愛と忍耐の神エホバ
「〔エホバ〕は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ,ひとりも滅びることがなく,すべての者が悔改めに至ることを望み,あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。―ペテロ後 3:9 〔新世〕。
1 (イ)ペテロの第二の手紙はどんな点でマラキの預言と似ていますか。(ロ)イエスとペテロの双方は神のことばの確かさをどのように強調しましたか。
ペテロは第二の手紙の結びのところで,「終りの時にあざける者たちが,あざけりながら出てきて……『主の来臨の約束はどうなったのか』」とあざけりながら聞くであろうと警告しています。マラキの預言におけると同じく,ペテロは「不信仰な人々がさばかれ,滅ぼさるべき日」に関する事実を率直に述べています。人間的な観点からすれば,エホバは「約束の実行をおそくしておられる」ように見えるかも知れませんが,間違えてはなりません。「〔エホバ〕の日は盗人のように襲って来」,知らぬ間に不敬虔なあざける者たちを捕えます。興味深いことに,ペテロは象徴的な「今の天と地」が過ぎゆくこと,神の約束の言葉の確実性とを並べて述べています。また,大預言を語られた時のイエスは,「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」と言われました。それゆえ私たちは神のことばと現代に対するその音信に最大の敬意を払うべきです。「嘲るものの座にすわらぬ者はさいはひなりかかる人はエホバののりをよろこ」ぶ。―ペテロ後 3:3-10〔新世〕。ルカ 21:33。詩 1:1,2,文語。
2 エホバの外面的な遅さは何の証拠ですか。
2 エホバが遅いように見えても,それはエホバの愛と忍耐のあらわれにほかなりません。なぜならエホバは「ひとりも滅びることがなく,すべての者が悔改めに至ることを望」んでおられるからです。同じように,「わたしたちの主の寛容は救のためである」と考えねばなりません。(ペテロ後 3:9,15)エホバとイエス・キリストの愛と忍耐とがなかったなら,放とう息子のたとえ話の結末がどのように成就したかを今日の私たちが目撃することはなかったでしょう。主の忍耐のおかげにより,その級のある者は今日すでに救いを得ています。他の者が同じことをする時間がまだ残されていますか。何らかの方法で私たちがそれを助けることができますか。助けるのが当然ではありませんか。
3 (イ)どのように命は神の愛のしるしですか。(ロ)時間はどのように神の忍耐のしるしとなりましたか。(ハ)これらの「身代」はどのように用いられ,また誤用されていますか。
3 放とう息子のたとえ話に語られた通り,エホバは二人の息子によって表わされた天の希望を持つ級と地の希望を持つ級のそれぞれに「その身代」を分け与えられましたが,私たちがこのことを理解するのはエホバの愛と忍耐とによります。(ルカ 15:12)二つのもの,すなわち命と時間が関連しています。命は神の賜物です。命は神の壮大な財産を構成するものであり,神の息子たちに分配されたものであるとも言えるでしょう。命は神の愛のしるしです。この「終りの時」に,神はご自分の忍耐のしるしとして一定の期間をも与えられました。(テモテ後 3:1)どのように? サタンの組織に対する患難の時は1914年に始まりました。これはそのまま中断することなく継続して聖書のハルマゲドンの戦いに至っても正当なことでした。しかしイエスの言われたように,「その期間が縮められ」ました。さもなければ,「救われる者はひとりもいない」でしょう。(マタイ 24:22)1918年に始まりハルマゲドンと共に終わるこの貴重な休止期間は今日でも続いており,しかも私たちがかつて予期した以上に長く続いています。この期間に天の希望をいだく忠実な残れる者は父親への奉仕のために自分の命と時間を喜んで用いてきました。この点でたとえ話の兄に似ています。ヨハネ伝 10章16節の「他の羊」の多くも同じように過してきました。しかし,たとえ話の弟によって表わされた者たちは神の賜物である命と時間を利己的に握り,それらを堕落した肉の欲を満たすために用いました。
