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愛の新しい戒めを守るものみの塔 1965 | 10月15日
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をはたし,また時おりの娯楽のためにさえ,当然,力を用いなければなりませんが,それでも私たちは活力を使うにあたってエホバ神を第一にします。すでに神に献身した人々に,使徒は次のように書き送りました。「兄弟たちよ。そういうわけで,神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを,神に喜ばれる,生きた,聖なる供え物としてささげなさい。それが,あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。エホバは「神を愛する者たち……と共に働いて,万事を益となるようにして下さる」のです。ゆえに私たちの働きが神のほまれとなり,神を愛する者たちの益となるようにするのは当然ではありませんか。―ロマ 12:1; 8:28。
10 神に対して抱くべきものとして聖書の教える愛ほど深く,本質的なものはありません。この愛を表わすために心,思い,魂と力がはたす役割をそれぞれ論ずることはできます。しかし愛が純粋であるためには,そのすべてが一体をなしていなければなりません。何をも残すことなく,私たちのすべてがそれに関係します。
自分のように隣人を愛する
11 どのようにして,自分の如く隣人を愛しますか。
11 自分のかわりにではなく,自分のように隣人を愛さなければならないと,イエスは教えました。それは隣人にしてもらいたいと思うことを,隣人のためにすることです。自分は何もしないでいて,他人がすべてのものを与えてくれる事などを,人は期待せず,また望みもしないでしょう。他の人にかしずかれて万事に世話をやかれるのは,楽しいことではありません。しかし良いものを分け与えられるならば,人はそのもてなしをうれしく思います。からだに必要なもの,物質的なものだけでなく,それにもまさって精神的,霊的な必要をみたすもの,徳を高める会話,励みになる言葉はとくにそうです。保護を受けて危害から身を守ったとき,あるいは気づかないでいた危険を警告されたとき,また迷っていた時に導きや助言を与えられたとき,私たちは感謝します。しかし同時に,最後の決定を下す私たちの権利,私的な事柄において,事実に基づき自身の判断を下す私たちの権利を他の人に尊重してもらう時,私たちはその事をもうれしく思うでしょう。私たちは盗み,誤用などによって所有権を侵害されることを望みません。また結婚配偶者,家族,友人など愛する者たちと自分との間に,他人があつかましく入り込むことを決して望みません。これらの事また特権は自分だけのものでです。私たちは隣人もまたこれらのものを享受することを望むべきであり,またそのために私たちのすべき事を行なわねばなりません。イエスは,「これが律法であり預言者である」と言われました。―マタイ 7:12。
新しい戒め
12,13 (イ)イエスの新しい愛の戒めは,その表わし方においてどのように特別ですか。(ロ)イエスは地上における宣教において,どのように比類のない愛を示しましたか。
12 隣人の福祉一般を顧みるという意味でのこの隣人愛は,何世紀ものあいだ律法と預言者が要求していたものです。ゆえに弟子たちにむかって「新しいいましめ」を与えると言われたイエスは,異なるものを意味していたに違いありません。それは何ですか。イエスの言葉は「わたしがあなたがたを愛したように」,愛し合うことを教えています。弟子たちでさえもこの言葉の深い意味を十分に理解できませんでしたが,その意味をさとる時が間もなく来ました。―ヨハネ 13:34。
13 弟子たちが後に理解したように,イエスはご自分の住居を離れて弟子たちと共になりました。イエスはその父,兄弟,親しい友と仲間を残し,すべての持ち物と特権を手離したのです。これらすべてのものは天にありました。しかし宣教の務めを得て天を離れたイエスは,「神の言」としての霊者の生命を捨て,馬ぶねに生まれて人間となりました。(ヨハネ 1:14。ルカ 2:7)それは確かに想像を越えた変化でした。今日最も文明の進んだ,繁栄している国から最も原始的で貧しい土地に行っても,その変化はくらべものになりません。しかしイエスの愛はそこで最大に発揮されたのではなく,それはまだ序の口でした。イエスは罪のない完全な人であり,すべての点において他の人にまさっていたにもかかわらず,罪深く,不完全で病み,死につながれた人々の中に住み,働き,飲食し,眠りました。30歳までのイエスの生涯が「普通」であったとしても,最後の3年半の生活は決して尋常なものではありません。イエスは生涯のはじめから,ご自分と同じく隣人を愛されました。しかし今度は比類のない方法で愛されたのです。イエスはパレスチナ全土をめぐって人々を教え,彼らのためと,み父のお目的に関する真理のために力を用いつくしました。一般の人々を教えていないとき,イエスは弟子に訓練を授けられました。イエスのもとに集まった群衆のため,時には「食事をする暇もなかった」ことがしるされています。―マルコ 6:31。
14 献身的であったとはいえ,イエスが苦行の生活をすすめなかった事はどうしてわかりますか。
