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『悪鬼の食卓』対『ヱホバの食卓』ものみの塔 1956 | 2月1日
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あずかります。神に供えられるこの唯一つの正しい犠牲を共にあずかることにより,ヱホバはその恩恵を私たちに適用されます。私たちとヱホバは,共に新しい一つの契約に入つています。私たちは,神よりの啓発の事柄をするとき,たしかにヱホバとあずかつており,交つており,そしてヱホバと共になつています。それについて,聖書にはこう書かれています『私たちが見たもの,聞いたものを,あなた方にも告げ知らせる。それは,あなた方も,私たちの交わり(コイノニカ)にあずかるようになるためである。私たちの交わり(コイノニカ)とは父,ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。神と交わり(コイノニカ)をしていると言いながら,もしやみの中を歩いているなら,私たちは偽つているのであつて,真理を行つているのではない。しかし,神が光の中にいますように,私たちも光の中を歩くならば,私たちはたがいに交わり(コイノニカ)をもち,そして御子イエスの血が,すべての罪から私たちをきよめるのである。―ヨハネ第一書 1:3,6,7,新口。
37 それで,主の夕食を食べる人は,みな誰に仕えねばなりませんか? なぜそうですか?
37 それで,ヱホバ神を選ぶか,又は悪鬼を選ばねばなりません。妥協することも,生温い態度を取ることも,許されません。また,あつちへついたりこつちへついたりすることも,決して許されません。唯一つの真の神ヱホバに全き専心の崇拝を捧げるか,又は偽りの悪鬼の神々に崇拝を捧げるか,そのどちらかです。新しい契約に入つているクリスチャンたちが,イエスを記念して『主の夕食』を食べるために共に集り,そして表象であるパンと葡萄酒の杯にあずかるなら,それは『ヱホバの食卓』にあずかり,ヱホバの『祭壇にあずかる者』ということを表示しています。この理由からも,彼らはみなヱホバに仕えます。その崇拝と奉仕を他のものに分けることはできません。(キリスト教国をも含む)この世の諸国家は,現代いろいろの種類の多くの偶像に犠牲を供えていますが,彼らはまたその犠牲にもあずかることができません。
38 主の夕食の表象物にあずかることが,偽りの行になることがあり得ますか? それはヱホバに何を起させますか? どんな結果が生じますか?
38 主の夕食を祝うあなた方は『ヱホバの杯と悪鬼の杯とを同時に飲むことはできない。ヱホバの食卓と悪鬼の食卓とに同時にあずかることはできない。』と使徒パウロは言つています。『不信者と,つり合わないくびきを共にするな。……光とやみとなんの交わり(コイノニカ)があるか。……神の宮とな偶像となんの一致があるか。私たちは,生ける神の宮である。』(コリント後 6:14-16,新口)あなたの愛,献身,崇拝,そして奉仕をヱホバ神に捧げきらずに,その幾らかを悪鬼にも捧げ,しかも主の夕食に出席して,その表象にあずかるなら,それは偽の行であります。あなたは,光の神と交りを持ち,神とあずかる振をしながら,実際にはそうしていません。あなたは,自分自身を誑しています。あなたは偽善的に行つています。あなたは『やみの中を歩いている……偽つているのであつて,真理を行つているのではない。』『ヱホバは専心の献身を求める神』である故,あなたは『ヱホバにねたみを起させ』ています。ヱホバは専心の愛のみうけ入れます。(出エジプト 34:14,新世)ヱホバの怒りを招くとき,重大な結果が生じます。なぜ? なぜなら,パウロの言うように,『私たちは,主よりも強いのだろうか。』(コリント前 10:22,新口)私たちは,強くありません。ヱホバにねたみを起させたことに対して,ヱホバは亡びをもたらしますが,私たちには,とうていその亡びに堪えるだけの力はありません。―詩 78:58-64。
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いただく者の『ひとつの体』ものみの塔 1956 | 2月1日
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いただく者の『ひとつの体』
1 主の夕食を食する人は,どのようにヱホバに崇拝し,奉仕を捧げるべきですか? このことを論じたパウロは,どんな『ひとつのからだ』を意味していますか?
新しい契約にいるそれら霊的イスラエル人のクリスチャンたちは,個人としても又は会衆としても,ヱホバへの崇拝と奉仕に専念しなければなりません。それで,主の夕食の杯とパンについて語つた後に,使徒はそのような者にむかい,こう述べているのです。『パンが一つであるから,私たちは多くいても,一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただく(食する)からである。』(コリント前 10:17,新口)ここで,『ひとつのからだ』と言つたパウロは,何を意味していますか。それは,種の入らないパンで象徴されるイエスの人間としての肉の体ではありません。それは,イエス・キリストを霊的な首とする霊的イスラエル人の会衆全部を意味しています。イエス・キリストの支配下にあるこの会衆は,同じパウロの手紙の後の部分で,キリストの体と言われています。『あなたがたは,キリストのからだであり,ひとりびとりは,その肢体である。そして,神は会衆の中で,人々を立てられた。』― コリント前 12:27,28,新世。
2 イエスは,夕食のときに只ひとつのパンを用いましたが,それはどんな事実を示すためですか? ヱホバがパウロの述べる『ひとつのからだ』にあずからないのは,なぜですか?
