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なぜ正しいことを行ないますかものみの塔 1980 | 8月1日
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になります。使徒ヨハネが記したとおりです。「わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです。愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです。愛する者たちよ,神がわたしたちをこのように愛してくださったのであれば,わたしたち自身互いに愛し合う務めがあります」― ヨハネ第一 4:9-11。
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失敗した試みから教訓を学ぶものみの塔 1980 | 8月1日
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失敗した試みから教訓を学ぶ
人々をより正しい生き方へと導こうとする試みは歴史上幾度かなされました。霊感を受けて書かれたクリスチャン・ギリシャ語聖書の中にたびたび出て来るパリサイ人というグループもそのような試みをした人たちです。しかし,その試みは失敗に終わりました。
「パリサイ人」という語は,「分けられた」,「区別された」という意味の語根から派生しています。このグループのことが初めて出てくるのは,西暦前2世紀の事件を記している歴史書です。パリサイ人は,他のユダヤ人と同じ土地に住んでいましたが,モーセの律法を完全に守ろうと特別に努力することにより自分たちを分け,もしくは区別していました。
パリサイ人は十分の一税を支払うことと儀式的清めの規則を守ることとで特に知られるようになりました。モーセを通して与えられた神の律法は,イスラエル人が畑の産物および牛や羊などの群れから得られた物の十分の一をささげることを定めていました。その十分の一税は,レビ人から成る祭司職と神の崇拝に関連した他の物事を支えるために用いられました。(申命 14:22,23)パリサイ人は豆類(インゲン豆,エンドウその他豆科の植物),葉の類や薬草など,全く取るに足りない物の十分の一をささげることまでしました。また,自分の畑で取れた物の十分の一をささげるにとどまらず,購入,交換その他の取引きで手に入れた物品の十分の一もささげました。(ルカ 11:42; 18:11,12)最初の持ち主がそれらの物品の十分の一を正しくささげていないといけないからというのがその理由でした。
モーセの律法下では,儀式的清めのため,崇拝の一部として身を洗うことが時折り必要でした。エホバの聖所で奉仕するとき身体的にも儀式的にも清くなければならなかった祭司たちの場合は特にそう言えます。(出エジプト 30:17-21。レビ 21:1-7; 22:2-8)祭司たちは,犠牲にささげられた肉のうちの自分の分け前を食べる前に,手と足を水で洗わなければなりませんでした。
パリサイ人の大部分は祭司ではありませんでした。しかし,彼ら
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