ペテロはローマをおとずれましたか
1 (イ)どんな信念のために,ローマはキリスト教国において重要な地位を占める傾向がありますか。(ロ)これに関連してどんな疑問が生じますか。
ペテロを初代法王と考え,また教会の基礎と考えている多くの人は,ペテロがローマをおとずれ,そこから手紙を書き,そこで殉教したという説をとなえます。このような説によって,キリスト教国におけるローマの地位が宗教的な中心地として重要になることはいうまでもありません。ペテロがローマにいたというのは真実のことですか。ペテロはそこにクリスチャン会衆を設立しましたか。ペテロの手紙の発信地であるバビロンはある人の言うようにローマを象徴した名ですか。
2 これらの疑問の答えを理解することは,どのように大切ですか。
2 ある人々にとって,これはどうでもよい事のように思われるかもしれません。しかしこの問題を理解するかどうかは,最も大切な聖書の主題のひとつを理解するかどうかにつながっています。そしてこの主題を理解しなければ,自分の滅びを避けるために「彼女(大いなるバビロン)から離れ去」れとの命令を守ることができず,生命を失う結果にならないともかぎりません。
3 ペテロは,諸国民すなわち異邦人に関連してどんな特権に恵まれましたか。しかし「諸国民への使徒」の務めを得たのはだれですか。
3 ペテロは天国のかぎを使い,天国にはいる道を示して知識のとびらを開きました。西暦33年の五旬節にはエルサレムでユダヤ人のために,そして西暦36年には,およそ80キロはなれたカイザリヤにおいて,コルネリオとその家の者のためにそのことをしました。それは確かですが,「異邦人への使徒」として選ばれたのはパウロでした。(使行 9:15; 22:17-21)新しいクリスチャン会衆を設立するため,世界のどの方面に伝道するかについては,使徒たちの間で区域の分担がとりきめられました。パウロ自身がそのことを説明しています。
区域の割り当て
4 クリスチャン会衆の統治体は,どのような区域の分担と割り当てを決めましたか。
4 「その後〔先回の訪問から〕十四年たってから,わたしはバルナバと一緒に,テトスをも連れて,再びエルサレムに上った。そこに上ったのは,啓示によってである。そして,わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を,人人に示し(た)……彼らは,ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように,わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め,(というのは,ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務につかせたかたは,わたしにも働きかけて,異邦人につかわして下さったからである),かつ,わたしに賜わった恵みを知って,柱として重んじられているヤコブとケパ〔ペテロ〕とヨハネとは,わたしとバルナバとに,交わりの手を差し伸べた。そこで,わたしたちは異邦人に行き,彼ら〔ヤコブ,ペテロ,ヨハネ〕は割礼の者に行くことになったのである」― ガラテヤ 2:1-9。
5 それぞれの割り当てに従って,ペテロとパウロはどこで伝道しましたか。
5 さて,第1世紀においてユダヤ人の大半は,バビロンを含めて東洋に住んでいました。そこでペテロはもっぱらその方面に伝道することになります。一方,パウロはヨーロッパに向かって西に行くことになりました。この区域の分担が神に是認されたことは,小アジアの西端トロアスをおとずれたパウロが,西方に行くように神に招かれた事実からもわかります。「ここで夜,パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って,『マケドニヤに渡ってきて,わたしたちを助けて下さい』と,彼に懇願するのであった」。(使行 16:9)そこにおけるパウロの働きによって発足した最初の会衆は,マケドニヤの町ピリピの会衆でした。ついでアテネ,コリントなど,ヨーロッパの他の都市に会衆が設立されました。
ペテロは他のすべての人の上に位するのではない
6 (イ)コリント人にあてたパウロの手紙は,パウロの働きの結果,その会衆が設立されたことを,どのように示していますか。(ロ)ペテロをクリスチャン会衆のかしら,また基と考えることができないことは,その手紙にどのように示されていますか。