14 苦行? そうではありません。イエスは何度も食事の招きに応じ,宴会そして少なくとも一度は婚礼の招きにも応じました。そしてイエスは楽しまれたに違いありません。イエスは,ご自分のために人々の行なった良い事を認められました。友ラザロの家で食事をしておられた時,ラザロの姉妹マリヤは値およそ1万8000円の高価な油をイエスの足にそそぎました。その油を売り,貧しい人に施しをすればよかったものをと言って憤おり,貧しい者への見せかけの愛を示したのはユダです。しかしイエスは彼に言われました。「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために,それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが,わたしはいつも共にいるわけではない」。(ヨハネ 12:1-8)宣教において示されたイエスの無私の愛に人々が愛をもって答えても答えなくても,イエスの愛は変わりませんでした。
15 (イ)イエスは弟子たちに対し,愛の必要をどのように強調されましたか。(ロ)新しい戒めは,だれを愛することを弟子たちに求めましたか。それは何に基づいていますか。
15 弟子たちと共に過ごした最後の晩,イエスが愛それも原則をわきまえた真実の愛を強調されたのも,不思議ではありません。愛また愛することについて,イエスは30回以上語り,「互に愛し合いなさい」という戒めを3回繰り返しました。(ヨハネ 13:34; 15:12,17)このような愛を欠いているならば,どうしてイエスの弟子であることを証明できますか。イエスの戒めは,自分と同じように隣人を愛することでしたか。彼らはそうすべきであり,またそうしました。しかしそれは新しい戒めではありません。彼らは互いに愛し合い,キリストの弟子として互いの間に愛を持つのです。それはみ父を愛し,真理を愛し,イエスを愛した彼らに対して,すなわちイエスがその愛する弟子たちに対して示されたと同様な愛です。イエスは弟子たちにむかって言われました,「人がその友のために自分の命を捨てること,これよりも大きな愛〔アガペー〕はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば,あなたがたはわたしの友である」。(ヨハネ 15:13,14)朝になって,弟子たちはイエスの言葉の意味を悟りました。
16 (イ)イエスはその友に対して,どのように比類のない愛を示されましたか(ロ)弟子たちは,その時どんな言葉を思い起こしたはずですか。
16 弟子の一人は,遠くからであったにしても,それを見たかも知れません。私たちはそれを想像できるだけです。イエスの両手は重ね合わせられ,その上からくぎが木に打ち込まれました。手から血がしたたる間に,今度は両足にくぎが打ち込まれます。それから杭は真直ぐに立てられ,イエスのからだの重みが2本のくぎにかかりました。6時間後にイエスは死にました。それで無残に足を折られることは免れたのです。イエスの弟子たちは,これを見なかったとしても,目撃者からすぐにその事を聞きました。(ヨハネ 19:25-27)弟子たちはイエスを恥じますか。この人に従い,その教えを信じ,これこそ神の国において治めるために神から選ばれた者であると信じたことを否定しますか。少なくともペテロは,これらの事を予告したイエスの言葉に感傷的に反対したとき,イエスがペテロを叱ってのちに言われた言葉を思い起こしたはずです。イエスは次のように言われました,「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,自分の〔苦しみの杭〕を負うて,わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのため,また福音のために,自分の命を失う者は,それを救うであろう……邪悪で罪深いこの時代にあって,わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては,人の子もまた,父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに,その者を恥じるであろう」― マルコ 8:34-38,〔新世〕。
17,18 (イ)イエスはご自身の死によって,愛にみちたどんな目的を成就されましたか。(ロ)私たちは今どんなすばらしい関係にはいれますか。どのように?
17 イエスは地に来られたおもな目的をご自身の死によって成し遂げました。それは父の愛するみ名を立証することです。(ヨハネ 17:6; 18:37)イエスはまた人類のために贖いを備えました。それは贖いを受け入れるすべての人,「わたしが命じることを行なう〔ゆえに〕あなたがたはわたしの友である」とイエスから言われるすべての人のためです。(ヨハネ 15:14)イエスは,天に位のある新しい宇宙政府の王となる権利を得,また「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではな(く),罪は犯されなかったが,すべてのことについて,わたしたちと同じように試練に会われた」かたとして,追随者のために神の大祭司となる権利を得ました。―ヘブル 4:15。
18 復活の40日後にイエスは,ご自分のもとおられた天に戻りましたが,地に遣わされた33年半と宣教の務めは,イエスにとって忘れることのできないものです。いまイエスは設立された御国にあって王となり,地に対して治めを行なっています。私たちは,イエスの弟子にふさわしい事を証明するならば,いまでもイエスの愛と愛情また父エホバ神の愛を受けることができます。それには私たちにも愛が必要です。―マタイ 25:31-40。ヨハネ 15:7-10。
19 (イ)世界中の人々は,エホバの証人の間にどんな性質を認めていますか。それはなぜ普通とは異なっていますか。(ロ)真実の愛に動かされているエホバの証人は,なぜ多くの人から「普通」でないと思われる生活をしていますか。
