任命された神の奉仕者たち
「わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは,あなたがたが私たちの説いた神の言を聞いた時に,それを人間の言葉としてではなく,神の言葉として ― 事実そのとおりであるが ― 受けいれてくれたことである。」― テサロニケ前 2:12,新口。
1 キリスト教国の牧師の任命式とイエスの任命式とは,どのように対照的ですか。
新教とかカトリックといつたような宗教組織は,牧師を任命するのに大へんな大騒ぎをします。一会衆の牧師も最初はいく年か神学校で勉強したにちがいありません。卒業してから,はじめて牧師級に加わる用意ができたと考えられるのです。さてそれから華美壮麗で念入りな儀式となります。多くの高僧,高官がその儀式をつかさどつたり,見守るために列席します。ひとりひとりが,彼の神への奉仕と崇拝にささげられ,または選別されます。その牧師が司祭から司教,または大司教へと宗教上の階級を上る時も,聖職者団のより豪華な様子と誇示をともなう,多くの儀式を経なければなりません。キリスト教国の多くの牧師たちは,高価な大教会の中で,衆人の耳目を集めるように,ぎようぎようしい表示のうちに任命されます。あるいは司祭としての任務を与えられます。しかし,真のキリスト教の創始者は,「らくだの毛ごろもを着物にし,腰に皮の帯をしめ,いなごと野蜜とを食物としていた」ひとりの人によつて,ヨルダン川の水に浸された後,天からきた聖霊によつて任命されました。―マタイ 3:4,新口。
2,3 イエスは神学校で学びませんでしたが,宣教の任務につく十分な資格があつたことを何が示していますか。
2 任命式といつても何という相違でしよう! イエスは,ヱホバの任命された奉仕者となるために,そのような簡単な過程を経ただけでした。それのみでなく,イエスが,青年の時,神の御言葉すなわちヘブル語聖書を勉強していたのは確かですが,宣教のための訓練を受けるために特定の学校に行つたとは,聖書のどこにも記録されていません。イエスが特別の学校で,学者やパリサイ人,すなわち当時の宗教指導者たちから教を受けなかつたということは全く明らかです。しかし,12歳の時,イエスがそうした人々,つまり学者やパリサイ人たちに質問を発して,彼の御父の仕事をしていたということは確かに書かれています。歴史家ルカはこう述べています。過越が終つてエルサレムから家に帰る途中,両親はイエスを捜していた。そして「親族や知人の中を捜しはじめたが,見つからないので,捜してまわりながらエルサレムへ引返した。それから3日の後に,イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわつて,彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな,イエスの賢さやその答に驚嘆していた」。―ルカ 2:44-47,新口。
3 わずか12歳のこの若者は,両親に向かつて言いました,「わたしが自分の父の家にいるはずのことを,ご存じなかつたのですか」。でもイエスは,両親と一緒に家に帰りました。記録はこう伝えています,「イエスはますます知恵が加わり,背たけも伸び,そして神と人から愛された」。―ルカ 2:49,52,新口。
4,5 (イ)何を決意すべき時がイエスにおとずれましたか。イエスの御父は,イエスの仕事の選択を承認したことをどのように示されましたか。(ロ)イエスの任命式は,ぎようぎようしい儀式でしたか。
4 しかしながら,イエスが御父の仕事を全時間すべき時は来ました。そして30歳になられた時,洗礼者のヨハネのところに行かれました。ヨハネは,ヨルダン川で洗礼を施していたヱホバの預言者でした。このへんぴな場所で,「主の道を備えよ,その道筋をまつすぐにせよ」と「荒野で呼ばわる者の声が」したのです。それは洗礼者のヨハネでした。そして彼は,イエスを完全に水中に入れ,また水から引き上げました。こうしてイエスは,御父の御心を行うための献身を象徴され,ヱホバもイエスを御心にかなつた愛する子として是認されました。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ,水から上がられた。