「自分の務を全うしなさい」
1 クリスチャンの宣教をどのように見るべきですか。
神の民がそのなすべきことを知らなかった事は一度もありません。神の民には神から与えられた,なすべきわざがあります。それは神から与えられた使命であり,神に奉仕するわざであって,仕えるわざです。このようなわざを軽くあしらってはなりません。それは委ねられた務めです。それは大きな特権であり,大きな喜びをもたらす務ですが,同時に重い責任がそれにともなっています。しかししりごみするべきではありません。神は私たちの不完全さと弱さをご存知であり,私たちに恵みを与え,助けを与えます。
2 テモテに宛てたパウロの手紙は,どんな精神を表わしていますか。また宣教の基礎が何であることを示していますか。
2 使徒パウロは,いま聖書の一部になっている2通の手紙をテモテに書き送ったとき,このような考えを抱いていたに違いありません。その手紙は熱心なすすめと奨励,さらに時宜を得た警告を与えています。「おごそかに命じる……御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても,それを励み,あくまでも寛容な心でよく教えて,責め,戒め,勧めなさい」。また人々が「真理からは耳をそむけ」ることを警告してのち,パウロは次のように結んでいます,「しかし,あなたは,何事にも慎み,苦難を忍び,伝道者のわざをなし,自分の務を全うしなさい」。しかしこの言葉の前に,宣教の肝要な基礎となるものが指摘されています。それは何ですか。パウロはテモテに告げました,「また幼い時から,聖書に親しみ,それが,キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を,あなたに与えうる書物であることを知っている」。「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。それによって,神の人が,あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて,完全にととのえられた者になるのである」― テモテ後 4:1-5; 3:15-17。
3 エホバの証者はどんな点で目立っていますか。それはエホバの証者が超人間だからですか。
3 神の組織のうちにおいても,あるいは他の人に伝道したり,証言したりする外の活動の際にも,宣教全般において神のことばに従うことの必要は,いくら強調しても強調し過ぎることはありません。エホバの証者がキリスト教国の教会と異なるのはこの点です。私たちは言伝えや信条,自分の考えに頼りません。物事のとりきめ,集会,規律,管理,財政また教える事柄と教える方法その他一切は聖書に基づいています。なんらかの変更が加えられるとすれば,それはその事柄に関連した聖句を更によく理解したためです。神のことば聖書は,宣教を首尾よく行なうために肝要です。まず聖書を正しく理解することと,聖書の教えを実行しようとの誠実な努力が必要です。真理のことばに耳を傾ける人を援助するときにも,自分の生活の中でも,この事をしなければなりません。自分にはとてもできないと言わないで下さい。世界中にいる大ぜいのエホバの証者は,これらの要求をはたしています。しかしその中に超人間の力を持つ人は一人もいません。これらの人々はエホバのご準備を活用してそれに頼り,祈りによって何時も神に近づき,神のことばと組織に従うことを学びました。神の聖霊はおもにこれらのものを通して私たちに与えられます。―ピリピ 4:13。
内部における奉仕
4 聖所をつくりあげる人の宣教は,ダビデおよびソロモンの時代にどう示されていましたか。
4 クリスチャン会衆が「主〔エホバ〕にある聖なる宮……霊なる神のすまい」にたとえられている事実,またなお地上に残る聖所級の人々と親しく交わって神に聖なる奉仕をささげることが,羊のような人々にすすめられている事実を考えるとき,神の組織の内部で行なわれるべき奉仕の重大さと規模を想像できます。この事はダビデが宮の造営と宮における奉仕の務め万端を準備した時の出来事によって,表わされています。ダビデはレビ人の奉仕の詳細をとりきめました。その中には次のことも含まれていました。「四千はダビデが造れる賛美の楽器をとりてエホバをたたふることをせり」。ダビデの子ソロモンはこれを実施し,「レビびとをその勤めに任じて,毎日定めのように祭司の前でさんびと奉仕をさせ」ることをも含めて,宮のつとめを行なわせました。この賛美の奉仕は歌と行いの両方を含み,一致して行なうことが必要でした。―エペソ 2:21,22。歴代上 23:5,文語。歴代下 8:14。
5 宣教に関してパウロは更にどんなたとえを論じていますか。
