誉の中に共に住む
「兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」― 詩 133:1,新口。
1 すべての誉は誰に帰するべきですか。そしてなぜ?
エホバにこそあらゆる誉,賛美,そして栄光を帰するべきであります。エホバは全能者であられ,そしてその地位を保つ彼は完全な忠実を保つておられる故に,それはエホバに帰すべきであります。エホバの原則は,その律法やさばきと同じく正しいものです。エホバはそれらを熱心に守り,それらに対する忠節からすこしもそれません。エホバはそれらを大切に重んじておられるので,彼御自身がそれらに従つておられるだけでなく,御自分の御使の大軍や,地上にいる忠実な僕たちが,これらの原則に従うよう要求しておられます。
2 天界にいる者たちには何が要求されましたか。はづれてそむいた者には何が生じましたか。
2 エホバの居られる天界で誉の中に共に住む者たちには,良い名が要求されています。それと同じく,エホバは地上の被造物にも同様の責任を置かれています。天では忠実からはずれそむくことが生じました。それは,サタンになつた者が,天の大軍全部の住んでいたこの誉のある天に対して反逆したときです。その結果,時たつ中に彼は取りのぞかれました。いまでは,彼は悪い名を負つています。―黙示 12:9。
3 (イ)なぜ良い名を大事にするべきですか。(ロ)良い名を持つ者の特質は何ですか。
3 人間も良い名を重んじてさがし求めなければなりません。それは神の御言葉内にひとつの要求として述べられているからです。箴言 22章1節(新口)はこう述べています,「令名は大いなる富にまさり」この聖句から,エホバは良い名を尊重しておられることが分かります。そのような名は,模範的な正しい行為をするときに得られます。なぜなら,正しい人は誉を持つ者で正しい原則を守るからです。それで,良い名を持つ人が信頼できる人,忠節で誠実な人,しつかりした人であることは明白です。その事実から,その人はエホバの御前でほめられる者であることが分ります。
4 (イ)良い名を持つ人は,どんな標準を追い求めますか。(ロ)違反者とクリスチャンの群れにおよぶ結果は何ですか。
4 クリスチャン奉仕者は,生活のあらゆる面で名誉ある標準を守ります。クリスチャン会衆内で,結婚の関係内で,仲間の者との商売で,新しい世の社会内の他の者との関係で,名誉ある標準を守ります。その事については,この世の人々に対しても名誉ある標準を守ります。別の言葉で言えば,彼はすべての関係において良い名を持つ人です。名誉ある原則に従わないとき,あるいはその原則の違反があるなら,難事がすぐに生じます。そして,それが続くなら,災の結果をひきおこします。姦淫,乱行,不正に行なう商売,いつわり,あるいはののしりというような違反が生ずるとき,その結果は災のものです。エホバの律法を無視して悪事を行なうことは,神の標準に違反することです。そのようなことを行なう者は,エホバ神に不名誉をもたらすだけでなく,自分の交わつているクリスチャン会衆にも,友だちにも,そして自分自身にも不名誉をもたらしています。この結果,その人は会衆から除かれることになります。それ故,調和と一致の状態で誉のうちにいつしよに住むことが要求されているだけでなく,エホバに専心の献身を捧げて仕える人々は,それを大切に守つているのです。
5 (イ)会衆内の者たちのあいだにはどんな関係が存在すべきですか。(ロ)キリスト・イエスは,御父との一致をどのように保ちましたか。
5 忠実なクリスチャン奉仕者の群れが会衆内で集まるとき,各人たがいどうしの関係は協力をはつきり示す関係でなければなりません。それは多くの肢体で成立つ体になぞらえることができます。肢体が頭からの指示通りに働くとき,すばらしい仕事を為し行なうと期待できます。全部は同じ目的に向かつて働いているからです。全員の協同の努力は,たがいの地位に対して十分の尊敬を払うことによつて保つことができます。大切なことは,かしらの指導に従うことです。かしらを尊敬することは,ヨハネ伝 5章30節(新口)のところでキリスト・イエスにより良く示されました。イエス・キリストは,自分のかしらとしてつねに認めたエホバ神の御前における彼の地位に関して,次のように述べました,「わたしは,自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして,わたしのこのさばきは正しい。それは,わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めているからである」。また,ヨハネ伝 8章29節(新口)では,「わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしている」それで,キリスト・イエスの場合には彼が御父と全く一致していたことに,例外というものは絶対にありませんでした。ほんとうに,『彼らは一致と誉の中に共に住んだ』と言うことができます。