すると,見よ,天が開け,神の御霊がはとのように自分の上に下つてくるのを,ごらんになつた。また天から声があつて言つた,『これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である』」。(マタイ 3:3,16,17,新口)いまやイエスは,キリスト,すなわち油をそそがれた者となりました。イエスは神から任命を受けたのです。そして,任命された奉仕者として,偉大な伝道のわざを開始しなければなりませんでした。「イエスが宣教をはじめられたのは,年およそ30歳の時であつた」。―ルカ 3:23,新口。
5 イエスの任命式が,多くの司祭もしくは牧師の出席のもとに行われた見せ物のようであつたとは,誰も言えません。行列もありませんでした。また,イエスはいずれかの有名な神学校の卒業生でありませんでした。彼は大工の息子で,彼自身大工でした。そしていまや宣教という職につくために歩を一歩すすめたのでした。
6 イエスの弟子たらはどのように任命された奉仕者になりましたか。当時クリスチャンになつた人々の何人が,宣教のために任命されましたか。
6 イエスの弟子たちもみな同様に,すつかり水に浸されて洗礼を受けました。イエスは,神の御国の近づいていることについて弟子たちに教えた後,ご自身と同じように,御国の音信を宣べ伝えるよう彼らを送り出されました。弟子たちはよく訓練されていました。神の御言葉と御心を知つていてそしてイエスの教えた通りに生活しました。神学校には行きませんでしたが,それでも神の任命された奉仕者たちでした。後になつてヱホバは,初期クリスチャンたちを会衆に組織するのに彼らを用いられました。そして彼らは,神の群れを支配するのではなくて,神の群れを飼うための監督を任命しました。当時,クリスチャンになつた人はみな任命された奉仕者となりました。なぜなら,ヱホバは「あたかも(彼らを)通してすすめておられるよう」に,彼らを「キリストの代りの大使」とされたからです。―コリント後 5:20,新世。
7 イエスの弟子たちが宣教のために任命された奉仕者であつたことはイエスのどの命令によつて分りますか。
7 イエスが,集まつた弟子たちに次のように話されたのは,彼が死から復活した後のことでした,「それゆえに,あなたがたは行つて,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいつさいのことを守るように教えよ」。(マタイ 28:19,20,新口)使徒たちは,キリスト・イエスの真の追随者たちに洗礼を施す際に,自分たちが洗礼を受けた時の方法,あるいはキリスト・イエスが示した方法とは違つた方法を用いるようにとは告げられませんでした。そういうわけで,人が神の任命された奉仕者のひとりとなるために,経なければならない形式的な宗教儀式は何もありません。キリスト・イエスは簡単な手本を示されました。
8 神の奉仕者の任命は実際にだれが行ないますか。そして洗礼はこの問題とどんな関係をもつていますか。
8 もちろん,水の洗礼を受けることがその人を任命された奉仕者にするわけではありません。神がその洗礼をうける人を任命されるのです。その人はすでに,ヱホバ神を最高支配者,キリスト・イエスを自分の救い主と認めており,また,自分が罪人であること,神のみ前に正しい立場を得るには,キリストの犠牲の価値が必要であることも認めています。人が水の洗礼を受けるる時,それには大きな意味があります。というのは,その洗礼を受けた人は,自分がヱホバへの奉仕と崇拝に献身したこと,または取り分けられたことをそこで公けに表わしているからです。もちろんその人は,自分が何をしているかをよく承知しなければならず,またこの高潔な目的にふさわしい者であることを証明しつづけなければなりません。神はその受洗者を受け入れられて,神聖な奉仕に任命されます。
9,10 (イ)任命されるとはどういう意味ですか。(ロ)その権限が,イエスにとつて何をすることを意味したかを,イエスはどのように示されましたか。
