御霊の実を示す
1 (イ)肉のわざの名を述べなさい。(ロ)そのようなわざのみちている世にあって,クリスチャンはそのようなわざを避けることができますか。どのように?
この世の精神は「肉のわざ」を産出します。肉のわざははっきり見えます。パウロの言葉によると,それらは「不品行,汚れ,好色,偶像礼拝,まじない,敵意,争い,そねみ,怒り,党派心,分裂,分派,ねたみ,泥酔,宴楽,および,そのたぐいである」。「わたしは以前も言ったように,今も前もって言っておく。このようなことを行う者は,神の国をつぐことがない」。(ガラテヤ 5:19-21,新口)もし永遠の生命をのぞむなら,これらのものをぜひとも取りのぞかねばなりません。パウロの描写の言葉は,彼が生活していたむかしのローマの世界にぴったり合いましたが,今日のこの世界にもぴつたり合います。しかし,クリスチャンは今日のこのような世界に生活しながら,変化することができますか。できます。たとえ,「肉のわざ」をしている人々にとりかこまれていても,変化できます。クリスチャンは御霊の実をむすぶことができます。もし,エホバの御霊によってそれができないなら,パウロと他の霊感をうけた全部の筆記者たちは,そうするよう私たちに告げないでしょう。
愛を働かす
2 御霊の実をむすぶのに必要な最初の愛はなんですか。第2番目の愛はなんですか。
2 「御霊の実」をむすぶために,クリスチャンは,まずエホバ神を愛さねばなりません。それは,イエスが引用した大きないましめにしたがうという意味です。すなわち,「心をつくし魂をつくし思いをつくしてあなたの神であるエホバを愛さねばならない」。イエスは次の言葉をつけ加えました,「第二のいましめもこれと同じである,『自分自身のごとくに隣人を愛さなければならない』」。(マタイ 22:37,39,新世)それはたくさん愛することを意味します。しかし,それはあなたの生命をも意味します。
3 使徒パウロにとって,愛は何を意味しましたか。彼はこの性質を持っていると個人的に示しましたか。
3 ガラテヤ書 5章22節では,愛はクリスチャンが示さねばならない最初の実であるとパウロは述べています。神と御子イエス・キリストを深く愛したこの人は,「御霊の剣」でもってキリスト教のために戦いました。彼は,それを神の言葉と定義しています。(エペソ 6:17)パウロは人を憎みませんでした。彼は人を愛しました。彼は人々が真理を知ることをのぞみました。パウロは愛にみちていた人であったので,愛について多く述べています。しかし,愛について的確な描写をすることはむずかしいと思いました。コリント前書の13章のなかで,彼は次のように述べています。すなわち,たとえ『彼が人々の言葉や御使たちの言葉を語っても,もし愛がなければ,彼はやかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた,彼に預言をするたまものがあり,神のあらゆる奥義を理解し,世界の中の人のうちで山をうつすことができるほどの最大の信仰を持っていても,もし愛を持っていないなら,彼は無にひとしい」。パウロは広く旅行した人,よく働いた人です! 彼はたくさんの力を奉仕についやしました。彼は自分の生命を惜しみませんでした。彼は自分の生命を投げうって,良いたよりを伝道しました。パウロは,ギリシャ人に対してはギリシャ人になり,ユダヤ人に対してはユダヤ人になりました。しかし,もし彼がエホバ神への愛,その御子への愛,そしてクリスチャン兄弟たちに対する愛を持たなかったなら,「わたしは無にひとしい」とパウロは語りました。愛はなさけ深いとパウロは語りました。パウロは人々のためにいろいろのことをしてあげましたが,それはお返しをのぞんでいたのでなく,また期待していたのでもありません。兄弟が成功を収めているのを見てもパウロはその人々に対してしっとしませんでした。なぜなら,愛はねたむことをしないからです。
4,5 (イ)クリスチャンの最初の興味は何ですか。(ロ)それで,彼は生活のどんな道にしたがいますか。
4 クリスチャンはひとつのことだけに興味を持っていなければなりません。それはエホバの真の崇拝です。その崇拝をおこなうクリスチャンは,自分のしたことをほこりません。愛は,その業績をほこりません。愛は決して不作法をしません。愛は良い行いに表わされます。愛を示すクリスチャンは,たとえこの世のなかにいても,この世のような生活を行ないつづけません。愛は彼の行動を変化させて,正しい道にしたがわせます。
