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賢明でありましょう ― 費用は見積ってものみの塔 1979 | 8月1日
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賢明でありましょう ― 費用は見積って
「費用を見積りなさい」。「費用を計算し」なさい。a 人類史上最も賢明な人であるイエス・キリストはその与えた助言の中でこう言われました。これはイエスの弟子の一人となることについて論じた言葉の中で言われたものです。とはいえ,日常の事柄の中で広く適用できる原則を,これは述べています。どのようにですか。
物質の所有物を手に入れることに関してです。主に新聞,雑誌,テレビ,ラジオを媒体とするおびただしい量の広告を見聞きしているため,大抵人々の欲しいと思う物は支払い能力をはるかに超えてしまいます。それでもこれらの物に対する欲求が非常に強いため,ローンを使えばこのような物を無理なく買えると保証するセールスマンの甘言に抵抗できないでいる人は少なくありません。「支払いながら使って楽しんでください。お金をためて払えるようになるまで我慢することはありません」。1978年11月20日号US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌に「ますますかさむ人々の借金: まさに憂慮すべき事態」と述べられているのも不思議ではありません。同誌は,米国における個人の負債が2兆5,000億ドル(約500兆円)に達したことをさらに述べています。
それはどんな結果になっていますか。ひとたび不測の事態が生ずるなら,多くの人にとって,それは個人の破産を意味しています。それで最近の一年間に米国では25万件の破産があり,その85パーセントは企業の破産ではなくて個人の破産でした。これらの破産の大多数は何を物語っていますか。健全な判断力を用いそこなったこと,支出を増やすにあたって費用の見積りが賢明でなかったということです。
費用を見積る,つまり見通しをまず立てるのが賢明であることは結婚の場合にも明らかです。一切の事情を考慮することをせずに結婚に踏み切る人がなんと多いのでしょう。特にこれは若い人々に見られます。十歳台の人々の間で離婚と別居が他のどの年齢層よりもはるかに多い理由はそこにあります。これは何を物語るものですか。とりわけこれらの人々は費用を見積らなかったということです。それは金銭のことだけではありません。
結婚に成功するにはきわめて大きな代価が必要です。多くの場合,それは,不可能ではないとしても容易には変えられない事柄を忍耐強く辛抱し,平和を保つためには他の人の欠点を大目に見るという代価を払うことを意味します。それは「自分」だけの代わりに「ふたり」のことを考えるというにとどまらず,配偶者の益を自分の利益よりも優先させることを意味します。このすべては自分と相手を現実的に見るという事です。そして完全な結婚というものはなく,楽と共に苦すなわち『肉身の患難』をも受け入れる必要があることを認識しなければなりません。(コリント第一 7:28)結婚する前にまず費用を見積ることをしたならば,長続きする幸福な結婚はずっと多いに違いありません。多くの若い人の場合,あらゆる面で,精神的にも肉体的にも情緒的にも経済的にも結婚生活の責任をいっそう良く果たせるようになるまで,もう数年待つのが賢明であったということに恐らくなるでしょう。
また人生の他の分野においても,費用をまず見積ることをせずに知恵の無さを表わしたり,失敗したりする場合があります。若い人は何かの趣味に熱中してそれに必要とする高価な品物を親にねだって買ってもらったものの,すぐに飽きてしまうという事があるかもしれません。その若者はこのような投資をするのに時間,精力,世話の点でどれだけを要するのか,その代価を見積らなかったのです。それで父親に無駄な出費をさせただけでなく,自分がその趣味のために費やした時間も無駄にしたことになります。
前述のように,『費用を見積る』という言葉は,人がイエスの弟子の一人になることについて論じた中でイエス・キリストが元来言われたものです。イエス・キリストの弟子になるには何かを犠牲にすることが必要ですか。確かに必要です。それでエホバの証人としてイエス・キリストの弟子となることを決めた有望な,テレビの人気スターについて,ニューヨーク・サンデー・デイリー・ニュース紙は次のように論評しています。
「[彼女は]ピカピカのロールスロイスを乗り回し,サン・ローランの最新のファッションで身を飾り,ベル・エアー高級住宅地で生活しようと思えば出来るだろう。彼女はロマンスを大見出しで報ぜられ,飲み,遊び回り,話題を振りまいたことだろう。…即座に億万長者,テレビのスーパースターになり,ナイトクラブで評判になるという彼女のすばらしい機会は去った」。
なぜですか。
「主としてそれはエホバの証人という,彼女が新たに見いだした宗教を何物にも,まただれにも妥協させられまいとする彼女の決意のためである。……一年余り前の彼女はセミヌードで踊り,とばくをし,大酒し,遊び歩くことを何とも思わなかった。彼女の言葉を借りれば,『私は真理に入る前にあらゆる事をしました。私は暗黒と無知に閉ざされていました。それゆえに世の道にならっていたのです』」。