9 任命されるということは,宣教の任務を与えられる,あるいはおごそかに任命されるという意味です。イエスは,神から特定の奉仕をするようおごそかに任命されました。それは,イエスに対する神の御心でした。イエスはナザレの会堂で,御自身の宣教上の任務に関する部分をイザヤ書からお読みになりました,「『ヱホバの御霊は私にのぞんでいる。ヱホバは,貧しいものによいたよりを宣べ伝えるために私に油を注いだ。捕われ人にゆるしを伝道し,盲の目を開き,打ちひしがれた者に自由を得させ,ヱホバの受け入れ給う年を宣べ伝えるために,ヱホバは私をつかわした』。こう言つてイエスは聖書を巻き,係りの者にかえして席に着かれた。すると会堂にいるみんなの者の目がじつとイエスに注がれた。そこでイエスは話し出された,「あなた方のいま聞いたこの聖句は,今日成就した」』」。―ルカ 4:18-21,新世。
10 キリストがこの仕事をされるということは,イザヤ書 61章1,2節に預言されていました。だからこそイエスはこの聖句を引用することができ,自分がそれを成就している,と言うことができたのです。イエスは,ヨルダン川で洗礼を受けた時,この奉仕に任命されました。あるいはこの奉仕を命ぜられました。その場所で,ヱホバの霊がイエスの上にくだり,イエスはいまや神の仕事を行なうべく権威を与えられました。彼にとつていまは話すべき時,公に宣明すべき時でありました。イエスがそれをされたのはいうまでもありません!
11 クリスチャン・ギリシャ語聖書を読むと,イエスのわざについて何がわかりますか。そのわざをすべき任務は他の人々に引き渡されましたか。
11 ギリシャ語聖書を読んだ人ならば,イエスが3年半の宣教期間に成し遂げられた,強力な伝道と教えのわざのことを知つています。また使徒たちのなした仕事のことも知つています。使徒パウロはその仕事についてこういつています,「なぜなら,人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」。(ロマ 10:10,新口)今日のクリスチャンたちも,違つたことをすることはできません。クリスチャンであるイエスの忠実な追随者たちには,イエスに課せられたと同じ使命,つまり良いたよりを伝え,盲人に見ることを得させ,ヱホバのめぐみの年を伝えるという使命がゆずり渡されているのです。この問題については,イエスご自身がオリブ山で,同じようなことを,しかもはつきりと言われていますが,これは私たちの時代のためです。つまりこう言われました,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。(マタイ 24:14,新口)しかし,使徒たちおよびイエスのすべての追随者は,良いたよりの伝道を,生涯の任務としなければならないことになつていました。
宣教の規模
12 宣教のわざはどのくらい重要ですか。時にかなつたどんな質問が提出されていますか。
12 人が,神の御前であろうとあるいはこの世の政府の前であろうと,任命された奉仕者であるということは,ささいなことがらではありません。それには,その人の話すひとことひとこと,思想,行為,キリスト・イエスの置かれた原則に実際に従うこと,そうです,キリストの足跡に従うことが関係しているのです。では神のみ前でクリスチャンに与えられたこの任命は,どの範囲にまで及ぶのでしようか。奉仕者というものは,誰かにこの良いたよりを伝えている間だけ任命を受けている者なのでしようか。それともこの任命は,ヱホバ神に献身している故をもつて,いつでも効力のある任命ですか。また自分が誓約した職をしばらくの間はなれて,ほかの事をすることができますか,それとも宣教という上衣を常に身につけていなければなりませんか。イエスは若者であつた時大工であつたが,職をかえたと,聖書は示しています。イエスはもつとはやく職を変えたかつたことでしよう。しかし,それは神の御心ではありませんでした。イエスはまず30歳に達しなければならなかつたのです。これは,レビ人が,ユダヤ人の律法の下に,十分資格のある祭司となれる年齢でした。さてイエスは,神に任命された時,父の御心を行なうことを最も重要視されました。それは天の御国が近づいていることを伝道することでした。弟子たちも同じ種類の仕事をするよう,あるいは同じ職につくよう,イエスは訓練されました。