正しい道を離れることとその結末
4 どのように,またなぜ「弟」の級は正しい道を離れましたか。
4 故意に神の民に敵対する者に警告したペテロは,「彼らは昼もなほ酒食を快楽とし,…彼らは正しき道を離れて迷ひいで」と述べています。(ペテロ後 2:13,15,文語)これは弟のとった道をよく描いています。しかし弟は意識的な反対者となって,救いの希望を完全に失ったことはありません。今日の弟の級の者はだれかに危害を加えようとするような悪意を抱いて行動し始めるわけではありません。彼らはただ束縛や干渉を受けずに楽しむ事を求めるのです。世界が提供するのは都会の生活と夜の生活であり,興奮と魅力です。それで彼らは家を離れます。これは恐らく文字どおりに家を離れることではなく,エホバやエホバの民との交わりや友情を絶つことです。彼らは「遠い所」へ行きます。―ルカ 15:13。
5 「遠い所」に行くことはなぜ長旅を伴いませんか。
5 これは文字どおりの長旅を伴うわけではありません。サタンの事物の制度は私たちの周囲にありますが,その状態と精神はエホバから遠く離れており,エホバの精神とは異質です。イエスのたとえ話を聞いていたパリサイ人にとって,弟は自分の土地にいながら遠いローマの雇われ人となっていた罪人や取税人をあらわしていました。その上,取税人は仕事の時に同国人をだますことがありましたので,パリサイ人からは完全に見すてられ望みにはずれた者たちと見なされていました。
6 正しい道を離れる者にはどんなことが起こりやすいですか。
6 ひとたび遠い所に行った若者が「放蕩に身を持ちくずして財産を使い果」すのに多くの時日はかかりませんでした。彼は確かに放とう息子でした。詳細は語られていませんが,何があったかは容易に想像できます。のちに兄は弟が「遊女どもと一緒になって,あなた(父親)の身代を食いつぶした」と言い,これを否定する者はありませんでした。ここに明白な警告があります。「弟」の級は意識的に悪を行なう者ではありませんが,「酒食」にふけり,「正しい道を離れ」て,そうした者と密接に交わることによって自らもあやうくそうした者になります。誤まった考えを抱いてはなりません。すべての場合を包かつするたとえはありません。「私はこの世で友だちと楽しい時を過ごし,それから本心にかえって人生をまじめに考えよう」などと言ってはなりません。そうした仲間と二,三歩あゆみを共にするなら,たちまちそのクラスにすべりこみ,そこからの帰還や復帰はありません。またこの点についても考えねばなりません。すなわち,その仲間と共に走っているうちにハルマゲドンが来ればどうなりますか。その時,悔い改めのいとまはもはやありません。―ルカ 15:13,30。ペテロ後 2:13,15。
7 ききんが起きたとき若者はどうなりましたか。どんな難儀が伴いましたか。
7 たとえ話にもどりましょう。その後「ひどいききん」があり,持ち金を使い果たした若者はかろうじて豚飼の仕事を見つけました。(ルカ 15:14-16)この若者はユダヤ人であると思われますが,ユダヤ人にとってこれはきわめて不名誉なことでしょう。生きているもの,死んでいるものも,豚はみな汚れた動物とされ,ユダヤ人はこれを食べることも,これに触れることも禁じられていました。「これらは,あなたがたには汚れたものである」。(レビ 11:7,8。申命 14:8)放とう息子は自分の良心を押えつけねばならなかったでしょう。『その地方の住民』である雇主が落ちぶれた豚飼の良心の問題を考慮するとは思われませんでした。彼は豚の食べる粗末ないなご豆で腹を満たすことさえ許されなかったのです。「何もくれる人はなかった」。―ルカ 15:16。
8 (イ)1918年以来,ききんはキリスト教国をどのように襲っていますか。(ロ)これは「放蕩息子」の級にどんな影響を与えましたか。