6 (イ)神権制度内ではどんな名誉ある原則が保たれていますか。(ロ)この点について,パウロは会衆の人々や監督たちにどんな助言を与えましたか。
6 正しい尊敬と誉が権威を持つ者に示されるとき,同じ原則は神権制度内に認められます。クリスチャン会衆は,民主主義的な機構ではなく,全く神権的なものです。そして奉仕の僕たちは,エホバの制度を通してその御霊により奉仕の地位に任命されています。会衆内の者たちは,監督についての敬虔な原則に一致適合すべきであつて,使徒パウロは,それについての助言を与えています。彼は彼らに次のことを要求しました,すなわち,「あなたがたの間で労し,主にあつてあなたがたを指導し,かつ訓戒している人々を重んじ,彼らの働きを思つて,特に愛し敬いなさい」。その地位を持つている人の故ではなく,その地位そのものの故です。真のクリスチャン奉仕者は,誉と尊敬のうちに,その地位を正しく保ちます。パウロは,監督たちのために更に次の助言を与えて,こう述べました,「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き入れて,従いなさい。彼らは,神に言いひらきすべき者として,あなた方のたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなたがたの益にならない」。会衆の監督は,監督という立場を正しく行使する際に自分自身の言葉とか教えを与えず,むしろエホバの御言葉なる聖書からの教えを守り行ないます。また,彼を支配する神の制度を通して与えられる教えを守り行ないます。あらゆる面において,彼は誉のうちに,各人のために目をさまして見守つています。それは兄弟たちに対する彼の愛の表現です。彼はよろこびつつそれを行なうのであつて,重荷のように見なさないことから,それは無私の愛の表現です。―テサロニケ前 5:12,13。ヘブル 13:17。ペテロ前 5:2,新口。
兄弟愛
7 会衆内の各人に対してクリスチャン奉仕者の持つべき正しい感情は何ですか。
7 クリスチャン奉仕者は,監督から正しい指示を受けるだけでなく,会衆内で絶えず交わりを持つ兄弟たちに対しても愛,尊敬,そして思いやりを持ちます。詩篇記者は,次の言葉を強調して述べました,「見よ,兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」。(詩 133:1,新口)たがいに尊敬と思いやりを示すことは,最も適当なことです。「親しみは侮べつを産み出す」という言葉は,エホバの制度にあてはまりません。全くのところ,親しく知り合うようになれば,クリスチャンたちはいつそう密接な間柄になつて,寛容な態度をとりお互のあやまちを見のがすようになるはずです。そして,不完全な各人が生まれながらに持ついろいろな性質をゆるすはずです。―コロサイ 3:13。
8 (イ)会衆内の人々のあいだの不一致は,どのように解決されるべきですか。(ロ)どんな実例は,良い模範となつていますか。説明しなさい。
8 もし兄弟たちのあいだに分争が起るなら,それは当事者どうしの寛容と思いやりの空気のうちに解決されます。そのようにすれば,さらに深刻な状態とか事情は避けられます。このことについての正しい態度を示す例として,アブラハムとロトの経験を見てみましよう。両人が新しい地をいつしよに旅行していたとき,アブラハムの家畜を守る人々と,ロトの家畜を守る人々とのあいだにあらそいが生じました。両人が分かれて,各人がそれぞれのちがつた地を取ることは必要になりました。アブラハムがロトに提供した寛大な解決案に気をつけてごらんなさい。アブラハムは次のように語りました,「わたしとあなたの間にも,わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましよう。全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けば,わたしは左に行きましよう」。「ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと,エホバがソドムとゴモラを滅ぼされる前であつたから,ゾアルまでエホバの園のように,またエジプトの地のように,すみずみまでよく潤つていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとつて東に移つた。こうして彼らは互に別れた。アブラハムはカナンの地に住んだが,ロトは低地(ヨルダン川の下流)の町々に住んだ」。(創世 13:8-12,新世)このことから,アブラハムが自分自身の利益を最初に求めず,むしろ穏便に問題を解決したかつたことが分かります。兄弟たちのあいだに生じた不一致とか争論を解決しなければならぬときは,この実例について考えることが良いでしよう。会衆内の分裂とか悪意を避けることは,会衆の健康および成長にとつてぜひ肝要なものです。
9 コリントにおける分裂に直面したとき,パウロはどんな助言を与えましたか。ローマでは?
