ 4:1-11,新世。
3 ヤコブ書 4章7節には,どんな助言が与えられていますか。障害をどのように克服すべきですか。
3 イエスが忠実な立場を取つたのでサタンは一時のあいだイエスからしりぞきました。そのことは,私たちの場合でも当てはまります。『そういうわけだから,神に従いなさい。そして,悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば,彼はあなた方から逃げ去るであろう。』(ヤコブ 4:7,新口)大多数の人々は,それぞれ重大な問題を持つています。そして,それらの問題を解決するために多数の人が知つている唯だ一つの道は,この世の事にいつそう深くかかわり合いを持つということです。これらの障害を克服するため,そしてこれらの障害の代りに人類に対する唯一つの真実の希望への興味を持つために,人間の関心事に対するこの世のかかわり合いをすくなくしなければなりません。
4 マルタは,イエスにどんな苦情を述べましたか。そのときの状態は,どんなものでしたか。
4 このイエスの経験や,彼が与えた助言は次のことを例証します。すなわち日常の普通の事柄でも,霊的な進歩の機会にたいして巧かつに食いこんできて,不必要なこまかい事柄に私たちをまきこませるのです。『一同が旅を続けているうちに,イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが,主の足もとにすわつて,御言葉に聞き入つていた。ところが,マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし,イエスのところにきて言つた,「主よ,妹が私だけに接待をさせているのを,なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におつしやつてください。」主は答えて言われた,「マルタよ,マルタよ,あなたは多くのことに心を配つて思いわずらつている。しかし,無くてならぬものは多くはない。いや,一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは,彼女から取り去つてはならないものである。」』― ルカ 10:38-42,新口。
5 (イ)どの面でマルタは認識の不足を示しましたか。どの面でマリヤは良い方を選びましたか。(ロ)今日,マリヤの模範にどのように従うことができますか。
5 今でも多くの家々で行われるように,当時の習慣に従つてマルタは大もてなしをしてこの有名なお客さんに山海の珍味を御馳走し,その滞在を極めて愉快なもの快適なものにしてもらおうと,こまごましたところに気を配りましたしか。し,その結果,彼女はこまかい事柄にあまり注意を払つたため,彼女自身はイエスの訪問から益を受けなかつたのです。イエスは,もてなしをしたマルタを叱つていません。また,坐つて何もせず,こまごました事を準備しなくても良いとも告げていません。彼は『無くてならぬものは多くはない。いや,一つだけである』と言われたことに注意しなさい。マルタにさとされたイエスの要旨は,マルタの家でもあり,またお客が来たのであるから,そのお客と家族の者に食物を準備するのは正しい,しかしこの場合に念入りの準備は必要でなかつたというのです。それですから,マリヤは良い方を選びました。なぜなら,彼女はイエスの居られることから得られる価値を認めたからです。マルタがマリヤと同じ認識を持つていたなら,必要なものだけを準備するのに満足して,不必要なこまかいことはイエスの言葉を聞くことのない別の時にゆずるべきでした。御国についての知らせを求めたマリヤの態度は,霊的に飢餓の状態におちいつているこの世の人々が見ならうべき手本です。滋養ゆたかな霊的な事柄の知らせを持つ人が家を訪問するとき,家の人は,すくなくとも少しの時間のあいだ,別のときに行える無用の事柄を止めて,神の神権政府を代表するこの者の訪問からあらゆる益を受けるようにするべきでしよう。
6 宗教を行う場合,どんな利己的な関心事を避けるべきですか。それについてイエスはどのように警告しましたか。個人的な関心事はいつ正しいですか。
6 そうしないなら,その人はいばらの中に播かれる種子のようになります。『御言葉を聞くが,世の心づかいと富の惑わしとが御言葉をふさぐので,実を結ばなくなる人のことである。』(マタイ 13:22,新口)一方,クリスチャンは個人的な利益を図るために宗教を行うべきではありません。イエス・キリストに従うと主張する或る人々は,利益を得ようとするために特定な教会に入ります。他の人々は,神の御力添えを得るため,または他の個人的な進歩のために自分たちの宗教を用いることができると信じています。宗教にたいするそのような興味は利己的なものであつて避けねばなりません。ちようど,パンと魚の奇跡的な食物を頂いた者たちが,次の日に彼を探し求めて来たとき,イエスはこう戒めました,『よくよくあなたがたに言つておく。あなたがたが私を尋ねてきているのは,しるしを見たためではなく,パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく,永遠の命にいたる朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなた方に与えるものである。父なる神は,人の子にそれをゆだねられたのである。』(ヨハネ 6:26,27,新口)個人的な関心事は,神の御国の事を拡大するために制御されみちびかれて行く時のみ必要かつ正しいものです。
