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アフリカの諸教会は過去と将来を考察するものみの塔 1975 | 2月15日
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て生活し,部族主義,国家主義,教派主義あるいは人種偏見などによる障壁なしに一致して生活している人々がいるでしょうか。
すべての部族の,そして大陸のすべての土地の幾千幾万ものアフリカ人たちは,まさにこの理由で,つまり聖書の原則が生活に生かされるのを見て,今日エホバのクリスチャン証人と交わっています。そうする彼らは,“外国から輸入した”“白人の宗教”を受け入れているのではなく,天と地の創造者,エホバ神への崇拝を受け入れているのです。その神は,差別をもうける「不公平なかたでは」ありません。「どの国民でも神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられ」ます。―使徒 10:34,35。
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一つの事物の体制の終わりものみの塔 1975 | 2月15日
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一つの事物の体制の終わり
一つの事物の体制が,1,582年も存続した後に滅ぼされるというのは,決して小さな出来事ではありません。その体制が神ご自身の確立されたものであればなおのことです。ここで述べているのは,古代ユダヤ国民の体制のことです。その体制が終わりを迎えたのはなぜですか。その体制の終わりは特異な仕方で訪れましたが,そうした終わりをもたらしたものは何ですか。
西暦前1513年,立法者モーセを仲立ちとして結んだ律法契約のもとに神が一つの体制を確立されたことは広く知られています。その体制には,安息や宗教上の清めに関する種々の規定,相続に関する取決め,祭司職や犠牲を伴うエルサレムの神殿など,さまざまな特徴が備わっていました。そのすべてが西暦70年に完全に滅び去ったのです。ダビデの家系の王が出てエルサレムで再び王座に着き,圧制的な異邦諸勢力を打ち破るというユダヤ人の期待もそれと共に消え去りました。
エルサレムの滅びる様子とその理由については,神の最も偉大な預言者イエス・キリストにより前もって預言的なことばで説明されていました。イエスは,後にユダヤ人の事物の体制を滅ぼしたのと同じ権威のもとで死に渡されましたが,死の幾日か前にその預言を語られました。逆説的なことに見えますが,イエスをその権威に引き渡してイエスの処刑を叫び求めたのはユダヤ人自身でした。
恐るべき終わり
イエスは,使徒たちの質問に答える形でその預言を語られました。使徒たちは,神殿の建物の壮麗さをイエスに示そうとしていました。それをご覧になったイエスはこう答えました。「あなたがたはこれらのすべてをながめないのですか。あなたがたに真実に言いますが,石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してありません」― マタイ 24:1,2。
その二日前にも,イエスは神殿とその都市の滅びるさまについて予告しておられました。エルサレムに対してこう言われました。
『あなたの敵が,先のとがった杭でまわりに塁を築き,取り囲んで四方からあなたを攻めたてる日が来るでしょう。彼らは,あなたとあなたの中にいるあなたの子らを地面にたたきつけ,あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう。あなたが自分の検分されている時を見分けなかったからです』― ルカ 19:43,44。
このことばはキリストの使徒たちをさえ動揺させるものでした。彼らは割礼を受けたユダヤ人だったのです。使徒たちは,キリストがエルサレムにある地上の王座からではなく,天から支配を行なうということを,まだ理解していませんでした。前述のイエスのことばは,神が地上のエルサレムと何のかかわりも持たなくなることを示していましたが,使徒たちはそれをまだ十分に理解していませんでした。(使徒 1:6)また,イエスのことばは,アロンの家系の祭司たちがその職から外されることをも意味していました。これはなぜですか。
こうした物事すべてが終わりに近づいていたのは,エホバがご自分のメシアを通してさらに勝った物事をもたらそうと意図しておられたからです。動物の犠牲その他律法上の種々の特色は,数々の預言と共に,忠実なイスラエル人をイエス・キリストに向かわせ,イエスが約束のメシアであることに関する証拠とたがうことのない信任状とを提出するものとなっていました。律法下の犠牲は,エホバがほんとうに望んでおられたものでなかったのです。それは罪を除き去ることはできなかったからです。(ヘブライ 10:5-10)それらは廃止されなければなりませんでした。キリストのささげる犠牲がそうした動物の犠牲を過去のものとするのです。
ユダヤ人の祭司職が,ユダヤ人の事物の体制の終結のさいに廃止されるということは,ヘブライ 9章26から28節の中でも裏付けられています。その句は,イエスがご自身の犠牲を繰り返しささげる必要のなかったことを指摘し,こう述べています。「そうでなければ,彼は世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けねばならないでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです」。―コリント第一 10:11と比較。
しかし,エルサレムの終わりが恐るべき形で臨んだのはなぜでしょうか。キリストによって律法を終わらせるという神の目的そのものがそうした激しい処置を求めたわけではありません。(ローマ 10:4)事実,ペンテコステ(それまでにキリストの犠牲は天でエホバに嘉納されていた)以降の忠実なクリスチャンたちは,エルサレム市やその神殿を破壊する務めが自分たちにあるなどとは考えませんでした。彼らは,神殿が神のお用いになった器であり,すでにその目的を果たしたものであることを知っており,神殿に対して不敬な行動を取ったりはしませんでした。しかし同時に,イエス・キリストが天で彼らの大祭司となっておられることをも知っていました。すでに新しい契約が成立し,結果として祭司職にも変更が加えられたことを理解していたからです。(ヘブライ 7:11-14)ユダヤ人の祭司たちの中にさえ,キリストを罪のための真の犠牲として受け入れた人が少なからずいました。そうした人々は,神殿における自分たちの務めがすでにその目的を成就しており,エホバの目には今や用をなしていないことを理解しました。(使徒 6:7)では,ユダヤ人のその都市と神殿が激しい滅びを被ったのはなぜでしたか。
神殿におられた時,イエスはエルサレムに対して次のように語りかけてその理由を示されました。
「わたしはここで,預言者と賢い者と公に諭す者たちをあなたがたのところに遣わします。あなたがたはそのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。こうして,義なるアベルの血から,あなたがたが聖所と祭壇の間で殺害した,バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなたがたに臨むのです。あなたがたに真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう。エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人びとに石を投げつける者よ ― わたしは幾たびあなたの子どもたちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるがごとくに。しかし,あなたがたはそれを望みませんでした。見よ,あなたがたの家はあなたがたのもとに見捨てられています。あなたがたに言いますが,『エホバの名によって来るのは祝福された者!』と言うときまで,あなたがたは今後決してわたしを見ないでしょう」― マタイ 23:34-39。
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