2 パウロは,キリストの体である会衆は,考えと行に一致すべきである,とコリント前書の初めの3章で示しています。それで,主の夕食ならびに,主の夕食が会衆の各員に課すすべての責務に対しては,分裂のない立場を取らねばなりません。もし全員が主の夕食をいただくなら,彼らはたがいに結合して,ひとつのからだにならねばなりません。イエスは,主の夕食を設立されたとき,ただ一つのパンを用いました。そうすることにより,そのパン,つまりイエスの肉のからだをいただく者たちは,頭であるイエスの下にただ『ひとつのからだ』であることを示しました。新しい契約に入つている霊的なイスラエル人は,種入れぬ一つのパンをいただくことにより,たがいに共通の食事を取ります。そうすることにより,彼らは『ひとつのからだ』であつて,同じ恩恵と特権をいただき,同じ霊的な食卓で食べることを表示します。彼らの数が,どれ程多いものであつても,彼らは『その一つのパンをいただく(食する)』故に,『ひとつのからだ』です。ヱホバ神は,この『ひとつのからだ』に,彼らとあずかりません。ヱホバ神は,その一員でないからです。イエス・キリストは,その『ひとつのからだ」の頭ですが,ヱホバに従います。『キリストの頭は神である。』(コリント前 11:3,新口)頭であるヱホバは,イエスの犠牲をうけ入れました。
3 (イ)どんな行いは,彼らがみな『ひとつのからだ』であることを示しますか?(ロ)キリストの肉と血をいただくことにより,彼らは神より何をいただきましたか? これは,将来のより大きなどんな特権の踏石となりましたか?
3 種の入らぬ一つのパンそのものは,キリストに従う『ひとつのからだ』を象徴しません。そのパンは,イエスが犠牲に捧げられた人間の体を象徴します。みな一緒になつて,そのパンを食べる行為により,食べる人はみな『ひとつのからだ』『キリストのからだ』であることが示されます。イエス・キリストの肉と血をいただくことによつて,彼らはみな神から義と宣明されます。人間である彼らを義と宣明することが,目的ではありません。つまり,そこですべてが終つたというわけではありません。実は,特別な目的のために,彼らは義と宣明されたのです。何のことですか。それは,彼らがキリストと共に犠牲にされ,ヱホバ神によつて産み出されてヱホバの霊的な子供たちになるための踏石となります。彼らは,ヱホバ神との新しい契約に入つていて『聖なる国民,神につける民』です。(ロマ 5:1,2,9; 8:15-17。ヤコブ 1:18。ペテロ前 2:9,新口)彼らは,天的な生命の希望を持つ霊的な子供たちとなりました。ヱホバ神は,御霊でもつて彼らに油を注ぎ,キリストの体の成員にならせました。ヱホバ神は,これを行うことにより,彼らを天的な御国の契約に導き入れました。イエスは,主の夕食が終つた直後に,忠実な使徒たちに次のような言葉を述べられ,その契約について語られました。『あなた方は,私の試練のあいだ,私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで,私の父が,御国の契約を私と結んだように,私もあなた方とその契約を結ぼう。あなた方は,私の御国で食卓について飲み食いし,また位に座してイスラエルの十二の支族をさばくであろう。』― ルカ 22:28-30,新世。
4 二つのどんなものによつて,彼らはきよめられましたか? それで,彼らが主の夕食をいただくことにより,彼らはどんな者と示していますか?
4 このことから,彼らが信仰を持つことによつて,義と宣明される必要性の如何に大きいかが,認識されます。彼らは,『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによつて,……きよめられたのである。』彼らのひとりびとりは,『自分がきよめられた契約の血』を重んじます。(ヘブル 10:10,29,新口)彼らは,パンと葡萄酒の杯をいただくことにより,その事実を象徴します。主の夕食の時に,彼らが一致して共にいただくことは,頭であるイエス・キリストの下に,みな潔められて,献身したからだであることを示しています。彼らは,その潔めを維持しなければなりません。―テサロニケ前 4:3,7。
5 各々の責任に関して,彼らはなぜ人間であつたイエスを記憶しなければなりませんか?
5 彼らは,潔められたひとつの一致のからだとして,共通の特定な特権を楽しむだけでなく,特定の責任をも持つています。このことから,彼らは,人間であつたイエスを記憶しなければなりません。イエスは天から地に降りましたが,それは,ノアの日の『神の不従順な子たち』とは全くちがい,肉的なことを楽しむ,つまり肉の生命を楽しむためではなかつたのです。(創世 6:1,4。ペテロ前 3:19,20)イエスは,女より生まれて,肉の体を持つ人間になりましたが,それは御自分の持つ肉の体を特別に用いて,ヱホバの奉仕に捧げるためだつたのです。人間イエスは,苦しみをうけ,刑柱の上にかけられられても,非難を耐え忍びました。かくして,人間である私たちに対する模範を残されました。
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