5 御霊のこの最初の実である愛を産出する際,クリスチャンは自分の利益を第一に求めず,いつでも自分が第一で優越者であるという態度をとらないでしょう。彼は他の人のする小さなことに腹を立てていかるということをしないでしょう。なぜなら愛はいからないからです。そして,ある人がクリスチャンに対して不利なことを行なうときでも,たとえ害するようなときでも,この御霊の実である愛を持つクリスチャンは,その害をいつまでもうらまないでしょう。不正と不義がクリスチャンに生ずるとき,愛は不義をよろこびません。愛がよろこぶことのできるただひとつのものがあります。それは真理です。
6 神の民の会衆はキリストに属しているということをどのように知りますか。
6 愛は,エホバ神が完全な人間アダムのなかに入れられたひとつの性質です。それを回復させてはどうですか。さらに「神は愛」であって,私たちはその神を崇拝します。愛は,各クリスチャンが持たねばならぬ必要な性質です。クリスチャンは愛なしでおこなって行くことはできません。各クリスチャンがときおり,自分は他の人をどのくらい愛しているかを考えることはぜひ必要です。彼は自分の兄弟たちをどのくらい愛しますか。彼がクリスチャンか否かを決定する物差は,愛です。イエスは次のように言われました,「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう」。―ヨハネ 13:35,新口。
7 (イ)自分の考えを言い表すのを恐れるなら,なにが欠けていますか。(ロ)それは私たちに希望がすこしもないという意味ですか。
7 あなたは,聖書にたいするあなたの信仰を他の人に告げることをおそれていますか。あなたはクリスチャンであると称しながら,家から家へ行き,イエスとその弟子たちがしたのと同じ種類のわざをするのを恐れていますか。あなたは,会衆の集会のとき自分の兄弟たちにむかって自分の考えを打ちあけるのをおそれていますか。「はい,私はおそれています」とあなたは言われますか。それではあなたは完全な愛を持っていません。改善の余地があることは,あなたもご存じでしょう。主を真実に愛したヨハネは,次の言葉を書きました,「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れにはこらしめが伴い,かつ恐れる者には,愛が全うされていないからである」。(ヨハネ第一書 4:18,新口)なにかに拘束されているためにあなたのクリスチャン信仰を言い表わすことができませんか。もしその恐れが存在するなら,もっと豊かにみのらせるため,ある枝を切ることが必要でしょう。イエスはこう言われました,『実を結ぶものは,もっと豊かに実らせるために,彼はきれいになさる』。そしてまたこう言われました,「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは,父がすべてこれをとりのぞき……」。(ヨハネ 15:2,新口)あなたは手入れをしてもらって建ておこされたいですか。それとも,御霊の実をすこしも結ばないものとして枝から切りおとされたいですか。
8 なぜ愛は御霊の主要な実ですか。
8 「知識は人を誇らせ,愛は人の徳を高める」。(コリント前 8:1,新口)クリスチャンは愛を示して建ておこさなければなりません。愛はむやみやたらに使用される言葉ではありません。それは意味深長な言葉です。愛は活気があって活動的です。この性質,愛を持つ人は,毎日の行いにそれを示します。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ,進んで互に尊敬し合いなさい」。(ロマ 12:10,新口)愛は,御霊のむすぶ実のひとつですが,主要な実です。それは基礎的なもの,根本的なものです。なぜなら御霊の他の実は,愛をちがった面で表わしているからです。それらはみな愛を活動させます。それで,これらの性質をつちかって,さらに多くの愛を示しなさい。
喜びと平和
9 (イ)喜びを定義しなさい。(ロ)クリスチャンの喜びを述べなさい。