9 あるとき使徒パウロはコリントに来ました。そして不愉快な状態を知りました。すなわち,会衆内のある人々のあいだに分裂があつたのです。ある人々は,パウロにつくと言い,他の者はケパにつくと言い,そしてさらに他の者はキリストにつくと言つていました。パウロは次のように語りました,「わたしの兄弟たちよ。実は,クロエの家の者たちから,あなたがたの間に争いがあると聞かされている」。「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によつて,あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし,お互の間に分争がないようにし,同じ心,同じ思いになつて,堅く結び合つていてほしい」。(コリント前 1:10,11,新口)意見の相違が生ずるなら,それをなくすために問題の源を見つけ出さねばなりません。そしてパウロはローマ人に次のように助言しました,「だれに対しても悪をもつて悪に報いず,すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」。パウロは更に次のような警告の言葉を告げました,「あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し,つまずきを与える人々を警戒し,かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら,こうした人々は,わたしたちの主キリストに仕えないで,自分の腹に仕え,そして甘言と美辞とをもつて,純朴な人々の心を欺く者どもだからである」。これは,良い予防の助言です。会衆の一致を保つために,問題に警戒を払い,そのような問題を取りのぞきなさい。―ロマ 12:17,18; 16:17,18,新口。
不和を解決する
10 クリスチャン奉仕者が自分の兄弟に対して苦情を持つとき,何をするべきですか。
10 兄弟たちの間に意見の相違があるなら,あるいは他の者に悪いことをするなら,または仲間のクリスチャンが罪を犯すのを見るなら,あるいは不服を申し立てることがあるなら,その当事者のところに個人的に行つて,その者と事を話し合わなければなりません。これは全く聖書的な行ないです。聖書は,次のように助言しているのです,「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,行つて,彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら,あなたの兄弟を得たことになる」。これは争論を解決する賢明かつ論理的な仕方ではありませんか! ふたりのあいだに不和が生ずると,一方の者はそれを他の多くの人々と相談することが,しばしば行なわれます。これはクリスチャンの行なう事ではありません。たとえ,その人のところへ行つたとき,その人があなたの言葉に耳を傾けない場合でも,当事者以外の人々とその事を論ずるのは間ちがいです。そのような状況下で行なう正しい事は,『ひとりかふたり〔円熟した兄弟〕を伴なつて行くことです。それは,二人か三人の証人の言葉によつてあらゆる事柄が確立されるためです』。もしこの方法が失敗するなら,その件を会衆に提出しなさい。―マタイ 18:15-17。
11 いつゆるしを求めますか。害をうけた者は,たとえ再発の場合でもどのように害を加えた者を取りあつかうべきですか。
11 真のクリスチャンは,自分の過失を認めます。そして,害をうけた人からのゆるしを願います。同じ人によつて再び害をうけるなら会衆の一成員は何をすべきですか。そのときには,同じことを再びすることが適当です。そして,悪を行なつた人は再びゆるしを願うことができます。その後でも意識的でない害を行なうなら,ゆるしを願うことができますか。兄弟は,仲間のクリスチャンにより一再ならずゆるしていただけますか。たしかにできます! あなたは,自分自身も罪人であり,多くの間ちがいを犯すと認めるとき,許されることは只一度だけだろうか,と自問してごらんなさい。このことから見るとき,害をうけた人は,害を加えた人の謝罪を受けいれます。この点について使徒ペテロは次のようにたずねました,「主よ,兄弟がわたしに対して罪を犯した場合,幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。「イエスは彼らに言われた,『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』」。―マタイ 18:21,22,新口。
12 (イ)害をうけた者が,お詫びした兄弟あるいは正しくつぐなつた兄弟に対して非難の言葉を述べつづけるのは,なぜ悪いことですか。(ロ)そのような件が終結したと考えることは,なぜ必要ですか。