13 「職」という言葉の神学上の意味は何ですか。誰がそのような道に従わねばなりませんか。
13 「職」という言葉の神学上の意味は,「人がそれに適しているために,また生来そういう傾向をそなえているために,または多くの場合神に召されたという確信をもつているために,ある特定な地位,あるいは生活状態において,特に聖職もしくは宗教生活において神に奉仕するための召し。人が召されてつく地位,もしくは生活状態。牧師として,教会の特定な地位に,公式に招かれること」です。イエスは確かに「神に対する奉仕への召し」を受けました。彼はある特定な活動に,もしくは特定な生涯を送るよう召されたのです。いまやイエスの職は,「まず神の国と神の義を求める」ことでありました。(マタイ 6:33,新口)ですから,任命されたキリスト・イエスの追随者となる者もみな,そのようにクリスチャン生活を送らなければなりません。イエスの使徒たちは,この世の政府の前では人々から漁師,収税人,天幕工とさげすまれました。しかし,神の御前では,任命を受けた奉仕者が彼らの職であることを証明するために,そういうクリスチャン生活を送らねばなりませんでした。
14 (イ)どういう時,大工,石工,技師あるいは医師のような職が,第二次的なものになりますか。(ロ)いつたん任命されたならば,なぜやめるようなことはないのですか。
14 献身したクリスチャンであることが,短時間勤務の職でない事は,今も昔も変りありません。これは全時間の職です。真のクリスチャンというものは,日曜日に,教会とか祈りの集会にいる間の2,3時間だけクリスチャンではありません。真に献身した人,すなわち神のみ前に任命された奉仕者は,キリスト・イエスに従つてその足跡を踏みはじめた時から一生の間,クリスチャンでなければなりません。この世では人は,私の職業は大工ですとか,石工,技師,医師ですと言うかも知れません。そしてこの職業でくらしをたてているというでしよう。しかしもしその人がヱホバに献身して水の洗礼を受けたなら,神への奉仕に召されたのですから,その人の従事する世俗の職業は第二次的なものとなつて,クリスチャンとしての奉仕が最も重要なもの,真の職とならなければなりません。イエスは言われました,「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう」。それで,クリスチャンの第一の仕事,クリスチャンの主要な関心事は,クリスチャン生活に専念することです。またそうでなければならないのです。クリスチャンの職は,神の御前に任命された奉仕者でなければなりません。世俗の職業はあるいはやめることがあるかも知れません。しかし,神への奉仕という神から与えられた職は決してやめないでしよう。宣教をやめるならば,クリスチャンは永遠の生命を失うのです。では,どちらがたいせつですか。
15 献身をしている人は,何を宣言しますか。そして神の御言葉をどのように見ますか。
15 ヱホバへの奉仕に献身することと,その献身を水の洗礼によつて表わすことは,地上のある宗教組織に加入することではありません。それは,そんなささいな段階ではないのです。それは,人が一生のうちで一度も行なつたことのない最も大きな事柄なのです。水の中に浸されることは,神に献身したこと,神の奉仕者として奉仕することに献身したことを仲間のすべてのクリスチャンと世の人々に宣言することです。これこそ彼の職です。そしてそれ以後は,聖書中に述べられている神の御言葉が導きでなければなりません。彼は真のクリスチャンとして,パウロの言つた通りに行動したのです,「あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に,それを人間の言葉としてではなく,神の言として ― 事実そのとおりであるが ― 受け入れてくれたからである。そして,この神の言は,信じるあなたがたのうちに働いているのである」。―テサロニケ前 2:13,新口。
16,17 (イ)人が神の御言葉を受け入れた時,それには何が関係していますか。(ロ)パウロはこれをどのように示しましたか。
