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失敗した試みから教訓を学ぶものみの塔 1980 | 8月1日
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しかし,その試みは,イエスが亡くなる前に,ある強力な音信を語られる道具立ての一部となったわけですから,全く無益だったわけではありません。そのイエスの音信とは,人間が罪深いという点,また,業による救いではなく,罪を贖うイエス・キリストの犠牲に対する信仰と悔い改めに基づく無償の賜物としての救いを求めることが大切であるという点に関するものでした。(イザヤ 53:5,10-12。マタイ 20:28。ローマ 10:5-9)それは,今生きているすべての人も学ぶべき教訓です。
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動機を与える力となる,キリストの寛大さものみの塔 1980 | 8月1日
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動機を与える力となる,キリストの寛大さ
仲間の人間の必要にこたえ応じる人を見るとき,多くの人々は同様の寛大さを示すように励まされます。西暦1世紀,マケドニアのクリスチャンたちは,アカイアの仲間の信者たちがエルサレムの貧しいクリスチャンたちを助けようと熱心な努力を払っていることについて聞き,救援活動の一端にあずかりたいと動かされました。―コリント第二 9:1,2。
しかし,クリスチャンにとって,主人であるイエス・キリストの寛大さは,それ以上に,大きな動機を与える力となってきました。使徒パウロはコリントの人々に手紙を書き,次のように述べてその点を指摘しました。「あなたがたは,わたしたちの主イエス・キリストの過分のご親切,つまり,富んでいたのに貧しい者となられ,こうして,ご自分の貧しさを通してあなたがたが富む者となれるようにしてくださったことを知ってい(ま)す」。(コリント第二 8:9)イエスは人間として存在される前に全宇宙の創造においてみ父と共に働かれ,見えるものと見えないもの,つまり万物を所有する権利を分け持っておられました。イエスはさらに独り子としての栄光も所有しておられました。神の子どもであるみ使いすべての中で,イエスは他に抜きん出たかたでした。―ヨハネ 1:14。コロサイ 1:15-18。
み子は人間となるためにこれらのすべてを喜んで手放されました。(フィリピ 2:5-8)その最初の寝床は飼い葉桶にすぎませんでした。母マリアも養父ヨセフも貧乏でした。イエスには,その地上での生涯の間,乏しい物質しかありませんでした。弟子になることを願っていた男に対し,イエスは,「きつねには穴があり,天の鳥にはねぐらがあります。しかし人の子には頭を横たえる所がありません」と語られたこともあります。(ルカ 9:57,58)にもかかわらず,イエスは物質的にひどく困窮していた人々に個人的な関心を払われました。イエスもその使徒たちも,貧しいイスラエル人たちを援助するための共同基金を持っていました。―マタイ 26:9-11。マルコ 14:5-7。ヨハネ 12:5-8; 13:29。
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