6 西方の都市コリントに会衆が設立されたのは,パウロの働きの結果でした。そのこと,およびペテロをクリスチャン会衆のかしらとあおぐべきでないことは,ちょうどこのような問題についてコリント会衆に書き送ったパウロのことばからも明らかです。コリント会衆には宗派を作る動きがあり,人々は互いに「わたしはパウロに」,「わたしはアポロに」,「わたしはケパ〔ペテロ〕に」,「わたしはキリストに」それぞれ属すると言い合っていました。パウロはそのことを強く叱責しています。「あなたがたが肉の人であって,普通の人間のように歩いているためではないか。すなわち,ある人は『わたしはパウロに』と言い,ほかの人は『わたしはアポロに』と言っているようでは,あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは,いったい,何者か。また,パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ,主から与えられた分に応じて仕えているのである。だから,植える者も水をそそぐ者も,ともに取るに足りない。大事なのは,成長させて下さる神のみである。だから,だれも人間を誇ってはいけない。すべては,あなたがたのものなのである。パウロも,ケパ〔ペテロ〕も,世界も,生も,死も,現在のものも,将来のものも,ことごとく,あなたがたのものである。そして,あなたがたはキリストのもの,キリストは神のものである」― コリント第一 1:12; 3:3-5,21-23。
7 (イ)パウロ,ペテロ,アポロのような人は,クリスチャンの組織内でどんな役割をはたしましたか。(ロ)「わたしはパウロに属する」「わたしはペテロに属する」と言っていた人々は,どんな考え方をしていましたか。
7 彼らを信仰に導き,その霊的な成長を助けたこれらの人々は,神がキリストをとおして賜わったしもべとして会衆に属しており,その中には統治体の人もいました。彼らは人の「賜物」でした。それでパウロやペテロのような人間は教会の基礎またかしらではありません。教会の基礎はイエス・キリストです。パウロがコリント人に語ったように,「すでにすえられている土台以外のものをすえることは,だれにもできない。そして,この土台はイエス・キリストである」。(コリント第二 3:11)人間を土台と考えていたクリスチャンは「普通の人間」であり,霊的な人から霊的でない,物質的な人間の考えに堕していました。
パウロはローマへ行く
8 パウロはおもにどこで働きましたか。パウロがローマに関心を持っていたことは,何からわかりますか。
8 聖書の使徒行伝はパウロのわざを記録しており,西洋諸国の異邦人の間で活躍したのはパウロであったことを示しています。もちろんパウロはそれらの国にいたユダヤ人にも伝道しました。しかし,ローマに会衆を設立したのは,「異邦人への使徒」パウロではなく,ましてペテロではありません。小アジアのエペソにいた時,パウロはエルサレムに上る計画について述べたあと,「わたしは,そこに行ったのち,ぜひローマをも見なければならない」と語りました。(使行 19:21)パウロはローマの会衆に送った手紙をラテン語ではなく,ギリシャ語で書きました。そして次のように述べています。「こういうわけで,わたしはあなたがたの所に行くことを,たびたび妨げられてきた。しかし今では,この地方にはもはや働く余地がなく,かつイスパニヤに赴く場合,あなたがたの所に行くことを,多年,熱望していたので,― その途中あなたがたに会い,まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら,あなたがたに送られてそこへ行くことを望んでいるのである」― ローマ 15:22-24。
9 (イ)パウロがローマの会衆を設立したのではないこと,しかし主がパウロをそこで用いるのを望まれたことは,主ご自身のことばにどのように示されていますか。(ロ)ローマの会衆を設立したのはだれですか。
9 エレサレムで逮捕され,そこのユダヤ人宗教指導者に悩まされてのち,パウロは,カイザルに上訴しました。そしてキリストはそのことを是認しました。次のことが記録されています。「主がパウロに臨んで言われた,『しっかりせよ。あなたは,エルサレムでわたしのことをあかししたように,ローマでもあかしをしなくてはならない」。(使行 23:1-11)これらの事実からみて,ローマの会衆はパウロによってではなく,西暦33年の記念すべき五旬節の日,ローマからエルサレムに来ていて改宗したユダヤ人によって設立されたに違いありません。これらのユダヤ人はローマにもどってのち,御国の福音をそこで伝道しました。―使行 2:1-10。
