み霊の実によって新しい人となりなさい
「悔改めにふさわしい実を結べ……良い実を結ばない木はことごとく切られて火の中に投げ込まれるのだ」― マタイ 3:8,10。
1 山上の垂訓の中で,イエスは良い木と悪い木の見分け方をどのように述べましたか。
「その実によって彼らを見わけるであろう」。これは一つの格言であってよく口にされることばですが,これがイエスの有名な山上の垂訓の一部であることは,あまり知られていません。山上の垂訓の中で,偉大な師はたとえを用いてこの原則を更に説明しています。「茨からぶどうを,あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように,すべて良い木は良い実を結び,悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし,悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて,火の中に投げ込まれる。このように,あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」「善人は良い心の倉から良い物を取り出し,悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを,口が語るものである」― マタイ 7:16-20。ルカ 6:45。
2 パウロのことばによると,どんな実を結ぶ人は永遠の滅びを受けますか。
2 パウロもガラテヤ人への手紙の中で,台木の腐っていることはその悪い実によってわかると述べています。それで淫行,汚れ,放縦にふける人,偶像崇拝者,霊媒術を行なう者,憎しみ,争い,ねたみにみたされている者,怒りにもえる者,争いと分派をおこす者,宴楽,乱行またそのたぐいにふける者があるならば,それは腐った木と同じであり,たちまちに切り倒されて永遠の滅びの火に投げ込まれてしまうでしょう。パウロは警告しました,「わたしは以前も言ったように,今も前もって言っておく。このようなことを行なう者は,神の国をつぐことがない」― ガラテヤ 5:19-21。
3 これらの聖句からどんな結論が出ますか。
3 従って当然に次の結論になります。悪い木はまず良い木にならなければ,良い実を生み出すことができません。良いことを話すためには,まず心がよくなければなりません。改めようとしないならば,滅びる結果となります。そのうえ人間を変え,行ないを改めることが不可能ならば,ガラテヤ人に対するパウロの警告は無意味なもの,目的のないものとなります。
4 全く新しい人になることは,今日どうして可能ですか。
4 しかし心の持ち方,生活の習慣,話し方と行いを全く改めて,新しい人と言えるほどに自分をを変えることはどうして可能ですか。かつては淫行の者,姦淫をする者,盗人,酒に酔う者,ののしる者,奪う者であったといわれるコリントのクリスチャンの場合に,この大きな変化はどうして可能となりましたか。霊感の聖書はその問いに答えています。「しかし,あなたがたは,主イエス・キリストの名によって,またわたくしたちの神の霊によって,洗われ,きよめられ,義とされたのである」。それでこの同じ神の手だて,すなわちエホバの活動力によって,今日でも主イエス・キリストの追随者は同じ変化を遂げることができます。―コリント前 6:11。
5 (イ)「み霊の実」とはどんなものですか。(ロ)それを表わすことができるのはだれですか。
5 エホバの活動力すなわち聖霊は,真のクリスチャンにふさわしい良い実を生み出します。ガラテヤ書 5章22節から25節のことばは,その保証です。「御霊の実は,愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制であって……キリスト・イエスに属する者は,自分の肉を,その情と欲と共に〔杭〕につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら,また御霊によって進もうではないか」。「この世の霊」を持つ限り,人は御霊の実を生み出せません。「神の御霊」を受ける人だけが,み霊の実を結びます。―コリント前 2:12。
新しい人の美しさ
6 新しい人になったことは話すことばにどう表われますか。
