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負債に対する神の見方ものみの塔 1977 | 7月1日
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のほかは,だれにも何も負ってはなりません」と勧めました。―ローマ 13:8。
ですから,神の是認を得たいと願っている人は,借金を返済したり受け取った物品の代金やサービス料を速やかに支払ったりする点で良心的でなければなりません。そのためには,現在抱えている負債を増やさないよう十分注意する必要があります。さもないと,借金を支払えないような状況に追い込まれるかもしれません。また,借金の返済を遅らせてはなりません。収入の相当部分をぜいたく品や金のかかる娯楽,旅行などに費やして,借金の返済を遅らせることは,道理と感謝の念にはなはだしく欠ける行為といえるでしょう。
中には,親族や友人からお金を借りた場合,返済の義務をそれほど重視しないでよいと考える人がいるようです。しかし,誠実さを欠いたそのような行為は,親族関係や友人関係を利己的に利用していることにならないでしょうか。
借りた物を返そうとしない人は,確かに愛に欠けていることになります。正当な権利のあるお金を使う機会を他の人から奪っていることになるからです。そうした行為は他の人に害を及ぼすことさえあるでしょう。例えば,医師や弁護士,電気技師,大工として生計を立てている人の場合を考えてみましょう。このような仕事をするには経費がかかります。その人たちは,自分の仕事に対する報酬によって,生活費のほかに,そうした出費も賄わねばなりません。もし,多くの人が支払いを怠るなら,これら専門職の人は,支払いができなくなり,破産という事態に追い込まれかねません。他の人の生計手段を奪うことは,明らかに愛のある行為ではありません。
これは非常に重要な事柄です。使徒ヨハネは,この点を明確に指摘して,クリスチャンに対して次のように書きました。「すべて自分の兄弟を憎む者は人殺しです。そして,人殺しはだれも自分のうちに永遠の命をとどめていないことをあなたがたは知っています。かのかたが自分の魂をわたしたちのためになげうってくださったので,それによってわたしたちは愛を知るようになりました。それで,わたしたちは兄弟のために自分の魂をなげうつ務めがあります。しかし,だれであろうと,生活を支えるこの世の資力があるのに,自分の兄弟が窮乏しているのを見,しかもその兄弟に向かって優しい同情の戸を閉じるなら,その者にはどんな意味で神の愛が残っているでしょうか」― ヨハネ第一 3:15-17。
窮乏している兄弟がどこからも助けを得られない場合,長期にわたって必要物を与えないでおけば,その兄弟は死んでしまうでしょう。ですから,クリスチャンであるととなえながら,助けを与えようとしない人は,怠慢という一種の罪を犯していることになります。同様に,仲間の信者を利用して負債の支払いを不当に遅らせる人は,仲間の信者を失業に追い込んだという罪に問われるかもしれません。その結果仲間の信者は,深刻な金銭上の問題を抱え,貧困状態に落ち入ることも考えられます。万一,そのような事態が生じるなら,負債の支払いを拒否した人は,仲間の兄弟に対して実にいとうべき事を行なったと言えないでしょうか。
良心的なクリスチャンは霊的な関係を利用して利得を得ようとはしません。それが「不正な利得に貪欲」な行為につながることを知っているからです。(テモテ第一 3:8)聖書は,こうした貪欲さがエホバ神のみ前における人の立場を危うくするものであることを教えています。これを如実に物語るのは,エリシャの従者ゲハジの例です。シリア軍の長ナアマンは,エリシャによって,忌まわしいらい病をいやしてもらいました。そのお礼に,ナアマンは預言者に贈り物をしたいと望みました。しかし,エリシャはそれを断わりました。神から与えられた預言者としての職務とそれに付随する能力によって利得を受けることを望まなかったからです。しかし,貪欲なゲハジは,エリシャの断わった金品に目がくらみ,虚偽の口実を設けて,ナアマンから贈り物をせしめました。結果として,エホバの裁きが下され,ゲハジはらい病にかかりました。―列王下 5:15,20-23,27。
ですから,貪欲な気持ちにかられて負債の支払いを遅らせている人は,その身に不利な裁きを受けることになるでしょう。『貪欲な者は神の王国を受け継がないのです』と,聖書は警告しています。(コリント第一 6:10)そうです,そうした貪欲さのために永遠の命という賜物を失うこともあり得るのです。それは,なんと高価な代償なのでしょう。
それゆえ,クリスチャンであるわたしたちは他の人との関係において正直でありたいと思います。わたしたちは次の諸原則に従って生活すべきです。「自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」。(マタイ 7:12)「時に恵まれているかぎり,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)わたしたちが,他の人に借金の返済を良心的に行なって欲しいと望むのであれば,わたしたちの側もその点で正しい模範を示すべきではないでしょうか。わたしたちはとりわけ仲間のクリスチャン兄弟に対して善を行なうことについて関心を払うべきであって,借りている物を返す点では,その親切に付け入るようなことをしてはなりません。
仲間の信者と商取引きをする際に特別に値引きをして好意を示してくれて当然だ,と考えるのはクリスチャンにとってふさわしいことではありません。もし,特別な配慮が示されるなら,それに対して感謝すべきでしょう。クリスチャンは,仲間の兄弟が何であれ受ける権利のあるものを受けるよう願うはずです。クリスチャンの奴隷に対する使徒パウロの次の助言は,この点に関する優れた指針を与えています。「信者である所有者を持つ人は,それが兄弟であるからといって見下げることがあってはなりません。むしろ,自分の良い奉仕の益を受けるのが信者であり,自分の愛する者であるからこそ,いよいよ快く奴隷として仕えなさい」。(テモテ第一 6:2)クリスチャンが仲間の信者に対する負債を良心的に返すことは,確かにこの勧めの言葉と調和します。
負債に対するわたしたちの態度が,聖書の原則に則した私生活を反映するものでありますように。他の人から借りているものを故意に返さないのは邪悪な行為であるという事実を忘れてはなりません。貪欲であったり利己的であったりするがゆえに自分の責務をないがしろにする人に,至高者が好意の目を向けられることはありません。『愛のほかは,だれにも何も負わない』時に初めて,わたしたちはエホバの祝福を期待できるのです。
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『無酵母パンを用いて祭りを行なう』ものみの塔 1977 | 7月1日
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『無酵母パンを用いて祭りを行なう』
■ 聖書は,クリスチャン会衆の清さを保つ必要性を強調しています。堕落させる影響は取り除かれねばなりません。コリント人への第一の手紙の中で,使徒パウロはこう諭しました。「古いパン種を除き去りなさい。あなたがたは酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まりとなるためです。実に,わたしたちの過ぎ越しであるキリストはすでに犠牲にされたのです。ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パンを用いて祭りを行なおうではありませんか」― コリント第一 5:7,8。
モーセの律法契約の下では,年に一度,過ぎ越しの犠牲がささげられ,それに続いて7日の間,無酵母パンの祭りが行なわれました。しかし,イエス・キリストはご自身をただ一度だけささげられました。(ヘブライ 9:25-28)それゆえ,クリスチャンは,その全生涯を通じて,無酵母パンの祭りを行なっているかのごとく,有害で邪悪な事柄すべてから離れていなければなりません。クリスチャン会衆の中には,個人および会衆の清さを保ち,信仰と道徳を汚すものはどんなものでも進んで除き去るという態度が見られるべきです。
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