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死人が生き返る時!ものみの塔 1983 | 10月1日
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死人が生き返る時!
「イエスは彼女に言われた,『わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生き返るのです。そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません』」― ヨハネ 11:25,26。
1 (イ)地上のだれかが,「復活であり,命です」と主張するためには何が求められますか。(ロ)そのように主張する人は,どんな根拠に基づいて,その言葉通りの者として奉仕できますか。
だれであろうと人間が,「わたしは復活であり,命です」と断言するには,確かに非常な大胆さが求められます。しかし今から19世紀余り前,歴史上の人物であるイエス・キリストはご自身についてまさにそのように言われました。ヨハネという名のその使徒の一人は,イエスがこの言葉を語るのを聞き,それを今日のわたしたちの益のために書き記しました。(ヨハネ 11:25)イエスはご自分が,死者や死を目前にした人々,また既に埋葬された人類を益する,その言葉通りの者であるという意味でそう言われたのです。もちろん,イエス自身はエルサレム城外の処刑の杭の上で悲惨な死を遂げたため,代わってイエス自身の父エホバ神が,イエスに対して『復活また命』とならなければなりませんでした。イエスの死後三日目,全能の神は確かにイエスを死人のうちからよみがえらせ,霊界における不滅の命をお与えになりました。イエスは死んだ時と同じような肉の体を奇跡的に着け,苦もんする弟子たち,ある時などは500人以上の弟子たちにご自身を現わされました。(コリント第一 15章)イエスは人類のために死なれましたが,このようにしてイエスはその人類に対してまさに復活また命となられました。
2 今日だれも,イエス・キリストの復活を,西暦1世紀の根も葉もない話として見くびることができないのはなぜですか。
2 今生きている人で,杭に付けられたイエス・キリストが命によみがえらされたという実証済みの事実を,西暦1世紀に広まっていた根も葉もない話としてあざ笑ったり,見くびったりできる人はいません。聖書中のルカによる書と「使徒たちの活動」を書いた医師ルカを除き,いわゆる新約聖書中の他の25の書を書いたすべての人は,神の復活させられたみ子の目撃証人でした。傑出した証人の一人は,以前クリスチャンを迫害していたタルソスの町のサウロで,この人は後にクリスチャンの使徒パウロとなり,当時の共通ギリシャ語で「新約聖書」中の14の書を著わしました。
3,4 使徒パウロはマルスの丘で,神の裁きの日と復活に関してアテネ人に何と述べましたか。
3 高度の文明と知性を誇り,ギリシャで最も重きをなしていた都市アテネで,パウロは一度マルスの丘,つまりアレオパゴスに集まった最高裁判所の裁判官たちの前に引き出されたことがありました。
4 パウロはマルスの丘に集まった知識人たちに,ふさわしい敬意をこめて呼びかけました。パウロは自分の証言と弁明を最高に盛り上げて次のように述べた際にも,この世的に賢い聴衆の受けていた高い学校教育を軽視するようなことはありませんでした。
「確かに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」― 使徒 17:30,31。
5 アテネ人の聴衆の反応はどんなものでしたか。したがってだれに関して疑問が生じますか。
5 死人の復活というこの注目すべき教理は,人間の魂の不滅を信じていたギリシャ人にどれほどの衝撃を与えたでしょうか。こう記されています。「さて,死人の復活について聞くと,ある者たちはあざけるようになったが,ほかの者たちは,『これについてはあなたの言うことをまた別の時に聞こう』と言った」。さらに彼らは,パウロを「異国の神々を広める者」とまで考えました。しかし,アレオパゴスの裁判官であったデオヌシオは,全人類に対する来たるべき裁きの日に関してパウロが述べた事柄を認識することができ,その問題を真面目に考えました。ダマリスという名の女も同じようにしました。(使徒 17:18,32-34)では,はるかに進んだこの科学時代の今日のわたしたちについてはどうでしょうか。これは笑って済ませる問題ではありません!
