理性を働かせることは平和への道
1,2 (イ)理性の力を用いるなら,どんな変化が起こりますか。(ロ)このことは使徒パウロにより,どのように強調されていますか。
エホバ神は人間に理性を与えました。人間には,理性を働かせる力があります。人間は,このすばらしい能力を用いることによって,神に仕えることができます。人間は神のすばらしい性質 ― 神の愛,恵みと過分の御親切,神の全能の力,限りのない知恵,そして神の完全な正義を ― の真価を認識するからです。賢明な人は,このような事を良く考えて,自分もそのような性質をいくらか持っており,それを増すために努力しなければならぬことを悟ります。それで,彼は神に仕えることができます。そして彼の仕える神を愛してよろこばすことによって,彼は神の道にならい,ますます神のようになることができます。
2 使徒パウロは,天の御父に完全にならって例示されたキリストに,一心にならいました。そのパウロは,私たちにこう助言しました,「兄弟たちよ,そういうわけで,神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを神によろこばれる,生きた聖なる供え物として,ささげなさい。それは,あなたがたの理性の力によって行なう聖なる奉仕である。この世の組織制度に従うのをやめなさい。むしろ,神の善にして御旨にかなう全き御心をわきまえ知るために,あなたがたの思いをかえて変化しなさい」。―ロマ 12:1,2,新世。
3 道理にかなった性質を持つことは,どのように快く,また肝要ですか。なぜですか。
3 私たちは,道理にかなった神のごとき性質を持つ人と交わるのを楽しみます。そのような人は,公正な心を持ち,正しく物事を考え,近づき易く,そばにいるだけで平和な気分がかもし出されます。しかし,これよりもさらに大切なことは,いつも道理にかなっておられる神をよろこばすために道理にかなうことが肝要です。神は,使徒を通して,人々が理性の力を用いるようにと招待しています。使徒は,「あなたがたに勧める」と述べているのです。聖書のロマ書 12章の中には,私たちの理性の力で奉仕するとはどういう意味か,くわしく述べられています。正しく考えることによって知恵,平衡,理解および良識が得られることを知ります。道理にかなった人は,必要以上に自分のことを考えず,むしろ健全な心を持ちます。その章の3節はこう述べています,「わたしは,自分に与えられた恵みによって,あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく,むしろ,神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって,慎み深く思うべきである」。
4 (イ)どんな研究がもっとも肝要ですか。なぜ?(ロ)何について考えをめぐらすのがもっとも益のあるものですか。なぜ?
4 道理にかなって考える際に,私たちは原則を事実や問題に演繹的に関係づけて特定な細事を明確にします。あるいは,帰納法的に事実を互いに比較して,一般的な原則を示すか,明確にします。しかし,純粋に考えるだけで十分ですか。そうではありません。多数の思想家や哲学者は混乱しており,平和の道を知らないのです。聖書に従って正しく考えるべきであって,人間の標準や哲学に従って考えるべきではありません。私たちはエホバの思いを悟り,神の善にして御旨にかなう全き御心が何であるかをたしかめよと告げられています。このためには神の御言葉を研究することが必要です。私たちは霊的なみちびきを持たねばなりません。「生れながらの人は,神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また,御霊によって判断されるべきであるから,彼はそれを理解することができない」。(コリント前 2:14,新口)私たちはまた黙想しなければなりません。といっても,私たちの勝手な空想をあたまに描くということではないのです。私たちの黙想は,神によって導かれることがぜひ必要です。私たちの道理にかなった考えは,聖書に基づかねばなりません。そのような黙想は,くつろいでいる時でもすることができます。詩篇記者は次のように語りました,「わたしは,あなたのすべてのみわざを思い,あなたの力あるみわざを深く思う」。(詩 77:12,新口)ほんとうに,神のみわざを深く思うことが最善です。このようにして,私たちは生活活動を聖書の標準と比較し,エホバの霊的な言葉を,生活に影響する霊的な事柄に適用することができます。それで,むずかしい決定を下さねばならないとき,私たちはそのような事についてのエホバのすばらしいさばきを思い出して,それに従うことができます。このように考えることにより,私たちは正しい原則にみちびかれていることが確信できます。
研究と黙想は肝要
5 聖書のひとつの点について考えをめぐらす一例をあげなさい。
