その4
彼の生命のみなもと
33 (イ)子としてイエスは,み父であられたかたに対し,何を表わしましたか。(ロ)すべての人間が,子をどの程度敬うべきだとイエスは言われましたか。
ヨハネの書いたものから,イエス・キリストが神の子であることを示す証拠は絶対的なものであります。この事実そのものからも,御子であるイエスが神に依存していて,神とひとしくないことが証明されます。子は父より偉大ではなく,神のいましめにしたがい,父を重んじなければなりません。神の子なるイエスは,「〔私は〕わたしの父を重んじている」と言われました。(ヨハネ 8:49,新口)イエスの次の言葉から,イエスが神になろうとしている,あるいは神と等しくなろうとしているなどと,どうして言えますか,「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて,子にゆだねられたからである。それは,すべての人が父を敬うと同様に,子を敬うためである。子を敬わない者は,子をつかわされた父をも敬わない」。(ヨハネ 5:22,23,新口)その言葉を告げられたイエスは,イエスを父として敬え,あるいは神として敬えと告げていません。彼は,私たちが父を敬うのと同じくらいに子を敬えとも告げていません。
34 この点について,なぜ子は敬われねばなりませんか。そしてどの程度?
34 イエスの言葉をふたたび読んで,なぜ父が敬われるように彼も敬われねばならないと言われたかをたしかめて下さい。父は彼をさばき主に任命し,最高のさばき主なる神の代理者あるいは代表者として行なうように任命しました。したがって,神によって任命されたさばき主として,子は敬われるに価しました。私たちは子を敬うことにより,子がさばき主として神から任命されたことに尊敬を示します。もし私たちがさばき主なる子を敬わないなら,私たちは「子をつかわされた父」を敬いません。しかし,御子を神ご自身として敬うとか,あるいは御子をつかわされた神を敬うのと同じくらい御子を敬うという意味にはなりません。
35 (イ)イエスを敬ったのはだれですか。どの程度? (ロ)偉大さについてイエスはどのように神と比較されますか。アラブハムとは?
35 父なる神でさえも,御子を御自分と平等な者として敬わず,あがめませんでした。しかし,神は御子イエス・キリストを他のすべての子以上に敬って,あがめました。それで,私たちも,神が敬ってあがめる者を敬わなければなりません。全くのところ,神は私たちがそうすることを要求しておられます。イエス自身も次のように言われました,「わたしがもし自分を敬うなら,わたしのほまれは,むなしいものである。私を敬うかたは,わたしの父であって,あなたがたが自分の神だと言っているのは,そのかたである」。(ヨハネ 8:54,欽定訳)イエスの父はユダヤ人の神でした。ユダヤ人はイエスを神人,すなわち神が人間になられた者と考えませんでした。イエスは,自分が神である振をしませんでした。ユダヤ人が自分たちの神であると言う御方がイエスに栄光を与える方であるとイエスは言われたのです。それからイエスは神と同じくらい偉大であると言わず,ただ人間になる前に天界で存在していたゆえにアブラハムよりも偉大であると言いました。
36 「父」という名称は何を意味しますか。天のみ父は,適切にも,神のみ子に何をお与えになりましたか。
36 「父」という名称は,男親を意味します。男親は祖先,つまり発頭者,みなもと,子孫を産み出す者という意味です。神はイエスの父でした。すると,イエスの生命も神に依存していましたか。イエス自身の言葉のみが,この質問に対する絶対的な答えになります。イエスの次の言葉に気をつけてください,「死んだ人たちが,神の子の声を聞くだろう。そして聞く人は生きるであろう。それは,父ががご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に,子にもまた,自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」。(ヨハネ 5:25,26,欽定訳)父なる神は,生命のみなもとです。そして,神は御子に生命を持つ特権を与えます。したがって私たちは言葉すなわちロゴスについて述べているヨハネ伝 1章4,5節(欽定訳)の意味が良く分かります,「彼の中に生命があった。その生命は人の光であった。光はやみの中で輝く。やみは光を理解しなかった」。