16 あなたは「神の言葉を聞いて,それを受け入れ」られましたか。では,いまはどういうことが問題となりますか。使徒パウロの述べたところによると,それには食べたり飲んだりすることにさえ,関係があります。ちよつとばかげたことに聞こえるかも知れません。しかし,彼がコリント人に書き送つたことを読んで見ましよう,「だから飲むにも食べるにも,また何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシヤ人にも,また神の会衆にもつまずきになつてはいけない。わたしもまた,何事にもすべての人に喜ばれるように努め,多くの人が救われるために,自分の益ではなく彼らの益を求めている」。(コリント前 10:31-33,新世)パウロは,「飲むにも食べるにも,また何事をするにも」,それを通して生命を救うということに関心をそそいでいました。ところで,人の飲み食いが,どのように生命を救うのでしようか。パウロはそれを,コリント前書の第8章と9章で説明しています。
17 パウロは,クリスチャンたちが「偶像に供えたもの」を避けねばならないことを知つていました。(使行 15:29,新口)しかし,コリント人にこう説明しています,「すべて肉市場で売られている物は,良心のために何も問わずに食べなさい。というのは,『地と地に満ちているものはヱホバのものである』からだ。もし不信者の誰かがあなたを招き,あなたも行くことを望むならば,あなたの前に出されたすべての物を,良心のために何も問わないで食べなさい。しかし,誰かが『これはある神にささげられたものです』とあなたに告げるなら,それを告げた者のため,また良心のために食べてはならない。『良心』と私は言うが,それはあなたの良心ではなく,その人の良心のことである。というのは,わたしの自由が他の人の良心にさばかれるほうはないからである。もし感謝して食べているなら,どうして私の感謝するものについてそしられることがあろうか」。(コリント後 10:25-30,新世)肉市場で売られている肉は,偶像にささげられたものかも知れません。でもどうしてそれが分るでしようか。その人は,その動物が,あるいはその一部分が,偶像にささげられたかどうか調べなかつたかも知れません。ですからパウロは,もし人があなたを食事に招くなら,出されるものを食べなさいと言つているのです。パウロは,「偶像なるものは実際は世に存在しないこと,また,唯一の神のほかに神がないこと」を知つていたのです。(コリント前 8:4,新口)しかし,もし一緒に誰べている者の誰かが,「これはある神にささげられたものだ」と言えば,その人の良心のためにそれを少しも食べてはなりません。あなた自身の良心のためですか。いいえ,他の人の良心のためです。あなたは食べることによつてその人をつまずかせるかも知れません。
18,19 (イ)パウロはなぜ,兄弟の良心をそんなにも心にかけたのですか。(ロ)今日のキリストの追随者たちも,同様にすべきですか。なぜですか。
18 クリスチャンの自由もしくは知識が,「弱いもののつまずき」となつてはならない,とパウロは論じているのです。たとえ神に感謝した後で,偶像にささげられた食物を食べたところで,あなたはやはりひとりの人を滅ぼすかも知れません。「このようにあなたがたが,兄弟たちに対して罪を犯し,その弱い良心を痛めるのは,キリストに対して罪を犯すことなのである。だから,もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,兄弟をつまずかせないために,わたしは永久に,断じて肉を食べることはしない」。(コリント前 8:9,12,13,新口)パウロが受けた任命,つまり彼が神への奉仕のために取り分けられたことには,どのように食べ,どのように飲むかさえ関係していたのです。それこそ日常のあらゆる行動に関係があつたのです。パウロは生命を救うことに関心をもつていました。ですから彼はこう言いました,「あなたの食べ物によつて,兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも死なれたのである。……神の国は飲食ではなく,義と,平和と,聖霊における喜びとである」。「すべてのことは合法であるが,すべてのものが役にたつものではない。すべてのことは合法であるが,すべてのものが建て起こすわけではない。だれでも自分の益を求めないで,他の人の益を求めるべきである」。―ロマ 14:15,17。コリント前 10:23,24,新世。
