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詩篇を用いて祈ることができますか目ざめよ! 1971 | 4月8日
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神のご意志をよく知るような,文字に書かれた神のみことば聖書を勉強する努力を怠りながら,詩篇 25篇4節にあるように,「エホバよなんぢの大路をわれにしめし,なんぢの径をわれにをしへたまへ」と祈ることはできません。
また,敵に災いが臨むよう祈り求めることについてですが,クリスチャンはそういう祈りをしてもよいでしょうか。イエス・キリストは,弟子たちにつぎのように教えられました。「汝らの仇を愛し,汝らを責むる者のために祈れ,これ天にいます汝らの父の子とならんためなり」― マタイ 5:44,45。
人間がこの原則に従うことは不可能ですか。イエスご自身,ご自分が処刑されるという重大な時機に臨んだときにも,この原則を堅く守られました。イエスは,ご自分が刑柱にかけられるとき,「父よ,彼らを赦し給へ。その為す所を知らざればなり」と呼ばれました。(ルカ 23:34)またステパノは,ユダヤ人に石で打ち殺されるとき,「エホバよ,この罪を彼らに負わせないでください」と祈りました。(使行 7:60。新)クリスチャンは,憎しみとか,自分で人に仇を返す,という考えに影響されてはなりません。仇を返すのは,神のなさることです。―申命 32:35。ロマ 12:19。
自分の敵にあわれみを施さずにおきながら,一方では神にあわれみを祈り求めるということが正しくないのは当然です。(マタイ 6:12)では詩篇 109篇と83篇はどうですか。これらの詩篇は復讐的な精神を示してはいませんか。そうではありません。この祈りの目的を理解すれば,そうでないことがわかります。これらの祈りは,矯正不可能な悪人,意識して悪を行なう者,ほんとうに神の敵である者を罰し,滅ぼすという,神の目的と完全に一致しています。(詩 83:2)また注目すべきことは,この最初の詩篇の祈りが,イエス・キリストの生涯と関係のある種々の状況にかかわる,預言的なものであることです。使徒たちはこの詩篇をそのように適用しています。(使行 1:20)これらの祈りはおもに,神のお名前がご自分の民に関連した,神のみわざの結果,敬意をもって扱われるようにとの願いを表わしています。―詩 83:16,18; 109:21,27。
詩篇を正しく用いる
詩篇は聖書の一部です。使徒パウロはその聖書についてつぎのように書いています。「聖書はすべて神の霊感を受けており,教えたり,戒めたり,物事を正したり,正義を訓戒したりするのに有益である。これは,神の人が十分な能力を備え,あらゆる良いわざに対して,完全に備えられた者となるためである」。(テモテ後 3:16,17,新)ですから,詩篇を,聖書の他の全部の部分とともに研究して,その中から,神によって定められた正しい原則を学びとり,その原則を生活の導きとするのは良いことです。もしわたしたちの考えや行動が,それらの原則と一致していれば,エホバはわたしたちの誠実な祈りに答えてくださいます。もしある人が,詩篇を迷信的な方法で用いたとしても,聖書の他の部分にしるされている事柄を無視するような生活,たとえば淫行または姦淫を犯すような生活を送っているとすれば,どういうことになりますか。箴言 28章9節はつぎのように答えています。「耳をそむけて律法を聞かざる者はその折りすらも憎まる」。
詩篇に収められている祈りだけに頼り,一方では祈りにかんする神の御子の教えを無視する人は,神が祈りを聞き入れてくださることを期待するわけにはいきません。人は,キリスト・イエスの教えと,キリストが定められた原則を受け入れ,実行しなければならないのです。その原則とは,人に見られるためだけの祈りをしないこと,くりかえし祈らぬこと,そしてキリスト・イエスの名前をとおして祈ることです。(マタイ 6:5-8。ヨハネ 14:13)イエスご自身がこう証言されています。「われは道なり,真理なり,生命なり,我に由らでは誰にても父の御許に[祈りによってすら]いたる者なし」― ヨハネ 14:6。
神に喜ばれる祈りは,暗記した祈りでも,だれかによって前もって書かれた祈りでもなく,むしろ自然に出てくる祈りです。その祈りは,必らずしも文法的に完全な表現である必要もなく,流暢に話される必要もありませんが,しかし心臓から出てくるものでなくてはなりません。聖書の詩篇記者のひとりは言いました。「われ〔全心臓をもって〕よばはれりエホバよ我にこたへたまへ」。(詩 119:145〔新〕)書かれた祈りを読んだだけなら,そのように言うことができたでしょうか。もちろんできなかったでしょう。
神に喜んでいただける祈りをする人とは,神と神のご意志,および神の正義の原則を学び知って,そしてそのために心臓が,創造者に対する正しい認識と感謝で満ちあふれている人のことです。そういう人の祈りは,神になにかを請い求めるだけのものではなく,「すべての善き賜物とすべての全き賜物」の偉大な与え主に対する,賛美と感謝を含みます。―ヤコブ 1:17。
エホバの証人は,神に全き信仰をもち,神に近づく道として,祈りの価値を十分に認めている人々です。エホバの証人は,詩篇をも含めて,聖書を,唯一の真の神のことばとして受け入れます。しかしながら,詩篇に,超自然の魔力があるとは考えません。詩篇もすべての聖句と同じく,わたしたちを慰め,わたしたちの希望を築くために書かれたのです。(ロマ 15:4)聖書の詩篇の多くは,キリストの支配する神の王国についての預言を包含します。イエスが弟子たちに,「あなたの王国がきますように」祈りなさい,と教えられたその王国こそ,エホバの証人がいま全世界で,神からの命の賜物を享受することを願うすべての人に対する希望として宣べ伝えているものです。―マタイ 6:9,10,新。
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「ほんとうに,なんという変化だろう」目ざめよ! 1971 | 4月8日
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「ほんとうに,なんという変化だろう」
アイスランドの「目ざめよ!」通信員
世の中にはずいぶん多くの変化が起きています。アイスランドでも,他の国と同様,人々の間でそうした変化が話題になっています。年配の人たちが若い世代と意見を交換し合うとすれば,次のような会話になるのではないでしょうか。
「わたしが生まれた時から,物事がどれほど大きく変わったか,若いおまえたちには想像できないよ。小説家のジュール・バーンでさえ,われわれの時代に近い人間だったのに,これほど多くの変化を想像することはできなかった。あの半島の先端の,ベスビュス火山のようなかっこうの火山が見えるかな。ジュール・バーンは,『地球の中心への旅』という小説を,あそこから始めているだ。彼は,主人公にあの噴火口を下降し,地球を突き抜け
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