37 だれから,そしてだれをとおして,人々を啓発する生命が来ますか。
37 死のやみに行く人々を啓発する生命は,みなもとなる父から,経路なる御子を通して来ます。御子は御父から生命をいただきました。それで,使徒ペテロは主イエス・キリストに次のことを正しく言えました,「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましよう。なんぢは永遠の生命の言葉を持っています。そして,汝があのキリスト,すなわち生ける神の子であると,私たちはかたく信じています」。―ヨハネ 6:68,69,欽定訳。
38 イエスは,ご自分の生命の起源と,信仰によってイエスを食べる者たちが得る生命とをどのように比較されましたか。
38 イエスは,信ずる人々の生命のために,自分自身を人間の犠牲として捨てると語られたとき彼の生命の起源を示しました,「わたしの肉を食べ,わたしの血を飲む者はわたしにおり,わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ,また,わたしが父によって生きているように,わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」。(ヨハネ 6:56,57,新口)イエスによって,食べる者たちは,彼によって生き始めます。同じくイエスも神によって生き始めました。それで,御子イエスが御父とともに永遠に存在しておられて,生命の始まりを持たれていなかったなら,「わたしが父によって生きている」と,どうして正しく言えましたか。したがって,イエスは生命を神からいただいた神の御子でした。彼は,ちょうど信仰によってイエスの人間の犠牲を食べる者たちが,イエスを通して生命を受け,イエスによって生きるごとく,彼の天の父から生命をいただきました。人間の犠牲になられたイエスがおられないなら,人間は神の新しい世で永久に生きることはできないでしょう。同じく,神がおられないなら,御子は決して生きなかったでしょう。
39,40 (イ)イエスの生命の存続は何に依存していましたか。(ロ)イエスが神に依存して生命を保っておられたことは,どのように別の方法で奇跡的に示されましたか。
39 イエスが生命を保ちつづけることは,御父なる神への従順に依存しました。40日間の断食を終えるにあたって,石をパンに変えよと悪魔はイエスを誘惑しました。そのときイエスは預言者モーセの言葉をご自分にあてはめました,「人はパンだけで生きるものではなく,神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。(マタイ 4:4,新口)イエスが御父なる神に生命を依存したことは,別の面でも示されています。どのように? 彼が犠牲として人間の生命を捨てられて3日の後,神は御子イエスを死人の中からよみがえしたことからも分かります。
40 ヨハネ伝 5章21節(新口)で,イエスは死人を復活させて,生命を与える神の力について語り,次のように述べました,「父が死人を起して命をお与えになるように,子もまた,そのこころにかなう人々に命を与えるであろう」。イエスは彼自身を死の中からよみがえしませんでした。彼は天におられる不滅の父が,彼を死からよみがえすことによりたのみました。彼が犠牲の死をとげて3日目に,神は御子をよみがえして,ふたたび生命を与えました。御子はその生命をいただき,受取りました。つまりふたたび取りました。イエスは次のように言われています,「父は,わたしが自分の命を捨てるから,わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは,それを再び得るためである。だれかが,わたしからそれを取り去るのではない。わたしが,自分からそれを捨てるのである。わたしには,それを捨てる力があり,またそらを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。―ヨハネ 10:17,18,新口。
41 どのように,またなぜイエスはご自分の生命を捨てましたか。またどのようにそれを取り戻しましたか。