19 今日のクリスチャンは,異なつた物の見方をして,食べることや飲むことで,合衆内のユダヤ人や,ギリシヤ人や兄弟をつまずかせてもよいですか。決してそうあつてはなりません! 私たちはパウロと同じ立場にあります。彼ならおそらく「すべての人に喜ばれるように努め,多くの人が救われるために,自分の益ではなく彼らの益を求める」でしよう。(コリント前 10:33,新口)あなたも同じようにされますか。もしあなたがパウロと同じく任命された奉仕者ならばそうなさるでしよう。
食べること,飲むこと,話すこと,働くこと
20 (イ)食物を食べることは,今日のクリスチャンにとつて問題とならないかも知れませんが,一方何が,またどんな議論が,それの使用について提出されていますか。(ロ)しかし,飲むという習慣については,何が考慮されねばなりませんか。
20 しかし,いまの時代にそんなことは起こらない。人々は偶像に食物を供えない,という人がいます。それでは,飲むという習慣はどうですか。今日人々は,よく飲みます。そして,パウロは,飲むことも注意すべきことがらとして述べています。人々はあらゆる種類の飲み物を飲みますが,ある人の心を最も乱すものは,アルコール飲料を飲むことです。お酒を飲みたい人は,胃のために少しのぶどう酒を飲むようパウロがテモテに,すすめたことを持ち出すでしよう。また他の人は,イエスの最初の奇跡は,ぶどう酒をつくることであつたと言うかも知れません。さらに他の人は,酒は心を喜ばせる,というでしよう。それは事実です。そしてアルコール飲料を所持したり用いたりすることは,ほとんどの国や州でゆるされています。しかし,それは,他の兄弟の役に立ちますか。あなたがそうした飲物を飲むことは,「建て起こす」ことに役立ちますか。自分の益ではなくて,他の人の益を考えましよう。
21,22 (イ)不注意な監督は,兄弟たちの前で,どんなわるい手本を示すことがあるかも知れませんか。(ロ)兄弟のほかに誰がつまずくかも知れませんか。
21 神の民のある会衆の監督が,ある晩友人と外出すると仮定します。その監督は感化力のある,尊敬されている人です。しかし,自制せずに酒を飲んで酔つてしまいます。聖書はきわめてはつきりと,酒に酔う者が御国をつぐことはないと述べています。「それとも,正しくないものが神の国をつぐことはないのを知らないのか。まちがつてはいけない。……盗む者,貪欲な者,酒に酔う者……が神の国をつぐことはないのである」。(コリント前 6:9,10,新口)あなたがたのなかには,真理にはいる前にそのようであつた者もいたが,洗いきよめられたのである,とパウロは言います。それでは,なぜそういう行いに戻つていつて,兄弟をつまずかせるのですか。さて,千鳥足で道を歩いているその監督をある兄弟が見かけるかも知れません。見た人はショックを受けます。そして,自分の会衆の任命された奉仕者が,神の任命をそんなにも軽視して,酔つぱらつているということに心をみだされ,憤りを感じます。この不注意な飲酒は,神の会衆のある兄弟をつまずかせる原因となりました。
22 もう少しこの酔つた人の後をつけて見ましよう。彼が自分の家に近づいた時,彼と一緒に聖書を研究している隣人が,彼の酔つぱらつているのを見ます。そしてその人もつまずきます。その人は,この任命された奉仕者が,クリスチャンとしての生き方をしているとばかり思つていたからです。そこで,その隣人は,もうこんな人と聖書の研究をするのなんかやめよう,と決心して奥さんに言います,「聖書を研究していながらあんなふうなら,神に信仰をもたない人にでも,交際するのにもつと立派な人はいくらでもいる。任命された僕だなどという会衆のおもだつたあの人が,あんなに酔つぱらつているのに,わたしがいまさら生活のし方を変えて新しいことをはじめる必要なんかない」。
23 コリント人とロマ人にあてたパウロの手紙の中の言葉は,どんな点で,非常に時にかなつていますか。
