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大会で互いに愛を示すものみの塔 1971 | 7月15日
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などに自発的に席をゆずるとき,みんなはどんなに暖かいものを感じるでしょう。もし,あなたがいつも気をつけていれば,そのように暖かい思いやりを示すことから生まれる幸福を味わうことができるでしょう。
大会のあらゆる面で,エホバのしもべたちが示すクリスチャン愛に,他の人たちは必ず気づきます。一昨年,ミズーリ州カンサスシティで開かれた大会に市のある役人は1時間出席しただけでしたが,そのあとで,「あなたがたはたしかに神の民です」と言いました。しかし,イエスも言われませんでしたか。「互に相愛する事をせば,これによりて人みな汝らが我が弟子たるを知らん」。そうです,わたしたちが大会で互いにクリスチャン愛を示すとき,多くの場合,そのような結果が生まれるのです。
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読者からの質問ものみの塔 1971 | 7月15日
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読者からの質問
● ヨハネ第一の書 2章7,8節に述べられている「旧き誡命」と「新しき誡命」はなんですか。
問題の聖句は次のようにしるされています。「愛する者よ,わが汝らに書き贈るは,新しき誡命にあらず,汝らが初より有てる旧き誡命なり。この旧き誡命は汝らが聞きし所の言なり。然れど我が汝らに書き贈るところは,また新しき誡命にして,主にも汝らにも真なり,その故は真の光すでに照りて,暗黒はややに過ぎ去ればなり」― ヨハネ第一 2:7,8。
使徒ヨハネは「旧き誡命」ということばによってモーセの律法をさしていたのでしょうか。とてもそうは言えないようです。彼は,律法下にいないクリスチャンにあてて書いていたからです。(ロマ 6:14)むしろ,ヨハネの手紙の主題は愛ですから,彼はイエスの語った次のことばをさしていたと思われます。『われ新しき誡命を汝らに与ふ,なんぢら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく,汝らも相愛すべし』。(ヨハネ 13:34)ヨハネが最初の手紙を書いた(西暦約98年)のは,イエスがこの愛の戒めを与えられた時,すなわちキリスト教の始まりの時から60年余を経過した後のことでした。したがって,ヨハネがそれを「旧き誡命」と言ったのは適切なことでした。
では,8節でヨハネが述べた「新しき誡命」とはなんですか。それは彼がすぐその前で「旧き誡命」と呼んだものと同じもののようです。ヨハネが,イエスの教えたものとは異なる,「真に新しき」戒めを与えるとは考えられません。しかし,ヨハネはどういう意味でそれを『新しい』と呼びえたのでしょうか。
彼はイエスがなさったと全く同様に,それを新しいと呼ぶことができました。それには,自分の兄弟のために自分の魂を進んで捨てること,つまりモーセの律法では要求されていなかったことが関係していました。(ヨハネ 15:12)さらに,状況や境遇が変化していることと照らし合わせて,その戒めの新規の適用が,しかも新たな緊急性をもってなされねばならない,という意味でそれは新しかったのです。西暦1世紀の終わりが近づき,使徒たちが順次死に,「不法の秘密」が諸会衆内ですでに働くに及んで,ヨハネが手紙を書き送ったクリスチャンたちは,さまざまの変化を察知でき,愛を新たに適用する必要性を認識することができました。(テサロニケ後 2:6-8)しかし,ヨハネはその「新しき誡命」が「主にも汝らにも真なり」と彼らに書きえたのです。なぜなら,彼らはイエスがそれを遂行されたと同様,自分たちの生活において遂行していたからです。ヨハネは同じ文脈で,自分の兄弟を愛さないクリスチャンは暗黒にあることを明らかにしました。したがって,キリストの追随者たちの多くの人の間に愛が増していたゆえ,ヨハネは,『真の光照りて,暗黒はややに過ぎ去ればなり』と書くことができました。
ヨハネ第一の書 2章7,8節がむずかしい問題を提起しているために,聖書の現代訳のいくつかは前述の説明に調和する意訳をしています。たとえば,新英語聖書の訳は次のとおりです。「親愛なる友よ,私はあなたがたに別に新しい戒めを与えはしない。それはあなたがたが常に自分の前に持っていた古い戒めであり,その古い戒めとはあなたがたが初めから聞いた音信である。それにしても,私があなたがたに与えようとしているのはやはり新しい戒めなのである ― 暗黒が過ぎ去りつつあり,真の光がすでに輝くという意味において新しいのである。キリストはそれを真実とされたし,あなたがた自身の経験においてもそれは真実である」。エルサレム聖書および,C・B・ウィリアムズまたJ・フィリップスの翻訳をもごらんください。
したがって,「旧き誡命」と「新しき誡命」という表現は両方とも,ご自分が追随者を愛されたと全く同様に彼らも互いに愛すべきである,とのイエスの戒めを明らかにさしています。
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