6 エホバの霊の力によって,全く新しい人となることが可能です。たとえば,温和で寛容また自制心のある人となれば,話す事柄や話し方も当然によくなります。舌をおさえるならば,ののしりや憎まれ口,人の心を傷つけることばを口に出さないでしょう。また反対する者や,ののしる者に対しても柔和な答えができます。(ペテロ前 3:15)エホバのみ霊に導かれるならば,エホバのことば聖書とその教えを尊重するゆえに,汚ない言葉,下品な話や愚かな話を口から出すことはありません。「悪い言葉をいっさい,あなたの口から出してはいけない……また,卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい」「怒り,憤り,悪意,そしり,口から出る恥ずべき言葉を,捨ててしまいなさい」と,聖書は命じています。―エペソ 4:29; 5:4。コロサイ 3:8。ヤコブ 3:8-12。箴言 15:1。
7 (イ)どんな他の面において,エホバのみ霊は人を変えることができますか。(ロ)節制を守ることによってどんな有害な欲望を避け,従って生命を救うことになりますか。
7 エホバのみ霊の力によって新しい人となるとき,性に心を奪われ,スリルを求め,不道徳におちた世の中にあっても,自制することができます。そして「地上の肢体,すなわち,不品行,汚れ,情欲,悪欲,また貪欲を殺して」しまえるでしょう。麻薬やタバコにおぼれるのも,「悪欲」の一つです。飲食の習慣においても,節度と節制を守るならば,食べ過ぎ,飲みすぎはありません。大酒を飲むことが豪傑のふるまいでそれが何か良いことでもあるかのように話すのは間違いです。どんなレッテルを貼っても,内容に変りはありません。聖書によれば,神のもたらす正義の清い秩序の下に生きるには,節制することを知り,新しい人となることが必要です。―コロサイ 3:5。コリント前 6:10。箴言 23:20,21。
8 家庭において神のみ霊をどのように表わすことができますか。どんな結果になりますか。
8 エホバのみ霊につちかわれた新しい人柄を,とくに人との交渉において,感じさせることは大切です。経済問題また社会的な要請に対処しながら,まず家庭において,家族が真理にはいっていてもいなくても,この事を始めてごらんなさい。節度を知り,柔和であり,信仰を示し,善と親切を行なうならば,また忍耐強く,家庭に平和と喜びを与えて祝福をもたらすならば,またとくにすべての人に愛を示すならば,使徒ペテロも述べているように,この世の考えを持つ不信者の夫でさえも,「あなたがたのうやうやしく清い行ないを見て,その妻の無言の行ないによって,救に入れられるようになる」かも知れません。―ペテロ前 3:1,2。
9 (イ)家庭のほかにも,どこにおいてクリスチャンの人となりを示すべきですか。(ロ)敵対する者から悪く言われるとすれば,それは何のためですか。
9 この点で偽善的にうわべだけを飾ることはできません。新しい人は,見せるためのうわべの飾りではなく,時に応じて着けたり,はずしたりできるおおいではないからです。この世の霊ではなく神の霊を持っているならば,この新しい人はその人と切り離すことのできないものとなります。それで自分の会衆内でも,世界旅行に出ても,家庭の内でも外でも,どこに行っても,キリストに似た美しい人となりを失なってはなりません。家から家に伝道して隣人に語るとき,仕事の場所で,学校で,事実どこにいても,新しい人となったことをすべての人の前で示さねばなりません。こうして友人,隣人,職場の同僚,受持ちの先生,学校の友だちなどは,エホバの証者を新しい人につくり変えたみ霊の力を認めることでしょう。もし他の人から悪く言われるとすれば,それは証者が自制を失なわず,偽りを語らず,盗んだり欺いたりせず,淫行,姦淫を犯さず,タバコや麻薬におぼれず,酒に酔わず,「今はあなたがたが,そうした乱行に加わらない」ためでなければなりません。―ペテロ前 4:3,4。
10 クリスチャン会衆に属する人々は,どんな人ですか。
10 「新しい人」となったことを表わすべきもう一つの場所またその事が注目され,喜ばれる場所は,エホバの民の会衆です。わずかな人々から成る小さな会衆であっても,エホバの証者の国際大会のような大きな集まりであっても,「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き,できる限り謙虚で,かつ柔和であり,寛容を示し,愛をもって互に忍びあい,平和のきずなで結ばれて,〔神の〕聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」と,命ぜられています。(エペソ 4:1-3)コロサイ書 3章12節から14節も,エホバの会衆と交わる人々に次のことを告げています,「だから,あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身に着けなさい。互に忍びあい,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから,そのように,あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全に結ぶ帯である」。