5 霊的な宮の場合にも同様な事柄が要求されていることを論じて,使徒はエペソ人への手紙の中で人間のからだを例に用いています。そしてまずキリストについて次のように書きました,「彼は高いところに上った時……人々に賜物を分け与えた……そして彼は,ある人を使徒とし,ある人を預言者とし,ある人を伝道者とし,ある人を牧師,教師として,お立てになった。それは,聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ,キリストのからだを建てさせ……るためである」。クリスチャン会衆とその成員ははじめ幼児のように幼い状態にあること,しかし全体的にも個々にも円熟に進むという目的のあることが述べられています。キリストをかしらに,このことがどう行なわれるかは,パウロの次のことばに適確に述べられています。「全身はすべての節々の助けにより,しっかりと組み合わされ結び合わされ,それぞれの部分は分に応じて働き,からだを成長させ,愛のうちに育てられていくのである」― エペソ 4:8-16。
6 人間のからだのたとえは,今日どのようにあてはまりますか。
6 使徒がここで神の組織内における奉仕のわざ,「育てられていく」ことを述べていることは明らかです。初期会衆におけると同じ原則および管理の方法が今日でも用いられます。人間のからだにある大小の関節は,からだ全体の円滑な運動を可能にするため,からだの各部分を結びつける役をしています。エホバの証者の新世社会も同様です。全体的に見ても会衆を一単位として見ても,それぞれに統治体があり,一致協力の責任はおもに任命されたしもべ,すなわち賜物として与えられた人々に委ねられています。これらの人々は関節に相当します。―エペソ 4:8。
7 「それぞれの部分」に働きがあるという事から,どんな励みを得ますか。
7 しかし使徒の論議はそれで終りではありません。「それぞれの部分は分に応じて働」くことが述べられています。(エペソ 4:16)これには男女を問わず,すべての人が含まれます。どんなに若年で未熟な人あるいは老齢で弱い人も例外ではありません。私など問題ではないと,言わないで下さい。決してそうではないのです。エホバの証者と交わるようになり,よい進歩を見せる人は必ず他の人に励みを与えます。家庭聖書研究をしている人のよい進歩や,集会に一度だけでなく二度,三度とつづけて新しい人の顔を見ることは,他の人に励みとなります。それは宣教にエホバの祝福とみ霊がそそがれていることの証拠です。また老齢や病気にもかかわらず努力して集会に出席し,たとえわずかでも証言に努めている人は,他の人にとって大きな励みとなります。人間のからだと同じく,会衆のどの成員にもそれぞれ分に応じた働きがあります。万事が順調な時はそれに気づかないかも知れません。しかしたとえば足のつめのような小さな部分でも,もしいためるならば,そのことにすぐ気づくでしょう。神の組織あるいは自分の属するそれぞれの会衆内において行なわれる奉仕に,各人がそれぞれの分をはたさねばなりません。それは「愛のうちに育てられていく」ためです。なすべきことは多く,進歩のやむ時はありません。それでいずれのたとえの中でも,「からだを成長させ」ることと,「主〔エホバ〕にある聖なる宮に成長」することが強調されています。―エペソ 4:16; 2:21。
外における奉仕
8 クリスチャンは聖書の中で,どのように光を掲げる者と呼ばれていますか。
8 聖なる宮と密接な関連を持たせつつ,聖書は14万4000人の御国相続者から成るクリスチャン会衆のことを「聖なる祭司」と呼んでいます。使徒ペテロの次のことばの中で両者は結びつけられています。「あなたがたも,それぞれ生ける石となって,霊の家に築き上げられ,聖なる祭司となって……」。この祭司の務めは何ですか。使徒は次のように答えています,「あなたがたは,選ばれた種族,祭司の国,聖なる国民,神につける民である。それによって,暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを,あなたがたが語り伝えるためである」。イエスご自身もその真の追随者が光を掲げる者となることを明らかに述べました。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない……あなたがたの光を人々の前に輝かし,そして人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。これは今日,成就を見たイザヤの預言と関連しています。その預言はシオンすなわち山の上の町に似た神の組織にむかって,「起きよ,光を放て」と告げていました。そのことはどんな結果になりますか。「もろもろの国は,あなたの光に来,もろもろの王は,のぼるあなたの輝きに来る。あなたの目をあげて見まわせ,彼らはみな集まってあなたに来る」。これはすべてのものを「キリストにあって一つに帰せしめ」る神の経綸について述べた霊感のことばとも,完全に一致しています。―ペテロ前 2:5,9。マタイ 5:14-16。イザヤ 60:1-4。エペソ 1:10。
9 新しい契約とその奉仕について,パウロはどんな論議をしていますか。