彼女が真のクリスチャンになるには,確かに何かを犠牲にすることが必要でした。費用を見積ることから彼女は益を得ましたか。そうです。この記事が続けて述べているように,「彼女はいまだかつてなかったほど幸福」だからです。その幸福は彼女が神の王国の良いたよりの全時間伝道者であることによるところが多いのです。信仰を抱くクリスチャンとして彼女は,はるかに大きな幸福が自分の前途にあることを知っています。
1978年9月12日付トロント・スター紙には,1977年にチーム内で最高得点を上げながら引退を決意したホッケー選手のことが出ています。その記事によれば,同選手は次のように語りました。「ホッケーに専念しながらエホバに仕えることは出来ないと思います。私の専念はどっちつかずのものになるでしょう。それは聖書の原則の問題です。……それはにわかに下した決定ではありません。私は1年前からその事について考えていました」。スポーツマンとしての彼の経歴を詳しく述べた後,その記事はさらに彼の言葉を次のように伝えています。
「私は結婚して間もなくの夏,モントリオールで開かれた大会に出席し,そこでバプテスマを受けました。(エホバの証人の)出版物を二,三読んだのがそもそもの発端でした。そして読んだ事柄は全く正しいように思えました。私は神の存在をずっと信じていたものの,深い確信があった訳ではありません。私はホッケーの競技よりもエホバに仕えるほうがもっと大切であるという結論に達しただけです」。
その記事は彼が戸別訪問の伝道をすることを述べた後,結びに彼の次の言葉を引用しています。「私はしばらくの間,働かなくてもすみます。私の経理を預る者が良い投資をしてくれました。私の得ていた収入がかなりの魅力であったことは確かです。しかしエホバに喜ばれることをする方がもっと大切です」。疑問の余地はありません。彼も費用を見積り,喜んでそれを払い始めたのです。
しかし費用を見積ることに関するイエスの言葉には,普通あまり認識されていない一面があります。それは何ですか。当時の弟子たちに向かって「費用を見積」るように言われたイエスの言葉は一体何を意味していましたか。人がイエスの弟子になることを望むかどうかにつき,その是非をまず熟考するように言われたのですか。(物質的な物を投資する場合ならば,無論そういう事が言えます。)そうではありません。イエスが言われた費用の見積りはイエスの弟子になることを望むかどうかについてではなく,むしろどれだけの事がかかわってくるかを尋ねることについてでした。
その事は「ものみの塔」誌上にかつて次のように表現されていました。「神の言葉は費用を見積ることをわたしたちに勧めています。わたしたちが[神のご意志を行なうために]献身すべきか否かを決めるためではありません。―その質問にはひとつの答えしかありません ― そうではなくてどれだけの事がかかわっているかを認識するためです。それは同じ時にイエスが言われたように,万一,必要ならば『すべての持ち物を捨てても惜しくない』覚悟ができているためです」。
神のご意志を行ない,イエス・キリストの足跡に従うため献身するに際して費用を十分に見積ることをしなかった人が近ごろいることは確かに考えられます。その理由で,迫害あるいは物質主義や不道徳への誘惑といった,何かの試練が臨む時,そのような人は中途でざ折してしまったのです。なんと悲しいことでしょう。エホバに忠実に仕えることの報いは確かです。それが今年,来年あるいは復活においてであろうと,エホバの約束の果たされないことは決してないからです。賢明なクリスチャンは,イエス・キリストの追随者になることに何が関係しているか,その費用を見積ったがゆえに後悔していません。―ヨシュア 23:14。
[脚注]
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原子物理学者で“あるべきか,あらざるべきか”ものみの塔 1979 | 8月1日
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原子物理学者で“あるべきか,あらざるべきか”
フレッド・ウィルソンの経験
1940年代の初め,私にとって“それが問題”でした。『たいして問題ではない』と言われるでしょう。確かに見かけはやさしい問題です。世界は原子力時代を迎えつつあったからです。物理学者には高収入の仕事が沢山ありました。そして仕事は興味深く,夢中にさせるほどでした。では,なぜそれは問題でしたか。
根本的には宗教が関係していたからです。もっと興味深く,もっと夢中にさせるものが,生活の中に入ってきたのです。しかし数年さかのぼって背景をお話しすることにしましょう。
私の家族が住んでいたのは,小麦の収穫に万事,依存しているカナダ大草原の典型的な寒村でした。幼い時から私たちは勤労の価値を教えられ,学校を終えると,店で働いたり,木を切ったり,小麦を運んだり,馬を駆ったりして収入を得ました。家で私たち4人兄弟は姉妹のいないことを嘆きました。料理をし,皿を洗い,衣類を洗濯し,アイロンをかける仕事が私たちに回ってきたからです。何年も後になって初めて,私は幼い時に学んだ事の価値を認識するようになりました。
幼少期の宗教的背景
“深入りすまい”とする私たちの努力にもかかわらず,宗教は生活の中で明確な役割を占めていました。母は,“福音会館”で集会をしていた“地獄の火”グループという厳格な派に属していました。それは私たちが自分たちの宗教の名前と
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