5 黙想の一例として,ロマ書 11章にある使徒の言葉を考えることができます。それは,パウロがロマ書 12章1節で述べている道理にかなった奉仕が実際に何であるかより良く理解するためです。その11章の中で,彼はイスラエルに提供されたすばらしい機会を示しています。すなわち,キリストの支配する天の御国制度内のすべての地位を占める,という機会でした。彼は彼らが,どのように,そしてなぜ失敗したかを示しています。しかし,エホバの過分のご親切と測り知れぬ知恵により,外部の諸国民に,栄光に輝くこの政府の地位をみたす道が開かれました。それから,クリスチャンたちが不従順を罰する神の正義だけを考えず,神に奉仕することをのぞむユダヤ人と異邦人の両方に準備を設け給う神のすばらしい愛,知恵,および力について考えるべきであるとすすめています。彼らはこのことを良く考えた結果,そのからだを生ける犠牲として,理性の力とともにささげるべきであると,彼は語っています。ほんとうに,それは道理にかなった行いです。
6 (イ)集会の準備をするときどのように物事を考えますか。(ロ)例をあげなさい。
6 また道理にかなった考えには,聖書研究の集会のために,正しく準備することも含まれます。たとえば,御国会館での毎週1度の研究に備えて「ものみの塔」を研究するかも知れません。質問を研究して注解を準備するとき,仲間のクリスチャンたちを建ておこす注解をどのようにつくるかを良く考えなさい。集会に出席している新しい人々のことを考えなさい。あなたの注解は,明白なもの,簡潔なもの,理解し易いものでなければなりません。答えを読むということでなく,むしろ自分の言葉で注解する準備をして,他の人も物事を考えるように励ましなさい。研究と準備の際の黙想の一例として,1961年5月1日号の「ものみの塔」267頁の21節を考えているとしましょう。その節の要旨はこうです。人はこの世の職業でいっしょうけんめい働いて成功するかも知れません。しかし,最高の職,もっとも価値のある目標は,エホバ神の奉仕者として神の要求にかなうことです。この節についての理解と注解を充実したものにするため,なにかの職業または実業界や政界で成功を収めるためについやす研究,犠牲,決意および長年にわたる働きを思い出すことができます。それから,一生の職業なる奉仕というすばらしい価値,およびそれに力,熱意,注意,まったくのところ,生命をも捧げる絶対的な必要性を考えることができます。
7 準備をするときにそのように考えることは,集会の際にどのように有益ですか。
7 もしあなたがこのことをするなら,あなたが会衆の集会に出席するとき,あなたが道理にかなっていることは他の人に,物事を考えさせる励ましになり,彼らも理解を得るでしょう。聞く人は,たとえ新しく来た人でも,援助を受けます。それこそ,パウロの述べているごとく集会の目的であります。「全員が預言をしているところに不信者か初心者がはいってきたら,彼の良心はみんなの者に責められ,みんなの者にさばかれ,その心の秘密があばかれ,その結果,ひれ伏して神を拝み,『まことに,神があなたがたのうちにいます』と告白するに至るであろう」。―コリント前 14:24,25,新口。
8,9 物事を良く考えるときに,私たちは宣教について十分の認識を持ち,伝道される人々を援助することができますか。それがどのようになされるかを示しなさい。
8 奉仕について道理にかなった考えをめぐらすことにより,奉仕を改善し拡大することができます。わざをこのようにすること,あるいはそのようにすることは,なぜ益がありますか。これは批判するために行なうのではなく,むしろ進歩をはかるためであり,義務の観念で奉仕する,きめられたことだからという考えで奉仕する,またはおきまりの仕方で奉仕することを避けるためです。それは私たちが愛をつちかうことを助けます。私たちは,理性の力で宣教の奉仕を行ない,適用と経験により神の御心を証明せよと命ぜられています。私たちは,まごころこめてわざを行なうようにすすめられているのです,「分ける者は,惜しみなく分け,指導する者は,熱心に指導し,あわれみを示す者は,よろこんでするべきである」。―ロマ 12:2,8,新世。コロサイ 3:23。
9 たとえば,なぜ私たちは特別な題についてのいろいろな聖書の話を準備して,人々の家庭で話すのですか。それは人々を励まして考えさせ,道理に合った考えをなさせ,聖書を生活の事実に適合させ,そして彼らに真理を得させるためです。私たちはこうすすめられています,「キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって,……健全な言葉を模範にしなさい」。(テモテ後 1:13,新口)ちがった聖書の論題 ― それぞれは人類の希望として御国を指し示します ― について話をすることにより,人々は程なくして私たちの語る言葉の中にひとつの型を見るようになります。良い心を持つ人々は,正義の新しい世の希望を心にはっきり描くことができます。
