実を結ぶクリスチャンは敬虔な満足を示す
「ただ衣食があれば,それで足れりとすべきである」― テモテ第1 6:8。
1 (イ)クリスチャンであれば物質の資産をどう見ますか。(ロ)この点についてヘブル人への手紙 13章5節にはどんな適切な助言がしるされていますか。
聖書に従う真のクリスチャンは,時おり崇拝の場所に行き,あとは他の人と同じ生活をするということをしません。イエス・キリストに従う者であるということが,その生活態度全般を大きく支配するからです。彼らはイエスや使徒の教え,また行ないを深く心に収めています。イエスの言われたとおり,彼らは「世のものではありません」から,円熟したクリスチャンであれば,周囲の物質主義的な世と考えを共にしません。(ヨハネ 17:16)彼らは物質の資産を霊的な事柄以上のものとしません。あなたもこのような見方をもっていますか。クリスチャンを自任している人なら,聖書のヘブル人への手紙 13章5節にある,次の戒めの意味を考えたことがありますか。「金銭を愛することをしないで,自分の持っているもので満足しなさい」。
2 (イ)洪水の前,人々はノアの伝道に対しどのように無関心でしたか。今日,同じ態度が見られますか。(ロ)「持っているもので満足」するとはこのような無関心さのことですか。
2 「持っているもので満足」するとは,自分の生活状態に関心を払わない,という意味ではありません。これが,霊的な事柄について満足するという意味でないことは確かです。洪水の前,ノアが語った神の警告に『注意せず』,ノアの伝道をまじめに考えない無関心な態度で,「食い,飲み,めとり,とつぎなどしていた」人々の場合と区別しなければなりません。(マタイ 24:38,39)彼らの行ないは,差し迫った世界の破滅を信じていないことを表わしていました。イエスは同じ態度をとる者がわたしたちの時代に多くなることを予告しましたが,その予告は今日実現しています。霊的な事柄に対するこうした不敬虔な無関心さと,信仰による満足とを混同してはなりません。―ルカ 17:26-30。
3 真のクリスチャンであれば,現存の悪い事物の制度に満足できないのはなぜですか。
3 「持っているもので満足」しなさいという使徒パウロの霊感の勧めは,現存の悪い事物の制度に満足せよという意味でもありません。この事物の制度は罪に満ちており,罪の実である病気と,苦悩と死でそこなわれています。この事物の制度の特色は「金を愛する者」,およびそのような愛が生む不正にふける人々です。この事物の制度は「神よりも快楽を愛する者」で満ちています。(テモテ第二 3:1-5)真のクリスチャンであればどうしてこのような状態に満足できますか。―ガラテヤ 1:4。
4 (イ)それで,聖書が勧めるのはどんなことに対する満足ですか。(ロ)この点について,各自は何を自問すべきですか。
4 では,聖書が勧めるのはどんな満足ですか。それは生活必需品に対する満足です。これは自分は何もしないでいて,だれかが必要物をそろえてくれるのを待つという意味ではありません。(テサロニケ第二 3:10,12。使行 20:33,34)しかしこれは,命と幸福が物質の資産の所有と蓄積によるかのごとく絶えずその種の資産の増大を図る,この世の物質主義的な生活態度に巻き込まれてはならないことを意味しています。それでパウロは,仲間のクリスチャン,テモテにはっきり言いました。「わたしたちは,何ひとつ持たないでこの世にきた。また何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば,それで足れりとすべきである」。(テモテ第一 6:7,8。伝道 5:15)正直に言って,あなたはこのとおりにしていますか。
命は物質の資産にはよらない
5 イエスはどんな機会に,物質の資産に対する正しい見方を教えられましたか。質問者の生活態度にどんな基本的な誤りがありましたか。