41 イエスは,彼の生命(ギリシャ語でプシケ,魂)を捨てました。もちろん,ローマの兵士は彼をカルバリで殺しました。しかし,イエスが彼らにそうすることを許されたのであって,これは彼の御父の御心,あるのいイエスに対する御父のいましめと一致するものでした。イエスは彼の生命を取りもどしました。といっても,彼の人間としての犠牲を祭壇から取りのぞいたということでなく,また自分自身を生命によみがえしたわけではありません。3日目に神はイエスが死人の中からよみがえるように命じました。イエスは,神の権威により,御父の御手から生命を受け入れることによりそうされました。イエスは次のように言われています,「私はそれをふたたび受けもどす権利を持っている。私は父からこのいましめを受けた」。―新しい英訳聖書。
42 ヨハネに言われたとおり,イエスはどのように「初めであり,終り」ですか。
42 イエスはいまふたたび天に生きておられます。イエスは天の御父のところに戻って後,まぼろしの中に使徒ヨハネに現われて,こう語りました,「わたしは初めであり,終りであり,また生きている者である。わたしは死んだことはあるが,見よ,世々限りなく生きている者である。そして,死と黄泉とのかぎを持っている」。復活に関しては,彼は初めであり,終りあでりました。なぜなら,ヨハネは彼のことを「忠実な証人,死人の中から最初に生れた者,……私たちを愛して,その血によって私たちを罪から解放した方……」と語っています。(黙示 1:17,18,5,ア標)神が死人の中からよみがえして「世々に限りなく生きている」地上の人の中で彼は最初でした。彼はまた,神が直接によみがえされる最後の者でもあります。今では神は復活されたイエスにかぎを開く力,すなわち「死と黄泉のかぎ」を与えています。それで,イエスは彼の御国を支配している期間中,彼の意向にかなう者をよみがえして,生命を与えます。
43 (イ)黙示録 3章14節の意味について,三位一体論者はどのように論じますか。(ロ)しかしイエスはそこで,だれの創造のわざについて述べていますか。
43 このことから,復活を受けたイエスが小アジアのラオデキアにある会衆に書送れとヨハネに告げた言葉の真実の意味を悟ることができます。イエスはこう言われました,「アーメンたる者,忠実にして真実の証人,神の創造の最初はこう言う」。(黙示 3:14,欽定訳a)三位一体論者は,この聖句の意味は,つまりイエス・キリストが最初の者,神の創造の起源者であると論じます。そして,彼らは「神の創造の起源」と書かれているアメリカ訳やモハット訳を指摘します。「神の創造」という言葉に気をつけて下さい。もちろん,これは神を創造することを意味しません。なぜなら神を創造することはできないからです。イエスは「神の創造」と語り,あたかも彼によって創造されたものについて語るかのように「私による創造」とは言いませんでした。彼は,彼以外の者によって創造されたわざ,すなわち神の創造のわざについて語っていました。
44,45 (イ)「神」を表わすギリシャ語の格は何ですか,主格ですかそれとも属格ですか。(ロ)文法家によるといわゆる主格的属格は何を示していますか。
44 ギリシャ語の聖書の中で,「神」〔セオウ〕という言葉は,属格です。英語と同じくギリシャ語でも,属格は,その言葉が修飾する人や物に対する多くの異なった関係,あるいはむすびつきを意味することができます。
45 エイ・ティ・ロバートソン博士によると,それは多くの種類の属格かも知れません,たとえば所有格的属格,形容的属格,主格的属格,目的格的属格かも知れませんb。あるギリシャ語の文法書は次のように述べて,起源あるいは発頭者の格を説明しています,「主格。主格は,格の名詞が行為を生ぜしめる,したがって修飾される名詞の動詞的な考えに対して主語の関係になる。……イエス・キリストの伝道,ロマ 16:25」。c 別のギリシャ語の文法の本は,「行為あるいは感情の主体。……人々の善意(すなわち人々が感ずるもの)」d
46 (イ)黙示録 3章14節の「神」という言葉はどんな種類の属格でありうるでしょうか。(ロ)ギリシャ語「七十人訳」の中の箴言 8章22節の「最初」という言葉にはどんな意味がありますか。