自分の責任
11 (イ)新しい人となる責任のありかについて言えば,それは人間にありますか,創造主にありますか。(ロ)イエスはこの点をどう強調していますか。
11 自分を造りかえて新しい人になるという点で,自分自身にはどんな責任また務がありますか。神のみ心を行なうために献身したとき,あとはエホバにたのんでさえいれば新しい人になれますか。神への献身を象徴するバプテスマを受けて水からあがったとき,自動的また即時に新しい人となりましたか。そうではありません。変化はこのように起きるのではなく,また即座に起きるのでもありません。言うまでもなく,エホバの働きはまず第一に必要です。この変化を可能にする活動力すなわち聖霊はエホバから与えられます。しかし聖霊を与えられるのは,それを望む者,それを求めて神に願う者だけです。イエスは山上の垂訓の中でこの原則を強調しました。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。すべて求める者は得,捜す者は見いだし,門をたたく者はあけてもらえるからである」。すすんで求める者に対して,エホバは「求めまた思うところのいっさいを,はるかに越えてかなえて下さることができるかた」です。―マタイ 7:7,8。エペソ 3:20。
12 古い人を脱ぎ捨てる責任を受け入れるとき,どのように自己過信を避けられますか。
12 ゆえにみ心を行なうために献身して,聖霊を受けるのにふさわしい者であることを証明すると同時に,まず聖霊をエホバに求めるのは,その人のなすべきことです。こうして神からの助けと力を受けたならば,み霊の実を結んで新しい人となる責務を負うのもその人自身です。古い人をその行いと共に脱ぎ捨てるのはその人の責任です。これは容易なことではありません。これは大仕事であって,各人が大きな努力を払わなければできないことです。しかしたとえどんなに努力しても,エホバの活動力すなわちみ霊がなければ,それは不可能です。自ら罪を犯したアダムの子孫である人間は,みな無力な者に過ぎません。そのことを忘れないで下さい。自分に頼ることなく,エホバのみ霊を求めつづけ,エホバの助けを求めつづけなさい。
13 新しい人になる責任を回避しようとして,ある人はどんな言いわけをしますか。
13 自分のこの責任をのがれようとする次のような言訳を聞いたことがありますか。「私はこういう人間なのだ。いまさら自分を変えることはできない」。酒飲み,アルコール,タバコ,麻薬の中毒者は,よくこのような事を言います。「私はこういう人間なのだ」という言葉は,たしかにその通りでしょう。しかし「自分を変えることはできない」という言葉の本当の意味は,「自分を変える意志はない」ということなのです。これはカインが示したのと同じ態度,同じ精神です。カインは,正しい道に立ち返るようにとのエホバのいましめに従わず,自分を変えることはできないとの間違った考えを捨てませんでした。それで自分を変えようとしなかったカインは,暴力と不従順の道に進んで自らの滅びを招きました。―創世 4:6-8。ユダ 11。
14 いわゆる二重人格の人は,時おりの放縦を許されますか。
14 また自分は「二重人格」で,それをどうすることもできないとあやまって思い込み,また他の人にもそう思い込ませようとしている人があります。そのような人は責任を逃れた気になり,ちょっとした事に激怒したり,時おり放縦な行ないをしても,自分には仕方のないことだと,言います。しかしそう考えるのは大きな間違いです。このような「二重人格」は神を喜ばせるものではありません。「ジキル博士とハイド氏」は,エホバのクリスチャン証者の神権社会の中には受け入れられません。「わたしの味方でない者は,わたしに反対するものである」と,イエスは言われました。また「〔エホバ〕の杯と悪霊どもの杯とを,同時に飲むことはできない。〔エホバ〕の食卓と悪霊どもの食卓とに,同時にあずかることはできない」と,書かれています。世の霊と神の霊を同時に持つことはできません。自分の吐いたものに時おり戻り,泥の中にころがっても,なお清い者でいられると思うのは愚か者だけです。―マタイ 12:30。コリント前 10:21。ペテロ後 2:22。箴言 26:11。
15 光の子として,クリスチャンの人はどう振舞うべきですか。