5 ある時,ユダヤ地方で伝道していたイエスは,よいおりをえらんで,物質資産に対する正しい見方を教えられました。群衆の一人がイエスに言いました。「先生,わたしの兄弟に,遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。イエスは遺産についてのこの家庭争議の仲裁を引き受けず,むしろ問題のありかを見きわめて,「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい」と答えられました。イエスが貪欲を戒めたことから見て,この人は自分の権利以外のものを求めていたようです。律法は長子がすべての物について2倍の分け前を受けるように定めていましたが,これを無視したことに争いのおこりがあったと思われます。(申命 21:17)しかし,この人が貪欲であったとはいえ,問題はさらに深い所にありました。彼がこのような考え方をしたのは,そもそも物質資産を生活の重要事と見たからであり,イエスはその誤りを明確に指摘し,この人とわたしたちのためにこう言われました。「たといたくさんの物を持っていても,人のいのちは,持ち物にはよらないのである」。(ルカ 12:13-15)命は神からのものです。使徒パウロもアテネ人に説明しました。「この世界と,その中にある万物とを造った神は……すべての人々に命と息と万物とを与え(た)」― 使行 17:24,25。
6 (イ)イエスは要点をさらに説明するため,どんなたとえを用いられましたか。(ロ)イエスがたとえで話された人のような生活はなぜむなしいですか。
6 イエスはたとえを使ってさらに説明されました。「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で,『どうしようか,わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った,『こうしよう。わたしの倉を取りこわし,もっと大きいのを建てて,そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ,おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ,食え,飲め,楽しめ』」。この人はすべての資産を貯えましたが,長く生きてそれを楽しむという保証がありましたか。この人は真に安全を得ていましたか。そうではありません。イエスは続けて言われました。「すると神が彼に言われた,『愚かな者よ,あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら,あなたが用意した物は,だれのものになるのか』」。(ルカ 12:16-20)これはよくあることではありませんか。退職の日の安楽を夢見て長年労苦しながら,貯えた物を楽しまないうちに死んでしまいます。むなしいことではありませんか。―伝道 2:17-19。
7 今日,多くの人はイエスが語った人と同じであることをどのように示していますか。
7 イエスはたとえの中で話した人を商売上の不正でとがめたのではありません。また,その者が神について無関心であるとも言われませんでした。彼の最大のあやまちは,生活についてまちがった見方をしていたことです。彼は物質の資産を得ることに忙しく働いていましたが,「神に対して富」んでいませんでした。(ルカ 12:21)これこそ今日大多数の人が陥っている状態ではありませんか。人々は「神を信じる」と唱えていても,結局,信仰よりお金のほうが自分の益になると考えています。それで物質の資産を得,それを楽しむことに生活の大部分を費やし,いわば保険として少しの宗教を生活に加味しています。これらは「信心深い様子をしながらその実を捨てる者」たちであり,聖書は「こうした人々を避けなさい」と勧めています。(テモテ第二 3:5)この人々をまねてはなりません。
霊的な事柄はあなたの生活で第一になっていますか
8 (イ)多くの人は生活の中で霊的な事柄が第一になっていないことをどのように示していますか。(ロ)それらの人が実を結ぶクリスチャンになれないのはなぜですか。
8 あなたは生活についてどんな見方をしていますか。物質を得ることに心を向けていますか。それとも神への奉仕を第一にしていますか。今日の世界にはイエスがたとえで語られたような人が無数にいます。その人々の生活では物質的な必要を満たすことが第一になっています。彼らは暮らしを立て,家を買いあるいは飾りなおし,客をもてなし,またあちらこちらに旅行することのために忙しく働きます。彼らは,神の国のことを聞きたいと言うかもしれません。しかしそれはいつも第二になっています。この人々はイエスが言われたとおりになるでしょう。つまり,「世の心づかい」,「富の惑わし」,『生活の快楽』などが彼らの生活を支配するので,神の国のことばはふさがれ,実を結ぶことができません。(マルコ 4:18,19。ルカ 8:14)このような進路は神に栄光をもたらしません。
9 「実を豊かに結」んでいるのはだれですか。その結果は?