10,11 (イ)私たちは,だれに対して理性を働かさねばなりませんか。(ロ)個人的な奉仕に,理性を働かさないなら,どんな危険がひそんでいますか。
10 それでは,私たちはまず,だれに対して理性を働かさねばなりませんか。私たちの生活のあらゆる面に理性を働かさねばなりません。まず第一に,私たちは宣教を行なう自分自身に対して理性を働かさねばなりません。これは健全な心を持つこと,いろいろの責任のなかに時間を正しく釣合わせ,もっともらしい,口達者な考え方で自分の言訳をしないことです。私たちにはエホバの過分のご親切によって奉仕が与えられました。使徒は「奉仕をしなさい」とさとしています。彼はまた,「愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け,善には親しみ結び」とさとしています。宣教に対するあなたの関心は,むかしよりもすくないですか。他の事柄のために,あなたは冷かになりましたか。道理にかなった考えはこう示します,すなわち正しいことを愛する気持ちが冷くなるとは,罪をにくむ気持ちがなくなることです。これは危険です。道理に合うようにしなさい。そして,宣教を生活中の第一の当然のところに置くために心要な調節をしなさい。イエスが,彼に対する神の御心が何であるかを説明した後,ペテロは人間的な見地から彼に反論しました。そのとき,イエスは偽りの考え方の危険に気づいていたのです,「すると,ペテロはイエスをわきへ引き寄せて,いさめはじめ,『主よ,とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』と言った。イエスは振り向いて,ペテロに言われた,『サタンよ,引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている』」。―ロマ 12:7,9。マタイ 16:22,23,新口。
11 私たちは自分自身について道理にかなった行いをします。そして,娯楽,読書,思想,交際,世俗の仕事,家庭および家族のことについては道理にかなった行いをします。私たちの奉仕は全時間の職,一生の仕事です。クリスチャンには次のいましめが与えられています,「飲むにも食べるにも,また何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである」。―コリント前 10:31,新口。
同様な信仰を持つ人々に対しての理性のある行い
12 指示か助言を与える際に,私たちの道理にかなった行いはなんですか。
12 次の段階は,同様な信仰を持つ私たちの兄弟たちに対して理性のある行いをすることです。もし私たちが道理にかなうなら,私たちは落ちついて,親切で思いやりがあり,独断的ではなく,がんこではないでしょう。ひとりのエホバの証者が他のエホバの証者に指示か助言を与えるときに,「ぜったいにこうでなければならぬ」というような言い方をしないでしょう。むしろ,使徒の次の助言に従います,「兄弟の愛をもって互にいつくしみ,進んで互に尊敬し合いなさい」。(ロマ 12:10,新口)人が神に献身していても,私たちはその人に要求できる権威があると感じてはなりません。使徒パウロの残した模範を考えてごらんなさい。彼は使徒の権威を持っていたので命令することができたはずです。しかし,彼はコリントの会衆に手紙を書いて,彼らの至らぬところについて語ったとき,次のように言いました,「このパウロが,キリストの優しさ,寛大さをもって,あなたがたに勧める」。それで規則はこうです,「だから,機会あるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行なおうではないか」。―コリント後 10:1。ガラテヤ 6:10,新口。
13,14 合理的なことは,私たちが間違いを避けることをどのように助けますか。一例をあげて下さい。
13 私たちは互いに助け合いたいと思います。他の人々を私たちの環境にあてはめようとしたり,彼らが私たちと同じことをすると期待しても,助けることができません。むしろ,理性に訴えて考え,その人の機会を最大に利用するように援助することによって助けることができます。「わたしたちは,自己推薦をするような人々と自分を同列においたり比較したりはしない。彼らは仲間同志で互にはかり合ったり,互に比べ合ったりしているが,知恵のないしわざである」。―コリント後 10:12,新口。
14 たとえば,クリスチャンの一婦人は,真理に反対している夫を持っているかも知れません。彼女は,妻として彼に対する責任を感じます。そして,週末に彼が家にいるときは,彼といっしょに時間を過ごさねばならぬと感じます。すると,彼女は日曜日の朝の家から家の伝道の取りきめに参加できないことになります。しかし,彼女は近くの場所で週に1度の聖書研究に集まる群れの人々といっしょに週中の奉仕活動に参加します。彼女が会衆の他の人々の計画 ― その人々の環境は彼女の環境とちがう ― に合致するよう計画を立てないからといって,彼女を叱ったり,批判したりすることは,専横であり,道理に外ずれてはいませんか。
