聖書理解の助け ― 盲目
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
盲目。古代の近東地方において盲目はかなり一般的に見られた悩みであったようです。聖書の中に相当量の言及が見られますが,世俗文書,たとえばエジプトのエーベルス・パピルスなどもしばしば盲目にふれ,その種々の病状や徴候について述べるとともに,洗眼を指示し,当時使用された外科的器具類の名を挙げています。
律法の規定した衛生水準によって,イスラエル人の間では,エジプトやアラビアの諸民の場合よりずっと眼病が少なかったはずです。ですから,それらの地方に今日見られる状態がそのまま聖書時代のイスラエルの有様を示しているとは言えません。今日,近東地方では何らかの眼病を患っている人の比率が相当に及び,失明している人も多くいます。その地方には,目やににたかるハエを追うのは“不運を招く”と見る人々もおり,幼児に対してもそのような見方をするため,これが高度に伝染性の眼病を広める一因ともなっています。性道徳に関する神の律法を破ることによって梅毒やりん病が広がり,それらの病気が失明の原因となり,また多くの先天的盲目を来たらせもします。結膜や目の粘膜は出生時に母体からの感染を受けるのです。
魂には魂,目には目,歯には歯,手には手,足には足を要求したイスラエルの応報の律法は命の神聖さに重きを置くものでしたが,同時にそれは他の人に危害を及ぼすことのないよう細心の注意を払うべきことをイスラエル人に強く銘記させました。また,虚偽の証言をした者はそれによって無実の人に負わせたかもしれない処罰を身に受けることになっていましたから,法廷でする証言は正確で真実であるように心がけねばなりませんでした。(出エジプト 21:23,24。申命 19:18-21。レビ 24:19,20)もし主人が自分の奴隷の片目を失わせることがあれば,その主人は自分の片目を抜き取られるかわりに,その奴隷を自由にすることになっていました。(出エジプト 21:26)奴隷には働くことを要求し,反逆的であれば打ちたたくこともできましたが,それでも主人は過度に厳しい扱いをすることのないよう銘記させられていたのです。
アッシリア人やバビロニア人は戦争で打ち負かした人々の目をくり抜くことを普通の習慣としていました。しゃく熱の鋼板を目に近づけたり,槍や焼き鉄で突き刺したりして失明させることもありました。剣や短剣が使用された場合もあるようです。サムソンはペリシテ人によって,ゼデキヤ王はネブカデネザルによって盲目にされました。(士師 16:21。列王下 25:7。エレミヤ 39:7)アンモニ人の王ナハシは,「あなた方の右目をことごとくえぐり取ることを条件に」ギレアデの都市ヤベシの降伏を受け入れると告げ,「それをイスラエルに対する辱めとする」と述べました。(サムエル前 11:2,新)ペルシャの法はある種の犯罪に対して視力を奪う処罰を課しました。
聖書は老化もしくは老衰による盲目の例を幾つか記録しています。それは眼病のためではなく,『かすん』だり『くぼん』だりしてよく見えなくなった場合です。イサクはそのような事情でむしろふさわしい者,つまりヤコブに祝福を授けました。大祭司エリは98歳で死ぬしばらく前から視力を失いはじめていました。ヤラベアムの妻は老齢の預言者アヒヤの盲目に付け入ろうとしましたが,エホバがその陰謀をくじきました。(創世 27:1; サムエル前 3:2; 4:14-18,新。列王上 14:4,5)しかし,モーセについては,120歳の高齢に及んでも,「その目はかすんでいなかった」と記されています。―申命 34:7,新。
エホバは目を造られた方であり,人を盲目にならせることもできます。(出エジプト 4:11)エホバはイスラエル国民に警告して,もし神の法令を退け,神との契約を破るなら,その国民に燃える熱病を来たらせ,それが彼らの視力を衰えさせるであろうと言われました。(レビ 26:15,16。申命 28:28)ソドムの邪悪な人々および呪術者エルマに対してエホバは一時的な盲目を臨ませました。(創世 19:11。使徒 13:11)タルソスのサウロは,イエスが「あたかも月足らずで生まれた者に対するかのように」して現われた時,その光の輝きのために盲目になりました。彼が視力を取り戻したのはアナニヤが彼の上に手を置いた時で,その際「両目からうろこのような物が落ち」ました。(コリント第一 15:8。使徒 9:3,8,9,12,17,18)預言者ゼカリヤによる預言的なことばの中で,エホバは,エルサレムに攻め来る者たちの馬が視力を失うこと(ゼカリヤ 12:4),またエホバの日にエルサレムに敵して戦闘行動を取るすべての民が懲罰を身に受け,その目が「そのくぼみの中で朽ち果てる」ことを指摘されました。―ゼカリヤ 14:1,12,新。
エリシャの言葉どおりにシリアの軍勢に臨んだ盲目は明らかに精神的な面での盲目であったと思われます。その全軍が身体的な盲目をもって打たれたとすれば,その全員が手を引いてもらわねばならなかったでしょう。しかし,記述によると,エリシャはただ,「これはその道ではない。これはその都市ではない。わたしについて来なさい」と告げています。このような現象について,ウイリアム・ジェームズは「心理学原理」,第一巻48ページでこう述べています。「皮質機能異常の最も興味ある作用は精神盲である。これは視覚印象の無感覚性によるというより,むしろそれを理解する面での無能力性による。心理学的には,これを視覚的感覚とそれが表象するものとの間の連想の喪失として解釈できる。視覚中枢と他の観念中枢との間のなんらかの経路遮断がこれを来たしているはずである」。シリア軍がサマリアに着いた時にエホバが取り除いたのはこの種の盲目状態であったと思われます。―列王下 6:18-20。