9 光を掲げることは宣教の一部です。この事を論じたパウロのことばに注目して下さい。「神はわたしたちに力を与えて,新しい契約に仕える者とされたのである」と,パウロはコリント人への手紙に書きました。そしてキリストを仲保者としてクリスチャン会衆と結ばれた新しい契約を古い律法契約と対照させています。律法契約はモーセを仲保者としてイスラエル民族と結ばれた契約です。パウロは新しい契約の下における「霊の務」が,「石に彫りつけた文字による死の務」にくらべ,あらゆる面において栄光を持つことを示しています。十戒をしるした2枚の石を手にシナイから下ったモーセの顔は光を放ち,「そのためイスラエルの子らは……その顔を見つめることができなかった」のです。しかしパウロが説明しているように問題はイスラエルの人々自身にありました。「彼らの思いは鈍くなっていた……今日に至るもなお,モーセの書が朗読されるたびに,おおいが彼らの心にかかっている」。しかしエホバに対する心からの従順と献身によって「主に向く時には,そのおおいは取り除かれる」と,パウロは説明しています。更に新しい契約に入れられた人,また「他の羊」のように新しい契約と密接な関係にある人に委ねられた宣教について,使徒は次のように述べました,「わたしたちはみな,顔おおいなしに,主〔エホバ〕の栄光を鏡に映す……」― コリント後 3:6-8,14-18。山エジプト 34:29-35。ヘブル 9:15。
10 私たちはどのようにエホバの栄光を鏡のように映すことができますか。
10 神の顔を見て生きる人はないと言われているのに,命の日の短かい,弱い人間がどうしてエホバの栄光を映すことができるのですか。(出エジプト 33:20。テモテ前 6:16とくらべて下さい)エホバご自身の栄光のほかにも,その愛するみ子の下におかれた御国を中心とするエホバのお目的には,大きな栄光があります。聖書の中心の教えである御国や,それに関連した真理は,五旬節の日にみ霊をそそがれて「神の大きな働き」を語った人々によって宣べ伝えられ始め,外における奉仕が始まりました。(使行 2:11)これと一致してパウロは,「この務」に関し,私たちは「神の言を曲げず,真理を明らかに,神のみまえに,すべての人の良心に自分を推薦するのである」と述べています。―コリント後 4:1,2。
11 宣教の成果について何を期待できますか。
11 真理を明らかにすることこそ,私たちの使命です。「この世の神が不信の者たちの思いをくらませて」,人々の心におおいをかけていても,私たちは落胆しません。すべての人が不信者ではありません。不本意ながら,今なおサタンにとらわれている人は大ぜいあります。それらの人々は,サタンの組織制度の中で「行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々」です。私たちは「囚人が解放され,盲人の目が開かれることを告げ知らせ」ねばなりません。―コリント後 4:4。エゼキエル 9:4。ルカ 4:18。
12 神は今日どのように光がやみの中から照るようにされていますか。
12 御国の設立された今日,私たちの使命は楽しく,また責任は重大です。この組織制度の終結に関する預言の中で,イエスは次のように言われました,「そしてこの御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。(マタイ 24:14)すべて神の約束と預言は,例外なしに必ず成就されます。その成就には文字通りのものと,象徴的あるいは霊的なものとがあります。パロウは,聖書に記録された最初の命令すなわち「やみの中から光が照りいでよ」を引用して,その事を示しました。これは文字通りに成就されましたが,パウロの次のことばはその霊的な成就を示しています。「神は,キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために,わたしたちの心を照して下さったのである」― コリント後 4:6。
13 神はなぜ不完全な人間に宣教の使命を与えましたか。
13 自分を省みるとき,私たちは鏡としてきわめて不完全であることを感じます。しかし私たちは人間の力や知恵に頼って,使命をはたそうとしているのではありません。そのことを説明したパウロのことばは,私たちの慰めとなります。「わたしたちは,この〔奉仕の〕宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって,わたしたちから出たものでないことが,あらわれるためである」。たとえ不完全でも受け入れられる奉仕をできるように,神は私たちのために備えをしています。しかしそうは言っても,私たちは鏡として,できるだけ自分をみがいておかねばなりません。―コリント後 4:7。コリント前 1:26-31。
一致は肝要
14 世界にはどんな一致が見られますか。その動機は何ですか。