19 イエスの忠実な弟子たちは新しい戒めを守りました。今日エホバの証人の新世社会も,それを守ることに誠実な努力を払っています。エホバの証人の全国大会,国際大会は公の注目を集め,戸別訪問の活動によってさえも,エホバの証人は全世界何百万の家庭の人々と接しています。神と隣人に対し,また互いに対してエホバの証人が抱く愛は,多くの国々において新聞,ラジオ,ニュース映画により伝えられてきました。国際紛争,国内の分裂,人種問題も,エホバの証人の愛の絆をたつことはできません。迫害にあい,そしられながらも,エホバの証人は心を苦くしません。(コリント前 13:6,7)毎週3回,会衆の集会に出席し,週末や晩の自分の時間の多くをささげて聖書を教えることに専念しているエホバの証人の生活は,多くの人から見て「普通」ではないかも知れません。しかしエホバの証人は,今日の世界が「普通の」世界ではなく,また今が「普通の」時ではない事を,知っています。まぎれもない聖書の預言の成就は,今が世界の歴史上もっとも異常かつ重大な時であることを示しています。真実の愛はそれを見逃しません。ハルマゲドンを目前にした今日,私たちは何百万いや何億の生命が間もなく消し去られるかも知れない深刻な事態に思いを致さなければなりません。そうなれば,それらの人々に私たちが愛を示すことはもはや不可能となります。―マタイ 24:34-42。
20 (イ)このような「普通の」生活についていえば,愛の新しい戒めは,私たち各人に何を求めますか。(ロ)いま純粋の愛を学び,それを培うことはなぜ肝要ですか。
20 私たち一人一人についてはどうですか。「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい」と教えた戒めを各自が守りますか。兄弟たちまた正義を愛する心を持ち,興味を示す人々を助けて永遠の生命を得させるため,世の中で「普通の」生活といわれるものを犠牲にすることをいといませんか。このわざに没頭した人々に生命を得させるため,自分の生命を危険にさらし,あるいは失うことさえあるのです。鉄のカーテンの背後あるいは他の場所で,まさにこの事をしているエホバの証人が毎日どこかにいます。なぜですか。「主は,わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって,わたしたちは愛ということを知った。それゆえに,わたしたちもまた,兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。(ヨハネ第一 3:16)真実の愛をいま学ばなければなりません。そしてよく学ぶことが必要です。将来,試練や誘惑にあうとき,また難しい決定を下さなければならないとき,愛があれば,正しい事をして忍耐できるからです。世が私たちの情緒をかきたて,感傷に訴え,他の人の生命にかかわる本当の福祉あるいは原則に盲目にならせようとしても,私たちは真実の愛の道を見失わないでしょう。―ヤコブ 1:12。ヨハネ第一 4:17,18。
21 神の新しい秩序の間近いいま,真実の愛は私たちにどんな将来を保証していますか。私たちは何をすることに励むべきですか。
21 神の新しい秩序は近いのです。その下で地に住む人々は愛を働かせ,現在の秩序の下で利己主義が成しとげたどんなものより千倍もすばらしい事を成しとげるでしょう。彼らはこの地を文字通りの楽園にするだけでなく,神のみ霊の実すなわち愛,喜び,平和,寛容,親切,善,信仰,柔和および節制にみちた霊的な楽園にします。あなたの生命のことを心にかけつつ,私たちは祈ります,「汝らの愛,知識ともろもろの悟とによりいやが上にも増加り,善悪を弁へ知り,キリストの日に至るまで潔よくしてつまづく事なく,イエス・キリストによる義の果をみたして,神の栄光と誉とをあらはさん事を」― ピリピ 1:9-11,文語。
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よい行いは証言になるものみの塔 1965 | 10月15日
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よい行いは証言になる
「外部の人に対して知恵をもって歩み続ける」際に,私たちの振舞いはとくに人々の注目の的になります。それ自体が良い証言となって良い便りを伝える機会が開かれる結果になります。ベルギーの一姉妹が働いていた事務所で,同僚の女性たちは昼休みにいろいろな事を話し合うのが習わしでした。同僚の一人は,その姉妹が意見を求められた時など,とても落ち着いていて,他の人のようにいつもはやり言葉を使おうとしない事に気づきました。この女性は姉妹に向って「私もあなたのように応答ができたらと思うわ,だってあなたは他の人たちと違うんですもの」と言い,それに対して姉妹は「聖書を学んだので物の見方が変ってきたのです」と答え,もっと聖書の原則を学ぶようにその婦人を励ましました。昼休みに何回も会話を重ねるうちに,その人は雑誌を求め,また書籍研究に招待されました。彼女はすぐ聖書を勉強したいといい,しばらくして御国会館で伝道活動の発表を聞いた彼女は野外奉仕に参加する事を望みました。しかし彼女と,いま真理に関心を示しているもう一人の同僚はまず自分たちの結婚関係をきちんとすべき事を悟りました。聖書的な見解をよく理解した二人は問題を解決するためすぐ行動に移りました。聖書の原則と一致する自分たちの行いで証言となるように望み,宣教を通じて他の人が真理を学ぶ事を援助できるようになるためいま忙しく聖書を勉強しています。
1965年度エホバの証人の年鑑から
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