7 健康について正しくみちびかれない関心事は,どのように悪い害をおよぼしますか。不注意な者は,どんな状態にみちびかれて行きますか。
7 健康についての個人的な関心を持つても,正しくみちびかれない時真実の霊的ないやしにたいする欲求を殺します。その関心が考え方をすつかり抑制してしまつて,神の御言葉からの真理を排斥してしまうほどになると,肉体の病気以上の害をおよぼします。今日,多ぜいの人々は健康を得たいと欲するあまり,奇跡的な力を持つと主張する者についてのイエスの警告に注意を払いません。『その日には,多くの者が私にむかつて「主よ,主よ,私たちはあなたの名によつて預言したではありませんか。また,あなたの名によつて悪霊を追い出し,あなたの名によつて多くの力あるわざを行つたではありませんか。」と言うであろう。そのとき私は彼らにはつきり,こう言おう,「あなた方を全く知らない。不法を働く者どもよ行つてしまえ。』(マタイ 7:22,23,新口)この言葉は,いわゆる信仰治癒者について大きな疑いを投げかけるものです。そして,健康を正直に求める人は,巧かつで欺きをなすこの『肉欲』にすつかりまきこまれてしまう前に,そのような主張にたいする個人的な関心を神の御言葉の真理に照らし合わせて深く考慮すべきです。
8 聖書時代中,いやしの奇跡的な賜物はどのように用いられましたか。このことは,現代の信仰治癒者と称するものをどのように暴露しますか。
8 神の御言葉を注意深く調べると,昔に行われたいやしのわざは,すでに会衆内にいた者に対して行われなかつたということが分ります。使徒パウロはいやしの賜物を持つていましたが,それでもテモテにこう告げました,『これからは,水ばかりを飲まないで,胃のため,また,たびたびのいたみを和らげるために,少量のぶどう酒を用いなさい。』(テモテ前 5:23)テモテの場合,彼はいやしの行いをしませんでした。テモテに宛てた別の手紙の中で,彼は『トロピモは病気なので,ミレトに残してきた』と語つていました。(テモテ後 4:20,新口)この場合でも,パウロが奇跡的ないやしをしなかつたことは証明されます。このことはクリスチャン会衆内のことだけではなかつたのです。イエスの時代以前でも,そのようないやしは外部の者に対するしるしとして行われたのです。それを証明するものとしてイエスの次の言葉に気をつけてごらんなさい,『預言者エリシヤの時代に,イスラエルには多くのらい病人がいたのに,そのうちのひとりもきよめられないでただシリヤのナアマンだけがきよめられた。』(ルカ 4:27,新口)さらに,今日の『治癒者』のあいだで一般に行われている事柄とはちがい,クリスチャンたちはその奇跡的な賜物を行使しても金銭をもらつてはいけないとさとされていました。イエスは弟子たちを送り出したときに,こう言われました,『病人をいやし,死人をよみがえらせ,らい病人をきよめ,悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから,ただで与えるがよい。』― マタイ 10:8,新口。また列王紀略下 5:15-27の記録をも見なさい。
9 パウロは,御霊の奇跡的な賜物について何を表わし示しましたか。
9 神の代表者であるイエスと,クリスチャン会衆の最初の成員である弟子たちに神の力が表明されるということが奇跡的な賜物の目的でした。しかし,その目的は果されたので奇跡的な賜物はもはや必要でなく,取りさられました。次の言葉を告げたパウロは,このことにつきこう述べています,『愛はいつまでも絶えることがない。しかし,預言はすたれ,異言はやみ,知識はすたれるであろう。』(コリント前 13:8,新口)今日,御霊の最大の賜物は,伝道の賜物です。神は,年齢や国籍や,人種や社会的な地位にかかわりなく,すべての誠実な人々に伝道の賜物を与えておられるのです。(使行 2:17,18)このことから次のことが分ります。すなわち健康とか体育というような個人的な関心事は,御国のことの次のものでなければならないということです。体操とか自分自身を大切にすることは重要です。しかし,パウロは次のように指摘しています,『からだの訓練は少しは益するところがあるが,信心は,今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので万事に益となる。』(テモテ前 4:8,新口)これにはクリスチャンが平衡のとれた見方をすることが必要です。自分自身のことをなおざりにしてはいけませんが,しかしその個人的な関心事のためにクリスチャン宣教に付ずいする責任をなおざりにしてはいけません。
10 ある人々は,ヱホバの証者のわざについてどんな未熟な見方をとりますか。時には,どんなことがそのような立場をとらせますか。