8 たとえ話のこの部分がいかに成就したかを見るのはむずかしいことではありません。聖書は『パンのききんではなく,水にかわくのでもなく,〔エホバ〕の言葉を聞くことのききん』について述べています。このようなききんはとくに1918年以来キリスト教国をおそっています。その年以来,キリスト教国の宗教指導者はイスラエルの宗教指導者たちと同じく,『〔エホバ〕の言葉を捨てており,彼らになんの知恵がありますか』。イエスは当時の宗教指導者に言いました,「あなたがたは自分たちの言伝えによって,神の言を無にしている」。今日,偽りの宗教の世界帝国のどこを見ても,その住民は霊的に飢えています。政治家などサタンの世界の支配部分が提供するものは国際連合組織など人間的な企てだけであり,宗教界の指導者はこれを支持しています。「放蕩息子」のクラスはこの世の道を進み,救いと保護を求めてそうした企てに加わります。しかし霊的に病む者をいやすものはなにもありません。それらの人々は空腹のまま,また貧困のままに放置されます。これは物語りの暗い部分です。―アモス 8:11。エレミヤ 8:9。マタイ 15:6。コリント後 4:4,〔文語〕。
弟は本心に立ちかえる
9 (イ)神は私たちを本心に立ちかえらせるために悪を送られるのですか。(ロ)弟をして本心に立ちかえらせたものは何でしたか。
9 イエスは弟にその後何が起こったかを簡単に説明して言われました,「そこで彼は本心に立ちかえって」。こののち弟が心の中でどう考えたかが示されます。(ルカ 15:17-19)キリスト教国の牧師は逆境に苦しむ人に対し,教訓のため,またその心を本心に立ちかえらせるため神がそうした経験を送られたのだと説くことがあります。これは悪の許容を神の責任に帰し,神をその当事者とすることです。そうした教えは非聖書的であり,神の名前に大きな非難をもたらします。神のことばは,「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく,また自ら進んで(悪をもって)人を誘惑することもなさらない」としるしています。さらに聖句はこう続いています,「人が誘惑に陥るのは,それぞれ,欲に引かれ,さそわれるからである」。(ヤコブ 1:13,14)放とう息子の場合はまさにこの通りです。なるほど享楽にふけっている時には本心にかえらなかったかも知れませんが,彼の分別を取りもどさせたのは心の底にあった知識を思いかえすことでした。敵の手にわたされたイスラエル人はどこにたよるべきかを知っていました。この時の言葉にも見られるとおり若者もどこに帰るべきかを知っていました。
10 ルカ伝 15章18,19節にある放とう息子の言葉には何が示されていますか。それは父親の態度のどんな点に光をあてますか。
10 自分の故郷にききんのない事を知った若者はひとりごとを言います,「立って,父のところへ帰って,こう言おう,父よ,わたしは天に対しても,あなたにむかっても,罪を犯しました。もう,あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ,雇人のひとり同様にしてください」。(ルカ 15:18,19)彼の言葉にはききんを逃れ,食物を得ようとの願い以上のものが含まれています。まず,彼は自分の父親だけでなく,天の神に対して自分が罪を犯したことを心の中で認めました。彼の言葉は彼がただひとつの目標をいだいていたことを示しています。それは家に帰り,父に仕えて共に生活することでした。彼は父親を知っており,自分の育った家を知っていました。以前彼が家を出た時,父親が彼をしかりつけ,声高にどなりつけていたなら,若者の心は取るべき道についてこれほどひたむきにはなれなかったでしょう。故郷に帰ってもどこか他の場所に働き口を見つけて,父親と相対することなくすませることも出来たはずです。しかし,彼の心にそうした考えは少しも浮かびませんでした。それは彼の家であり,これにまさる所は他にありません!