12 あきらかに分かるとおり,害をうけた者が害を加えた者の謝罪をうけいれることは絶対に必要です。そして,その件を終結させなければなりません。もしそうしないなら,その人は兄弟と一致のうちに生活していません。自分の兄弟について大仰な話をし続けたり,謝罪もうけ入れなければ矯正された状態もうけ入れず,そして自分が害をうけたことを他の人々に語りつげるなら,今度はその人自身が神の正義の原則を破る者になります。次のように述べられています,「たきぎがなければ火は消え,人のよしあしを言う者がなければ争いはやむ」。(箴言 26:20,新口)一つの問題が正しく解決されるとき,それは終了したことになると,この聖句は示します。もし火の焰がなおもつづけて煽られるなら,なおいつそうの争いともつれをひきおこし,一致と誉のうちに住むという神の原則を破ります。なぜなら,「おき火に炭をつぎ,火にたきぎをくべるように,争いを好む人は争いの火をおこす」。(箴言 26:21,新口)そのような人は,最初には害をうけた人ですが,今度はそしる者の級に入ります。そして,聖書は次のように明白に述べています,「人のよしあしをいう者の言葉はおいしい食物のようで,腹の奥にしみこむ。くちびるはなめらかであつても,心の悪いのは上ぐすりをかけた土の器のようだ」。(箴言 26:22,23,新口)人の外面は,人の内にあるものを表わしません。それで,外面は罪がないようであつても,その内なる心は悪いことがあります。ゆるしが正しく求められて,害をうけた者に対して公正な処置がとられ,その件がおさまるとき,争いをなくさせることは名誉あることです。そのとき,互に誉の中に生活することができます。
干渉すること
13 いらぬ世話をしないことは,なぜ美徳ですか。
13 いらぬ世話をしないことは,クリスチャン奉仕者の持つべきひとつの美徳です。たがいに尊敬と愛を示し,制度内に一致を促進させなさい。「人が争いを止めることは誉である。しかし,愚かなる者はみな干渉をする」。この言葉が述べられてから約1000年の後に,同様な助言はテサロニケにいるクリスチャンたちに与えられました,「ところが,聞くところによると,あなたがたのうちのある者は不規律に動きまわり,すこしも働かないで,自分と関係のないことに干渉ばかりしているとのことだ」。他人のことに立ち入つてせんさくすることは,ほんとうに迷惑なことです。たいていの場合,そのところでおわりません,そして,そこでおわらないと,それは争いを引きおこします。―箴言 20:3,新口。テサロニケ後 3:11,新世。
14 奉仕者たちが奉仕の義務を正しく果すために,自分の時間を用いないなら,何が生じますか。パウロとペテロはどんな助言を与えましたか。
14 このことは,しばしば次の場合に生じます,すなわち人々が十分の仕事を持つていないとき,あるいは奉仕のわざに専念して時間を十分有効に使わないときです。時間があり余るほどある,というようなときには,問題が起こります。初期クリスチャン会衆内のこの危険の故にパウロは次のように書きました,「その上,彼女たち(若いやもめ)はなまけていて,家々を遊び歩くことをおぼえ,なまけるばかりか,むだごとをしゃべつて,いたずらに動きまわり,口にしてはならないことを言う」。このことからも分かる通りもし話してはならないことを話し,他人のことに干渉してうわさ話をするとき,会衆のなかに不和が生じ,成員のあいだに争いがおこります。この故に,私たちはひとりのこらずペテロの健全な助言を心にとめましよう,「あなたがたのうち,だれも…他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい」。奉仕者のわざに忙しく専念することは賢明です。そのことを示す助言はたくさんあります。さもなければ,私たちは警告されていた通りの事を行なうようになるでしよう。そして,エホバの制度の調和と一致を危険なものにします。―テモテ前 5:13,新口。ペテロ前 4:15。新口。テサロニケ後 3:11,新口。
家族内の誉
15,16 (イ)クリスチャンの家庭では,夫と父はどんな立場を占めますか。(ロ)家族内の妻の正しい地位は何ですか。
15 むかしエホバは家長による支配を指示しました。この取り極めによると,夫(そして父)は,神の律法に従つて全家族を教える義務を持つていました。家族の成員全部が,その教えを守つて従順に従うなら,調和にみちた家族が存在するようになります。この面において家族は小さな制度になぞらえることができます。―ヘブル 7:4。使行 7:8; 2:29。
