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かくされた神の知恵 ― 聖なる秘義ものみの塔 1963 | 7月15日
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18 シナイ山にいる間,モーセは五書のどれだけを,書いたと考えられますか。
18 事の次第を述べれば,まず神は十戒と共に奴隷,害に対するつぐのい,盗み,不品行,貸借などのほか,安息日その他の祭に関する数多くの「おきて」を与えました。しかしそれだけではありません。数日後,モーセは教えを授けられるため再び山に上り,「四十日四十夜,山にいた」のです。その結果は何でしたか。いろいろな証拠をしらべると,モーセは創世記,出エジプト記,レビ記そしておそらく民数紀略の最初の部分をシナイ山で書きました。―出エジプト 21:1; 24:18,新口。
19 人間の考えに従えば,モーセはただ一人でイスラエルのために何を成しとげましたか。
19 一般に考えられているように,このすべての記録が人間の考えによって書かれたとすると,2,3ヵ月以内に一人の人モーセが民事と宗教の両面にわたり,イスラエル国民の生活全般を詳細に律する法の体系を作りあげたことになります。基本法である十戒と,民法の性質を持つ無数の律法のみならず,イスラエルの宗教と崇拝に関するきわめて詳細な規定をも一人の人が書き上げたと言わなければなりません。その中には契約の箱,幕屋とその器物,周囲の庭の造営,祭司と大祭司の衣服,その材料と寸法,色など,また任命の儀式が含まれています。その他レビ記には人が神に近づくために守るべき,さまざまの律法,いろいろなささげ物がしるされています。
20 このすべてを一人の人のわざと考えることは,なぜ不可能ですか。
20 率直に言って,このすべてを一人の人間のわざに帰することは不可能です。そのぼう大な量を別にしても,そこに盛られた思想は高遠なものであり,これに匹敵するか,あるいはこれに近いものを作り出した人間また国家はありません。モーセ以前において神が交渉を持たれた族長社会にも法制の存在したことは十分に考えられますが,モーセの書いた事の大部分は,一国家を成す国民に開花しつつあった民族の新しい崇拝の組織を定めたものです。また「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ」たと言っても,その書いたものに,異教の生活のならわしと崇拝を暗示するものは何もありません。―使行 7:22。
21 モーセその他の聖書筆者すべてが,エホバの霊によって書いたことを示すさらにどんな証拠がありますか
21 更に注目に値する点がもう二つあります。一国家が完備した法制を備えるまでには多くの年月を要し,法律は改正を経ます。しかしモーセを通して与えられた律法にはこの事が全く見られません。もうひとつの注目すべき点は,「律法はきたるべき良いことの影をやどす」と述べたパウロの言葉に言い表わされており,パウロはヘブル人に書き送った手紙の中で律法の多くの面をとりあげて,それが「天にあるもののひな型」になっていることを説明しています。ではモーセがこの事を予見し,自分の少しも知らない事柄の予影となるように律法を書くことははたして可能ですか。使徒パウロまた他のだれにしても自分の知性だけによって,天に属するエホバの新しい器のひな型が昔の律法に美しく映し出されているのを見ることができますか。モーセとパウロまた聖書を書いたすべての人が,エホバの聖霊に動かされて神の偉大な本を書いたことには,少しの疑いもありません。―ヘブル 10:1; 9:23。
22 律法をどんなひと言で言いあらわせますか。それはモーセの書いたものと,どのように比較できますか。
22 モーセの後はどうなりましたか。15世紀以上の後,聖書の別の筆者は律法契約が解消されたことを説明して,神は「わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を,その規定もろともぬり消し,これを取り除いて,十字架につけてしまわれた」と述べています。また別の箇所でこの同じ聖書の筆者は,人間の考え方に従って言えば,律法全体を書き直して,それを愛の一語で表わしています。そして「愛は律法を完成するもの」であり,「律法の全体は,『自分を愛するように,あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きる」ことを論証しています。これは人にはれるといったような,多分に情緒に動かされた愛ではなく,エホバご自身が示されたような愛です。「神は愛である」と,使徒ヨハネは述べました。これはモーセの書き残したものにくらべて見ばえはしないかも知れませんが,深奥に達するものを持っています。―コロサイ 2:14。ロマ 13:10。ガラテヤ 5:14。ヨハネ第一 4:16,新口。