10 パウロのローマへの旅およびローマでの監禁の記録,またローマ人への手紙の中で,何が注目されますか。
10 多くの難儀をかさねてのち,パウロはローマに着きました。使徒行伝 28章14節から16節は次のように述べています。「そこ〔ポテオリ〕で兄弟たちに会い,勧められるまま,彼らのところに七日間も滞在した。それからわたしたちは,ついにローマに到着した。ところが,兄弟たちは,わたしたちのことを聞いて,アピオ・ポロおよびトレス・タベルネまで出迎えてくれた。パウロは彼らに会って,神に感謝し勇み立った。わたしたちがローマに着いた後,パウロは,ひとりの番兵をつけられ,ひとりで住むことを許された」。ローマから来てパウロを出迎えた人の中にペテロがいたとは述べられていません。またのちの記録をみても,最高僧院長であったネロ皇帝の前に出るまでローマに監禁されていたパウロが,ペテロの訪問を受けたことはありません。またローマ人にあてた長い手紙の中でパウロは多くの人にあいさつを送っていますが,その中にペテロの名前はあげられていません。―ローマ 16:3-23。
東方の諸会衆に対するペテロの宣教
11 ペテロは当然のこととして,どこで伝道していましたか。
11 一方ペテロはどこで宣教のわざを行なっていましたか。ペテロは,割礼のある者への使徒として割り当てられた務めを行なっていました。(ガラテヤ 2:8)そこでペテロは四散したユダヤ人(ダイアスポラ)a にもっぱら宣べ伝えたのです。バビロンは,東方に散ったユダヤ人にとって重要な中心地でした。そのことについて次のように書かれています。
12 当時のバビロンにユダヤ人が住んでいたことについて,歴史は何を述べていますか。
12 キリスト時代にヨセハスは,「おびただしい数」のユダヤ人がバビロニアにいたことを述べている。(古代史XI V2)彼はまた,アンチオカスがバビロンおよびメソポタミアからフィルギアとシリアに2000のユダヤ人家族を移したことを述べている……バビロニアは何世紀もの間,東方におけるユダヤ教の中心地であった。その地のラビの学校における審議によって,西暦5世紀にエルサレム・タルマッドが,そして1世紀後にバビロン・タルマッドが完成された。メソポタミアにおけるユダヤ教の二大中心地はユフラテ河畔の町ネハーディアと,ミグドニアス河畔のニシビスであった。これらの町はシリアにおけるキリスト教の中心地でもあった。―国際スタンダード聖書百科,1955年版第2巻856頁a。
13 区域の割り当てについてガラテヤ人への手紙 2章9節にしるされたとりきめが守られていたことは,ヤコブ,ヨハネ,ペテロの書いたものにどのように示されていますか。
13 パウロは西方のヨーロッパへ行きました。一方ヤコブ,ケパとヨハネは,ガラテヤ人への手紙 2章9節に述べられているとりきめにしたがって東方の世界に行ったのです。ヤコブはそのことと一致しており,その手紙の冒頭に次のように書いています。「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから,離散している十二部族の人々へ,あいさつをおくる」。(ヤコブ 1:1)聖書巻末の本を書いた使徒ヨハネは,東方の諸会衆にあて,「ヨハネからアジヤにある七つの教会へ」と書きました。ヨハネに幻を与えた復活後のキリストは,「あなたが見ていることを書きものにして,それをエペソ,スミルナ,ペルガモ,テアテラ,サルデス,ヒラデルヒヤ,ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」と命じました。(黙示 1:4,11)ところでペテロはだれに手紙を書き送りましたか。ペテロの第一の手紙は次のように書き出されています。「イエス・キリストの使徒ペテロから,ポント,ガラテヤ,カパドキヤ,アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち(ヘ)」。(ペテロ第一 1:1)これらの地名の中にヨーロッパの地名はひとつもありません。
バビロンはローマの神秘的な名称ではない
14 (イ)ペテロは聖書に収められたその第一の手紙を,どこで書いたと述べていますか。しかし手紙の発信地がローマであると言う人は,そのことをどう説明しますか。(ロ)ギボンズ枢機卿認可の出版物またカトリックの考え方によれば,ペテロの第一の手紙が書かれたのはいつですか。(ハ)ノックス訳の脚注は,ペテロの第一の手紙 5章13節についてなんと述べていますか。