16 家族の取り極め内では,妻も高い尊敬をうける地位を保つています。むかしの聖なる婦人たちは,このことを示しました。ペテロ前書 3章5,6節(新口)に書いてある事柄は,私たちの注意をひきます,「むかし,神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも,このように身を飾つて,その夫に仕えたのである。たとえば,サラはアブラハムに仕えて,彼を主と呼んだ。あなたがたも,何事にもおびえ臆することなく善を行えば,サラの娘たちとなるのである」。助け手としての婦人の立場も,誉あるものです。箴言を書いた人は,そのことをこう確証しました,「その夫の心は彼女を信頼して,収益に欠けることはない。彼女は生きながらえている間,その夫のために良いことをして,悪いことをしない。彼女は口を開いて知恵を語る。その舌にはいつくしみの教がある。彼女は家の事をよくかえりみ」,― 箴言 31:11,12,26,27,新口。
17 家族内にはどんな環境が存在すべきですか。
17 両親の権威が正しく行使され,子供たちがそれを認めて答え応ずるとき,その家族の群れはエホバの目的にかなうものです。エホバの制度外の者に対しても名誉ある行ないが示されます。すべての者は,エホバの御言葉の高い標準と原則にひなんをもたらさないように注意深く警戒します。―エペソ 6:1-3,新口。
18 (イ)子供をこらしめないと,家族をどのように危険な状態に陥し入れますか。(ロ)両親は子供たちの活動をどの程度まで守るべきですか。
18 子供たちに必要な矯正の手段が取られないなら,両親はその神権的な義務に怠慢であつて,ついには子供のクリスチャン福利に害をもたらします。「むちと戒めとは知恵を与える,わがままにさせた子はその母に恥をもたらす」。(箴言 29:15,新口)こらしめが必要なときにも,こらしめを与えないならば,家族の一致を害します。両親は次の諸点を必ず実行するようにしなければなりません,すなわち子供たちが奉仕の義務を正しく果しており,正しい教育をうけるために集会に出席し,家族が霊的に進歩するために家庭で聖書研究を司会するようにすることです。また子供たちの娯楽をも監督すべきです。子供たちが忙しいなら,問題をひきおこすというようなことは先ずありません。くつろいでいる時でも,他の活動の場合と同じくらいに注意深く監督しなければなりません。子供たちの交際も守らねばなりません。年をとつた者も若い者も,誰もかれも,その交際する相手の人によつて大きな影響をうけます。世間には,『友を見ればそのひとのひととなりが分かる』という諺があります。子供たちが新しい世の社会の高い標準に合わない習慣を持つ者と交際するなら,子供たちも間もない中に悪い行ないや考えをするようになるでしよう。次の強い助言の言葉に注意しましよう,「まちがつてはいけない。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』」。それとは逆に,有益なならわしは家族の救いにみちびくと言えます。もしある人が悪い交わりによつて弱められたなら,そのあやまちを犯した者をなおす行為をすぐ取らねばなりません。そのことは次の言葉からも分かります,「目ざめて身を正し,罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには,神について無知な人がいる。あなたがたをはずかしめるために,わたしはこう言うのだ」。悪い交わりをゆるすなら,どんなことが生ずるかが,予言的に分かります。それで,両親は子供の生活からそのようなつまづきの石を取りのぞかねばなりません。この正しい道は,家族の祝福を増すでしよう。―コリント前 15:33,34,新口。
道徳
19 (イ)クリスチャンの清い記録は,どのように汚されますか。(ロ)宣教に費す時間の量にはかかわりなく,独身者にはどんな要求が適用しますか。
19 クリスチャンは長年のあいだ清い名誉ある道に従い,エホバの高い立派な原則通りに生活するかもしれません。ところが,ただひとつの不道徳な行ないにより,その人は良い記録をこなごなにこわしてしまい,新世社会内の立場およびその人の生命をも危険なものにしてしまいます。あざむきをうけて,このような愚かな道を取るようなことがないようにしましよう。淫行あるいは姦淫の行ないは,クリスチャン忠実と神への献身の誓を破るものです。後指一本さされない清い生活をいたしましよう。そして,この20世紀に自由勝手に行なわれている自己満足と放縦な生活にかかわりを持たぬ生活をしましよう。この点において,独身は聖書中で褒められており,よりまさつた道と考えられています。なぜなら独身の人はエホバへの奉仕に専念できるからです。しかし,それだからといつて,独身者は不道徳の行ないをしても良いというわけではありません。