最高至上者の御意が成されるよう
『神よ……見よ,御旨を行う為にまいりました。』― ヘブル 10:7,新口。
1,2 (イ)神の御意は,被造物の永遠の生命とどのように結びついていますか。(ロ)今日の正しい人々は,何を正しく選びますか。
神の最高至上の御意によると,征服者は永遠に生きます。(示黙 2:10,11; 21:6,7)征服者の中でも第一番の者はイエス・キリストです。彼は次のように語りました,『あなた方は,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。私はすでに世に勝つている。』(ヨハネ 16:33,新口)生ける神ヱホバは,殺された第一番の征服者を地上における死からよみがえして,天界の栄光を与えました。その後にイエスは,古代シリヤを旅行していた一人の旅人,すなわちタルソのサウロと呼ばれる殺害者を突然止めました。イエスは彼に向かつてこう語られたのです,『私があなたに現われたのはあなたが……あかしし……私は……異邦人との中からあなたを救い出し,あらためてあなたを彼らにつかわすが,それは彼らの目を開き,彼らをやみから光へ,悪魔の支配から神のみもとへ帰らせる……ためである。』(使行 26:16-18,新口)その時においても,また私たちの時代以前の時でも(西暦1914年までの約6000年),長なる悪しき者は『悪魔の支配』をこの世界なる組織制度に対して自由に行使して来たのです。イエス・キリストはこの世に打ち勝ちました。そして,イエスの弟子たちはこの世に打ち勝たねばなりません。
2 イエスは,地上に居られたときに次のことを真実に教えました,『だれも,ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し,あるいは一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなた方は,神と富とに兼ね仕えることはできない。』(マタイ 6:24,新口)それで,重大なことに,イエスが仕えた愛する主人そしてなおも仕えつづけている愛する主人は,あなたがいま仕えている高貴な主人,そして愛する主人ですか。イエスのように,あなたはその最高至上の神の奴隷ですか。別の言葉で言えば,あなたはイエスの主なる真の神,ヱホバに聞き従おうと,自分の心からよろこんで選びましたか。イエスのように,あなたは神の御意をなすのを悦びますか。あなたはヱホバに仕える目的のために自分の生命を意識的にまた自発的に献身することにより,『悪魔の支配』からきつぱり離れ,最高至上者の権威につきましたか。献身とは何かとあなたは尋ねます。
3 献身は何を意味しますか。
3 献身とは,神格者,聖なる目的,特定な人,原則,科学,国民,または選んだ職業とか生活の仕方に自分自身を自発的にかつ専心して捧げるということです。一番大きな意味を持ち,かつ最大の重要性を持つ献身は,人が他のあらゆる事柄から離れて神に身を捧げ,ヱホバ神に全く仕える時であります。すなわち,あなたの意志を最高の神の御意に順応せしめることです。神格者になされる献身は,無条件のものであつて,差しひかえるものがあつてはなりません。心の分れている献身というものであつてはなりません。なぜなら保留づきの献身はヱホバ神の御前にあつて無効なものです。ヱホバ神は絶対の献身すなわち専心の献身を要求いたします。―出エジプト 20:5; 34:14。申命 4:24; 6:15。
4 イエスは献身をどのように見なしましたか。
4 献身することについての完全な手本は,神の御子キリスト・イエスです。彼の献身は次の言葉で要約されます,『わが神よ我は聖意にしたがうことを楽しむ。』神に対するイエスの献身はまつたく一筋のものでした。他の事柄でもつてその献身を破らせるようなことをイエスはしませんでした。地上にいたイエスは,天の御父を良く御存知で,御父の律法を知り愛しました。彼は,全能の神との契約関係を破つたイスラエルの国民や他のものに何が生じたかを熟知しておられました。そのようなことを知つていたため,イエスは自分の意志を御父の御意に順応せしめるということに,一層熱心となり,強固な気持を持つたのです。―詩 40:8。ヨハネ 4:34; 6:38。
5 (イ)献身をしたクリスチャンには何が要求されていますか。(ロ)生活の習慣が急激に変ることはなぜ必要ですか。