11 今日「放とう息子」の級の者はどのように本心に立ちかえりますか。
11 若者によってあらわされた者たちについても同じです。早くからエホバの民,および真理の音信に接していた彼らには本心に立ちかえるための基礎があります。たしかに,物事がうまくすすんでいる時は,静かに反省することもありません。しかしやはり,その心の奥では神権組織内で神の民と過ごした,「故郷」の生活の思い出を消すことができません。そしてサタンの世の挫折と空しさとを知る時はじめて,彼らは二つのものを冷静に比較できるようになります。さらに,たとえ話の中でも示されたとおり,彼らはエホバに献身したしもべたちのその後の繁栄の様子を耳にします。しもべたちは霊的な意味で『食物にありあまっており』,豊かな家庭の幸福な活動のすべてがそこにあります。(ルカ 15:17)事実,エホバの証人がそれらのものをふんだんに楽しんでいることは広く知られています。
12 彼らは今どんな正しい決定をしますか。
12 本心に立ちかえり,二つの対照を知る時,彼らは正しい判断を示します。今彼らは知識と感謝の健全な基を得て自らを神に献げます。今彼らは浸礼式に先立って,すべての浸礼希望者にたずねられる二つの質問に誠実さと深い意味とをこめて,はいと答えられます。若者のように,彼らは自分の不潔で罪深い状態のすべてを告白し,み心を行なうべく自らを無条件で天の父にささげ,父に仕えることを申し出ます。これにはどんな結果がありますか。たとえ話の若者にはなにが起きましたか。
13 放とう息子の帰還にあたってはどんな事柄が目立っていますか。
13 今私たちはもっとも感動的な場面を迎えます。その様子を想像してごらんなさい。自分の故郷までの長旅は大変な難儀となりました。しかし,若者の決意と心の中の目標とが旅を続けさせます。ついに『まだ遠く離れているのに』自分の家が見えるところまで来ます。若者が見るものは何ですか。手をかざしてこちらを見ているのは父親ではありませんか! 父親は何度か同じようにしてそこに立ったことでしょう。まだ息子が遠くにいるうちから父親はそれと知り,走り寄って彼を迎えます。あわれみの情に満たされた父親はやさしく息子を抱きかかえ,息子にくちづけします。家に着いてから,息子は自分の行状を告白し,「雇人のひとり」として働くことを申し出ます。しかし父親は息子に最良の着物を与えてまず身なりを整えさせます。ついで宴会を開き,すべての者を招いて楽しませます。「このむすこが死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったのだから」。―ルカ 15:20-24。
14 ここにはどんな原則が強調されており,それからどんな結論が導かれますか。
14 イエスはここで聖書の原則をきわめて強力に例証されました。「我にかへれわれまたなんぢらに帰らん」。(マラキ 3:7,文語)迷い出た者が悟りさえするなら,家への帰還は大きな喜びとなるでしょう。恥じらいの気持ちが時に彼らをためらわせるでしょう。しかし,ききんに悩むサタンの世界にとどまって飢え死ぬなら,だれをしあわせにすることができますか。だれをしあわせにすることもできません。こうした者たちを助けるために私たちには何ができますか。彼らを助けることを望みますか,それとも,たとえ話の兄と同じあやまちをおかしますか。
15 (イ)エホバの態度と放とう息子の父親の態度とはどのように比較できますか。(ロ)エホバと和合していた者たちはどのように感謝をあらわしましたか。
15 エホバのなされたことはたとえ話の中でも示されましたが,それに注意し,それに一致して行動するなら,私たちも迷い出た人々を大いに助けることができます。たとえ話の中で,イエスは父親の態度と行動とをきわめて明確にされました。父親は息子が家に着くのを待ち,「何を言いに来たのだ!」とは言いませんでした。彼は息子の帰還を予期し,今か今かと待っていたのです。エホバはこのクラスの帰還とそれに伴うご自身の喜び,また家庭にも似たエホバの組織に集まる者すべての喜びとを予告するたとえ話や預言の数々をずっと昔にみことばの中に記録させて,これと同じ態度を取って来られました。そしてちょうど必要な時にエホバはそれらの聖句の理解を与えられました。それは1943年です。聖句の意味は『時に応じてそなえられる』霊的な食物の一部として,任命された残れる者である「忠実な思慮深い僕」の級を通じて明らかにされました。(マタイ 24:45-47)家にいてエホバと和合していた者たちはこうして与えられた理解に深く感謝しました。彼らは理解した事を秘めておかず,あらゆる手段をつくしてそれを広く公に伝えました。これは本心に立ちかえろうとしていた者たちに対する父親の深い関心と同情とを反映するものとなりました。