6 イエスの復活は,そのように死人がよみがえらされた最初の事例でしたか。イエスがこれから命によみがえらせる人々に関して,どんな可能性がありますか。
6 言うまでもなく,イエス・キリストの復活は,死人が知的な命へと復活させられた最初の事例ではありません。聖書には,ラザロの事例を含め,以前のさまざまな例が記録されています。ラザロは,死んで葬られてから四日目に,イエスご自身によって命によみがえらされました。(ヨハネ 11:1-44)しかしイエスご自身の復活の事例は全人類にとって最も重要なものでした。イエスは他の人とは異なり,再び死ぬことがなく,現在,復活させられ,不滅性を付与された状態で,人間に対して『復活また命』となることができます。その結果人間は,神の宇宙主権のもとで完全になり,死の有罪宣告から自由にされ,中断されることも終わることもない命を得ることができるのです。
7,8 (イ)アダムとメトセラの寿命は,完全にされた人類が永遠に生きる可能性をどのように立証していますか。(ロ)メルキゼデクの命の長さはどれほどのものとされていますか。このことは,メルキゼデクが予表していた方の命について何を示していますか。
7 従順な人類が(最初の人間アダムを通して)罪と死に陥った状態から回復される時,地上で人間が終わりのない命を受ける可能性は,アダムが神に対し罪を犯し,生涯の大部分を完全なエデンの園の外で過ごしたにもかかわらず,930年生きたという事実によって実証されます。アダムの子孫の一人であるメトセラは,969歳まで生きました。(創世記 5:5,27)メトセラが死んだのは西暦前2370年であり,その同じ年にノアの時代の全地球的な大洪水が箱船の外の人間と動物をすべてぬぐい去りました。ノアとその家族はその箱船の中に避難しました。幾世紀かがたち,遅くとも西暦前1933年には祭司職が地上の舞台に現われました。族長アブラハムを祝福し,神の是認を得たメルキゼデクの祭司職です。この人の誕生と死の日付は知らされていません。
8 したがって,サレムで祭司と王を兼ねていたメルキゼデクの祭司職は,永遠のもののように見えます。(創世記 14:18-20)復活させられたイエス・キリストの命の可能性は王兼祭司のメルキゼデクのそれになぞらえることができます。ヘブライ 7章15節から17節に述べられているように,栄光を受けたイエス・キリストは現在,「滅びることのない命の力」を持っておられ,「証しとして,『あなたはメルキゼデクのさまにしたがって永久に祭司である』と言われているからです」。(詩編 110:1-4もご覧ください。)ですから,西暦33年に天的な栄光をお受けになってから,不滅性を付与されたイエス・キリストは,人類の一人一人に対し終始大祭司として行動してこられたことになります。イエス・キリストはその人類のために,完全な人間の犠牲としてご自身をささげられたのです。したがってイエスは,死に苦しめられた人類に対し第二のアダムとして行動することができます。やがてイエスが死者を地上の命へとよみがえらせる際,彼らには,全地に広げられた楽園で完全な人間としての永遠の命を得る見込みが開けます。自己犠牲的なイエス・キリストは第一のアダムとは違い,人類に対する責任を必ず果たします。その人類のためにご自身の完全な命の血を注ぎ出されたのです。―コリント第一 15:22-45。
死人は地上で再会する
9 コリント第一 15章21節,およびローマ 5章12節によれば,アダムとエバの既に死んでいる子孫が復活するために,神はどのように物事の釣り合いを保たれましたか。
9 地上に生存した人類の大多数にとって,約束されたキリストによる神の王国のもとで命を取り戻すという特権は,死者の復活に依存しています。イエス・キリストの復活の証人として使徒パウロは,公正また完全に物事の釣り合いを保つ神の能力を確証し,「死がひとりの人を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人を通して来るのです」と書きました。(コリント第一 15:21)コリントのクリスチャンたちにあてた手紙と一致して,パウロはローマのクリスチャンたちへの手紙の中で,「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がった」と書きました。(ローマ 5:12)このことを考慮してエホバ神は,ローマ 5章12節に示されている法則の例外となった一人の人によりアダムとエバの子孫が贖われるよう取り決めることができました。
10 どんな根拠に基づいてイエス・キリストは,自分の人間の命を代わりのものとして差し出し,アダムの子孫に対してとこしえの父となることができましたか。
10 その例外となったのはイエスでした。神はユダの王族であったヘリの娘,ユダヤ人の処女マリアからイエスを奇跡的に誕生させました。(ルカ 3:23-38)一つの犠牲として,イエスの完全な人間の命は,アダムがエデンの園で創造者に対して故意に罪を犯すことにより自分の生来の子孫すべてに対して失ってしまった完全な人間の命の代わりとなることができました。したがって,復活させられたイエス・キリストはすべての人々に対して「とこしえの父」となることができました。最初のアダムは,そのすべての人々に対し,自らを罪深い父親としてしまったのです。ですから,彼らのとこしえの父となることは神のみ子にゆだねられます。―イザヤ 9:6。