9 喜びは,クリスチャンが持たねばならぬものの,あるいは得ねばならないものです。なぜなら,それはパウロの述べている御霊の実の2番目だからです。喜びを持つとはどういう意味ですか。喜びは「現在の善あるいは予期している善から生ずるするどい生き生きした楽しみの感情」です。(アメリカ大学辞典)クリスチャンの最大の喜びは,伝道することからきます。また伝道した人々の良いたよりや経験を聞くことからも聞きます。初期のクリスチャンたちの場合がそうでした。使徒行伝 15章3節にはこう書かれています,「さて彼らは会衆の人々に見送られ,ピニケ,サマリヤをとおって,道すがら,諸国民の改宗の模様をくわしく説明し,すべての兄弟たちを大いに喜ばせた」。「大いに喜ばせた」のは,なぜですか。「諸国民の改宗の模様をくわしく説明し」たからです。彼らは人々に神の御国のことを語りました。彼らは野外奉仕のすばらしい経験を人々に告げました。聞く人も語る人も,このことを大いによろこんだのです。他の人々が真理に耳をかたむけて,それから真理にはいると聞くことは,よろこびをもたらします。愛は弟子たちを伝道させました。よろこびはその結果でした。―使行 13:45-52。コリント後 7:13。
10 (イ)平和とは何ですか。(ロ)クリスチャンはどのようにそれを追い求めますか。
10 平和は御霊の実です。平和な人は,「争いや騒動から遠ざかって」います。その人は静かで平静を保ちます。ペテロは「平和を求めてそれを追え」とクリスチャンたちにさとしました。彼は,このすばらしい生命の道を追い求めよと彼らにこう告げました,「真実に生命を愛し,よい日を見ようと思う人は,舌をおさえて悪を言わず,唇を閉じて偽りをさけなさい。悪からはなれて善をおこない。平和を求めてこれを追いなさい」。(ペテロ前 3:10,11,新世)仲間の人間との平和をたのしむためには,自分の舌に注意しなければなりません。言葉は多くの問題,特に有害な問題をひきおこします。良い言葉は良い関係をつくります。しかし,あざむく言葉や有害な言葉を語りはじめると,平和はすぐになくなります。平和な音信を持つ平和な人は,イエス・キリストの天の御国について,また神がどのように「地上の善意者に平和」をもたらすかについて語ることができます。(ルカ 2:14,新世)クリスチャンは祝福するために自分の舌を用います。パウロはコリント人にこう告げました,「平和に過ごしなさい。そうすれば,愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう」。―コリント後 13:11,新口。マタイ 10:12-14。
寛容
11,12 (イ)寛容をどのように定義しますか。(ロ)使徒パウロになったサウロに対するイエスの寛容を述べなさい。(ハ)私たちに示される寛容に対しての私たちの態度は何でなければなりませんか。
11 「害をうけたり,怒らせられても,忍耐づよくながくがまんすること」は,寛容と言われています。これは御霊の実です。或る人々の寛容は約30秒ぐらいで限界にきてしまいます。別の人は1分か2分ぐらいです。しかし,害をうけても,怒りを感じさせられてもながいあいだ耐えしのべる人もいます。「愛は寛容であり,愛は情深い」と述べたパウロの言葉をおぼえていてください。(コリント前 13:4,新口)パウロは,ローマ人に手紙を書きおくったとき人類に対する神の寛容を述べました,「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで,その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか」。(ロマ 2:4,新口)イエスはたしかにサウロに対して寛容を示しました。サウロはついに改宗して次のように述べました,「しかし,わたしがあわれみをこうむったのは,キリスト・イエスが,まずわたしに対して限りない寛容を示し,そして,わたしが今後,彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである」。(テモテ前 1:16,新口)パウロは,クリスチャンたちを迫害していたパリサイ人であったときを,しばしば回想していたにちがいありません。かつては彼は自分の立場をほこりに思い,クリスチャン制度をほろぼすことによろこびを感じていました。彼はそのときは破壊者であって,建ておこす者ではありませんでした。しかし,『彼がダマスコに近づいたとき光は彼のまわりにかがやいて』彼は「サウロ,サウロ,なぜわたしを迫害するか」という声を聞きました。パウロは真理を知らせていただいたキリスト・イエスの寛容を心から深く感謝したと,事実は示しています。