15 ひると夜を任意に細分して両方を適当に混ぜ合わせることなどはできません。それと同じく,暗やみの中から出て神の驚くべき光の中に来た以上,光の子である私たちがやみの子のわざをすることはできません。ロマ人に対して,パウロはこのように論じています。「夜はふけ,日が近づいている。それだから,わたしたちは,やみのわざを捨てて,光の武具を着けようではないか。そして,宴楽と泥酔,淫乱と好色,争いとねたみを捨てて,昼歩くように,つつましく歩こうではないか。あなたがたは,主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」― ロマ 13:12-14。ペテロ前 2:9。
円熟と完成を目ざして成長
16 新しい人になることは即座に,また完全にできますか。
16 コロサイ書 3章9節の言葉を述べた使途パウロの語調はきわめて強調的であることから,古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着るのは即座に,また完全にできることだと考える人があるかも知れません。しかし聖書から見ても,事実を見ても,そうではありません。これは春にうえて秋に収穫する作物と同様です。作物はいっぺんに成長するわけではありません。また農夫の労苦は大変なものです。少しずつ成長して遂に完全に育つという原則を認めて,ペテロは次のことを述べました。「あなたがたの信仰に徳を加え,徳に知識を,知識に節制を,節制に忍耐を,忍耐に信心を,信心に兄弟愛を,兄弟愛に愛を加えなさい」。またパウロも,「ただ,わたしたちは,達し得たところに従って進むべきである」と述べています。―ペテロ後 1:5-7。ピリピ 3:16。
17 ヨハネとヤコブは,改善するために絶えず努力することの必要をどのように述べていますか。
17 それで新しい人になるのは時間のかかることであり,不完全な人間には完全に成し遂げ得ないことです。エホバの建てる正義の新しい秩序が到来しないうちに完全を期することは,望めないでしょう。ゆえに常に改善を図る努力が必要です。ヨハネとヤコブは霊感の下に次のことを書きました。「もし,罪がないと言うなら,それは自分を欺くことであって,真理はわたしたちのうちにない。もし,わたしたちが自分の罪を告白するならば,神は真実で正しいかたであるから,その罪をゆるし,すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし,罪を犯したことがないと言うなら,それは神を偽り者とするのであって,神の言はわたしたちのうちにない」「わたしたちは皆,多くのあやまちを犯すものである。もし,言葉の上であやまちのない人があれば,そういう人は,全身をも制御することのできる完全な人である」― ヨハネ第一 1:8-10。ヤコブ 3:2。
18,19 パウロの例からもわかるように,クリスチャンは終わることのないどんな戦いに携わっていますか。
18 使徒パウロでさえも,肉の弱さを持つ以上,人として完全の域に達することはできませんでした。そうであればこそ,次の言葉を述べているのです。「そこで,善をしようと欲しているわたしに,悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち,わたしは,内なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があって,わたしの心の法則に対して戦いをいどみ,そして,肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る」。そこでキリスト教のこの偉大な戦士も,死に至るまで戦うことの必要を認めていました。「すなわち,自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない」― ロマ 7:21-23。コリント前 9:27。
19 私たちの場合にも,使徒パウロと同じことが言えます。罪の傾向を持つ弱い肉体を打ちたたいて,新しい人の命ずるままに服従させることをしなければ,またエホバのみ霊の結ぶ実を表わすことをしなければ,エホバの是認を失ない,悲しむべき結果となります。
20,21 イエスが警告したように,み霊の実を結んで新しい人になることをしなければ,どんな結果となりますか。
20 エホバの是認を失なうという事の意味を十分に知っていますか。イエスはあの最後の夜,捕えられる少し前に弟子たちに一つの警告を与えました。すなわち油そそがれた追随者がエホバのみ霊の実を結ぶことをせず,従って是認されない者となるならば,おそろしい結果になるという事です。イエスは次のように言われました,「わたしはまことのぶどうの木,わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは,父がすべてこれをとりのぞき,実を結ぶものは,もっと豊かに実らせるために,手入れしてこれをきれいになさるのである……枝がぶどうの木につながっていなければ,自分だけでは実を結ぶことができないように,あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない……人がわたしにつながっていないならば,枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め,火に投げ入れて,焼いてしまうのである」― ヨハネ 15:1-6。