16 地上の級はどのように次第に明らかにされ,また励まされましたか。
16 こうしてなされた進歩を簡単に振りかえると,私たちは初めて1923年に「羊と山羊」のたとえ話に関する真の説明が「ものみの塔」誌上に出たことに気付きます。「羊」は王の右側に集められた地上の級であり,王の支配の下にあって永遠の命を受ける見込みを持つ者であることがこの時明らかにされました。(マタイ 25:31-46)1931年この級はキリスト教国で行なわれる「すべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々」と同じであることが理解されました。これらの人々は真理を知り,それを公にも表明することのしるしとして「額にしるし」を受けます。これはハルマゲドンで保護を得るためのしるしともなります。(エゼキエル書 9章)また1932年,この級はヨナダブ級とも呼ばれるようになりました。ヨナダブはバアル崇拝者の処刑にむかうエヒウ王に加わり,喜んでその戦車に乗りました。これは大いなるバビロンの滅びとハルマゲドンの戦いの時,偽りの崇拝に従う者すべてに行なわれる処刑を予影したものです。この時強調されたのは関心を抱く人々が大いなるエヒウである王イエス・キリストに対する奉仕に加わり,戦車のような王の組織に加わるための道がまだ開かれているということでした。(列王下 10:15-27)1933年と1934年には関心を持つ人々を再びたずねる再訪問の活動が始められて,この級の人々に対する実際的な援助がさしのべられることになりました。再訪問は定期的な家庭聖書研究の取りきめを設けて霊的に養うために必要です。これらの人々も献身し,浸礼を受けるべきことは1934年に明らかにされました。
17 2つの級の発展は1931年と1935年にどのようにしるしづけられましたか。
17 1931年以来,油そそがれたエホバの証人の側に確固とした足場を定め,共に野外奉仕に加わる羊のような人々が次第に増加するようになりました。その多くは放とう息子と同じように,エホバに対する献身に進み,エホバに奉仕する機会をそれまで無駄にしていました。しかし,この級の発展と帰還の過程の中で最も決定的であったのは1935年です。この年,放とう息子の帰還とこれを迎えた父親の寛大な処置,また長い間いどころの知れなかった息子が家に帰えったとの公の告知に相当する出来事がありました。その時弟はすでに家に着き,身なりをととのえ,喜びの祝宴が開かれようとしていたのです。1935年にはこれに相当するどんな出来ごとがありましたか。
18,19 1935年の大会の出来事はどのようにたとえ話を成就しましたか。どんな疑問に導きますか。
18 この年の5月にワシントン市で開かれた大会が私たちの注意を集めます。大会に先立つ数号の「ものみの塔」誌の告知欄を通じてヨナダブとして知られていた人々に特別の招きがさしのべられたことには何か意味があるようでした。a この大会においては,黙示録 7章9節の「大ぜいの群衆」が,それまで考えられていたような二次的な霊的級ではなく,私たちがここで取り上げたいくつかの聖句の中で語られる地上の級と同一であることが示されました。その上,聴衆席にいた人々のうち,自分が「大ぜいの群衆」に属すると考える者に対しては起立することが求められ,多数の人々がこれに応じました。これは喜びと霊の祝宴の時となりました。他の大会でも同様の手順が取られ,同様の結果がありました。「他の羊」の「大ぜいの群衆」は帰還し,すでに家に帰っていたのです。
19 しかしこれは30年も昔のことだと言われるかたもあるでしょう。今日このことはどうなっていますか。しかし,これに答えるまえに,弟の帰還に対する兄の態度と行動とを中心としたイエスのたとえ話の結末に考慮を向けましょう。
つまずくべき理由はない
20 弟の帰還に対し兄はどんな態度を取りましたか。父親はどのようにとりなしましたか。