23 聖書を神のことばとして真に受け入れる人には,どんな祝福にみちた将来がありますか。
23 このようにどの面からこの問題をしらべても,ひとたび正しい見方を理解すれば,「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたもの」であり,「まことの神」エホバの朽ちない記念であることを,以前にもまして認識でき,聖書全巻の真実性だけでなく,その預言の確実な成就を確信できます。エホバの証者の新世社会すなわちエホバに全く献身し,そのことばを心から受け入れる人々は,今すでにこれらの良いものを味わっており,まただれでもそれにあずかれるのです。エホバご自身が次のように言われました,「このように,わが口から出る言葉も,むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし,わたしが命じ送った事を果す。あなたがたは喜びをもって出てきて,安らかに導かれて行く」。―テモテ後 3:16。詩 31:5。イザヤ 55:11,12,新口。
24 聖書に関して,更にどんな質問がありますか。
24 どんな本の場合にも,あるいは聖書の如く多くの本の集成であっても,著者の人となりを知ることは,その本を適正に評価するために必須ではないにしても,大きな助けとなります。聖書とその著者に関して,この点を次にしらべるのは有意義なことです。
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勇気をもって特別開拓者になるものみの塔 1963 | 7月15日
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勇気をもって特別開拓者になる
◇ 聖書の神エホバに献身し,その後,全時間奉仕者として生涯働くという目標を追い求めてゆく時には,自分の家族から切り離されることもあります。教育のある一人の若い青年は,5ヵ月ほど勉強したのち,集会に出席し始めました。彼は,父親の経営するマーケットで働いていましたが,血の使用に関する聖書の原則を学んだ時,店で鶏の血を売る事を断わりました。それを聞いて腹を立てた父親は,聖書の研究を止めるように命じました。研究は他の場所で行なわれるようになり,9ヵ月後にはエホバに献身し,休暇開拓奉仕者になりました。父親の怒りは増し,「この上私の言う事を聞かず,伝道を続けてゆくというなら,もうおまえの世話は見ないからそう思え。そして,家から出て行け。おまえの神エホバがめんどうを見てくれるかどうかためしてみるがいい」とおどしました。この時,兄弟の心に浮かんだ言葉は詩篇 27篇10節の聖句でした。「わが父母われをすつるともエホバわれを迎へたまはん」。身のまわりのものをいくらかまとめて,兄弟は家を去りました。天の父はマタイ伝 6章の約束を守られたでしょうか。イエスは剣を投ぜんために来た,人の仇はその家の者なるべしと言われませんでしたか。この兄弟ははっきりとした決意を抱いて開拓奉仕を続け,今では特別開拓者になっています。この兄弟が一人になって倒れるのをエホバは許されませんでした。その上は彼は以前の100倍もの兄弟,姉妹,母たちを得ています。皆さんもあと少しの勇気と努力と信仰を加えて,開拓奉仕を始められますか。
◇ 若い姉妹からの手紙。「3年前,私の母は献身しました。母は全時間伝道者の必要を認め,開拓奉仕を始めました。母自身はもちろん,在学中の妹と私二人を扶養せねばならぬ立場にあり,一定の収入手段もありませんでしたので,母にとってこれは非常に信仰を必要とする事でした。しかし,母は,それらのことに思いわずらうことなく御国の事を第一とせよとイエスが言われた事を心にとめていました。私たち二人は母が開拓奉仕を続けてきたこれまで2年半の間に,イエスの言葉の真実さを深く認めるようになりました。母は今特別開拓者になっており,エホバは母の勤勉な奉仕を豊かに祝福されています。母の熱意と献身の態度は妹と私にとってすぐれた模範となりました。今私自身は喜びのうちに献身以来6回目の休暇開拓奉仕をしています。母が数々の障害や難事にぶつかっても,決して喜びとしあわせな様子を失わない理由が私にも分かってきました。こうして若い時から進むべき道にしっかりと訓練されているのを知って私はうれしく思っています。」― いずれも1963年のエホバの証者の年鑑,シンガポールの項から。
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