5 それですから,ヱホバ神の御意をなそうと献身する人は,以前の生活の仕方,すなわち『悪魔の支配』下にあるこの世に共通な仕方から全く変化しなければなりません。献身した人の欲望も変わり,気質も変わります。この変化は自働的にはなされません。しかし,古い世の考え方から気持を切り替えて新しい考え方を行う結果に得られるものです。それは,神の御言葉について静かに注意深く真面目に考える結果として得られるものであつて,全く瞬間的に生ずる奇跡的な変化とか感情的な変化ではありません。正常な人間の心は罪に向かつているのです。私たちの最初の両親であるアダムとエバは意識的にもヱホバ神の敵であるサタンの意志を行うことを選び,彼らに対する真の神の御意を忘れたからです。『ひとりの人によつて罪がこの世にはいり,また罪によつて死がはいつてきた。』(ロマ 5:12,新口)その罪深い型にしたがつて,私たちは悪の中につくられ,死の処罰の下にいます。そのわけで変化をすることは是非とも必要なのです。そして又,神の御言葉からの新しい知識を心に入れることは是非とも必要なのです。この古い世なる組織制度にかたどれる古い考え方から絶えず離れつづけていなければなりません。新しいことを認めねばなりません ― すなわち,古い道から変化して悔い改め,新しい型に従つて生活の仕方を改変して行く欲望がなければなりません。このことは,パウロの次の助言をなし行うことです,『古い人格をその行と共に脱ぎすて,正確な知識により造り主の像にしたがつて新しい人格を着なさい。……ヱホバにふさわしい者として歩き,ヱホバを全くよろこばす為である。そして,あらゆる良き業に実を結び,神の正確な知識を増し加える。』このことは,人間の生活の仕方に完全な変化があること,つまり古い世の生活の仕方から新しい世の生活の仕方に変化したことを示します。私たちは次のことを留意しなければなりません。すなわちキリスト・イエスが御自分の生命の血を捧げられたのはこの正義の新しい世ということです。永遠の生命が得られるのはこの新しい世なのです。ヨハネの書いた言葉によると,現在の古い世は過ぎ去つてしまいます,『世と世にあるものとを愛してはいけない。……世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠に永らえる。』― コロサイ 3:9,10; 1:10,新世。ヨハネ第一書 2:15,17,新口。
6 今日の人間は神の像にいると,なぜ言うことができますか。
6 古い世は過ぎ去るのですから,クリスチャンは新しい世で生きるためその古い世に背を向けねばなりません。その心が変つて,考えが全能の神の御言葉に順応するよう変えられるとき,丁度罪を犯す以前の最初のアダムのように,その人は神の像にかたどられていると正しく言うことができます。その人が神のすぐれた知識にかたどられて行くとき,その人は神のかたちに戻ると正しく言うことができます。その点のところで人は完全になつたという意味ではありません。ただその人の考えはヱホバ神のなされる高い高尚な考え方に見ならつたということです。そのような道にしたがう人は,全能の神によろこばれ,かつ是認を受けるものです。
献身前の正しい心の態度
7 悔い改めとは何ですか。なぜそれが要求されますか。
7 謙遜で悔い改めの心を持つ人は,イザヤの書いた次の言葉の中でこう述べられています,『悪しき者はその途をすてよこしまなる人はその思をすててヱホバに反れ。さらばあわれみをほどこし給わん。我らの神にかえれ。豊に赦をあたえたまわん。』このことから,ヱホバに容易に近づけるということが分ります。ヱホバを見出したいと望む人については,ヱホバは御子キリスト・イエスを通して受け入れるでしよう。罪深い両親から生まれたために相続した罪は,ヱホバからゆるされるでしよう。パウロは古い人格を脱ぎ捨てる重要性を更に示して,こう語つています,『以前の生活に属し,その惑しの欲にしたがつて腐敗して行く古い人格を脱ぎ捨てなさい。しかし,あなたの心に働きかける力によつて新しくされ,神の御意にしたがい,まことの義と愛のうちにつくられる新しい人格を着なさい。』それで,私たちの以前の生活の仕方および欲望はまつたく捨てねばならないとパウロは明白に私たちの注意を惹いているのです。それですから,ヱホバの言葉を研究してヱホバの目的を知ることから得られる新しい考え方は,クリスチャンの生活の中にあつて働きをなさしめる力であります。―イザヤ 55:7。エペソ 4:22-24。