9 他方,「あなたがたが実を豊かに結び,そしてわたしの弟子となるならば,それによって,わたしの父は栄光をお受けになるであろう」と言われた,主イエスのことばを心に収めている人もいます。(ヨハネ 15:8)それらの人は世俗の仕事について家族を養う父親,子供を育てる母親,通学する学生などのいずれであっても,まず第一に神のしもべです。彼らは生活の中でみたまの実を表わし,また神の国の宣明に加わって御国の実も結んでいます。彼らは霊的な事柄を押しやって第二にせず,さんびのいけにえ,「すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげ」ています。(ヘブル 13:15)あなたはそうしておられますか。「正しい良い心」の人はそうするとイエスは言われました。その人は神のことばを喜んで受け,「これをしっかりと守り,耐え忍んで実を結ぶ」からです。(ルカ 8:11,15)この進路は神に栄光をもたらし,人を永遠の命に至らせます。―ローマ 6:22。
10 ある若者はエホバへの奉仕に参加していながら,どんな理由で大学教育を求めますか。そのような進路にはどんな落とし穴がありますか。
10 しかししばらくの間信仰の実を結んでいながら,その正しい道からそれる人もいます。これは往々にして「持っているもので満足」しなくなるためです。たとえば,若い人は周囲の世界の物質主義的な考え方に影響されやすく,もしその親が実業界で高収入を得ることに期待をかけているなら,この傾向はいよいよ助長されます。結果として,若者はこの世の「最高学府」が提供する教育に心を向けます。その願いは,人の世話にならずに手ずから働くため職を身につけることだけではありません。高所得者層にはいることを目ざしているのです。(テサロニケ第一 4:10-12)しかしこれがどうしていけないのですか。イエスは,らくだが針の穴を通るより,富んでいる者が神の国にはいるほうがむずかしいと率直に言われました。(ルカ 18:24,25)「高等教育」を受けることに没頭する人はおおむね,「衣食」があることだけで満足せず,お金で買える「その他いろいろ」のものを楽しもうとしています。(マルコ 4:19)受け始めた教育の面で成功しようと思うなら,懸命に勉強しなければなりません。聖書を学ぶこと,クリスチャン会衆との交わり,クリスチャン宣教への参加は少なくなります。この世の交わりが優先し,世の哲学が心を満たします。やがて何が起きますか。おそらくは自分の望まなかったこと,しかし聖書のことばをまじめに考えたなら予見できた結果です。(コリント第一 15:33。コロサイ 2:8)親はその結果に驚くことさえあるでしょう。ごく最近,むすこに「良い教育」を受けさせて,安楽な生活をさせようとした人がいました。大学での1年後,むすこはどれだけのお金でも買えないもの,つまり信仰を失っていました。
11 他の人は神への奉仕に一時活発でありながら,どのように霊の思いを失いましたか。
11 またある者は神のことばの真理を認め,それを他の人に教えるため時間を取り始めました。この者はコロサイ人への手紙 4章5節の,「今の時を生かして用い,そとの人に対して賢く行動しなさい」という勧めに従いました。しかし自分の心を守りませんでした。頭の中では真理を知っていましたが,心はやがて物質の資産を多く求めるようになりました。世の事柄をやめて生み出した時間はふたたび物質主義的な追求に費やされるようになりました。初めは会衆の集会を二,三度休むだけでした。しかしやがて,その度数は多くなりました。野外宣教への参加は不定期になり,ついにはまったくなされなくなりました。こうして,「ある人々は欲ばって金銭を求めたため,信仰から迷い出て,多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおし」ました。(テモテ第一 6:10)これはこの人々が意図したことではありません。しかし結果として起きたことでした。物質的には富みましたが,霊的には貧しくなりました。(黙示 3:15-17)これは,「神と富とに兼ね仕えることはできない」という,イエスのことばの真実さを裏書きしています。―マタイ 6:24。
12 (イ)ある人は『神に対して真実に富』んでいないことをどのように示しますか。(ロ)このことはなぜ今まじめに考えるべきですか。
12 普通の生活に必要と思うものを求めているつもりで,結果として,神を賛美する実を結ばなくなる人も多くいます。それらの人はエホバの民と交わりますが,実際には「神に対して富」んでいません。世俗の仕事の残業のため会衆の集会を何度も休みます。神に対する恐れより雇い主に対する恐れのほうが強いからです。クリスチャンの務めを知っているため,野外宣教に,しるし程度に参加しますが,努力は主としてほかの事柄に向けられています。ハルマゲドンが襲うとき,これらの人はどんな立場に立つでしょうか。人の心を見られるエホバは,これらの者が心をつくし,精神をつくし,力をつくし,思いをつくして神を愛したと見られますか。(ルカ 10:25-28)神はこれらの者を守って,ご自分の新しい事物の制度に入れられますか。これはまじめに考えるべき事柄です。来月とか来年とか言わず,生きて事を行なえる今日こそ,「今より,とこしえに至るまで」エホバの心からの賛美者になろうとしていることを示さねばなりません。―詩 115:17,18。