その人は歩きかたに十分注意して,放縦な行ないをしないようにすべきです。「しかし,(独身者は)もし自制することができないなら,結婚するがよい。情の燃えるよりは,結婚する方が,よいからである」。しかし,全部の人がこの独身の賜物を保つ生活をすることはできません。たしかに,独身の人は多くの時間と力を宣教に費すことができます。しかし,どんなに多くの時間を費そうとも,不身持の行ないをつつしまないなら,それは価値がありません。独身者が淫行をするなら,その人の立場とかあるいは宣教に捧げる時間には関係なく,それは是認されません。神の御言葉はそれを明白に示しています。「不品行に陥ることのないために,男子はそれぞれ自分の妻を持ち,婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい」。―コリント前 7:2,9,新口。
20 結婚している者のかなうべき標準は何ですか。
20 男と女のあいだの結婚の契約は,エホバの定めたものです。エホバは,結婚の契約を汚してはならぬ,という標準を設けました。このことを確証する言葉は,ヘブル書 13章4節(新口)にこう述られています,「すべての人は,結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は,不品行な者や姦淫をする者をさばかれる」。―テサロニケ前 4:3。コリント前 6:15-18,新口。
21 献身しているクリスチャンの中における結婚の資格は何ですか。
21 誉のうちに共に住むということの中には,献身したクリスチャンの結婚の資格ということに関してエホバの設けた規定もふくまれています。私たちはこの世から離れるように強くさとされています。同じことは,結婚の関係についても言えます。すなわち,私たちは「主にある者」とのみ結婚すべきです。これは結婚を考慮しているクリスチャン証者に対する要求です。男子が一婦人と結婚する場合,その婦人は献身した妻になるという資格を持つていなければなりません。献身した婦人は,同じ標準にかない婚約の相手側に,その資格があることを十分たしかめねばなりません。このことは,結婚の創造者なるエホバに正しい敬意を示すことです。結婚を全く誉あるものにするためには,両人とも献身していなければなりません。しかし,それはそこで終りません。結婚の創始者エホバに誉をもたらすために,結婚関係内における良い行ないは続けられねばなりません。
仕事の関係
22,23 雇い主に対する従業員の態度は,何でなければなりませんか。従業員に対する雇い主の態度は何でなければなりませんか。
22 行動が名誉あるものでなければならぬ別の場合は,雇い主と従業員のあいだの関係です。特に,エホバの献身したしもべたちのあいだの関係です。この関係は正しいものでなければならず,各人の行動は,忠実なクリスチャンにふさわしいものでなければなりません。仕事関係においての信頼性は,美徳です。しかし,両人とも同じ信仰に入つているという理由で片方の者が他の者を利用するというような場合,この関係はしばしば害をうけることがあります。時折クリスチャンはこんな風に言います,「私の雇い主はエホバの証者だから,何でも気楽にやれる。いつしようけんめい働くことは必要ではないし,いつでも好きな時に仕事をやめて出かけることができる」。従業員がこのような考えを持つことは正しいですか。絶対にそうではありません。なぜなら雇い主は丸一日の十分の仕事を従業員にしてもらう権利を持つているのです。特に従業員がエホバと契約関係に入つているときはなおさらそうです。実際のところ,そのような者のために働いている献身した従業員は,クリスチャン兄弟のため丸一日いつしようけんめいに働くようにすべきです。彼はその仕事に対しては給料をいただいているのです。
23 この逆のことも真実です。すなわち,雇い主は従業員がエホバの僕であり,仲間のエホバの証者であるという理由で,その従業員を利用してはなりません。パウロは正しい関係について次のように語りました,「主人たる者よ,僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が…います」。このことはまた次のように述べるモーセの律法の中でも強調されています,「雇人は,同胞であれ,または…寄留している他国人であれ,それを虐待してはならない。賃銀はその日のうちに払い」,それで,真のクリスチャンは公正という方針に従わねばなりません。その方針は,雇い主と従業員のあいだの関係において行なわなければならないのです。―コロサイ 4:1。申命 24:14,15,新口。
24,25 (イ)仕事の取引の際に,どんな原則はクリスチャンをみちびくべきですか。(ロ)何を避けるべきですか。そして,なぜ?