15 親切な態度で兄弟と話し合い,その機会を最大限に利用するように援助の手をさしのべる例を述べて下さい。
15 会衆の監督は,会衆内のひとりの人と話し合って,その人の機会を最大限に活用する方法を知らせることがあるかも知れません。監督は,家族のあるクリスチャン兄弟のひとりが正しい指導をしていない,あるいはその子供たちを正しく援助していないのに気づきます。監督は,親切な仕方でその兄弟に近づき,次のような趣旨の理にかなった言葉を告げることができます,「私たちの中のある者は,家族の責任を持っているので,伝道や教えるわざに全時間をささげることができません。それでも,私たちがみな神の全時間奉仕者であると知るのは,私たちを励まし,慰めるものですね。しかし,父親であるあなたは,神に献げた時間の中のいくらかをあなたのお子さんといっしょに過ごして,お子さんを援助する特別の特権を持っています。そのことは,エペソ書 6章4節(新世)に示されています,『自分の子供をいらだたせないで,エホバのこらしめと権威ある助言とに従って子供を育てなさい』。そのような機会を十分に活用するには,努力が必要です。パウロはこのことを知っていたので,テモテにこう助言しました,『こういうわけで,あなたに注意したい,……内にいただいた神の賜物を,再び燃えたたせなさい』。(テモテ後 1:6,新口)灰掻で火を燃えたたせるように,私たちを燃え立たせるためになんらかの処置を取らねばならない時があります。このことを秩序正しく,かつ効果的にするため,コリント前書 14章40節(新口)には,『すべてのことを適宜に,かつ秩序を正して行うがよい』との規則が述べられています。それで,あなたが時間の予定を立てて,子供たちに十分の注意を向けるようにすることは良いでしょう。あなたがご自分のお子さんを,心からかあいがっておられることは,私も良く知っています。神もあなたのお子さんを愛しておられるので,お子さんを聖なる者と見なされています。それで,お子さんの研究にあなたが注意を向けられ,野外奉仕で良いたよりを伝道するときに,お子さんを援助されるなら,あなたは神の援助を戴き,幸福な結果を得るでしょう。パウロも次のように語りました,『わたしは植え,アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは,神である』。(コリント前 3:6,新口)あなたのお子さんが忠実を保つ神の奉仕者として成長するのを見るでしょう」。監督は,これらの聖句を論じて後,兄弟に計画を取りきめる援助を申し出で,でき得るかぎり個人的に助けることができます。
理性があれば大切なものを第一に置く
16 他の人を援助したり,助言を与えたりする際,私たちは大切な事柄にどのように留意することができますか。例をあげなさい。
16 伝道のわざをすることは,大切なことです。理性を働かせるなら,私たちはその伝道のわざ,および伝道をする彼らの信仰と努力を感謝することができます。良いたよりの宣明に参加するには信仰が必要です。伝道に多少の時間をついやすエホバの証者は,それぞれ信仰を持っています。聖書は次のように述べています,「神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって,慎み深く思うべきである」。(ロマ 12:3,新口)もし信仰を持つひとりの人が,そのわざに成功しているなら,特定な仕方で物事を行なわせるように努めてはなりません。多分,ある人は家から家の伝道を新しく始めたばかりかも知れません。他の人は,長年の経験を持っているかも知れません。その両人とも聖句をすぐ開くのに手間どるかも知れません。教える者がこれらの奉仕者といっしょに奉仕するとき,いますすめられている聖書の話の中の聖句をひとつ残らず使用していないということで,彼らを批判してはなりません。実際,ある人は特定な聖句をもっと上手に取り扱って,その聖句の説明に成功することでしょう。それでは,その人をがっかりさせてもならず,また扱いにくい他の聖書の話を,無理にでも使わせてはなりません。もしあなたが教える人なら,道理にかなう助言をして,その人を励まし,建ておこさねばなりません。その人を援助しなさい。もしその人を援助して,他の聖書の話を学ばせて,使用させることができるなら,これものぞましいことであって,その人の宣教は進歩するでしょう。このようにするとき,あなたは聖書の次の助言に従っています,「あなたがたが,何が重要であるかを判断することができ,キリストの日に備えて,純真で責められるところのないもの……」。(ピリピ 1:10,新口)神の善にして,御むねにかなう全き御こころが何であるかを証明することは大切であると告げられています。私たちがこの世からはなれ,忠実を保ち,良いたよりを伝道して教えることは重要であると神は見なしておられます。もし私たちが互いに助け合ってこのことをするなら,たいへんけっこうなことです。