供給者としての神に対する確信
13 イエスは生活の必要物を得ることに対する態度を弟子たちにどう教えられましたか。これは世の人々とどう違いますか。
13 生活において物質的な事柄を第一にすれば,霊の心が弱まるのは明らかです。物事を神の見方で見ないなら,真に神の誉れとなる実を生むことはできません。このことにおいて正しい見方は何ですか。イエス・キリストは地上におられたとき,自分からは何も語らず,ただ天の御父のみむねを明らかにしていると言われました。(ヨハネ 14:10)それで,この点に関するイエスのことばを読むことには興味があります。人の命が持ち物によらないことをたとえで教えられたすぐあと,イエスは弟子たちに向かい,その原則が生活にいかにあてはまるかを示されました。イエスは多くの富を積むことではなく,生活上の必要物を得ることについてこう言われました。「それだから,あなたがたに言っておく。何を食べようかと,命のことで思いわずらい,何を着ようかとからだのことで思いわずらうな」。神は鳥に食物を備えられるではありませんか。『野の花をも装われる』ではありませんか。であれば,神のしもべであるあなたがたにさらによくしてくださらないはずはありません。それで「あなたがたも,何を食べ,何を飲もうかと,あくせくするな,また気を使うな。これらのものは皆,この世の異邦人が切に求めているもの」なのです。クリスチャンは「この世の異邦人」のようになってはなりません。クリスチャンの全生活は物質の必要を満たすための闘争だけで終わってはなりません。(伝道 6:7)クリスチャンであれば物質の必要が不信者より少ないという意味ではありません。イエスご自身が続けて言われました。「あなたがたの父は,これらのものがあなたがたに必要であることを,ご存じである。ただ,御国を求めなさい。そうすれば,これらのものは添えて与えられるであろう」―ルカ 12:22-31。
14 神がそなえられるのはどんな人に対してであるとイエスは言われましたか。それにはどんなものが含まれますか。
14 イエスは,おなかをすかせる者がだれもいないと言われたわけではありません。この点に注意してください。事実イエスは,わたしたちの時代の「ききん」を予告されました。(マルコ 13:8)また,クリスチャンと唱えていても,働こうとせず,あるいは仕事をより好みするなら,その者が守られるという保証はありません。(テサロニケ第二 3:10)また,事態を疑っているなら,そのような不信仰な状態で神の恵みを受けられると考えてはなりません。(ヤコブ 1:6-8。ヘブル 11:6)むしろ,神が備えをなさるのは常に「御国を求め」,『まず神の国を求め』る「働き人」に対してです。(マタイ 10:9,10; 6:33)イエスはぜいたくを約束されませんでした ― 約束されたのは「衣食」だけです。―テモテ第一 6:8。ルカ 12:22,31。
15 天の父は『まず御国を求め』たクリスチャン監督の多くをどのように祝福されましたか。彼らの信仰はだれの模範ですか。
15 御国の事を第一にしつつ,努力して生活の必需品を得ようとする者に対する,天の御父の祝福を知っている人は全世界に幾千人もいます。たとえば,妻と4人の子供のあるブラジルの一クリスチャン監督は,監督に対するものみの塔協会の特別訓練課程に招かれました。彼は自分の家族を養うためいつも働いていますが,物質的な面では豊かでないため,留守の間家族をささえる方法がありませんでした。学校に出発する少し前,彼はこの問題について神に祈りました。この祈りは聞かれました。彼が会衆の全員を霊的に養うための訓練を受けてくる間,彼の家族を物質面で助けることを会衆の数人が申し出たからです。このような監督が信仰を試みられた例は幾十もあります。多くの者は学校に参加するための休暇願いを雇い主に退けられました。しかし彼らの多くはのちに許され,給料を引かれなかった者さえ少なくありません。というのは,それらの働き人が『まず御国を求め』,必要ならその職場をやめ,のちにほかの仕事につくことも覚悟していることが明らかになったためです。確かに,これらの監督の信仰はエホバを崇拝する他の人の模範です。―ヘブル 13:7。
16 物質的な必要を満たすことより宣教奉仕のことを第一にした開拓者はどんな経験をしましたか。
16 開拓者として全時間奉仕に携わる人は特に,神への奉仕を第一にすれば,生活上の必要物は備えられるという約束の真実さを経験しています。一例をあげれば,ある開拓者はクリスチャン大会のあと,ほとんどお金もなく,泊まる場所のあてもないままに,自分の任命地に帰りました。帰り着いた第1日をどう使おうかと考えた彼は,マタイによる福音書 6章33節のイエスのことばを思い出しました。彼は一日中,野外宣教をし,行く先々で貸間を探していることにふれました。しかし何も提供されませんでした。午後遅く,気だてのよい婦人に証言した彼は,もう一度宿泊場所の必要なことにふれました。隣室で話を聞いていたその家の下宿人は婦人に呼びかけて言いました。「ごらんなさい,この人の寝る場所はあります。食事にさそいましょう。彼が払えなければ,わたしが払います。この人は神の仕事をしているのですから」。これは決して例外的な経験ではありません。全生活を神への奉仕にささげるため,家と持ち物を捨てた人がよく経験することです。―使行 16:14,15。マルコ 10:29,30。