14 ペテロはその手紙の中でローマにふれていないばかりか,ペテロの第一の手紙 5章13節において手紙の発信地がバビロンであることを明白に示しています。「あなたたちとともに選ばれたバビロンにある教会と,私の子マルコからよろしくといっている」。(バルバロ訳)しかしペテロがローマから手紙を書いたという説を主張する人々は,バビロンがローマの象徴であり,バビロンの名でローマを偽装しているのだと言います。たとえば,ジョン・マーフィー社出版,ギボンズ枢機卿認可のペテロ前書の前書きは一部このように述べています。
彼は主の昇天のおよそ15年後にローマでこの手紙を書いた。彼はローマのことを比喩的にバビロンと呼んでいる。
またペテロ前書の中でバビロンに関する脚注には,「比喩的にローマをさす」とあり,R・A・ノックス師訳の新約聖書(1944年)の脚注には,「バビロンがローマを意味することはまず疑いない。黙示録 17章5節と比較せよ」とあります。
15 前述のカトリック出版物によるカトリックの考え方に従って言えば,ペテロの第一の手紙は,おそくともいつまでに書れたことになりますか。
15 ペテロが,イエスの昇天のおよそ15年後に最初の手紙を書いたとすれば,つまりカトリックのこの考えによれば,ペテロの手紙はいくらおそくても西暦48年に書かれたことになります。しかしカトリック百科辞典(1911年版)第11巻753頁bには,次のことが出ています。
16 ペテロの第一の手紙の日付について,カトリック百科事典は何を述べていますか。
16 63年あるいは64年初めとみるのが最も妥当な説である。聖ペトロは64年(67年?)にローマで殉教した。ゆえに手紙が書かれたのはそれ以前でなければならぬ。そのうえ,64年の末頃始まったネロの迫害は,まだ起きていなかったものと思われる……この手紙が63年以前のものではあり得ない。
17 前述のカトリック百科辞典のことばに照らしてみると,ペテロがバビロンの名でローマを偽装する必要は,なぜありませんか。
17 そこでカトリックの説によれば,ペテロの手紙はローマがクリスチャン会衆の迫害を始める前に書かれました。ローマがクリスチャンを迫害していないのに,ローマの名を偽装する,つまりローマのかわりに比喩的にバビロンの名を使う目的あるいは理由があるでしょうか。これについて,マクリントック,ストロングの百科事典第8巻18頁に次のようにしるされています。
18 バビロンをローマの神秘的な名前とする説に反対するどんな論議が,マクリントック,ストロングの百科事典に出ていますか。
18 手紙の発信地としてしるされた地名に神秘的な意味を付する理由があろうか。そのような理由はない。1〔章〕,1〔節〕にある地名に象徴的な意味が認められないのと,それは同じである。読者は,バビロンにおけるη συνεχλεχτη〔ヘ・シネクレクテ: とともに選ばれた教会〕がローマの教会を意味するなどと,どうして解することができようか。また,黙示録(18:21)におけるごとく,バビロンが霊的な敵対勢力を意味するとすれば,カトリック批評家全体がこのような意味をここで採用し,彼らの宗教の大本山にそのような性格を暗に持たせるのは不可解なことである。エジンバラのブラウン博士はやや似た例をあげている ―「われわれの市はその占める場所および教育の中心地であることから,特にアテネと呼ばれる。しかしアテネ発としるされている手紙がエジンバラからのものだと主張することはできない」(「ペテロ前書解説講義」i, 548)。
19 ペテロの手紙に含まれる他のどんな点は,それがメソポタミアのバビロンで書かれたことを示していますか。
19 …バビロンがそのまま有名な古都バビロンをさすと解釈するのが自然である。ペテロの晩年のことは新約聖書にほとんどしるされておらず,ペテロがカルデヤに伝道旅行をした記録はない。しかし多くの ― ヨセハスによればου γαρ ολιγοι μυριαδεζ〔オウ ガー オリゴイ ミリアデス: 少なからざる,無数の〕― ユダヤ人がバビロンに住んでいたことは確かである。かなりの程度までユダヤ人の植民地であったこのような都市は,割礼の使徒がおとずれるのに適した土地ではなかろうか……パルテヤ帝国〔バビロンは当時その支配下にあった〕がみずからの政府を持っていたことを考慮したうえで,ペテロはローマ帝国の支配下にある諸州の人々に書き送り,至上者としての皇帝および地方行政を司らせるために皇帝のつかわす,さまざまの支配者に従うことを命じているのである。そのうえしばしば指摘されているように,手紙(1:1)の中で語りかけられている人々の国名は,バビロンにいて書いている人にきわめて自然な順序で,つまり1番近いところからはじめて順次,西および南の遠方に及ぼす順序で列挙されている。バビロンの名称を文字通りのバビロンと解する説は,エラスムス,カルビン,ベザ,ライトフット,ウィーズラー,メイヤーホッフ,ベンゲル,デ・ウット,ブリークそして現代の批評家のおそらく大多数によって支持されている。