17 私たちは他の者に要求しませんが,しかし何をするように努力すべきですか。
17 一方,各人は指示に従ってわざをするときに道理にかない,全世界の神の奉仕者と一致調和した奉仕をしなければなりません。人は伝道の方法を変化させねばならないでしょう。その人は効果的に教えていないかも知れません。その人は,真理や会衆に人々の注意をひいて,他の人々との交際の必要を示すことよりも,自分自身に人々の注意を集めているかも知れません。その人は,他の人々に対しての模範を考えねばなりません。その人が道理にかなう考えをするなら,次のことを認識するでしょう。すなわち,いま私たちに教えられる事柄は,つまり私たちをして将来に備えさせることであり,後日私たちが新しい状態や責任に面するとき,私たちを良く助けるでしょう。
18 理性を働かす人は,間違いを訂正されるとき,どのように反応しますか。
18 特に道理にかなって良く考えねばならぬ大切な時は,質問あるいは論争が起きるときです。そのような環境の下では,人は理性的で,温和でなければなりません。おそらく,あなたは間違いをしたかも知れません。証拠が示されるとき,耳を傾けて快く聞き,あなたの見解あるいは行動を変えることは,道理にかなうことであり,平和とあなた自身の福祉に貢献します。へりくだった謙遜な心を持つなら,あなたはがんこな態度,強情な態度を取らす,むしろすなおに物事を考えるでしょう。もしあなたが道理にかなった人なら,矯正を受けるときに怒ったり,失意したり,あるいは「面目をつぶした」のではないかと心配することはなく,むしろ,あなたは聖書の次の助言に注意を払います。「あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく,……互に思うことをひとつにし,高ぶった思いをいだかず,かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない」。道理にかなった考え方をすれば,あなたの間違いが大きくなる前に,矯正してくれる人のいることに感謝するでしょう。―ロマ 12:3,16,新口。
19 道理にかなった人は,他の人を矯正するとき,何に留意しますか。
19 多分,立場が逆で,あなたが他の人を矯正しているかも知れません。そのとき,あなたが道理にかなった考え方をするなら,次の賢明なさとしに留意するでしょう,「『しるされている定めを越えない』ことを学び,ひとりの人をあがめ,ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。いったい,あなたを偉くしているのは,だれなのか。あなたの持っているもので,もらっていないものがあるか。もしもらっているなら,なぜもらっていないもののように誇るのか」。(コリント前 4:6,7,新口)あなたは愛と温和の中に矯正を与え,『自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと,反省しなさい』。―ガラテヤ 6:1,新口。テトス 3:2。
同様な信仰を持たない人々に対しての道理にかなった行い
20 理性を働かすことによって私たちは,私たちが教えようとしている者たちに対して,どのように有用な奉仕者になれますか。
20 私たちは他の人々にも道理にかなっていることを示さねばなりませんか。そうです。聖書のさとしは次の通りです,「あなた方が道理にかなっていることをすべての人に知らせなさい」。(ピリピ 4:5,新世)家から家の奉仕のとき,興味のある人を再訪問するとき,聖書研究を司会するとき,教えるわざをするに際しては,大きな忍耐をもって良く物事を論じ合い,他の人の立場に自分を置かねばなりません。そのとき,彼はその人を助けることができます。なぜなら,その人にとって特定な点を理解することがなぜむずかしいかを知ることができるからです。彼は自分の教えている善意者が主の羊であることを認めます。イエスは,主の羊を「飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れている」者と述べられました。そのような者は偽りの教えのため,また神の御言葉を知らないために困惑していることを彼は知ります。彼は愛と寛大を示して,パウロが述べたごとく,仲間の人間に対する思いやりを示すでしょう,「もてなしの道に従いなさい。喜ぶ者と共に喜び,泣く者と共に泣きなさい」。―マタイ 9:36,新口。ロマ 12:13,15,新世。
21 道理にかなった教えをすることは,教えを受ける者にどんな影響を及ぼしますか。