10 関心事についての悪い釣合を持つとき,焦点の外ずれた見方を取るようになります,『あなたの目は,からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば,全身も明るいが,目がわるければ,からだも暗い。だから,あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。』(ルカ 11:34,35,新口)ある人々は,ヱホバの証者の行つている仕事を見て,身体に加えられる害とか批評を恐れるため,自分にはその仕事ができないと結論します。そのような『目の欲』を持つと,この世の神の仕かける罠にまきこまれてしまいます。(シンゲン 29:25。マタイ 10:28)神の御言葉の知識が円熟し,理解の増す必要は強調せられます。霊的な食事を定期的に食べることにより,信仰を強めねばならぬという意味です。その信仰のない人は,神の御こころにかたくつき従つて水の浸礼を受けるよりは,洗礼を受けない方が個人的に都合の良いことが多くあると結論するかも知れません。そのような人は,このことをするだけの十分な信仰がないから,ヱホバの証者のひとりになれないと信ずるかも知れません。その人は次のことを認識していないのでしよう,すなわち信仰は知識の上に建てられるものであり,その人は洗礼の意味と理由についての知識を得ようと努力しなかつたのです。知識の基礎が先ず置かれねばなりません。それから,その知識を働かすときに信仰が得られます。
11 この世とのまつわりに,反抗する際なぜ知識は必要な基礎ですか。
11 同じことは証言のわざに参加することについても言えます。ある人々は,この世とのまつわりに反抗しないため,必要な基礎でなければならぬ十分の知識をも得ません。その御言葉についてのそのような知識とともに,信仰がきます。信仰を持つとき伝道する能力と欲望が来ます。『人は心で信仰を働かすことにより義とせられるが,口でもつて公に言い表わして救われるのである。聖書に「彼に信仰を置く者は失望することがない」と言われている。…「ヱホバの御名を呼び求める者はみな救われるであろう。」しかし,信じていない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。伝道する者がいなくては,どうして聞くことがあろうか。つかわされなくてはどうして聞くことがあろうか。つかわされなくては,どうして伝道することがあろうか。』(ロマ 10:10-15,新世)そのような人は,新しく生まれた信仰に強められ,その伝道には,パウロが指摘したごとく,救いをなす2つの特質があると認識します,『自分のことと教えのこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすればあなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる。』― テモテ前 4:16,新口。
12 ヱホバの証者は,善意者たちにどんな奉仕をいたしますか。そして,どんな心持の中にこの奉仕はなされねばなりませんか。
12 ヱホバ神が御自分の証者たちを地の果てまでつかわされるのは,誠実な人々をして関心事の正しい平衡を取らせ,すべてのことを御国のために行わせるためです。彼は幾世紀もむかしの預言者イザヤを通して,彼らにこう命じています,『門を通つて行け,通つて行け,民の道を備えよ。土を盛り,土を盛つて大路を設けよ。石を取りのぞけ。もろもろの民のために標識をあげよ。』(イザヤ 62:10,新世)神への奉仕に真実の興味を持つ人々の邪魔になつている石を取りのぞいても,それらの人々に害を加えるとかそれらの人々の信仰を嘲笑する,というようなことがあつてはなりません。道の邪魔になつているこれらの石を認めるために,御国奉仕者は神の御言葉の正確な知識を持たねばなりません。そして,これらの石を取りのぞくためには,自分の立場に確信を持ち自分のわざを行う際に巧みであると共に平衡のとれたものでなければなりません。奉仕者の立場は,聞く者をして良い事柄を正直に望ませ,そして正義に対する誠実な愛を持たせるようなものでなければなりません。それで,奉仕者は人を驚かそうとするよりも,その人の理性に訴えるようにいたします。このようにするとき,奉仕者の話を聞いている人がすぐに訪問の真実の目的が分らなくても,奉仕者は気落ちしません。議論に打ち勝つというだけでは,ヱホバの証者の目的ではなく,また意図でもありません。彼らの興味は,神が御自分の羊たちに対して持つておられる誠実な愛を表明することです。ヱホバの証者の目的は,神の御言葉から真理を提供するとき,聞く者がその真理を受け入れるか,または少くとも,心暖める御国の良いたよりを一層研究しようという気持にならせることです。彼らはその御国についての真実のまぼろしを持ち,御国のことに奉仕する重要性を認識します。善意者はヱホバの証者の新しい世の社会にひきつけられます。そして,神の新しい世の生命を与える希望について更に学び,御国のことを先ず第一に保つための備えを身につけます。
13 イエスは,どんな模範的な道をとりましたか。ヱホバの証者は,どのようにそれに従いますか。