20,21 (イ)ペテロがバビロンから手紙を書くことの道理は,ある批評的な注釈書にどのように説明されていますか。(ロ)ペテロがローマで殉教したという伝説は,どうして生まれましたか。(注)ペテロがローマで書いたという説は,実際にはクレメントによって裏づけられていないことを説明しなさい。
20 英国のR・ジャミソン,A・R・ファウセット,D・ブラウン博士の著作「旧新約聖書注解,批評,解説」は,前述のことがらを支持しており,1873年版第2部514頁b「バビロン」の項には次のことがでています。
21 ユフラテ河畔,カルデヤのバビロン。この手紙の書かれた場所およびカトリック教徒の言うごとくローマをさしていない証拠については緒論を見よ。ライトフットの説話と比較せよ。預言(ヨハネ黙示録 17:5)に出てくる神秘的な名称を,親しいあいさつの中に用いることはまずない。バビロンは,アジア方面に散ったユダヤ人つまりペテロが語りかけている人々の中心地であった。フィローのレガティオ・アド・ケイム第36およびヨセハスの古代史15,2・2,23:12によれば,使徒時代のバビロンには大ぜいのユダヤ人がいた。(一方ローマのユダヤ人は比較的に少数であり,ヨセハス 17・11によれば8000人ほどであった)。ゆえに割礼の使徒は当然バビロンをおとずれたであろう。それは五旬節の時にペテロが首尾よく語りかけた人々の根拠地であった。使徒行伝 2:9にユダヤ人の「パルテヤ人……メソポタミヤに住む者」とある。(メソポタミアのバビロンの当時の支配者はパルテヤ人であった)。ペテロはこれらの人々に親しく奉仕したのである。彼のことばを聞いた他の人々すなわち「カパドキヤ,ポントとアジヤ,フルギヤとパンフリヤに住む」ユダヤ人に対して,ペテロは手紙を書いて奉仕した。ペテロがローマで殉教したことを最も早く述べた権威者は,2世紀後半のコリントの司教デオニシウスである。ふたりの著名な使徒ペテロとパウロをローマ教会の設立者にすることを望んだ結果,ペテロのローマ殉教の伝説が生まれたらしい。ローマのクレメントはこの説を裏づけるためによく引用される(コリント人への第一の書簡第4,5部)が,実際は彼はこの説を裏づけていない。彼はパウロとペテロを一緒に述べているが,東洋と西洋の両方で伝道したという点でパウロの場合を顕著なものとしている。これはペテロが西方に行ったことがないことを暗示する。b
22 ペテロの第二の手紙 1章14節のことばは,ペテロがローマをおとずれていないという論をどのように裏づけますか。(注)デオニシウスはどういう人ですか。エピハニウスはローマのクリスチャンの司教について,何を述べていますか。
22 ペテロの第二の手紙 1章14節において,ペテロは「幕屋を脱ぎ去る時が間近である」ことを述べており,殉教の時の近いことを暗に示しているが,それでもローマについて何もふれず,ローマに行く意図をも述べていない。c
言い伝えではなく,真理は自由を得させる
23 (イ)ペテロと矛盾する一部の宗教文書の筆者のことばよりも,わたしたちがペテロのことばを受け入れるのはなぜですか。(ロ)ローマをさして象徴的にバビロンと言ったとすれば,ペテロはなぜまちがっていたことになりますか。
23 聖書の一部ではない宗教文書の筆者が,バビロンはローマのことであり,経外典におけるローマの別の名であると言うならば,どうですか。彼らは,霊感によって聖書を書いた神のしもべとは異なり,霊感されていません。(ペテロ第二 1:21)ほんとうはローマを意味するつもりでバビロンと言ったとすれば,ペテロを霊感した神の霊はまちがったことになります。そのような事はあり得ません。のちにこの連載記事の中で示されるように,バビロンはローマではなく,ローマを表わしているのではないのです。神は常に真実であり,神によって霊感された筆者は真実を書きました。ゆえにペテロの第一の手紙 5章13節にあるペテロのことばは,ローマを意味するのではなく,メソポタミアのバビロンの町を文字どおりに意味しています。