14 私たちの奉仕のあらゆる面において,一致は肝要です。世においても,政党あるいは戦時の国家などが挙党一致また挙国一致の態勢をとることがあります。宗教界においても,遅々としてはいても統一にむかっての努力がされています。しかし多くの場合,統一を促進する力は,共通の敵に対する恐れではありませんか。それで危険がなくなれば,昔の分派分裂がむし返されます。このような動機のもたらした一致はもろいものです。しかし永続する,真実の一致は神の如き愛から生まれます。キリストの経綸の下に集められた人々の間で,このことが見られます。
15 神と一致するにはまず何が必要ですか。
15 どんな集団の一致も個人から始まります。私たちがここで考えているのは,クリスチャンになった人々の場合です。クリスチャンになるには,まず神と一致しなければなりません。多くの場合これは感情に支配された,その場で思い立って改宗する事という風に考えられています。しかし本当はもっとしっかりした基礎が必要です。神と一致するには,すべての事において神のみ心が何かを知らなければなりません。神のことば聖書が与えられた理由も,主としてそこにあるのです。聖書は至上者の意志を明らかにしています。聖書を学んで理解するとき,心に正しい考えを抱くようになり,神が「あらかじめ備えて下さった」よいわざをするようになります。―エペソ 2:10。
16 思いはどのようにこれに関係していますか。どんな祝福された結果になりますか。
16 心だけでなく,思いもこれに関係してきます。学んで知識に進むと共に,知識と知恵の源である神に対する認識を深めねばなりません。神に対する感謝と崇拝の思いにみたされて,人は献身とバプテスマの道をふみ,エホバと個人的に結ばれます。この関係を保ち,また神とひとつ心を持つために,神のことばを学びつづけることが必要です。詩篇に美しく描かれているように,これは常に必要です。「さいはひなり,かかる人はエホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもふ」。その結果は何ですか。「かかる人は水流のほとりにうえし樹の期にいたりて実をむすび葉もまた凋まざる如く,そのなすところ皆さかえん」。これにまさる祝福はありません。―詩 1:1-3,文語。
17 大きな苦しみをともなうにも拘わらず,イエスはどうして神のみ心を行なうことを喜ぶと言えましたか。
17 バプテスマを受けた時のイエスのことばを預言的に述べた次の詩篇は,そのことを確証しています。「わが神よ,わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」。(詩 40:8。ヘブル 10:5-7)聖書の預言たとえばイザヤ書 53章は,献身の道を歩むイエスが大きな苦しみや,はずかしめにあい,またさげすまれ,砕かれて「死にいたるまで,自分の魂をそそぎだ」すことを述べていました。(イザヤ 53:3,5,12)それなのにイエスは神のみ心を行なうことを喜ぶとなぜ言えたのですか。それは神のことばと律法が,イエスの心の中にあったからです。神のみ心を全く知り,また記憶していたイエスは,すべての事において神のみ心が何であるかを知り,また終始それに従いました。イエスはご自分の死が「〔エホバの〕みまへにて貴」いことをご存知であり,預言の通り次のことばを述べることができました。「われ感謝をそなへものとして汝にささげん……われ……エホバにわがちかひを償はん」― 詩 116:15-18。ヨハネ 5:19,30。
18 妻に対することばの中で,どんな点がとくに強調されていますか。
18 家族の一致も考えなければなりません。新世社会は家族からおおかた成り立っているからです。家族を一致させるかぎは,家族のかしらである夫に対することばの中に見出されます。それは興味深いことです。その言葉はパウロが妻と夫の両方に与えた助言の一部です。パウロもペテロも,こまかな助言を与えていますが,いずれも妻のことを先に述べているのにならって,ここでも妻のことをまずとりあげましょう。(エペソ 5:22-33。ペテロ前 3:1-7)パウロもペテロも,妻が夫に従うことの必要を強調しています。それはすべての事において「教会がキリストに仕える」のと同様です。妻の従順は「柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾り」によって示されます。これは家族を一致させるために必要です。最初の二人の人間について考えてみると,独立心を発揮してあやまちを犯し,家族の一致を破ったのは妻ではありませんでしたか。―エペソ 5:24。ペテロ前 3:4。
19 夫に課せられたおもな責任は何ですか。それはどんな結果となりますか。