12 今日の地上に住むすべての人,そして特にクリスチャンはこんなにも長く生きることを許したものエホバ神とキリスト・イエスの寛容に対して感謝を示すべきであります。こんどは,聞く人が同意しないときでも,彼らはそれらの人に寛客を示すことができます。そのように行なうことによって,彼らは神の正義の新しい世における永遠の生命に達する道を彼らに示します。あなたの兄弟たちに対しても寛容を示しなさい。―テサロニケ前 5:14。
親切
13 (イ)親切な人とはどういう人かを述べなさい。(ロ)マルタの人々は,どのようにこの性質をパウロおよびパウロとともに難船した人々に示しましたか。
13 御霊の5番目の実である親切は,多くの仕方で表現されます。親切な人は『良い寛大な気質』を示し,『思いやりがあって,他の人を助けます』。親切は私たちの好む人々だけに示すものではありません。知らない人々にも親切でなければなりません。パウロはそのような親切をうけたので,そのことをこう述べました,「わたしたちが,こうして救われてからわかったが,これはマルタと呼ばれる島であった。土地の人々は,わたしたちに並々ならぬ親切をあらわしてくれた。すなわち,降りしきる雨や寒さをしのぐために,火をたいてわたしたち一同をねぎらってくれたのである」。(使行 28:1,2,新口)これらのマルタの人々は,難破した人々に格別に親切でした。難破した人々は,全く見ず知らずの人々だったのです。もしかすると,彼らはこの島を侵略したかもしれません。しかし,異国語を語っていたこれらの土地の人は,そのように考えませんでした。これは特別の人間的な親切を示す機会でありました。
14,15 エホバの証者の親切は,人々にどのように示されますか。
14 どのクリスチャンもその機会を持っています。ときにはひとつ以上の多くの仕方でその機会を示します。エホバの証者は,特別の人間的な親切を示そうとつとめます。彼らは人々の家に行って生命の音信を伝え,興味を持つ人を再訪問し,そして聖書研究を司会します。このためにエホバの証者は多くの費用をかけ,たくさんの時間を使わなければなりません。しかし,彼らはお返しを求めません。大ぜいの人々は,エホバの証者が示すこの親切を感謝しません。しかし,親切をつづけて示すことは必要です。なぜなら,これは神の御心だからです。イエスは御自分の生命を捨てて人間種族の全部を買われました。全人類はそのことを知らねばならぬと聖書は述べています。そう行なわれたことによって,イエスは永遠の生命の賜物を全部の人に提供しました。しかし,全部の人がそれをうけいれるわけではありません。それは各人の責任でしょう。
15 もしクリスチャンが,この御霊の実である親切を持ちたいなら,かぎられたわずかな人だけでなくすべての人に対する毎日の活動のなかに親切を表わさなければなりません。
善
16,17 (イ)善を定義しなさい。それはどんな性質と対照されていますか。(ロ)この性質はクリスチャンの生活にどのくらい必要ですか。
16 善はほめるに値するものです。それは「道徳的な卓越,徳」を意味します。パウロは,善を強調するために,対照によってそれを目立たせています。彼は次のように述べています,「不品行といろいろな汚れや貪欲などを……あなたがたの間では,口にすることさえしてはならない。また,卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい……あなたがたは,よく知っておかねばならない。すべて不品行な者,汚れたことをする者,貪欲な者,すなわち,偶像を礼拝する者は,キリストと神との国をつくことができない」。(エペソ 5:3-5,新口)クリスチャンたちは,この種の人々からはなれなければならないとパウロはさとしています。クリスチャンたちの生活には,それらの人々と交わりを持つ余地がありません。パウロはこう述べています,「だから,彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは,以前はやみであったが,今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい ― 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」。(エペソ 5:7-9,新口)正しい,礼儀にかなう上品な生活こそ善であります。この悪い堕落した世にあっても,それは御霊の必要な実であると,パウロは言っています。
17 善は守ることを必要とする性質です。それはエホバの奉仕に生命をささげる人の目標でなければなりません。人はクリスチャンと呼ばれる前に,恥ずべき行為を捨てねばなりません。もし御霊の実をうみ出して,神の新しい世で生活する資格を得るためには,この御霊の実である善をぜひとも持たねばなりません。