23 「だから,飲むにも食べるにも,また何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである」と言つたパウロは何と正しかつたのでしよう。(コリント前 10:31,新口)このことは神に栄光を帰しましたか。クリスチャンが,ユダヤ人,ギリシャ人,隣人,友人,あるいは神の会衆内の兄弟たちをつまずかせたくないのは言うまでもないことです。任命されたすべての奉仕者が関心をそそがねばならないのは,神の新しい世へと,すべての人々の生命を救うことです。「こういうわけで,平和に役立つことや,互の徳を高めることを,追い求めようではないか。食物のことで,神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ,それを食べて人をつまずかせる者には,悪となる。肉を食わず,酒を飲まず,そのほか兄弟をつまずかせないのは,良いことである」。―ロマ 14:19-21,新口。
24,25 クリンチャンはどんな他の面で,自分の歩みに注意しなければなりませんか。
24 クリスチャンは,ほかの事がらにおいても,自分の歩みに気をつけねばなりません。パウロは,コロサイ人に書き送つた時,この真理を示しています,「キリストの言葉をゆたかにあなたがたの中に宿らせ,全き知恵にならせなさい。たがいに教えて励まし合い,詩と賛美とを神にささげなさい。心の中に感謝しつつ霊の歌をヱホバに歌いなさい。あなたがたのすることすべて,言葉でもすべて仕事でも,いつさいのものを主イエスの名によつて行ないなさい。そして彼を通して父なる神に感謝しなさい」。―コロサイ 3:16,17,新世。
25 パウロは,私たちが毎日の大部分の時間をついやしている言葉や仕事に注意を払いなさいと言つています。私たちは人々に,どのように話しますか。また雇い主のためにどのように働きますか。クリスチャンとしての訓練は,これら二つの事がらに必ず表われてきます。
26 任命された奉仕者は,どんな種類の言葉を使うべきですか。言葉を制御することが,時折むずかしいのはなぜですか。
26 私たちの口から出る言葉はつつしみがあり,清潔で,助けになり,品がありますか。私たちのいうすべての事を,喜んで神に聞いていただきますか。ヤコブは私たちの言葉について書き,こう言いました,「泉が,甘い水と苦い水とを,同じ穴からふき出すことがあろうか。……塩水も,甘い水を出すことはできない」。また,体の中のこの小さな器官については次のように言つています,「舌は火である。……舌を制しうる人は,ひとりもいない。それは,制しにくい有害なものであつて,死の毒に満ちている。この舌で父なるヱホバをさんびし,また,その同じ舌で『神にかたどつてつくられた人間』をのろう。同じロからさんびとのろいが出てくる。わたしの兄弟たちよ,このようなことがいつまでもあるべきことではない」。任命された奉仕者の口は,他の人を親切に教えたり,いましめているべきであつて,真理に反して誇つたり,偽りを言うようなことがあつてはなりません。その口は常にヱホバをさんびしているべきです。「義の実は,平和を造り出す人たちによつて,平和のうちにまかれるものである」。―ヤコブ 3:6-12,18,新世。
27 任命された奉任者は,二つの語彙をもつことができませんか。これについてパウロとペテロは何と述べていますか。
27 ヱホバの任命された奉仕者たちは,ひとつは清く正しい,ひとつはけがれて悪い,二つの言葉をもつ二重人格者であることはできません。クリスチャンは自分を訓練することができ,考えを明確に力づよく表現する良い言葉を使うことができます。クリスチャンは,神の民の会衆内で使う一つの言葉と,ほかに職場で使うもうひとそろいの残酷な,荒々しい,汚い言葉とを合わせもつてはいません。パウロが,「あなたがたのすることすべて,言葉でも……いつさいのものを主イエスの名によつて行ないなさい。そして彼を通して父なる神に感謝しなさい」と言つているのを忘れてはなりません。ペテロもこれを支持して,表現力に富んだ良い言葉でこう言つています,「実に生命を愛し,よい日を見ようと思う人は,舌をおさえて悪を言わず,唇を閉じて偽りを避けなさい。悪から離れて善を行ない,平和を求めて,これを追いなさい。ヱホバの目は義人の上にそそがれ,その耳は彼らの祈りにかたむく。しかし,ヱホバの御顔は悪いことを行なう者たちに向かう」。―ペテロ 3:10-12,新世。
