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宣教者の熱意 ― 真のクリスチャンのしるしものみの塔 1981 | 12月1日
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活動の分野で私たちの用いる主な道具は聖書なので,聖書の中の各書を順に,それもしばしば節を追ってなされる聖書研究,およびそれと関連のある歴史や地理,および聖書時代の生活の仕方等を扱った課程などは,私の受けた訓練の中でも最も大切な部分として脳裏に残っています。さらに,人々と話し合い,人々を教える能力を向上させるための演習授業もありました。新しい環境での生活を楽しむために,どんな調整が必要になるかをも悟るよう助けられました。私にとって大きな助けになった別の事柄は,ありとあらゆる背景の人々から成る大きな“家族”と一緒にギレアデで5か月間生活したことです。これは様々な環境の中で生活してきた成員から成る宣教者の“家族”との生活に順応する助けになりました」。年の経過に伴って,ギレアデのカリキュラムは,新しい宣教者を外国の地における割当てに備えさせるのに役立つものとなるよう,より一層実際的で効果的なものへと改訂されてきました。
では,だれがそのような特別の訓練を受ける資格にかなっているのでしょうか。一般的に言って,求められている要件は,申込者の年齢が21歳から40歳の間であり,世界のどこへでも出掛けて行って奉仕するのに妨げとなるような扶養家族やその他の責任がないということです。申込者は独身か,結婚して少なくとも2年を経ている人で,健康でなければなりません。また,少なくとも3年前にバプテスマを受け,現時点で全時間の王国宣明者として少なくとも2年間中断することなく奉仕していることが求められます。また,申込者は真の宣教者精神を抱いていなければなりません。冒険心などではなく,割り当てられた業を行ないたいという願いに動かされているべきなのです。これには,エホバ神と将来自分たちが割り当てられる地に住む仲間の人間に対する深い愛に動かされていることが求められます。この種の愛に動かされていれば,物事がそれまで慣れ親しんできたほど便利で快適ではなくても,自分たちの任命地で真の満足を味わえます。―ルカ 10:27。
宣教者としての真の熱意を抱いていますか
外国で宣教者として奉仕できるエホバの証人は比較的少数に過ぎないことは明らかです。しかし,エホバ神の献身した僕たちすべては,それと同じ宣教者としての熱意を抱いているべきです。もっとも,気を散らすものが多いので,そうした熱意を保つには勤勉な態度が求められることを認めなければなりません。
時には,高校に通う若いエホバの証人が,国の内外を問わず全時間の宣教者の業を自分の目標にしたいとの願いを言い表わすことがあります。ところが,そのような特別の奉仕にあずかる資格にかなうころになると,当初の熱意は消え失せてしまっているのです。一体どうしたのでしょうか。世の霊によって横道にそらされるままになってしまったのでしょうか。世の霊は自己本位なもので,快楽を追い求め,きつい仕事や責任を侮ります。この霊の影響を受けたために,単に仕事を立派に成し遂げるだけでは満足を覚えられなくなった人もいます。世の多くの人にとって,生涯の仕事は“面白く”て,“刺激的”で,“魅力”がなければならないということになっています。そうでなければ,その仕事は世の人々にとって何の魅力もないものになります。ですから,若いクリスチャンの男女は,特に次のように自問してみる必要があります。安楽な生活に対するこの愛が幾らか自分にも乗り移っていないだろうか。世の霊,あるいは他の何かのために,宣教者の業に対する自分の熱意が弱まっていないだろうか。
年齢を問わず,またたとえ国の内外で宣教者の業に全時間あずかることができなくても,自分が宣教者としての真の熱意を抱いているかどうか自己吟味をしてみるのは有益なことです。自分には宣教者として示す熱意が何らかの点で欠けていると思えるなら,それに対してどんな措置を講ずることができますか。
使徒 4章を調べてみれば,一層の注意を向けるべき分野を正確に見定めるのに役立ち,1世紀のクリスチャンの宣教に対する熱意を一層十分に見倣えることでしょう。13節に,反対者たちは使徒たちが「イエスといっしょにいた」ことに気づいた,という記述があることに注目するとよいでしょう。今の生活で追い求める事柄が色々あるため,聖書研究を通して『イエスといっしょにいる』ことが少なくなり,当初の熱意を失ってしまったのかもしれません。
23節には,使徒たちが,試練に直面した後でさえ,できるだけ早く仲間の信者たちと集まり合い,霊的に励ましを与え,互いの熱意を強め合ったことが示されています。それに対し,それ自体別に異存のないような娯楽その他の活動で,仲間のクリスチャンと定期的に集まり合うことを妨げられるままにするなら,やがて徐々に宣教者としての真の熱意を失ってしまうでしょう。24節から30節に収められている優れた祈りの言葉は,熱意を増し加えようとする人々に対してさらに導きを与えるものとなります。イエスの弟子たちが大胆さをもって語れるよう祈ったことに注目しましょう。これらの信者たちがその祈りの中で求めたのと同じほど誠実な態度で,自分の熱意が増し加わるよう助けを与えてくださるように神の霊の力を求めていますか。そうであれば,31節に記されているのと同じような結果を予期できるでしょう。エホバはその祈りを聞き届けてくださり,弟子たちは聖霊に満たされて,『神のことばを大胆に語った』のです。
「良いたより」は証しのために人の住む全地で宣べ伝えられるであろう,とイエスは言われました。特権と言えるその業に携わるに当たって,クリスチャンの中には自国の区域で宣教者としての熱意を表わす人もおり,外国の野外でその熱意を表わす人もいます。その人たちは,熱意を抱いて,「神のことばを大胆に語る」のです。
ギレアデ学校開設当初は54か国で宣べ伝えられていたに過ぎなかった王国の音信は,エホバの過分のご親切により今や200以上の国に響き渡っています。では,宣教者の生活とは一体どのようなものなのでしょうか。その物質上の必要はどのようにして満たされていますか。宣教者はどんな所に住んでいるのでしょうか。言語の問題にどのように対処していますか。外国で宣教者として奉仕することを考えておられるなら,次の記事は特に勇気を与えるものとなるでしょう。
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宣教者として過ごす一日ものみの塔 1981 | 12月1日
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宣教者として過ごす一日
「今のは6時半のベルかしら」。
「6時55分のベルかもしれないわ。朝食の食卓に着くまであと5分しかない。いいえ,大丈夫。まだ6時半よ。十分時間があるわ」。
これは,私とルームメートが毎朝のように交わすやり取りです。毎朝6時半に起きるようになってからもう幾年にもなりますが,いまだに6時半という起床時間は早く思えます。私たちは,ここ台湾省台北市にある宣教者の家に住むエホバの証人で,朝7時に仲間の宣教者たちと集まって,朝食前の霊的な討議を行ないます。
私たちの“家族”では,様々な成員が交替で調理を行ない,市場への買い出しに出掛け,家の掃除その他の務めを行ないます。
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