盲目の人はエホバの聖所で祭司として仕えることができませんでした。(レビ 21:17,18,21-23)めくらの動物による犠牲もエホバに受け入れられませんでした。(申命 15:21。マラキ 1:8)しかし,エホバの律法は盲目の人に対する配慮と同情を反映していました。盲目の人の前に障害物を置いたり,その人を誤り導いたりする者はのろいを受けました。(レビ 19:14。申命 27:18)神の義なる僕ヨブは,「わたしは盲人のための目となった」と述べています。(ヨブ 29:15,新)エホバは,ご自分がやがて盲目を一掃することを示しておられます。―イザヤ 35:5。
地上におられたとき,イエス・キリストは奇跡によって多くの盲人に視力を回復させました。(マタイ 11:5; 15:30,31; 21:14。ルカ 7:21,22)エリコの近くでは,めくらのバルテマイとその友をいやしています。(マタイ 20:29-34。マルコ 10:46-52。ルカ 18:35-43)別の時には同時に二人の盲人をいやされました。(マタイ 9:27-31)悪霊に取りつかれて目が見えず耳が聞こえなくなっていた人をいやされたこともあります。(マタイ 12:22。ルカ 11:14と比較)ある人の視力は徐々に取り戻されました。これは,非常に長いあいだ闇にとざされていたその人の目を陽光の輝きに少しずつ順応させるためであったのかもしれません。(マルコ 8:22-26)生まれながらの盲人であった別の人は,視力を回復させてもらうとすぐにイエスを信じる者になりました。(ヨハネ 9:1,35-38)最後の二つの例の場合,イエスはつば,またつばと粘土を混ぜたものを使用されました。こうして民間療法と似た手法があえて採られたとはいえ,それによってこのいやしの奇跡的な面が薄れるわけではありません。生まれつきめくらであった人の場合,その人はシロアムの溜め池に行って洗うように命じられ,そのようにして後に視力を回復しました。ナアマンがらい病から解放される前にヨルダン川で水浴することを求められたのと同じように,これもその人の信仰を試みるものであったのでしょう。―列王下 5:10-14。
比ゆ的な用法
盲目の人が手探りする様子は無力さの比ゆとしてしばしば用いられています。(申命 28:29。哀歌 4:14。イザヤ 59:10。ゼパニヤ 1:17。ルカ 6:39)ダビデを嘲弄したエブス人は,自分たちのかよわい盲人たちでさえ,力は弱くても,シオンの要さいに対するイスラエルの攻撃を防げると誇りました。そのとりでの堅固さを信じ切っていたためです。―サムエル後 5:6,8。
法を扱う者の腐敗による不正な審判も盲目になぞらえられ,律法の中にはわいろ,贈り物,偏見など,裁き人を盲目にならせて公正な法の施行の妨げとなるものを避けるようにとの勧めの言葉が繰り返し述べられています。「わいろは目の良い人を盲目にならせる」。(出エジプト 23:8,新)「わいろは賢人の目をくらませる」。(申命 16:19,新)裁き人は,どれほど方正で明敏な人であっても,事件にかかわる人々からの贈り物に意識的に,あるいは無意識的にせよ影響されやすいでしょう。神の律法は,単に贈り物だけでなく,人の感情が及ぼす盲目的な影響にも思慮ある配慮を払ってこう述べています。「あなたは低い立場の者に公正を欠いた扱いをしてはならず,大いなる者の身をひいきしてはならない」。(レビ 19:15,新)同様に,ただの感傷や群衆におもねるために裁き人が富んだ人に対する裁きを単に富んでいるという理由で不利にすることも慎むべきでした。―出エジプト 23:2,3。
霊的な盲目
聖書は身体的な視力より霊的な視力をはるかに重視しています。イエスは生まれつき盲目であった人をいやした機会に,パリサイ人の誤りを指摘されました。彼らが,霊的視力のある者であると自負しながら,その実,盲目状態から抜け出ることを故意に拒んでいたからです。それは光よりも闇を愛した人々でした。(ヨハネ 9:39-41; 3:19,20)使徒パウロはエフェソス会衆に対して,心の目を啓発することについて語っています。(エフェソス 1:16,18)イエスは,クリスチャンと唱えながら自分の霊的必要を自覚しない人々が盲目で裸であり,自分の哀れむべき摸索状態に気づいていないことを指摘されました。(啓示 3:17)闇の中に長期間あった肉眼が盲目になるのと同じように,自分の兄弟を憎むクリスチャンも人を盲目にならせる闇の中をあてどなく歩んでいる,という点を使徒ヨハネは指摘しました。(ヨハネ第一 2:11)またペテロは,クリスチャンの実,とりわけその最高のものである愛を培っていない人は「盲目で光に対して目を閉じている」と警告しています。(ペテロ第二 1:5-9)そのような闇および霊的な盲目の源は悪魔サタンですが,このサタンは自らを光の使いに変様し,まさに「この事物の体制の神」,不信者の思いを暗ましてキリストに関する良いたよりを見分けることができないようにしている闇の神となっています。―ルカ 22:53。コリント第二 4:4; 11:14,15。