21 道理にかなった教えをする人は,他の人々も神の御言葉に対して道理にかなった態度を取るような基礎を設けているのです。その人は,真実の奉仕者について述べている聖書の次の記述とぴったり一致します,「主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は,彼らに悔改めの心を与えて,真理を知らせ,一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても,目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう」。―テモテ後 2:24-26,新口。
22 信者でない家族の成員に対して,どの程度まで合理的であるべきですか。
22 時には,家族の者が信者でないため,私たちが道理にかなっているかどうかをためす最大の試験がなされます。そのような場合,私たちの愛する肉親の者たちに対して,同じく愛と親切な思いやりを示さねばなりません。しかし,ある面においては,いっそう多くの思いやりと理性的であることが要求されます。私たちには,彼らに対する重大な責任が課せられるのです。すると,時間および責任についての平衡の取れた計画を取りきめる際,理性的であることが,どうしても必要です。それは,私たちの家族の霊的な福祉と私たちの公共の奉仕に注意を向けるためです。
23 迫害されて反対を受けるとき,クリスチャンは,どんな態度を取るべきですか。彼らはどんな助言に従うべきですか。
23 おそらく,理性的であることを示すことに対するいちばん豊かな報いは,私たちが逆境,反対そして迫害に苦しむとき,あるいは御国の良いたよりを教える宣教のわざが官憲によって禁ぜられている国々で伝道するときです。道理にかなった奉仕者は迫害のもたらされる理由を理解します。彼は積極的な,楽観的な見解を持つでしょう。クリスチャンは,そのようなものを期待すべきであることを彼は認識するでしょう。それは預言の成就です。それは多くの場合,迫害を加える者が正しく事情を知らないためです。それで,道理にかなった仕方で事態を検討し,迫害を加える者たちがまどわされていることを認識するとき,彼は迫害を加える者たちに対して復しゅう心,報復しようという気持ちをもたないでしょう。彼は,人々の心をくらまして,良いたよりの光を見させない者が悪魔であることを忘れません。したがって,クリスチャンは人間に対して戦うのではなく,またその武器は人間の武器,すなわち,報復心,きびしいこと,悪口雑言,そして肉の武器ではありません。(コリント後 4:4; 10:4,5。エペソ 6:11,12)クリスチャンは,聖書のロマ書 12章14,17,19-21節(新口)に述べられている行動について考えをめぐらすでしょう,「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して,のろってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず,すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで,むしろ,神の怒りに任せなさい。なぜなら,『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が復讐する』と書いてあるからである。むしろ,『もしあなたの敵が飢えるなら,彼に食わせ,かわくなら,彼に飲ませなさい。そうすることによって,あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって,善をもって悪に勝ちなさい」。
24 私たちは,どのように善でもって悪に打ち勝つことができますか。
24 悪事がなされても,あなたはけんかをしたり,腹を立てたり,嫌悪の気持ちを抱くべきではありません。たとえ,悪に対して悪を返す力を持っていても,あなたは善でもって悪に打ち勝ちなさい。預言者エリシャは,この良い手本を示しました。スリヤ軍の一隊が彼を捕えに来ましたが,エホバは彼を守るために彼らを一時のあいだめくらにしました。イスラエルの王は彼らをその場で殺そうと思いました。しかし,エリシャは彼の考えを矯正して,こう語りました,「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって,捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ,その主君のもとへ行かせなさい」。これは,悪で報いたよりも,良い結果をもたらしました。記録は言葉をつけ加えています,「スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった」。―列王紀下 6:14-23,新口。
25 ペテロ前書 3章15節に述べられているペテロの助言に全く従うために,私たちはいま何をすることができますか。どんな希望をいだいて?