46 すると,「神の創造」というこの言葉は神の所有する創造あるいは神に属する創造という意味になります。あるいはまた,文法的に言って,神によって産出された創造という意味かも知れません。使徒ヨハネの書いたものから,私たちはそれがギリシャ語の中でどんな種類の格であるかを知ります。しかし,クリスチャン聖書のギリシャ語の聖句をつくる者たちにより。黙示録 3章14節が箴言 8章22節eからそのギリシャ語を引用した,つまり借用したことが同意されています。チャールス・トムソンはギリシャ語七十人訳の箴言 8章22節をこう訳しています,「主は,その道の最初,そのわざのために私を創造した」。その「最初」(ギリシヤ語七十人訳でアルクヘ)という言葉は,始める者,起源あるいは起源者という意味ではありません。それは,明らかに創造される神の道のはじめの者,あるいは最初の者という意味です。これと同じ考えが,「神の創造のはじめ」と述べられている駄示録 3章14節に伝えられています。したがって,「神」という言葉は主格にちがいありません。
47 (イ)言葉の生命が中断されたのはいつでしたか。(ロ)では,イエス・キリストはどのように「神の創造のはじめ」でしたか。
47 ヨハネは,イエスが彼の神なる父から生命を受取ったと述べたイエスの言葉を引用しました。この生命は中断されたことがあります。それは「言葉が肉体となった」時でなく,彼が人間として殺されて3日間死んで横たわっていたときです。それから,彼は全能の神の力により生命によみがえされて,永遠不滅に生きました。イエス・キリストは復活を受けたとき,神の創造すなわち神による創造でした。しかし,万物の創造のいちばん最初のとき,イエスは神の創造,すなわち神によってつくられた者です。「はじめ」天で言葉として存在していたとき,彼は神の創造の最初,「神の創造の長」(ヤング訳)でした。神は彼を代理者に用いて,ヨハネ伝 1章3節に述べられているごとく,他のすべてのものをつくりました。彼は神の創造の起源あるいは起源者でありません。むしろ,彼は神のつくったもののいちばん最初のものでした。
48 (イ)「新世訳」は黙示録 3章14節を正しく訳していると言えるのはなぜですか。(ロ)ヨハネの書いたものは,すべての創造をだれに帰していますか。
48 新世訳は,黙示録 3章14節を「神による創造のはじめ」と正確に訳しています。使徒ヨハネは,その書いたものの中で創造主(クティステス)という称号をイエス・キリストに適用せず,むしろヨハネはすべての創造が「全能者にして主なる神,昔いまし,今いまし〔ホ・オン〕,やがてきたるべき者」,すなわち天の御座にすわっている方」によると述べています。その方については,次のように言われています,「われらの主なる神よ,あなたこそは,栄光とはまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって,万物は存在し,また造られたのであります」。(黙示 4:8-11,新口; 10:5,6)その言葉は,神の最初の天的な創造でした。
「わが主よ,わが神よ」
49 使徒トマスがイエスに「わが主よ,わが神よ」と言ったいきさつを述べなさい。
49 三位一体の教理を教える者たちは,イエス・キリストが神であることは,ヨハネ伝 20章28節にある使徒トマスの言葉から証明されると論じます。イエスがトマスの前で化身して,杙にかけられたときの釘あとにトマスが指を入れ,ローマの兵士がイエスの死をたしかにするため槍でさした脇腹に手を入れないかぎり,イエスの復活を信じないと,トマスは他の使徒たちに言っていましたそれで,次の週にイエスは使徒たちにふたたび現れ,トマスに彼の言ったとおりのことをして,なっとくしなさいと告げました。「トマスはイエスに答えて言った,『わが主よ,わが神よ』」。(新口)ギリシャ語の原文ではこの言葉は文字通りには「私のその主そして私のその神」となっています。
50 ギリシャ語の教授モウレによると,「神」の前に定冠詞「その」が使われていることは,イエスが真の神と呼ばれたことを必ず意味しますか。
50 それでトマスがイエスに「神」と語ったことは,イエスがたしかに神である。つまり三位一体の神であることを証明する,と三位一体論者は論じます。しかし,シー・エフ・ディー・モウレ教授は,神という名詞の前のそのという定冠詞は,そのようなことを意味するものでないと言っています。f その事実を抜きにしても,昔の状態を考えて見て,使徒トマスの語った言葉が何であるかをたしかめて見ましょう。
51 イエスが復活された日に,トマスはイエスからどんな音信を受けましたか。それで,トマスは,イエスと彼の崇拝について何を知りましたか。