8 心が入れ変つて後,人はどんな性質をつちかうべきですか。
8 心が入れ変つて後,人はヱホバとその御言葉に対して第一番の敬意を表します。その人は,パウロの次のさとしに従います。『あなた方は……あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身につけなさい。』これらの性質は古い世で見出すことはできませんが,新しい世だけで見出すことができます。パウロの言葉はクリスチャンに宛てて書かれたものですが,それよりもずつと以前に述べられたヱホバの言葉は,そのような性質をヱホバがどれ程たいせつにしているかを示しています,『我はただ苦しみまた心をいため,我が言葉をおそれおののくものをかえりみる。』謙遜な人は,最高者なる神ヱホバに対して一番深い敬意を表します。―コロサイ 3:12。イザヤ 66:2。
9 どんな種類の隷属が要求されますか。それは何にもとづかねばなりませんか。
9 普通の人は全能の創造者にたいしてかたい専心の愛を表明することができますか。できます,その人は全能の創造者に専心の献身を捧げ,従順な奴隷が自分の愛する主人に進んで仕えるように,全能の創造者に仕えるという燃えるがごとき熱心を心に抱かねばなりません。仕えるとは従うという意味です。ヱホバに従う人々は,ヱホバに対する愛の気持から従います,『もしだれでも私を愛するならば,私の言葉を守るであろう。そして,私の父はその人を愛し,また私たちはその人のところに行つて,その人と一緒に住むであろう。私を愛さない者は私の言葉を守らない。あなたが聞いている言葉は,私の言葉ではなく,私をつかわされた父の言葉である。』(ヨハネ 14:23,24,新口)実際のところ,愛は神のいましめで成り立つすべての律法の本質であります。それで,キリスト・イエスは次のように語つてそのことを証されました,『あなたは,すべての心をこめ,すべての魂をこめ,すべての思いをこめ,そしてすべての力(活力)をこめて,あなたの神なるヱホバを愛さねばならない。』何かが省略せられているものは一つもありません。被造物は,創造者なるヱホバを真心からの忠節心の中に全く愛して仕えるように要求せられているのです。―マルコ 12:30,新世。申命 6:5。
10 (イ)献身後,人は自分自身をどのように見るべきですか。(ロ)どの程度まで人はヱホバに従わねばなりませんか。
10 キリストに従う真の弟子たちは,イエスが『だれでも私についてきたいと思うなら,自分を捨て』と述べられたごとく,自分自身のことを全く忘れることになります。自分自身を捨てるものは,自分の個人的な目的や,生涯の選択を捨てます。そして,自分の現在と将来に関するヱホバの御意と目的をなし行うと決意します。そして,それからはそれに相応しい振舞をいたします。
献身は責任をともなう
11 (イ)人は責任をどのように考えるべきですか。(ロ)クリスチャンたちの生活はどんな手本にならうべきですか。
11 自分の生命をヱホバに捧げる人には重い責任の荷がたしかに課せられます。この荷を忠実に負い運ぶことは,絶対の命令であつて随意のことがらではありません。つまり自分の選ぶ道とか,生活の仕方をすすんで捨て,神の御意を為すということです。ヱホバの長なる証者キリスト・イエスの道に従おうと選んだ為に嘲笑,非難,困難,迫害,苦しみ,入獄というようなものがもたらされるでしよう。そのような状態下にあつても,献身した者はイエスに従いつづけ,ヱホバの御意を行います。その人は,自分が神の御意を行うことを認識します。それですから,自分の責任については積極的な態度を持たねばなりません。『ここに私がいます。私を遣して下さい』と述べたイザヤと同じ態度を取るべきです。神の言葉を学んで,この責任を認めるとき,その責任が重すぎるなどとは感じません。また,その責任におずおずしたり,あるいは失敗するのではないかと恐れるようなこともしません。ヱホバの永遠につづく新しい世に住むと期待していますから,神の御言葉に従いつづけ,『恐れません。』その人は恐れと臆病の気持に打ち勝ちます。