11 イエス・キリストとその使徒たちが地上にいたとき,死者をよみがえらせることができたのであれば,イエスご自身の復活後におけるこの点に関するイエスの能力については何と言えますか。
11 イエス・キリストとその使徒たちが死者のうちから人々をよみがえらせたと言っても,それによって彼らが最初のアダムから受け継いでいた死の有罪宣告の影響から解放されたわけではありません。ですから,イエスから深く愛されていた友ラザロでさえ再び死に,設立された神の王国のもとで最終的な復活にあずかる必要が生じました。しかしそれは少しも問題とはなりません。地上の完全な人間であられた時のイエスに,少なくともこの現在の事物の体制下でしばらくの間地的な命を取り戻し,それを長らえさせるために死人を復活させる力が与えられたのであれば,イエスが再び神の霊的なみ子となられている今,神のご予定の時に死人をよみがえらせるのは,はるかに容易なことではないでしょうか。確かにその通りです。イエスご自身が復活し,元いた天のみ父のもとに昇って行ってからは,天と地における一切の権威がイエスに与えられているからです。
12 イエス・キリストと人類との関係は,イエスの復活の様によって切り断たれましたか。イエスはどのようにご自分の人間の犠牲の目的を完遂されますか。
12 キリストの弟子の一人である使徒パウロは,コリントのクリスチャンにあてた手紙の中で復活のことを論じた際,こう述べました。「まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダムは命を与える霊になったのです」。(コリント第一 15:45)イエスが最後のアダムとして語られている事実は,イエスが今なお人類に対し何らかの家族関係を持っておられることを意味します。イエスが現在,超人間的な霊者となっておられることは問題とはなりません。(詩編 8:4,5。ヘブライ 2:5-9)来たるべき千年間の裁きの日の間,イエスは死人を呼び戻して,彼らが地上の楽園で完全さに引き上げられ,イエスを自分たちのとこしえの父また平和の君とする機会を彼らに付与することにより,ご自身の完全な人間の犠牲に関係した目的を完遂されます。それでイエスは,アダムが人間に対して行なったことを取り消すのです。
13 イエスがラザロを死人のうちからよみがえらせる前,死者と,イエスを信じる生きている者たちとに関して,マルタに何と言われましたか。
13 イエスは愛する友,ベタニヤのラザロを死人のうちから復活させる前,ラザロの姉妹であるマルタに,「あなたの兄弟はよみがえります」と述べました。イエスは遠い将来のことを話しておられると考えたマルタは,「彼が終わりの日の復活の際によみがえることは知っております」と答えました。その時にイエスは機会をとらえ,次の注目すべき言葉を語られました。「わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生き返るのです。そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません」― ヨハネ 11:23-26。
14 (イ)人間がイエスに信仰を働かせるには,当人にまず何が要求されますか。(ロ)もし神がそのような人を天的な相続財産のためにお選びになるとしたら,当人が死なねばならないとしても,何が生ずるはずですか。
14 イエス・キリストに信仰を働かせるために人は生きていてイエスについて聞き,イエスについて学ばなければならないでしょう。そうして初めて,キリストを通して神に命を献げ,この決定的な段階を水のバプテスマによって象徴することができます。イエス・キリストの天的な父が,もしみ子の献身しバプテスマを受けたこの弟子を,み子と共にあずかる天的な相続財産へとお召しになるとしたら,神はその人をご自分の霊によって生み出されるでしょう。これは,霊によって生み出されたこの弟子が,やがて人間として死ななければならないことを意味します。しかしイエスは,「[人は]たとえ死んでも,生き返るのです」と言われました。そのような人の場合,イエスと同じく,天の領域に復活させられた霊的被造物としての命を得ることになるでしょう。
15 正しく信仰を働かせていても神の霊によって生み出されていない人が死ぬ場合,その人は復活の際にどんな立場にありますか。
15 今日,献身してバプテスマを受けた弟子で,エホバ神によりキリストと共に天の相続財産にあずかるよう生み出されていない人が死んだ場合には,それからどうなるのでしょうか。それは,キリストの「ほかの羊」が集められ始めてから多くの人々に生じていることです。(ヨハネ 10:16)その人は,『復活であり命である』方に信仰を働かせたので,地的な復活を受けた直後から,恐らくその始めから,新しい事物の体制に関して勝った立場を占めることでしょう。(ヘブライ 11:35)その時その人には,天の王国のもとでの奉仕の特別な特権が早くから与えられることでしょう。このようにして,当人が死ぬ時に抱いていた復活の希望は実現され,神の栄光となるのです。