信仰
18 信仰を定義するパウロの言葉は何ですか。人が信仰を持つことはどのくらい必要であると,彼は示していますか。
18 「信仰は望む事がらを確信して期待することであり,見えない実体の明白な表明である」。(ヘブル 11:1,新世)パウロは信仰をそのように定義しました。クリスチャンは信仰なしでいるわけにはいきません。なぜなら,「信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはずだからである」。(ヘブル 11:6,新口)弟子のヤコブは彼の信仰を示しました。そして,信仰にはわざがともなわねばならぬと彼は指摘しました。(ヤコブ 2:26)もしエホバ神,キリスト・イエス,そして彼の御国を信ずるなら,その人は語る言葉,その人のする行い,そしてその人の生活の仕方によってその信仰を証明しなければなりません。
19 (イ)何が信仰と密接にむすびついていますか。(ロ)誰が躍動している信仰とわざの模範ですか。
19 人の信仰は死滅することも弱くなることも可能です。あるときイエス・キリストを人類のあがない主,救主として信じた大ぜいの人々は,脱落しました。彼らは進化論に走りました。彼らは聖書を拒絶します。それでいて,そのような人はクリスチャンと自称し,キリスト教国の教会に行きます。ヤコブは彼らにこう述べています,「信仰も,それと同様に,行いを伴わなければ,それだけでは死んだものである」。(ヤコブ 2:17,新口)信仰は言い表わされるものです。それは述べ伝えさせます。パウロはこう語りました,「人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」。(ロマ 10:10,新口)心と思いと口を用いて,人間のただひとつの希望である神の御国に対する信仰を公けに言い表わすとき,信仰は強くなります。イエスは次のように言われています,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。(マタイ 24:14,新口)今日このことは,いまから1900年前にイエスが集め始めた信仰をもつ「小さな群れ」の残れる者によって行なわれているだけでなく,同様な種類の信仰を持つあらゆる国の「大いなる群衆」の人々によっても行なわれています。大ぜいのクリスチャンたちがこの信仰を持っているために,この苦難にみちる時代にあって大きなわざが行なわれてきました。
柔和
20 (イ)柔和は弱いことでないと,イエスはどのように示しますか。(ロ)これについてのパウロの言葉は何でしたか。
20 柔和は時折り弱いものであると誤解されています。四福音書の筆記者たちの述べているキリストの生涯を読むと,イエスが柔和な性質を持っておられた人であることを知ります。しかし,マタイ伝 23章を読んで,イエスが悪を痛烈に非難する方であることを知ってください。彼は恐れを持ちませんでした。彼は完全な愛を持っていました。そのような愛は恐れをのぞきます。イエスは,学びたいとのぞんだ人々には親しみ深く親切で,すべての人に対する感情や行状はやさしいものでした。柔和な性質を持たれたイエスは,人々を教えることができました。彼は次のように述べています,「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。(マタイ 11:29,新口)彼らはイエスを信頼しました。イエスが明白な真理を語ったとき,彼らは恐れませんでした。なぜなら,彼は愛をもって話したからです。彼らはよろこんで耳をかたむけました。パウロは柔和の価値を知っていたので,テモテにこう告げました,「主の僕たる者は争ってはならない」。争うことは,人を援助して真理を得させる仕方ではありません。パウロはさらにこう言葉をつづけました,主の奴隷は,「だれに対しても親切であって,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである」。(テモテ後 2:24,25,新口)力ではなく,正しく述べられる神の御言葉こそ人を悔い改めさせるものです。
21 (イ)カトリック教会の歴史は,柔和な制度であると示しましたか。なぜあなたはそう答えますか。(ロ)この面において真のキリスト教はどのようにちがいますか。