25 時には,探究心に富んだ善意者が親切な質問をする代りに,官職につく者が手きびしい要求をするかも知れません。そのような場合,次のことをするべきであると使徒ペテロは述べています,「あなたがたのうちにある望みについて説明をもとめる人には,いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし,やさしく,慎み深く,明らかな良心をもって,弁明しなさい」。(ペテロ前 3:15,新口)いま神の御言葉を研究し,それに一致する奉仕活動によって,そのような事柄を前もって準備するのは,健全な考えと言えます。いまは行動すべき絶好の時です。聖書の示すところによると,サタン悪魔は近い将来に,神の民に最終的な攻撃を加えるでしょう。道理にかなう考えをするとき,私たちはいまこの世のものを十分に楽しむことができません。いまはクリスチャンの戦争の時です。この世の有様は変わっています。私たちには,栄光に輝く将来の新しい世の希望があります。このこと,およびその近いことを考えるとき,使徒の言葉はかつてないほどに今の時代にあてはまります,「望みをいだいて喜び,患難に耐え,常に祈りなさい」。―ロマ 12:12,新口。コリント前 7:29-31。
26 クリスチャンが道理にかなった行いをするとき,会衆にはどのように平和がもたらされますか。
26 したがって,理性を働かせることは,自分自身に平和をもたらすだけでなく,もっと大切なことはクリスチャン会衆に平和をもたらします。ロマ書 12章4,5節に述べられている密接な関係のゆえに,私たちの行為は会衆に影響します,「なぜなら,一つのからだにたくさんの肢体があるが,それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように,わたしたちも数は多いが,キリストにあって一つのからだであり,また各自は互に肢体だからである」。道理にかなった行動により,会衆はコリント前書 1章10節(新口)に述べられている完全な平和と一致を保つことができます。「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって,あなたがたに勧める,みな語ることを一つにし,お互の間に分争がないようにし,同じ心,同じ思いになって,堅く結び合っていてほしい」。―コリント前 12:26,新口。
27 理性を働かすことは,どんな面で平和をもたらしますか。
27 道理にかなった行いの結果は,心の平和,神との平和,私たちの隣人との平和,私たちの奉仕における平和,でき得るかぎりクリスチャン信者でない者たちとの平和をもたらします。聖書は次のように命じています,「あなたがたは,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」。―ロマ 12:18,新口。
28 クリスチャンはだれをよろこばせることに努めますか。前途にはどんな見込みがありますか。
28 クリスチャンは,エホバ神をよろこばすことに努力します。箴言 16章7節に,その原則が述べられています,「ヱホバもし人の途を喜ばゞその人の敵をも之と和がしむべし」。私たちの理性の力をもってエホバの道に従うことにより,私たちは悪に打ち勝ちます。そのとき,善以外の何があるでしょうか。理性を働かすことは,上からの知恵の一部です。神の御言葉にみちびかれるとき,それは私たちを幸福な状態にみちびくでしょう。次の言葉を述べたパウロは,クリスチャンたちにその幸福な状態を希望しました,「最後に,兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば,愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう」。―コリント後 13:11,新口。ヤコブ 3:17。
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「しかし上からの知恵は,第一に清く,次に平和,寛容,温順であり,あわれみと良い実とに満ち,かたより見ず,偽りがない。義の実は,平和を造り出す人たちによって,平和のうちにまかれるものである」。―ヤコブ 3:17,18,新口。