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あやまちを公にしてはならないものみの塔 1963 | 11月15日
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行いです。それは次の戒めにさからうことです。「何よりもまず,互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」。それは公正なことでもありません。他の人からしてもらいたいと思う事を人にもするのが,公正というものです。自分のあやまちを公にしたいと思う人は,ありません ― ペテロ前 4:8,新口。マタイ 7:12。
次のことを考えても,人のあやまちを軽々しく口にするのは悪です。それは友を離れさせるかも知れません。「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす,人のことを言いふらす者は友を離れさせる」。なぜ人をけなす言葉を語って友情を弱め,友を離れさせるのですか。また人の欠点をかぞえあげて,その人の持つ良い感化力を減じたり,あるいはそこなうのですか。けなすよりも,人の善を語るほうが良いではありませんか ― 箴言 17:9,新口。
それで当然に次のように問うことができるでしょう。人間が他の人のあやまちを口にしたがるのはなぜですか。他に話すことがないため,後のことを考えないで人のあやまちを話題にするのですか。それとも他の人の身になって考える思いやりの不足が原因ですか。うわさ話の原因はたいていこれです。たとえ害を与えないうわさ話でも,言わないほうが良い事がうわさ話の種になっています。
更には誇り,おそらくは自分を高くしたい無意識の欲求が働いて,人のあやまちを口に出すのかも知れません。あるいは他の人に対して苦情のあるとき,害を与えた人のところに行って和解をはかるという聖書の教えに従わずに,それをひろめて他人の同情をひこうとしているのかも知れません。(マタイ 18:15-17)別の動機にあげられるのは,自分を正当化しようとすることです。たとえばアダムは信義に欠けていただけでなく,自分の罪を正当化しようとの気持を持っていました。アダムがエバの罪を申し立てたのは,そのことを物語っています。人の非を申し立てることになると,人間の心ほど偽るものはありません。(エレミヤ 17:9)人の心を全く知るのはエホバ神だけです。しかし神のことばは,自分の心を更によく知るための助けとなります。神のことばは「心の思いと志とを見分けることができる」からです ― ヘブル 4:12,新口。
しかしあやまちを明らかにするということにも,例外があります。たとえば法律上の問題で,質問された時などです。神に対し,正義,信条に対し,愛する者に対して誠実であるためには,人のあやまちを明らかにしなければならない場合もあるでしょう。このような理由があったからこそ,イエスは当時の宗教家の悪すなわち偽善を明らかにしたのです。同じく今日においても,他の人々の利益とくにクリスチャン会衆の利益を保護するために,兄弟あるいは親しい人のあやまちを明らかにすべき場合があります。―コリント前 1:11; 5:1。
しかしこのような例外を除けば,兄弟や隣人のあやまちを公にすることは間違いです。よく言われることですが,個人的な性質の事柄を口に出そうと思ったならば,次のように自問するとよいでしょう。それは親切ですか。真実ですか。必要ですか。使徒パウロのさとしを心に留めて下さい。「平和に役立つことや,互の徳を高めることを,追い求めようではないか……神のみわざを破壊してはならない」― ロマ 14:19,20,新口。
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世界的な証言ものみの塔 1963 | 11月15日
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世界的な証言
◆ アメリカ,イリノイ州のあるエホバの証者からよせられた経験です。「ある土曜日の朝,命の言葉を広めつつ,オークパーク地区で家から家の伝道活動に参加していたとき,いかにも忙しそうな婦人に会いました。そばにおいた荷物の様子では旅行から帰えったばかりと見えました。命の言葉が必要なことを二,三の言葉で説明し,『ものみの塔』誌を紹介すると,彼女は言いました。『いえ,「ものみの塔」はたくさんです。今,世界旅行から帰ったばかりですが,どこの国へ行っても,「ものみの塔」を持って近づいて来る人がありました』」。
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