24 雇い主と従業員という間柄が特別に含まれない他の仕事関係の場合にも,クリスチャンがいつでも従う正しい方針があります。それは神と人間の前で保つ名誉ある立場を危険なものにしないためです。これは,仕事の場合とか,いろいろの品物を売つたり,他の交渉の場合のときに当てはまります。売る場合には,正しい目方がきつかり正確になければなりません。律法はイスラエル人にそうするよう命じました,「なんじのふくろの中にひとつは大きく,ひとつは小さい二種のはかり石をいれおくべからず,なんじの家にひとつは大きくひとつは小さき二種のますをおくべからず,ただ十分のただしきはかりをもつべくまた十分なるただしきますを持つべししかせばなんじの神エホバの汝にたまふ地に汝の日ながからん,すべてかかることをなす者すべて正しからざる事をなす者は汝の神エホバこれを憎みたまふなり」(申命 25:13-16)それでクリスチャンが仕事をする際は,名誉のある仕方で行なわなければなりません。同様な貴重な信仰を持つ者のあいだだけでなく,あらゆる交わりにおいてもそうでなければならないのです。この点はミカ書 6章11,13,16節(新口)にこう示されています,「不正なはかりを用い,偽りのおもしを入れた袋を用いる人をわたしは罪なしとするだろうか。それゆえ,わたしはあなたを撃ち,あなたはその罪のために滅ぼすことを始めた」。「わたしがあなたを荒し,その住民を笑い者とするためである。あなたがたは民のはずかしめを負わねばならぬ」。
25 エホバは,倫理にそむく行ないを憎みます。もし神権制度内にいる者がこのような行ないをして有罪な者になるなら,矯正の手段を取らねばなりません。こらしめは悪を行なう者をしてその間ちがつた道に注意をひき,そのようなあざむきを行なう者を救えると希望されます。一方,もしなんらの悔い改めも見られず,悪行が続けられるなら,その罪ある者は新しい世の社会から取り除かれるでしよう。それで,仕事関係におけるクリスチャンの名声は全く信頼出来るものでなければなりません。そして,神の言葉に忠節に従う者の忠実に疑いがかけられる理由は決してないでしよう。
26 新しい世の社会は,その取引きにおいてエホバの原則をどのように守りますか。そして,どんな理由のために?