24 「バビロンにいる彼女」がそこの会衆をさすとすれば,「彼女」はバビロンを滅亡から救うことができましたか。なぜですか。
24 当時バビロンが存在していたことについて言えば,ライト,フィルソン編ウエストミンスター聖書歴史地図1956年改訂版(89頁「イエス誕生の時のローマ世界」)は,バビロンが都市として当時,存在していたことを示しています。ペテロの第一の手紙 5章13節(新世訳)にある「バビロンにいる彼女」という句は,バビロンにある会衆を意味するのかもしれません。しかし「彼女」は,バビロンが預言されていたとおりの廃墟になるのを妨げることはできませんでした。
25 (イ)地上の特定の都市あるいは特定の人がそこをおとずれたという事実は,クリスチャンにとってとくに重要なことですか。(ロ)バビロンの正体について,何を知ることが大切ですか。なぜですか。(ハ)大いなるバビロンに関する必要な知識をどこに求めなければなりませんか。なぜですか。
25 今日,クリスチャンはクリスチャン会衆の基としてキリスト・イエスを仰ぎます。またかしらであり,主であるキリストに用いられ,基の上に建てられた忠実な人々として使徒をみます。彼らは信仰の中心とされる地上の都市を持たず,また神の目から見て,他の都市よりも重要な特定の都市があるとは考えていません。たとえそれがイエス・キリストの使徒であっても,ある人が特定の都市をおとずれたかどうかは,ここで重要な問題ではありません。しかしバビロンと述べたペテロのことばがローマを意味していないことを知るのは重要です。もしバビロンがローマの神秘的な名前であるとすれば,大いなるバビロンはローマであることになるからです。しかし聖書に示されているように,大いなるバビロンははるかに重要なものであり,かつてのローマあるいはローマを本山とする現在の宗教よりも,はるかに大きな影響を及ぼしています。大いなるバビロンは偽りの宗教の世界帝国であって,キリスト教国のみならず異教国の宗教を含むのです。大いなるバビロンから離れ去ることを命じた聖書のことばは,ローマにいる人だけにあてはまるのではありません。地球上のどこにいても,大いなるバビロンの影響の下に霊的にとらわれている人がいます。人はそのとらわれからのがれなければなりません。大いなるバビロンからのがれて生命を救うためには,大いなるバビロンの正体をはっきり見きわめることが必要です。そのためには,バビロンについて聖書の述べることをはっきり理解しなければなりません。ゆえに,先入観念による意見を支持する,霊感されていない人々の言い伝えよりも,霊感による神のことばを信頼しましょう。人を自由にするものは,真理以外にはないからです。―ヨハネ 8:32。
[脚注]
a 「自発的または強制されて聖地を離れたユダヤ人をいう。とくにチツスによるエルサレムの滅亡(西暦70年)後故国を追われたユダヤ人」― ダゴバート・D・ルーンズ「簡約ユダヤ教事典」,1959年。
b コリント人へあてたクレメントの第一の手紙第5部に次のことばがあります。「…良き使徒たちに目を留めよう。ペテロは,不当なねたみを受けたため,一度二度ならず幾多の苦難を受けた。こうして死に至るまであかしをなし,報いである栄光の場所に召された。ねたみによってパウロは忍耐の報いを得た。彼は7回も投獄された。また,むちで打たれ,石で打たれた。彼は東方と西方の両方で伝道し,輝かしい信仰の足跡を残した。こうして全世界に正義を教え,西のはてにまで達したパウロは,総督たちの命によって殉教を遂げる結果となった。そしてこの世を去り,聖なるところに召された。彼は最もすぐれた,忍耐の手本である」― テンプル・ニレバリエ神学士訳「ローマのクレメント,ポリカープ,イグナチウスの書簡のほん訳」。英国ロンドン,1833年版6頁。また,エドガー・J・グッドスピード,「使徒後教父 ― アメリカ訳」,1950年版51,52頁参照。
c 前述のデオニシウスについて,マクリントック,ストロング百科8巻14頁に次のことが出ています。「ユウセビウスは(iii,25,コリントの大司教デオニシウスを引用したことばの中で),彼ら〔ペテロとパウロ〕が一緒に殉教したことを述べている……しかしこの説は,西暦176年ごろに死んだデオニシウスひとりの証言に基づいている。(クレメンス・ロマナス,コリント人への第一,Vおよびイグナチウス,ローマ人へ,Vは問題を解決していない)…エピハニウス(XXXVII,7)は,パウロをローマのクリスチャンの司教(επ,χοποδ)とさえ呼んでいる」。