51 それより2週間前に,トマスはイエスが天の父に次のような祈りをささげるのを聞きました,「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。(ヨハネ 17:3,新口)その祈りをささげてから4日目,すなわち復活の日に,イエスはマグダラのマリヤにより,トマスと他の弟子たちに特別な音信を伝えました。「イエスは彼女に言われた,『わたしにさわってはいけない。わたしは,まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ,わたしの兄弟たちの所に行って,「わたしは,わたしの父またあなたがたの父であつて,わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」と彼らに伝えなさい』,マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って,自分が主に会ったこと,またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを,報告した」。(ヨハネ 20:17,18,新口)それで,トマスはイエスの祈りの言葉から,またマグダラのマリヤを通して伝えられたこの音信から,彼自身の神がだれであるかを知っていました。彼の神はイエス・キリストでなく,彼の神はイエス・キリストの神でした。また,彼の父はイエス・キリストの父でした。それで,イエスには彼の崇拝した神,すなわち彼の天的な父がいると,トマスは知っていました。
52 「わが主よ,わが神よ」というトマスの言葉を私たちはなぜ間違った意味に解釈してはなりませんか。
52 復活を受けたイエスを始めて見て恍惚のよろこびに浸ったトマスが,よろこびの声を発して,イエスこそ唯一の生ける真の神,エホバという御名前を持つ神であると,どうして言うことができましたか。トマスの言葉から,イエス御自身が「唯一の真の神」であるとか,イエスが三位一体の第2位の神であるなどと,トマスはどうして意味しましたか。トマスはイエスの言葉を聞いていました。またイエスの命令を知っていました。そのことから判断するとき,「私の主,私の神」というトマスの言葉の中に,どうしてそのような意味を考えることができますか。
53 イエスはなぜ,トマスの言ったことで彼を叱責しませんでしたか。
53 イエスこそ彼の呼んだ「私の神」および「私の父」で「唯一の真の神」であるとトマスが考えていたとイエスは知るなら,イエスはトマスを叱責したでしょう。イエスが父なる神から称号を取るとか,地位を取ることは決してありません。イエスは,トマスがあたかも,自分に対する呼びかけ方を間ちがえたかのように,彼を叱責しませんでした。イエスはトマスの言葉を聖書的に理解できました。同じく,使徒ヨハネも彼の言葉を聖書的に理解できたのです。
54 ヨハネの記録のこの箇所は,ヨハネ伝 1章1節について何をすべき絶好の箇所でしたか。
54 ヨハネはその場に居合わせて,「私の主,私の神」というトマスの言葉を聞きました。トマスのその言葉から得られる唯一の結論は,イエスが神である。すなわちエホバという名を持つ「唯一の真の神」であると,ヨハネは言いましたか。(詩 35:23,24)ヨハネがヨハネ伝 1章1節を説明して,肉体になられた言葉,イエス・キリストが神ご自身であり,イエスこそ「御子なる神,祝福された三位一体の第二位」であると言う絶好の箇所だったでしょう。しかし,ヨハネはその結論に達しましたか。ヨハネは読者にそのような結論を持たせようと思いましたか。ヨハネが私たちに持たせようと思った結論の言葉に耳を傾けて不さい。
55,56 (イ)イエス・キリストについて私たちに何を信じさせるために,ヨハネは彼の記録の中に種々の事柄を書きましたか。(ロ)それで,いままでのところ私たちは,ヨハネに従ってどんな結論に達しますか。
55 「イエスは彼に言われた,『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は,さいわいである』。イエスは,この書に書かれていないしるしを,ほかにも多く,弟子たちの前で行われた。しかし,これらのことを書いたのは」,何を信じるためですか。「あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり,また,そう信じて,イエスの名によって命を得るためである」。―ヨハネ 20:29-31,新口。