16,17 (イ)神の「女」の「胤」の到来を待ち望むことしかできなかったキリスト教時代以前の人々は,復活に関してどのような状況にありますか。(ロ)イエスはどのような言葉によって,彼らの復活をわたしたちに保証しておられますか。
16 イエス・キリストの最初の到来以後イエスに信仰を置いてきた人だけにとどまらず,エホバ神に信仰を抱き,創世記 3章15節で神が予告しておられる象徴的な「女」の「胤」の到来を待ち望んだキリスト教時代以前の人々も,復活の取り決めに関与します。その「胤」は,後に「アブラハムの胤」と呼ばれた方と同じであることが明らかになりました。(創世記 12:1-3。ガラテア 3:16)大いなるアブラハムであられるエホバ神のこの「胤」の到来を待ち設けたそれらの人々の中には,もちろん族長アブラハムとその子イサク,そして孫のヤコブ,つまりイスラエルが含まれていました。イエス・キリスト,すなわちアブラハムの胤は彼らの復活の確かさを確証し,こう述べられました。
17 「死者の復活については,神によってあなた方に語られた事柄を読まなかったのですか。こう言われました。『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』。この方は死んだ者の神ではなく,生きている者の神なのです」。(マタイ 22:31,32)「しかし,死んだ者たち,すなわち彼らがよみがえらされることに関しては,モーセの書の中,いばらの茂みに関する記述の中で,神が彼にどのように言われたかを,あなた方は読まなかったのですか。『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と言われたのです。この方は,死んだ者の神ではなく,生きている者の神なのです」。(マルコ 12:26,27)「彼らは皆,神にとっては生きているのです」。(ルカ 20:37,38)このような間接的な方法で,エホバは死んでいる人間の復活をわたしたちに保証されました。
18 約束された胤の特質を考えてみると,神の友アブラハムはだれの予型であったと言えますか。
18 ご自身の友アブラハムに対する神ご自身の約束は,地のすべての家族が,アブラハムの「胤」によって「自らを祝福する」というものでした。(ヤコブ 2:23。創世記 12:1-3; 22:15-18)その「胤」が霊的な存在となられたので,人間アブラハムはエホバ神を予型的に表わしました。というのは,今や天で栄光を受けたイエス・キリスト,つまり霊的な「胤」の父となることができたのはこの方だけだからです。
19 啓示 20章11-14節には,何に関する預言的な描写がありますか。
19 わたしたちには,地のそれら死んでいる家族の来たるべき復活に関する預言的な描写が与えられています。啓示 20章11節から14節は,幾らかの象徴的な言葉を用いてそれを描写し,こう述べています。「またわたし[使徒ヨハネ]は,大きな白い座とそれに座っておられる方とを見た。その方の前から地と天が逃げ去り,それらのための場所は見いだされなかった。そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,そのみ座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事柄により,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた。そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている」。
20 千年の裁きの日の終わりに,命の書に名前が記される人々と,記されない人々に何が生じますか。
20 神が「定め」られ,「ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁く」千年にわたる「日」の間,復活させられた死人は,彼らのとこしえの救いのために与えられる神からの備えすべてを自分に適用しなければなりません。(使徒 17:31)この意味で彼らは「自らを祝福」しなければなりません。彼らの忠誠に関する最終的な試みを完全に通過することにより,彼らは全地球的な楽園でのとこしえの命という報いを得るのです。そうでない人はどうなるでしょうか。復活のない「第二の死」です。(啓示 20:14)啓示 20章15節に書かれている通りです。「また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。
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決して死ぬことがない,今生きている信仰の人々ものみの塔 1983 | 10月1日