21 エホバは豊かに産出する農夫です。それで神権組織内の者が一人残らずみ霊の実を生み出すようにされます。次のことは間違いありません。すなわちクリスチャンの人にふさわしい実を結ぶことをしなければ,エホバのクリスチャン証者の神権社会にいることはできません。実を結ばない,不法な存在である無駄な枝は,神の耕やす組織の中から切り取られて捨てられ,干からびて遂に永遠の滅びである火の中に投げ入れられます。「生ける神のみ手のうちに落ちるのは,恐ろしいことである」― ヘブル 10:31。
22 愛の父エホバのこらしめを,なぜ軽んじてはなりませんか。
22 従って天の父のこらしめを受けるのは,はるかに良いことです。私たちが肥沃な神の組織に留まり,主キリスト・イエスと一致して霊の実をますます結ぶために,偉大な農夫である天の父はそのことばにより,またその施す処置によって,ご自身の民を清めます。矯正するためのこらしめを受け,また清められることは,パウロがヘブル人に書き送っているように悲しみとなっても,「後になれば,それによって鍛えられる者に,平安な義の実を結ばせるようになる」のです。「主〔エホバ〕の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき,弱り果ててはならない。主〔エホバ〕は愛する者を訓練するのである」― ヘブル 12:5-11。
祝福を数えることを始めなさい
23 エホバの民と共に,いまどんな大きな祝福を豊かに受けられますか。
23 ハルマゲドン前のいま,み霊の実を結んで新しい人になるならば,現在の悪の世にあっても,御国の祝福を多く受けることができます。そしてエホバの証者と共に特権や祝福に与ることができるでしょう。霊的な食物は常に豊かにあり,欠乏に悩むことはありません。杯には喜びと幸福があふれます。御国を第一に求める正しい人が糧を乞い歩くようになることは決してありません。(マタイ 4:4; 6:31-33。イザヤ 25:6。詩 37:25)また人間を恐れることもありません。エホバは正しい者を救って勝利を与え,死から救い出すことさえできるからです。(詩 118:6。ルカ 12:4。ヨハネ第一 4:18)サタンと悪鬼の組織に対する束縛につながれることもありません。真理を知って自由となった人は,いま喜んでエホバとキリスト・イエスのしもべとなったからです。(ヨハネ 8:32。ロマ 6:6,16。コリント前 7:23。ガラテヤ 1:10。コロサイ 3:23,24。ペテロ前 2:16)何千人と集まるエホバの証者の大会でも,鉄のカーテンや竹のカーテンの背後でひそかに行なわれる集まりでも,キリスト・イエスを中に迎えて集まることは可能であり,崇拝の自由を持ちつづけることができます。(マタイ 18:20)祈りによって父なるエホバに直接に語り,み霊,導き,力および保護を求めるのは,何時でもあなたの特権であり,自由です。(マタイ 6:6。ヨハネ 14:13,14)永遠の福音を全地に宣べ伝える証者また伝道者として奉仕しながら,大いにして畏るべきエホバの名をひろめるほまれと自由はあなたのものです。
24 み霊の実をますます結ぶならば,どんな目的をはたすことになりますか。
24 何よりも見過してならないのは,人間の持ち得る最大の特権と祝福すなわち父なるエホバの聖なるみ名と聖なるみことばの立証に与ることです。イエスは,ぶどうの木と枝のたとえの中で,み霊の実を結ぶことの第一の目的を強調しました。「あなたがたが実を豊かに結び,そしてわたしの弟子となるならば,それによって,わたしの父は栄光をお受けになるであろう」― ヨハネ 15:8。
25 そこで私たちは常に何をすべきですか。それはどんな結果となりますか。
25 ゆえにみ霊の実によって新しい人となることを常に努めなさい。ますます豊かに実を結んで下さい。キリスト・イエスの真の追随者であり,イエスの人格にならう者であることを常に証明して下さい。脱ぎ捨てた古い人がどんなに汚れたものであっても,エホバのみ霊によって造り出された新しい人となるとき,だれでもがあなたと交わることを喜ぶでしょう。この新しい人になるのは,宇宙で最も栄光あるかたエホバをきよめ,エホバにほまれと賛美を帰することです。