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「わたしはその者を終わりの日に復活させるでしょう」ものみの塔 1978 | 12月1日
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臣民にされます。そして彼らの前には,楽園の地上で完全な人間の命を得る機会が置かれます。―ヨハネ 5:28,29。
29 そのとき「大群衆」と復活した人類は,何を飲みまた食べますか。そして「大群衆」はどんな特別の機会を持ちますか。
29 そのとき,キリストの臣民は何を飲まねばならないでしょうか。また何を食べるでしょうか。使徒ヨハネに与えられた啓示の示すところによると,そのときには,エホバ神と子羊イエス・キリストのみ座の下から,「命の水の川」が流れ出ます。その「川」の両側には「命の木」があって,月ごとに実を結びます。その木の葉は諸国民をいやすためのものです。神が供給してくださるこれらのものを「大群衆」,および死から復活した人々は飲みまた食べるのです。(啓示 22:1-3)感謝の念を持つ従順な人々は,イエス・キリストを通してエホバが示されるこの過分のご親切をすべて,余すところなく活用して,自分たちの復活を「命の復活」とするのです。キリストの「ほかの羊」の,復活を経験しない「大群衆」はそのとき,死んで地のちりにもどることなく生き続ける機会を持ちます。
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読者からの質問ものみの塔 1978 | 12月1日
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読者からの質問
● 将来神が地上に人間をよみがえらせる時,人々は生前とほぼ同じ年齢,同じ外見のままよみがえらされるのでしょうか。
聖書はこの点につきとりたてて何も述べていませんが,物の道理や聖書に明示されていることからすると,そう言えます。
霊的な復活について,聖書は植物の種の例えを用い,「神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与え」ると述べています。神はふさわしく必要とされるものをお与えになります。(コリント第一 15:35-44)地的な復活についても同じことを期待できます。
聖書の復活に関する過去の記録は,よみがえらされた人間の年齢や外見が著しく変わったとは言っていません。シュネムの男の子が死んでエリシャによって復活させられた時,少年は命を引き取ったときと同じ年齢,同じ外見で戻ってきました。(列王下 4:32-37)イエスがラザロを復活させた時のことも考えてください。ラザロは死後四日を過ぎており,その体は腐りはじめていたのです。ラザロは全く異なった様で,つまり肉の部分が腐敗した状態で息を吹き返したのですか。いいえ,ラザロは生前とほぼ同じように見えました。もしそうでなかったなら,宗教上の敵対者たちはその事実を用いて,イエスの評判を落とさせたに違いありません。―ヨハネ 11:32-47。
さらにわたしたちが知る通り,エホバは秩序と親切と憐れみの神です。このことからすると,片足がないままで,あるいはゆゆしい病気の,ひどく醜いいまわの際の状態のまま,神が人間をよみがえらせるとは考えられません。(ヤコブ 1:17。ルカ 11:13)しかしこのことは人が,“はつらつとした状態”で復活してこなければならないという意味ではありません。もしある人が75歳の時に心臓麻痺で死んだなら,神は同じ病気にむしばまれた体ではなく,血液を送り続ける心臓の備わった体でその人を復活させることがおできになるのではありませんか。そして,イエスの犠牲の価値を含むエホバの備えのいやしの力が働くとき,その人は完全に向かって進歩できるでしょう。―啓示 22:1,2,17。
しかし復活した人の状態をあれこれ考え過ぎるのは必ずしも有益なことでも望ましいことでもありません。神は聖書の中に,ご自分が行なおうとしておられる事そのものについて詳細な情報を含めることもできました。エホバがそうなさらなかったのは,神がそれを今のわたしたちにとって重要な知識とはみなされないからです。神はご自分の力によって行なったいくつかの復活の記録を聖書中にとどめられました。そして聖書の中に「義者と不義者との復活」があるという保証の言葉を明示されました。(使徒 24:15。ヨハネ 5:28,29)それでエホバは,神の言葉と約束に対する信仰を増し加えることをわたしたちにゆだねられたのです。もしわたしたち自身が信仰を働かせて新しい秩序に生き残るなら,わたしたちは神が復活に関する克服しがたい問題が起きないように取り計らってくださることを確信できます。わたしたちは死者のうちからよみがえらされる人々を迎え,それを見分けて援助する喜びを味わうことでしょう。
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