ヨハネが見て書きしるしたヱホバの啓示を想い起します,『私はまた,新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り……勝利を得る者は,これらのものを受け継ぐであろう。私は彼の神となり,彼は私の子となる。しかし,おくびような者,信じない者……すべて偽りを言う者には,火と硫黄の燃えている池が,彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』パウロもテモテに宛てて極めてよいはげましの言葉と力づけの訓戒を与えました。彼はこう書きました,『神が私たちに下さつたのは,臆する霊ではなく,力と愛とつつしみとの霊なのである。だから,あなたは私たちの主のあかしをすることや,私が主の囚人であることを,決して,恥ずかしく思つてはならない。むしろ,神の力にささえられて,福音のために,私と苦しみを共にして欲しい。』私たちは,イスカリオテのユダとか,またサタンを初めとして失敗した他の者たちから献身の意味を学ぼうとは考えません。むしろ,聖書に述べられている強くて忠実な勇気のある一連の征服者に求めます。彼らの生活こそ見ならう価値のある手本です。私たちは彼らと同じく強い決意を持ち得ます。また彼らと同じく従順な神の僕になり得ます。キリストの忠実な使徒たちを含めて初期クリスチャンたちは恐れをすこしも持ちませんでした。また,アブラハム,イサク,ヤコブ,ダビデのような人,そしてサラ,ラハブ,デボラ,ヤエルのような婦人がいます。そのほかにも,勇気があつて契約を保つた他のヱホバの証者は連々と存在していたのであつて,それは義人アベルの時にまでさかのぼるのです。彼らはヱホバの最高至上の力に強い希望のいかりを下し,死人をよみがえすというヱホバの力をも信じていました。そのような強い信仰があるとき,人はたとえ肉体の生命を失うことがあろうとも,敵を恐れることはないでしよう。―ルカ 9:23。イザヤ 6:8。黙示 21:1,7,8。テモテ後 1:7,8,新口。
12 真のクリスチャンの一人一人は,どんな選択に面していますか。
12 自分の生涯の行動を選ぶことは,個人の責任であつてモーセもこう示しました,『我は生命と死および祝福と呪詛を汝らの前に置けり。なんじ生命をえらぶべし。しかせば汝と汝の子孫生きながらうることを得ん。』しかし,どのように生命を選ぶことができますか。真のクリスチャンの為に設けられている道に従うことによります,『汝の神ヱホバを愛してその言葉を聴き,かつこれにつき従うべし。かくするときはなんじ生命を得かつその日を永うすることを得。』私たちはヱホバにまつたく献身することにより生命を選びます。そして,ヱホバに永遠に従い,私たちの責任の荷をはこび行います。―申命 30:19,20。
13 (イ)ヨシユアはどんな決定をいたしましたか。(ロ)私たちの時代において,正しい選択を怠る人には何が生じますか。
13 ヨシユアも又ヱホバに専心の献身を捧げるのに必要な個人的な選択をあからさまに示しました,『なんじらもしヱホバに事うることを悪しとせば,汝らの先祖が河の彼辺にて事えし神々にもあれ,又はなんじらが今おる地のアモリ人の神々にもあれ,汝らの事うべき者を今日選べ。ただし,我と我家とは共にヱホバに事えん。』(ヨシユア 24:15)献身していない人もみな同じく選ぶ自由を持つています。この選択は,その人の運命を決定し,生命か死かそのどちらかを決定します。現在のヱホバの力の日にあつて,もしヱホバに奉仕する為の献身を拒否するならば,その人の生命は罰を受くべき罪人としてハルマゲドンのとき(もしそれ以前でないなら)に永久に終つてしまうでしよう。すべての心,魂,そして思いをこめてヱホバに仕えたいと思う点にまで達したとき,『私は献身をしようか』という問は正しいものでありません。神の御意をなす為の献身は,キリスト・イエスにより前もつて定められた道です。それですから,自分はヱホバの御意について正しく理解しているであろうか。また,今から後キリスト・イエスの足跡に従う忠実な弟子としてヱホバのの御意を成し行う為に,ヱホバの要求について正しく理解しているだろうか,と自問すべきです。その正しい理解に達するなら,ヱホバに仕えたいと誠実に欲する人はためらいません。この積極的な前進の歩みは,ヱホバによつて規定されているのです。生命を得るために人はその歩みを取らねばなりません。キリストの足跡に従うクリスチャンになると同意して,その同意をなし行う人は,真実にクリスチャンです。キリストに従順に従う弟子は,水による洗礼をすることによりその献身を他の人の前で公けに言い表わし象徴いたします。
