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「人びとを弟子とし……教えなさい」ものみの塔 1977 | 8月1日
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心に達するように教えなければなりません。学ぶ人の心を動かせば,その人は行動を起こします。イエス・キリストは,「心に満ちあふれているものの中から人の口は語る」と言われました。(ルカ 6:45)確かに,人は良いたよりが心に達すると感動して他の人たちに話します。しかし学んだことを神の言葉から示すことができますか。もし聖書の用い方を教えられているならできるでしょう。聖書研究生にそうすることを教える良い機会は学んだことを一緒に復習するときです。例えば,ある点について聖書はなんと述べているか,聖書を開いて示しまた説明するように頼みます。会衆の書籍研究においても同様のことが行なえるでしょう。それは関心を持つ人々をさらに助けることにもなり,また家庭聖書研究の司会の良い手本をすべての人に示すことにもなります。
17 新たにバプテスマを受けた弟子に対して会衆にはどんな責任がありますか。なぜですか。
17 人がバプテスマを受けてイエス・キリストの弟子になっても,その人に対する会衆の責任は終わるわけではありません。その人は依然として霊的赤ん坊で,エホバとの関係において円熟するために,また神の言葉を教える資格のある者となるために,援助を必要としています。(エフェソス 4:11-16)引き続きその人と研究をし,会衆全員が人々を築き上げる霊的な会話を交わすことによってその人を励ますのは,キリスト教の精神にふさわしい行ないではないでしょうか。また,経験を積んだ会衆の成員と一緒に公の証言や教える業にあずかれるなら,その人にとって有益です。
18 弟子を作ることはなぜ喜ばしい業でもありまた重要な業でもありますか。
18 弟子を作ることは,命が関係しているために重要な業です。しかしまた多くの喜びをもたらす活動でもあります。他の人のために身を費やすなら,確かに大きな喜びを刈り取ることになります。(使徒 20:35)命が関係している以上,教える人は「神のみ旨をことごとく」伝えることに心を用いる必要があります。この面での怠慢は,教わっている人が重大な罪を犯す一因となりかねません。パウロがエフェソス会衆の長老たちに,「きょうこの日に,わたしがすべての人の血について潔白であることに関して,あなたがたに証人となってもらいます」と言えたのは,他の人が知る必要のある事柄を何一つ差し控えずに教えたからでした。―使徒 20:26,27。
19 イエス・キリストの弟子は皆,宣べ伝え弟子を作ることについて何をすることを決意すべきですか。なぜですか。
19 わたしたちイエス・キリストの弟子である者は一人残らず,良いたよりを宣べ伝え弟子を作る業に忠実であることを決意したいものです。この重要な活動と関連して,わたしたちはテモテ第一 4章16節の次の助言を自分に適用できます。「自分自身と自分の教えとに絶えず注意を払いなさい。これらのことをずっと続けなさい。そうすることによって,あなたは,自分と自分のことばを聴く人たちとを救うことになるのです」。『人々を弟子とし教えなさい』というキリストの命令に従うことは,わたしたち自身の救いと他の人々の救いに欠くことのできないものです。それは現在においては喜びと満足という形のすばらしい祝福につながります。なぜならわたしたちは自分が神の同労者であることを知っているからです。そして神のお立てになる新秩序においては永遠の命の約束を保ちます。(ペテロ第二 3:13)ですから,わたしたちには人々を弟子とし教えることに熱心であるべきあらゆる理由があるのです。
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「陰深き谷を歩もうとも」ものみの塔 1977 | 8月1日
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「陰深き谷を歩もうとも」
● 詩篇作者ダビデは言いました。「たとえ陰深き谷を歩もうとも,わたしは悪いものを恐れない」。(詩 23:4,新)ダビデは少年のころ羊飼いだったので,羊たちがどんな危険に遭遇するかをよく知っていました。薄暗い谷間には野獣がはいかいしているかもしれず,山賊が待ち伏せているかもしれません。深い穴が幾つかあるかもしれません。ですから羊飼いの注意と世話がなければ,羊たちは重大な危険に陥ります。羊と同様,ダビデも危険な事態に幾度も遭遇しました。しかし偉大な羊飼いエホバを信頼していたので安心していました。
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