20 弟が家に着いた時,たまたま兄は外出中でした。家に近づいた兄は音楽と踊りの光景を見,しもべにその意味をたずねました。説明を聞いた時,兄は非常に怒り,家にはいろうとしませんでした。父親は兄が中にはいり,祝宴に加わることを乞い求めました。兄は,放とうの弟にやさしく,自分に対しては当然の物さえ与えない父親の態度を不公平であるとして非難します。友だちと楽しむための小山羊さえもらったことがありません。しかし父親は哀願するような口調で兄に訴え,同時に両面から兄の考えを正します。「子よ,あなたはいつもわたしと一緒にいるし,またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし,このあなたの弟は,死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかったのだから,喜び祝うのはあたりまえである」。(ルカ 15:25-32)反省して本心に返える兄が,家の中にはいれるよう入口の戸を開いたままにしてたとえ話はここで終わります。
21 ここで兄があらわしているのはどんな人々ですか。どんな事情に留意すべきですか。
21 この点において兄は「小さい群」のうちまだ地上に残る者全体を表わすのではなく,これに似た態度を取る人々だけを表わしています。これはどのように示されますか。1931年に至るまで,集める仕事は天の希望にいれられる人々だけを対象としていたことに留意して下さい。地上の級のあることはすでに予見されていましたが,この級がハルマゲドン以前に神の特別の取り扱いを受け,組織されるとは考えられていませんでした。ハルマゲドン以前に「他の羊」を集め,それを教育するという仕事は当時考慮に入れられず,放とう息子のように機会を無駄にしていた者たちのことはとくに考慮されませんでした。それだけでなく,極端な考えを抱き,自分たちの一切の経験は人格形成の過程であり,天の相続のためになされる神のご準備であるととなえる者もありました。この考え方は彼らをして自己中心的にならせ,自分を過大に評価させました。彼らは幾分か気ままになっていました。たとえ話の兄のように,彼らはただ自分だけしか見ていませんでした。
22 エホバは「弟」の級をどのように認められましたか。どんな結果がありましたか。
22 エホバはこれら自己中心的な者たちが正しい見解を得,正しい精神を示すまで,ご自身の意志の実行を待たねばなりませんでしたか。そのようなことはありません。エホバは「弟」の級を公に認めるべき時が熟した時,肥えた物による祝宴のそなえを進められました。霊的な意味で言って,エホバは弟の級に上等の着物と指環と靴とを着けさせました。すなわちエホバは彼らを地上の希望を抱く息子,いまや「平和の福音の備えを足に」はいて神の組織内に足場を固めた者たちとして認められたのです。(エペソ 6:15)しかし,「兄」の級はこの点を良く理解せず,挑むような態度でその意味をたずねました。彼らは神の組織の家の中にはいることを拒み,人気をかすめ取ったような級を歓迎することに加わろうとはしませんでした。
23 (イ)なぜ「兄」の級の見方は誤りですか。(ロ)どんな見方をすべきですか,
23 彼らの考えはどちらの側から見ても間違っていました。彼ら自身について言うなら,忠実に対するほう賞として長子として彼らの受ける分は保証されていました。「弟」の級に対することについて見ても,いずれか一方を優遇したということはありませんでした。もし,神の愛と忍耐とによって地上の級が見出され,生きかえり,予期したより早くすがたをあらわしたなら,私たちのすべてが天の父と共にそのことを喜ぶべきではありませんか。たしかに私たちはけちで議論がましい態度を取ってはなりません。
24,25 (イ)この級の者に対して戸はどのようにまだあけられていますか。(ロ)どんな問題に答を得るべきですか。
24 イエスは兄を家の外に置いたままにしてたとえ話を終えられましたが,この級の中にエホバの訴えに応ずる者が一人もいないという意味にこれを解してはなりません。戸はまだあけられているのです。このたとえ話を引き出したのがパリサイ人と学者たちであった事を忘れてはなりません。罪人や取税人に対する彼らの尊大な態度は兄の弟に対する態度と同じでした。しかしこれらの宗教指導者の中にものちに本心に立ちかえった者が多数いたのです。事実,記録も示す通り,「祭司たちも多数,信仰を受けいれるようにな」りました。―使行 6:7。
25 エホバの愛と忍耐はまだ働いていますか。そのことを示す発展が1935年以来ありましたか。イエスは生き生きとしたたとえ話をされましたが,息子それぞれのあやまちから私たちはどんな教訓を得ますか。また父親の態度から何を学ぶことができますか。当然のこととして私たちは今日の状態に深い関心を寄せています。次の記事の中ではこれらの問題が取り上げられます。
[脚注]
a 「ものみの塔」1935年8月1日号,15日号,98,110,127,130頁。