献身があなたに意味するもの
14 (イ)献身の前に何が為されますか。(ロ)献身の後に何が為されますか。(ハ)ヱホバへの献身の中には何が合まれていますか。
14 献身をする以前に魂を十分に調べることが必要です。献身ということは「ヱホバにより頼む」ということを認識しなければなりません。つまり,悔い改めること,すなわちこの点まで生活して来た古い世の不従順な罪深い生活の仕方から離れ去るという意味です。悔い改めたその人は,今では罪人としてヱホバの見地から物事を見ます。彼は,あがない主,贖罪者なるイエス・キリストというヱホバの愛ある御準備を認めます。キリスト・イエスの流された血の贖罪の価値に信仰を働かすことによつて,聖者なるヱホバと正しく一致調和するようになると,その人は認めます。それから変化が行われます。これは奇跡的な変化ではありませんが,新しい心の態度の出発であります。つまりその心の態度をもつて,その人は今後は神の啓示される御意をよろこび進んでしつかり行います。この面から見ると,献身は遂行されねばならぬ決定ということになります。人が生命をヱホバに捧げるとき,ヱホバがその御約束を果されるようにと期待します。そして,ヱホバが御約束を果すということについては疑問はありません。ヱホバも又,御自分の受け入れる者がその献身を成し行うようにと期待しています。部分的な献身というようなものはありません。すなわち,ためらうとか,あるいは制限つきの仕方でヱホバに献身しようと心の中で決定する部分的な献身はありません。献身の全きを危うくするような事柄は,何一つとして許してはなりません。それで,ヱホバになされるこの献身には,真実に重大な責任がともないます。神の御言葉を伝道することは,随意勝手なものであるなどと考えてはなりません。宣教の業は,キリスト・イエスの場合と同様に,是非しなければならぬ任命の仕事なのです。イエスの献身の時はその宣教の業の始まりとなりました。そして,為し行おうと決定し同意した新しい生涯の行いからイエスがそれるというようなことは一度もなく,また他の事柄で支障を受けるということも一度もなかつたのです。
15 献身は何にかたどることができますか。
15 これは最初を示すものですから,人の誕生日になぞらえることができます。つまり,新しい生命の最初ということです。この時以前では,人間生活のごく僅かな程度だけを楽しむことができました。しかも,私たちがアダムの堕落した状態にかたどられていたため処罰の下にいたのです。
16,17 (イ)新しく献身した人は,この重要な歩みをどのように見るべきですか。(ロ)新しく献身した人の目的は何ですか。
16 人は子供と同じように熱心に学び,円熟に達する為学びつづけなければなりません。子供は一生懸命に両親にまねようとします。また,子供には成人に達しようとする強烈な力があるのです。実際のところ,成人になりたいという気持から子供は熱心に進んで研究いたします。子供は幼児のままでいたいと思わず,また青少年のままでいたいと思いませんから,知識を得ようとつとめます。そのように,『新しく生まれた』クリスチャンは将来の自分の生命を見るべきです。
17 子供たちにミルクの食物とか,柔らかい流動食のようなものだけを与えるなら,子供はきらいます。子供は両親がかたい食物を食べているのを見て,そのかたい食物を食べたいと欲します。かたい食物は成人のものであると知つているからです。クリスチャンの場合もそうです。パウロはこのようにさとしました。『しかし堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから,私たちはキリストの教の初歩をあとにして,完成を目ざして進もうではないか。今さら,死んだ行いの悔改めと神への信仰,洗いごと(洗礼)についての教と按手,死人の復活と永遠のさばき,などの基本の教をくりかえし学ぶことを止めようではないか。』― ヘブル 5:14–6:2,新口。
18 献身した人は何を追い求めるべきですか。何がその人の心によろこびをもたらしますか。