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決して死ぬことがない,今生きている信仰の人々
1,2 主権者なる主,エホバ神を愛する幾百万もの人々は,とこしえの命を享受するためどこに行くことを願ってはいませんか。彼らは,死なないで生きることに関するイエス・キリストのどんな言葉を忘れませんか。
現在地上では,幾十億という人々が生きています。そのうちの幾百万もの人々は,死に絶えることなく地上で生き続けるというすばらしい機会について今学んでいます。それらの人々の中には,「ああなんじ,主を愛す者となるべし,さもなくば,なんじ死すとも天には行かじ」という古い宗教的な歌を覚えている人が大勢いるかもしれません。しかし,主権者なる主エホバ神を愛していても,天に行くことなど全く望んでいない,今生きている幾百万もの人々がいます。神から与えられた彼らの希望は,この地に楽園が回復され,それが地球全体を含むまでに広げられるということです。その地上こそが,義にかなった天的政府のもとで人間として完全にされ,永遠にわたって生きたいと彼らが願う場所なのです。(ルカ 23:43)彼らは,マルタに対して語られたイエス・キリストの注目に値する言葉を思いに留めています。イエスはマルタの兄弟ラザロを死者の中からよみがえらせようとしておられました。これらの言葉には,現在生きているすべての人が真剣に考慮するだけの価値があります。それは次のようなものです。
2 「そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません」― ヨハネ 11:26。
3 1918年2月24日に,途絶えることのない人間の命に関し,どんな話が行なわれましたか。その同じ年に生じた別のどんな出来事によって,その話の続行が阻まれましたか。
3 この20世紀の男女は,1918年2月24日の日曜日に,米国カリフォルニア州ロサンゼルスで注目すべきこの希望に注意を促されました。その場所で初めて,当時のものみの塔聖書冊子協会の会長は「世界は終わった……現存する万民は決して死することなし」と題する公開講演を行ないました。a それは,アメリカ合衆国を呑み込んでいた第一次世界大戦が頂点に近づいていたまさにその時でした。その画期的な聖書講演をその後も行ない続けることは阻まれました。少したった1918年の5月8日,ものみの塔協会の会長と,ニューヨーク市ブルックリンにあった本部の7人の仲間たちが逮捕された時は特にそう言えました。それよりも早く,1918年2月12日に,カナダ政府は,「終了した秘義」と題する製本された最新版の協会の本と,「聖書研究者月刊」と題する協会の無料の小冊子の出版を禁止していました。3月14日には米国政府も先例に倣い,「終了した秘義」と「聖書研究者月刊」の関連した号の出版を禁じました。これらの出版物には協会の会長の署名が付されていたのです。次いで6月21日,幾週間かにわたる公判のあと,米国の連邦裁判所は,協会の会長,会計秘書,「終了した秘義」の二人の共著者,ブルックリン本部の他の3人の職員,協会に所属するイタリア人の翻訳者に対し,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に長期間投獄するという判決を下しました。1918年7月4日には,8人全員がニューヨーク市ブルックリンから,ジョージア州アトランタの連邦刑務所へと移されました。第一次世界大戦がなお猛威を振るっていた時です。
4 霊的に言って,地上のエホバの民の残りの者はどのように死んだものとなりましたか。彼らの天的な希望はどうなりましたか。
4 次の冬が来る前に,協会は「ものみの塔」誌1918年10月1日号(英文)の290ページに掲載された移転通知に従い,ニューヨーク市のブルックリンから,ペンシルバニア州のピッツバーグに戻らざるを得ないように感じました。国際聖書研究者の諸会衆の若い成員たちが各地で軍隊の野営地,場合によっては刑務所に拘留されました。霊的に言って,エホバの献身してバプテスマを受けた民は,とりわけ福音,すなわち良いたよりを大胆に宣べ伝えることに関しては死んだものとなりました。彼らは,自分たちの地上の生涯の終わりが来た,自分たちの天的な栄光はまさにこれから実現するのだ,と考えました。しかしそうではなかったのです。11月になって世界戦争の参戦国により停戦の調印が行なわれ,平和が戻りました。そして,ご覧ください,戦争に傷つけられた地上でなお生きる,エホバの崇拝者たちの残りの者が存在していたのです。
5 彼らの霊的に眠った状態は,長い間流刑にされていただれの状況に似ていましたか。しかし神の言葉は,彼らに関して何を予告していましたか。
5 今はどうでしょうか。エホバの預言の言葉は,死んだように見える証人たちが生気を取り戻した活動へと回復され,地上における,王国に関係
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