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与える際に苦痛を感じますかものみの塔 1961 | 3月15日
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とき,彼らはその報いをすぐに受けます ― つまり,人にもてはやされます。貧しい人は,体面を保つために,苦痛を覚えるまで与えます。両方ともイエスが語ったさいわいを得ることはできません。―マタイ 6:2。
ある時,ききんのためにエルサレムにあったクリスチャンの会衆は物質的に困ったことがありました。マケドニアにいたクリスチャンの兄弟たちは,自分たちが貧しかったにもかかわらず「彼らは自ら進んで施しをする特権を得,聖徒たちの宣教の分にあずかりたいと私たちに強く願い出」たとパウロは述べています。パウロは彼らが「力以上に」施したとさえ言っています。だれかがマケドニヤのクリスチャンを強制したり,はずかしめたために,施したわけではありません。彼らは施すことを望んでおり,施す機会を願い出たのです。施すことは彼らを幸福にしました。施すなら彼らが深く愛していた者の益になると知っていたからです。―コリント後 8:1-4,新世。
今日,どのようにしたら与える際に幸福を感ずることができるでしょうか。与える時に幸福を味わうためには,寛大な性質をつちかわねばなりません。二つのもっとも偉大ないましめに従わなければなりません。つまり心をつくし,思いをつくし,魂をつくし,力をつくしてエホバ神を愛し,自分のごとく隣人を愛さなくてはなりません。このような愛を持つと,人は心から与えます。愛している人を幸福にするゆえに与えます。与えることにより,愛を表現できるのでうれしく思います。困っている人が与えられた時もうれしく感じますが,与える人にはより大きなよろこびがあります。マケドニヤのクリスチャンがエルサレムの兄弟に与えたときも同様でした。
近代の例として,第二次世界大戦の終りにドイツの収容所から出てきたクリスチャンのエホバの証者のことを考えて下さい。エルサレムにいたクリスチャンのように,援助を必要としていました。世界中にいるクリスチャンの兄弟たちは,ドイツの兄弟が必要としているものを寄与することができて,うれしく思いました。今これらのドイツの証者たちは,普通の生活をしており,自分の国の伝道のわざをすすめるのに,必要な額以上の幾億円というお金を無私の気持から寄付しました。このお金はドイツの兄弟を助けまた,世界中の多くの国々へ宣教者を送る資金となりました。第二次世界大戦の終りに,ほかの国々の兄弟から与えられた時に感じた幸福よりももっと大きなさいわいを,自分たちが与えることにより感じなかったとだれが言えますか。
だれもが与えるための物質的なものをもちあわせているとはかぎりません。しかしだれでも与えるほうがさいわいだということを経験することができます。使徒ペテロの例を考えて下さい。宮の門の外側で,足のきかない人が,施しをこいました。「ペテロが言った,『金銀はわたしには無い。しかし,わたしにあるものをあげましょう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』」。その男はたちどころにいやされ,踊りあがってよろこびました。その認識深い足の不自由な人をいやすことができ,ペテロが幸福な思いにつつまれたことはたしかです。今日健康よりももっと価値のあるものを与えることができることは確かです。イエスは彼と彼の父エホバに関する知識を取り入れることは永遠の生命を意味すると言いました。それであなた自身がまずこの知識を得,それから与えて下さい。理解で人々の目が輝くのを見る時,またあなたが示したたしかな希望,つまり新しい世を描いて彼らが胸をはずませる時,あなたの心は喜びでみちあふれることでしょう。このように与えるなら苦痛を感じないばかりか,イエスの次の言葉をよく味わうことができます,「受けるよりは与える方がさいわいである」。―使行 3:6; 20:35。ヨハネ 17:3,新口。
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キリスト教国は地の塩ではないものみの塔 1961 | 3月15日
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キリスト教国は地の塩ではない
「共産主義は,キリスト教会が,偉大な召しにそった地の塩でなかったことに原因する一つの現象であると私は見る」と牧師ボイットー・ビロは書いています。塩がその効力を失うなら「土にも肥料にも役立たず,外に投げ捨てられてしまう」とイエスは言われました。この聖書の原則は,地の塩でなかったことがはっきりしているキリスト教国にあてはまりはしませんか。―ルカ 14:35,新口。
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