17 (イ)むずかしい状態の下でも実を結ぶことができたのは,使徒パウロのどんな態度のためですか。(ロ)何を信頼していれば,経済的な苦難に面しても信仰の実を絶えず結べますか。
17 これは『常に御国を求め』る者はいつも豊かに備えられるという意味でなく,満足を見いだすという意味です。ローマの獄にいた使徒パウロは,自分の経験について,マケドニア,ピリピのクリスチャン会衆に書きました。「わたしは,どんな境遇にあっても,足ること[満足すること]を学んだ。わたしは貧に処する道を知っており,富におる道も知っている……わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる」。(ピリピ 4:11-13)パウロは事態がむずかしくなればやめる人ではありませんでした。獄においてさえ,彼は神の国のことを求め続けました。彼は番兵に伝道し,また人々の訪問を受けては伝道しました。(使行 28:16,30,31。ピリピ 1:13)獄にいる間に彼は霊的にすばらしい助言の書簡6通を書き,それは今聖書の一部となっています。それで,迫害あるいは困窮のゆえの逆境にあっても,絶えず信仰の実を結ぶことができます。エレミヤ記 17章7,8節は述べています。「おおよそ〔エホバ〕にたより,〔エホバ〕を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで,その根を川にのばし,暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く,ひでりの年にも憂えることなく,絶えず実を結ぶ」〔文語〕。エホバに全幅の信頼をおく者はいつでも霊的なことがらを第一にします。―ヘブル 13:5,6。
さらによいものを目ざす
18 今日のわたしたちはアブラハム,イサク,ヤコブのような信仰をどのように示せますか。なぜそのことを願うべきですか。
18 このような進路を行く,現代のエホバのクリスチャン証人の信仰は,神のことばの中に名をあげられている昔の忠信な人々の信仰と同じです。アブラハムは神の命令に従って古代カルデヤの富裕な町ウルを離れ,カナンの地の寄留者となりました。「(彼は)信仰によって,他国にいるようにして約束の地に宿り,同じ約束を継ぐイサク,ヤコブと共に幕屋に住んだ。彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは神である」。紀元前20世紀のその昔,彼らは当時の世界が提供した楽しみの多くを喜んで捨てました。それは,神の建てられる永遠の都,自分がその下に住む天の政府に望みをかけていたからです。自分が出てきた所のことを考えていたなら,そこに帰ることもできたでしょう。しかし彼らは帰りませんでした。「だから神は,彼らの神と呼ばれても,それを恥とはされなかった」。(ヘブル 11:8-16)神はあなたの生活の進路を同じように喜んでおられますか。
19 (イ)なぜ今は非常に緊急な時代ですか。(ロ)このことを知りながら,神の新しい事物の制度で祝福を受けられない場合のあるのはなぜですか。イエスはどんな適切な警告をしておられますか。
19 わたしたちは今,重大な時代に住んでいます。これは現存する悪い事物の制度の「終りの時」です。御国が1914年に天で立てられて以来すでに52年以上たちました。人間6000年の歴史は今まさに終わりを迎えようとしています。いまは「事物の制度の終結」の時であり,それを裏づける事実は明白です。(マタイ 24:3,新世訳)今は非常に緊急な時代です。そのことを信じますか。実を言えば,それを信ずると言う人の中で,神がもたらす新しい事物の制度での祝福を受けそこなうかも知れない人がいます。それは自分の心と思いを前途の希望から離しているためです。その人々は信仰を守り,「衣食」があるだけで満足することをせず,この世の物質主義的な渦に吸い込まれています。そして神への奉仕より,この世の楽しみを熱心に求めています。それでイエスは警告されます。「あなたがたが放縦や泥酔や,世の煩いのために心が鈍っているうちに,思いがけないとき,その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように,よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。これらの起ろうとしているすべての事からのがれて,人の子の前に立つことができるように,絶えず目をさまして祈っていなさい」― ルカ 21:34-36。
20 どうしたらいつも実を結ぶクリスチャンになれますか。
20 神に対する愛を深め,神のことばの正確な知識をもつなら,この世の事柄に引き込まれることはありません。むしろ自分の生活をいつも「重要」な事柄に向けるようになるでしょう。こうしてわたしたちは実を結ぶクリスチャンとなり,「イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光とほまれとをあらわすに至る」でしょう。―ピリピ 1:9-11。