21 いまでも今日の世界に大きな力を行使しているローマ・カトリック教職者制度は,異教徒審問所の時代中には,それとはまったくちがう道をとりました。その偽りの宗教的な群れは,男や女を拷問にかけ,その手足を体からもぎ取り,親指でつるしたりしたその拷問の歴史の汚名をすすぐことは決してできないでしょう。クリスチャンと称したこれらの審問者たち ― ユダヤ人,回教徒,そして「異教徒たち」に拷問の苦しみを経験させた司祭たち ― は,たしかに温和な精神を持っていませんでした。これらの宗教指導者たちは,人々をローマ・カトリック教会に追い立てるために戦いました。その戦争と拷問によって,彼らは何をなしとげましたか。平和と一致の世界? そうではありません! 偽りの宗教は戦争や十字軍によって人々を神から引きはなしてきました。キリスト教は,肉の武器をつかっては,けっして行なわれません。もし人が真理をうけいれるなら,それは奉仕者が柔和であって,聖書の音信に反対する者たちに対して忍耐するからです。イエスはその方法を用いました。そして,使徒たちもその方法を用いたのです。今日の真のクリスチャンたちも同じ方法を用いなければなりません。柔和は神の聖霊の実であって,それを使用すると,神の御国を宣べ伝えることに永遠の結果をもたらします。
自制
22 (イ)自制は,どの程度までクリスチャンの生活を支配しますか。(ロ)自制に欠けている人々は,どんな種類の人々に分類されていますか。
22 自制は不完全な人々にとって行ないがたいものです。なぜ言訳をするのですか。自制するようにつとめなさい。それは御霊の実のひとつです。それでそれを得なければなりません。自制するとは,自分自身,自分の行動,言葉,飲食の習慣,まったく自分の感情を制御するという意味です。パウロの目から見ると,自制できない人は,けいべつされる群衆の級にいれられてしまいます。自制できない人々は,不名誉な人々の級にはいると,パウロは示しています。そのような者たちは,末の日にたくさんいると聖書は述べています。彼はテモテにあてた手紙のなかでこう語りました,「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者」でしょう。(テモテ後 3:1-3,新口)自制力のないそのような悪い人々の級になぜはいるのですか。ソロモンはこう書きました,「愚かな者は怒りをことごとく表わし,知恵ある者は静かにこれをおさえる」。(箴言 29:11,新口)クリスチャンが自制を持たないなら,あるいは持っている自制を失うなら,彼が肉の道に逆もどりして神の御国の祝福をうける資格を失うことはまったく容易です! それで,この実である自制を結ぼうと努力しないことは,なんと愚かなことでしょう! 自制を持つ人は愛を示します。
23 自分自身を建てて,神の建てるわざのうちにとどまるためには,私たちは何をすべきですか。
23 パウロは,これらの御霊の実を肉のわざと対照しています。信者が神の御こころを行なうために献身するとき,変化はぜひおこらねばなりません。その人は,もはやこの世と同じような行いをすることができません。むしろ「キリスト・イエスに属する者は,自分の肉を,その情と欲と共に杭につけてしまったのである。」(ガラテヤ 5:24,新世)変化がなければなりません。人を建ておこすことが行なわれなければなりません。「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら,また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い,互にねたみ合って,虚栄に生きてはならない」。(ガラテヤ 5:25,26,新口)御霊の実を結ぶことによって,エホバの新しい世の社会内にはいる資格を得ます。それで,『あなた自身とあなたの教えにたえず注意をはらうこと』は,あなたになにかをします。「あなたは,自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる」。(テモテ前 4:16,新口)御霊の実に注意を払うことにより,あなた自身を建ておこしなさい。同時にエホバの新しい世の社会を進歩させるように援助しなさい。クリスチャンはたがいに一致していなければなりません。そして,「牧場の中の群れのように,おりの中の群れのように」一致を示さなければなりません。エホバの羊とともに食物をとり,一致を保ちなさい。なぜなら,「正しい者の家には多くの宝がある,悪しき者の所得には煩いがある」。―箴言 15:6,新口。