13 その道こそ,私たちの見ならうべき模範として,イエス・キリストが残された道です。パウロはイエスの言われたことを次のように引用しています,『神よ,私につき,巻物の書物に書いてあるとおり,見よ,御旨を行うためにまいりました。』(ヘブル 10:7,新口)イエスは,その宣教中,神の御むねを行うために専心没頭しました。彼は御父に全く献身しており,その献身を象徴するものとして水の洗礼を受けていました。それで,彼は御国のことを第一に保つすべての者に対して模範を残されたのです。神に全く献身してから,水の洗礼を受けることは,神の御こころを行い始める際に先ず必要な事柄です。イエスが伝道したごとく,彼らも伝道してイエスの言葉を成就いたします。『そしてこの御国の福音はすべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。』(マタイ 24:14,新口)反対とか嘲笑あるいは迫害を受けようとも彼らは転向しません。彼らは終りが来るまで伝道を行いつづけます。
14 なぜヱホバの証者は,多くの家々を訪問しつづけますか。そのわざは,どのくらいの期間つづきますか。
14 彼らの数が増加して,人々の家を訪問する回数が多くなつても,訪問を行いつづけます。なぜなら,聞く者が神の御国を自分たちの希望として認めて受け入れることは生命を意味すると,彼らは認識しているからです。すべての人はその良いたよりを聞いて受け入れる機会が与えられねばならぬ,と彼らは認識しています。また,同じ家族内のすべての人は,彼らの訪問について同様に感じていないと,認めています。ある人は,証者に反対して,証者の来ることを禁ずるかも知れませんが,同じ家族内の別の人は再訪問することを歓迎するかも知れません。このわけで,ヱホバの証者たちは真実に神の羊である者たちのために愛の奉仕を行いつづけます。すべての羊を探し出さねばなりませんが,それは一度か二度訪問しただけではできないでしよう。神は丹念に探しつづけます。そのことは,エレミヤの預言の中に書かれています,『ヱホバ言い給う。見よ,我多くの漁る者をよび来りて彼らを漁らせ,またその後おおくの猟者を呼び来りて,彼らをもろもろの山もろもろの岡および岩の穴より猟いださしめん。』(エレミヤ 16:16)このわざは,すべての羊がこの古い世から集められる時まで続くにちがいありません。そのことは,幾世紀もむかしのイザヤが尋ねた質問に対する答からも明白に分ります。『我言いけるは,主よいつまでかくあらんか。主こたえたまわく,町はあれすたれて,住むものなく,家に人なく,国ことごとく荒地となり,人々ヱホバに遠き方までうつされ,廃りたるところ国中におおくならん時までかくあるべし。』― イザヤ 6:11,12。
15 人は,どのようにこの世とのまつわりに必ずまきこまれますか。それをどのように避けることができますか。
15 現在の世の考えとか,行い,理想に心が傾いている者たちは,この世のわずらいごとや心配に必ずまきこまれてしまい,神との立場を失うでしよう。そして,援助を是非とも必要とする者たちを助けねばならぬ能力をも失うでしよう。この世の運命論者的な見方,すなわち人は自分自身の努力によつてのみ生存することができ,もしこれらの問題に対する解決をつくり出さないならば,解決はひとつもないという考えにあざむかれて巻きこまれてはなりません。神の御言葉の真理は,今が火による試錬の時であり,各人のわざはこの終りの時のきびしい試験によつてはつきり表明されると明白に語つています。きびしい平衡を保ち,御国のことを第一に保つことによつて,クリスチャンはこの世とのまつわりに反抗し得ます。また,いまの地にみなぎつている神を認めぬ物質主義の高まりつつある潮に対しても真実の防壁として立つことができます。
16 更にどんな面で伝道する際の能率は得られますか。いつでもどんな見地を保たねばなりませんか。
16 クリスチャンが自分の語る言葉に確信を持つなら,自分の信仰の表明どおりに生活しなければなりません。彼は,神の御言葉から学んだ原則を絶えず生活内に適用し,それからその知識の拡大を図らねばなりません。彼は毎日,神権的な発展をするようにいたします。そして,この組織制度の神がヱホバの目的について建てた誤解の壁を打ちくだくあらゆる機会をも見のがしません。もし御国のことを第一に保つなら,不注意に歩かないでしよう。そして,しなければならないという義務を感ずるために野外奉仕の時間を入れるということをしないでしよう。彼はこの組織制度の全き終りが近づいており,その中にとどまる者は滅びるということを認識します。また次のことをも認めます,すなわち善意者たちに警告して,この世のまつわりから自由にならせ,ヱホバが愛の御心の中に備えたもうた避難の場所に逃げさせるには,きんべんな努力が必要であり,能率を改善しければならぬと認めます。そうするとき,彼はその正義の新しい世における自分の立場を確実にいたします,そして,エホバの御名をあがめただ一つの正しい模範を普意者に示すためヱホバにより用いられる,という言葉で言い表わし得ぬ特権とよろこびを持ちます。すなわち,ヱホバ神の御国のことを生活中の第一のものに保つという模範です。