26 エホバの証者の新しい世の社会は,その一切の仕事関係においてエホバの標準に沿う生活を為し,不名誉が新しい世の社会に反映することのないようにするため,その標準をいつしようけんめいに守ります。すべてのものに対する模範的な行ないは,ものみの塔聖書冊子協会によりたえず示され,その結果協会はこの世との仕事の取引において非常に良い名声を得ています。エホバの証者の新しい世の社会を構成している各人も,同じような高い標準を守り行なわなければなりません。それはエホバの清い制度とエホバの証者各人の上に非難をもたらさないためです。違反は各クリスチャンと新しい世の社会全部の上に不名誉をもたらします。
27 アナニヤはダマスコでどのように言われていましたか。なぜそれはそれ程に賞賛をうけるべきものでしたか。
27 立派な名声を持つたクリスチャンの良い模範は聖書の中に記されており,私たちはその模範に注意を払うことができます。忠実なクリスチャンであつたアナニヤについては,次のように述べられています,「律法に忠実で,ダマスコ在住のユダヤ人全体に評判のよいアナニヤという人」彼がクリスチャンであつて,しかもユダヤ人に評判が良かつたということからみると,これはなお一層に賞賛をうけるにふさわしいものでした。―使行 22:12。
28 コルネリオは,カイザリヤだけでなく,全国民のなかにあつてどんな種類の名声を持ちましたか。
28 神の御言葉の真理を求めていた時のコルネリオも,在住の地でたかい尊敬をうけていた人でした。「正しい人で,神を敬い,ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオ」彼はローマの兵士であつたにもかかわらず,ユダヤ人からこんな好評をうけていたという点から見ると,彼の名声には非の打ちどころがなかつたように見えます。―使行 10:22,新口。
29 ダニエルが名誉ある人であつたと,私たちはどのように知りますか。
29 予言者ダニエルの行動は,倫理の点では模範的なものでした。人々はダニエルについて次のように語りました,すなわち彼を投獄するための公正な法律を施行することはできないし,そのような理由を見出すことは不可能であると語つたのです。「われわれはダニエルの神の律法に関して,彼を訴える口実を得るのでなければ,ついに彼を訴えることはできまい」。「ダニエルをつかまえる」ためには,これらの悪人たちは法律の手段による悪事をつくりあげ,ダリヨス王をしてその勅令に署名させました。それによると,ダニエルがエホバに祈りと願いを捧げることは,メデャ人とペルシャ人の法律に違反することになります。―ダニエル 6:5-9。
30 ペテロの言葉によると,クリスチャンはこの世の人々の中にいてどのように振舞わねばなりませんか。なぜ,それからはずれてそれることは禁ぜられていますか。
30 同じようにクリスチャンは,諸国民のあいだでも名誉ある良い名を保ちます。それで,この面において彼らが悪く言われるということのないようにします。「異邦人の中にあつて,りつぱな行いをしなさい。そうすれば,彼らは,あなたがたを悪人呼ばわりしていても,あなたがたのりつぱなわざを見て,かえつて,おとずれの日に神をあがめるようになろう」。正義のため,そして正しいわざのために苦しみをうけるなら,私たちはこれを耐えて,人間の称賛をうける為に妥協しません。そのような行ないは不名誉な行動であつて,エホバの不興をうけます。また,そのような行動を見る人々は,けいべつの気持をいだくでしよう。―ペテロ前 2:12,新口。
正直な生活をする
31 エホバの証人は人々から注視されている故に,彼らはその行動に関連してどんな注意を払わねばなりませんか。
31 神の会衆内で良い名声を保つことは,たしかに名誉ある道です。しかし,これ以上のことはのぞましいものです。なぜなら,クリスチャンは外部の者からの良い名声を持なければならないからです。このことは,テモテ前書 3章7節でテモテに告げたパウロの言葉のうちに示されています。その言葉によると,監督も外部の者から良く言われているものでなければなりません。それは監督がそしりをうけて悪魔の罠におちいらないためです。エホバの証者の行動を絶えずしらべる外部の人にとつて,このことははつきりしめされるでしよう。エホバの証者が忠実を守る人々で,敬虔な原則に従つて正しく生活しているということを知るでしよう。パウロはこの重要な特質をすぐに認めました。そのことは,ヘブル人に宛てた次の言葉からも示されます,「わたしたちのために,祈つてほしい。わたしたちは明らかな良心を持つていると信じており,何事についても,正しく行動しようと願つている」。―ヘブル 13:18,新口。
32 クリスチャンの行動についてパウロはどんな強い助言を与えましたか。
32 それでは,私たちの心とあたま深く,ピリピ書 4章8,9節(新口)に記録されているパウロの言葉をきざみつけることは,賢明ではありませんか,「最後に,兄弟たちよ。すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい。あなたがたが,わたしから学んだこと,受けたこと,聞いたこと,見たことは,これを実行しなさい。そうすれば,平和の神が,あなたがたと共にいますであろう」。それで,新しい世の社会の各人はそうするようにしなさい。そうするとき,すべてのものは誉のうちに共に住みます。