28 (イ)任命されたクリスチャン奉仕者は,世俗の職業をどう見るべきですか。(ロ)あからさまに他人の物を盗むほかに,人はどのように盗人になることがありますか。
28 それからクリスチャン生活の他の部分,すなわち仕事があります。相当の時間が,いずれかの種類の労働に費やされていますが,人はどのようにその仕事をして,生計を立てているでしようか。実際にすべての人は,雇い主と契約または協定を結びます。雇主は,ある仕事をさせるためにひとりの人を雇う時,その人にいくらかの賃銀を支払うことを同意します。雇われた者は,仕事をずるけて,同意したものよりも少なく働くべきではありません。彼は正直に,雇い主との契約を100パーセント果さねばなりません。かりにある大工さんが,1日に何時間という取り極めで雇われて,その時間に対していくらか賃金を受け取るなら,当然その時間中は,はじめから終りまで,良い大工仕事を勤勉にしなければなりません。のらくらするために賃金をもらつているのではなく,仕事をするためにお金をもつているのです。あるクリスチャンが,金持ちの経営する店に働いているならば,金持だからという理由で,その金持から盗む権利はありません。また,品物の価値よりも値段を高くし,差額を自分に取つて,お客から盗む権利もありません。それは盗みです。のらりくらりと仕事をしても雇い主から盗むことです。人は,雇い主が賃金を払うよう要求します。ではなぜ雇い主が,自分の払う賃金に対してそれだけの仕事を果すよう要求できないのですか。「あなたがたのすることすべて……仕事でも,いつさいのものを主イエスの名によつて行ないなさい」。あなたはそうしますか。
29 使徒パウロは,クリスチャンになつた奴隷のオネシモに対してどんな態度をとりましたか。
29 パウロは,ビレモンの奴隷オネシモを,彼の雇い主から引き離しておくべきではないと考えました。オネシモがクリスチャンになつた時,パウロは彼が奴隷であつたことを知つて,彼を主人に送り帰しました。ピレモンもクリスチャンであつたとはいえ,クリスチャンとなつたその奴隷はやはりピレモンのものでした。パウロは,オネシモについて書き,こう言いました,「捕われの身で産んだわたしの子供オネシモについに,あなた(ピレモン)にお願いする。彼は以前はあなたにとつて無益なものであつたが,今は,あなたにも,わたしにも,有益なものになつた。彼をあなたのもとに送りかえす。彼はわたしの心である」。パウロは,主人のもとから逃げていたオネシモが,彼にとつて非常に有益なことを見出しましたが,それでも彼が主人のもとへ帰るよう望みました。それは正しい事だつたからです。そして法律上彼はある人のものでしたし,ピレモンも「彼をいつまでも留めておく」かもしれないからでした。「しかも,もはや奴隷としてではなく,奴隷以上のもの,愛する兄弟としてである。とりわけ,わたしにとつてそうであるが,ましてあなたにとつては,肉においても,主にあつても,それ以上であろう」。(ピレモン 10:12,15,16,新口)聖書の示すところによると,クリスチャンは,奴隷であろうとも,また自由人であろうとも,どういう状況にあつても,主イエスの名によつて行なつているように働き,「彼を通して父なる神に感謝」しなければなりません。
30 ですからクリスチャンは何でなければなりませんか。
30 クリスチャンたちは正直でなければなりません。また誠実でなければなりません。そしてあらゆる種類人々が救われるよう,良いたよりを伝えている時に限らず,すべての事をなすのに,任命された奉仕者であることを証明しなければなりません。それによつて彼らは,「神の御言葉が信ずる者たちの中に働いている」ことを証明するのです。あなたは,食べること,飲むこと,話すこと,働くこと,伝道すること,あるいはその他のあらゆることをなす際に,良いわざをなしているクリスチャンですか。誰かが救われるために,すべてのことを神の栄光のためにしていますか。あなたは,「平和を求めて,それを追つて」いますか。クリスチャンは,「ヱホバの目は義人の上に」任命された奉仕者の上に「そそがれること」を知つています。―ペテロ前 3:11,12,新世。