18 クリスチャンは知識を熱心に追い求めねばなりません。かくして,霊的な円熟に達して自分の献身を為し行い,他の人々を助けて生命に達するのを援助することができます。若い人々が成人に達するということになぞらえることができるものです。成人になつて結婚すると,新しい子供たちを生みます。円熟したクリスチャンたちもそれと同様です。彼らは『来なさい!』と言つて他の人々をみちびきます。新しく聞いた人々は,以前の行いから離れて同様に研究し,ヱホバの御意をする為に自分の生命を献身するようになります。生活をするにしても,又は行うにしても,クリスチャン円熟は,すばらしい幸福な状態です。
19 献身を考えている人にとつて,それにともなう事柄を真剣に考慮することは,なぜ重要ですか。
19 献身という事柄を注意深く考える際に,人は次のように思うかも知れません,「この宣教の業をするとか,参加するなどということは,私にはとうていできない。でも私は神を愛しているし,私は神に仕える。私の生涯中神を十分に第一と認めるが,全き献身ということになると,とうていすることができない。」人は最初そのように考えるでしよう。しかし,そのような気持でいるならば,その人は研究しつづけ,正確な知識を採り入れるべきです。円熟した考え方をするならば,正しい決定に達することができるからです。これはまつたく肝要な決定です。丁度,将来のことを考えて,家の建築を計画している人になぞらえることができます。しかし,家を建てる場合でも,人は座つてその費用を計らねばなりません。イエスも次のように言われました,『あなたがたのうちで,だれかが邸宅を建てようと思うなら,それを仕上げるのに足りるだけの金を持つているかどうかを見るため,まず,すわつてその費用を計算しないだろうか。そうしないと,土台をすえただけで完成することができず,見ているみんなの人が,「あの人は建てかけたが,仕上げができなかつた」と言つてあざ笑うようになろう。』献身をする際に,人はその行いをなして最後まで守り通すということに伴うあらゆる事柄を計算しなければなりません。しかも,真面目な気持の中に熱心にすべきです。―ルカ 14:28-30,新口。
献身は幸福をもたらす
20 献身した僕たちに対するヱホバの祝福のいくらかは何ですか。そして,何がよろこびをもたらしますか。
20 あなたの捨てる事柄と,ヱホバから約束されている事柄をならべて比較してごらんなさい。(マタイ 19:27-29)そのことについて良く考えてごらんなさい! あなたの持つている良いものの中で,最初にヱホバから頂かなかつたものがありますか。献身,賛美,そして心からの奉仕を捧げるという力もヱホバから頂いたものです。あなたはこれらのものをよろこんでヱホバに捧げます。また,ヱホバに奉仕するためあなたのすべてをも捧げます。これらのものは,正しい方イエス・キリストを通してヱホバに快く捧げられます。それは,神の献身した僕たちに絶えず与えられ,言葉に言い表わし得ぬ特権と祝福をもたらします。しかし,次のことを留意して下さい。その人はヱホバの証者の一人としてヱホバの御名によつて呼ばれ,またヱホバの御名により語る特権を持つということです。亡びに定められて死に向かつているこの古い世にあつて,献身している神の僕たちはいちばん幸福な民であります。まつたくのところ,その民はハルマゲドンの神の宇宙戦争に生き残り,全地に亘つて完全となるパラダイスで永遠に生きるとつよく期待しています。それですから,多くの事柄は献身をすることに依存しており,あらゆることがらはその献身を守り通すことに依存しています。忠実を保つて献身の誓を忠節に果し行うことは最高の幸福をもたらします。それに失敗することは失望をもたらします。
21 献身の程度はどのくらいのものですか。
21 献身についての十分の意義および重要性は,イエスの次の言葉に要約されるでしよう,『あなた方のうちで,自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては,私の弟子となることはできない。』(ルカ 14:33,新口)どんなものであろうと,献身を妨げさせてはなりません。その中には妻や夫,家族そしてそれ以外に大切と思われるこの世のものも含まれるのです。ヱホバへの献身は,その程度においてまつたく明白なものでなければなりません。人はヱホバに専心の献身を捧げるという義務を負つています。