56 ヨハネはイエスについての伝記の中で,私たちに「イエスは神の子キリストである」ことを信じさせるためにいろいろのことを書きました。イエスが神であるとか,キリストが神であるとか,あるいはイエスが「御子なる神」であることを信じさせるためではありません。三位一体論者は,「御子なる神」と言って事態をことさらに歪曲します。しかし,私たちはヨハネの言葉通り,「神の子キリスト」というヨハネの説明を受入れます。私たちはヨハネの達した結論と同じ結論に達します。すなわちイエスがヨハネ伝の同じ20章の中で「私の父」および「私の神」と呼んでいる御方の子であるという結論です。したがって,トマスは「父なる神」と「子なる神」の両方を「三位一体の神」の平等者として同時に崇拝していたのではありません。
57 (イ)イエスに向かって言った「わが神」という言葉によってトマスは,イエスのみ父に関し何を認めていましたか。(ロ)黙示録 4章と5章は,ヨハネ伝 14章28節の意味をどのように説明しますか。
57 トマスは,イエス・キリストの崇拝した同じ神,すなわち父なるエホバ神を崇拝しました。それで,トマスがイエスを「私の神」と呼びかけたなら,彼はイエスの父を神の神として認めることが必要でした。すなわち,イエス・キリストよりも高い神,イエス自身も崇拝した神として認めるべきでした。黙示録 4章1-11節は,この神,天の御座にすわって,永遠に生きられる「全能の主なる神」を象徴的に描写しています。しかし,次の章である黙示録 5章1-8節は,イエス・キリストを,全能の主なる神の御座に来て,神の御手から巻物を受け取る神の小羊と述べています。これは,トマスと他の使徒たちに語ったイエスの言葉の意味を説明します,「わたしが父のもとに行く……父がわたしより大きいかたである」。(ヨハネ 14:28,新口)それで,イエスは彼の父を全能の主なる神,子よりも偉大で,匹敵者のいない御方と認めました。
[脚注]
b エイ・ティ・ロバートソン著「歴史の研究の光に照らされたギリシャ語新約聖書の文法」1934年版の495-505頁を見て下さい。
c ダナ,マンテイ著,「ギリシャ語新約聖書の文法便覧」1943年版の78頁を見て下さい。
d ダブリュー・グッドウイン博士著「ギリシャ語文法」1893年版230頁を参照。
e ウエストコット,ホート共著,「ギリシャ語新約聖書学生版」613頁1欄の「旧約聖書からの引用」と題された部分を参して下さい。また,イベラード・ネッスル博士著「ノバム・テスタメンタム・グラエス」の665頁,1欄(1960年版)「旧訳聖書から引用した節のリスト」,ジョセフ・エム・ブーバー著「ノビ・テスタメンティ・ビブリア・グラエカ・エト・ラテナ」イエスの社会,724,脚注14も見て下さい。
ギリシャ語「七十人訳」の箴言 8章22節はつぎのようになっています。“Kyrios éktisen me arkhènhodon autou eis érga autou.”エス・バグスター・アンド・サンズ有限会社出版の「七十人訳 ― ギリシャ語と英語」も参照して下さい。
f モウレ教授の言葉を引用します。「ヨハネ伝 20章6節 Ho Kyrios moukai ho théos mou 〔すなわち,わが主よ,わが神よ〕の中で,つぎのことが注目される。すなわち,呼格的意味〔イエスの呼びかけ〕で用いられ,そのあとに所有格〔わが〕を従えている主格の名詞が無冠詞〔つまり,『その』という定冠詞をもたない〕ではあり得ないということである……。ゆえに,théosの前の定冠詞に,たいして重要な意味はない。定冠詞〔その〕を実際の呼格〔言及されている前記のヨハネ伝 20章28節とペテロ前書 2章18節,コロサイ書 3章18節を比較して下さい〕につけて使うのもセム語の慣用語法に起因するのであろう」。―英国,ケンブリッジ大学神学部教授シー・エフ・ディ・モウレ著「ギリシャ語新訳聖書の熟語集」1953年版。
たとへば,ギリシャ語の呼格が元来定冠詞を前にもつことを示すものとして私たちは,ペテロ前書 2章18節,3章1,7節に注目します。その逐語訳はつぎの通りです。「家のその僕たる者よ。……仕えなさい。同じように,〔その〕妻たる者よ……その夫たる者よ……住みつづけなさい」。コロサイ書 3章18節から4章1節,「その妻たる者よ……その夫たる者よ……その子たる者よ……その父たる者よ……その僕たる者よ……その主人たる者よ……」。