19 しかし問題のかぎは妻に与えられませんでした。責任はおもに夫にあることを示して,パウロは次のように述べています。「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように,妻を愛しなさい」。(エペソ 5:25)純粋の暖かさ,清さ,全くの無私という点においてキリストのような愛を知り,それを行なうのは,一生かかることです。それでこの事を教えた聖書に何時も親しんでいなければなりません。夫がこの愛を身に着けると同時に,妻は従順を示すことにおいて,やはり聖書の教えにますます従うようになります。こうして二人は一致し,互に力となり,安らぎと幸福を与え合うことができます。子供たちも同じふんい気の中で同じ原則に従って育てられ,新世社会にとって,また何よりもエホバにとってほまれとなる一致した幸福な家族が生まれます。分裂した家庭においては,事態はむろんのこと異なります。しかし夫にしても妻にしても献身しているほうの親が,神の導きを求めながら聖書の原則に一致して,家族の一致をもたらすように努めねばなりません。そして最終的な結果は神に委ねることができます。
20 幼な児のように謙遜なことは,しもべにとってなぜ大切ですか。どんな危険があるためですか。
20 今度は会衆内に任命されているしもべに注目してみましょう。人間のからだで言えば関節に相当するのがしもべです。しもべにとって時に悟り難いのは,一致をもたらすためにけんそんが必要だという事です。なぜそれを悟るのが難しいのですか。それは地位という問題がかかわるためです。「油そそがれたケルブ」は「神の園エデン」において守護する役目を持ち,「神の聖なる山」にすばらしい地位を占めていたにもかかわらず,それに満足しませんでした。それで更に高い地位を求め,バビロンの時代には「いと高き者のようになろう」としました。(エゼキエル 28:13-15。イザヤ 14:14)イエスの12人の弟子もイエスと共にいたとき,地位について何も言われないうちから地位の問題にこだわり,「争論」を始めました。そこには人間性がさらけ出されています。イエスは,幼な子のようにけんそんになることを弟子たちに教えました。時には女が関係します。「ゼベダイの子らの母」は二人の息子が特別な地位を与えられるように主に願いました。それでしもべとその妻またすべての人は,ペテロの次の助言に注意を払うべきです。「みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ,へりくだる者に恵みを賜うからである」― ルカ 22:24。マタイ 18:1-4; 20:20-28。ペテロ前 5:5。ヨハネ伝 13章14,15節をごらん下さい。
21 パウロは,うえることと水をそそぐ事のたとえをどのようにしもべに適用していますか。
21 パウロもコリントの会衆としもべたちにすぐれた助言を与えました。そこには「ねたみや争い」があったのです。霊的な意味において植え,水をそそぐわざに責任を持つしもべも,神なしでは無に等しいことを,パウロは指摘しています。会衆を成長させ,増加させるのは神です。だれに対してであっても,私たちが真理を悟らせ,信じさせることはできません。信者となってクリスチャンの一人になるのは,「主から与えられた分」であると言えます。パウロは一致を強調し,「植える者と水をそそぐ者とは一つ」であると述べました。なぜそうですか。「わたしたちは神の同労者」であって,一つの働きをしているからです。しかしそれは各人に責任がないという事ではありません。人は「それぞれその働きに応じて報酬を得る」からです。―コリント前 3:3-9。
22 (イ)イスラエルはなぜエホバに背きましたか。エホバはイスラエルにどんなたとえを告げられましたか。(ロ)エホバはたとえをどのように適用されましたか。
22 私たちが神のことばから知り,また事実と経験からも確信しているように,至上者の意志と目的は必ず成し遂げられます。また神のことばにつき従って神と一致する人が成功することも,約束されています。(詩 1:1-3)また「時の満ちるに及んで」キリストと一致の状態に集められた信者の全部も,成功に導かれます。(エペソ 1:10)肉のイスラエルは独立の精神を抱いて自分の道に歩むことを選びました。エホバはご自身のお考えと道がイスラエル国民の考えや道より遙かに高く,また異なることを告げられています。イスラエルは神に従いませんでした。しかしそれはエホバのお目的が失敗するということですか。天から降った雨や雪は,地をうるおして物を生えさせ,種まく者に種を与え,食べる者にかてを与えてからでなければ,(水蒸気となって)帰ることがありません。この事をたとえにしてエホバは力強く言われます,「このように,わが口から出る言葉も,むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし,わたしが命じ送った事を果す」。神はどんな目的のために,必ず成就すると言われる事柄を命じ送ったのですか。霊的イスラエルすなわちクリスチャン会衆と,羊にたとえられる仲間の人々について,預言は次のように言葉をつづけています。「あなたがたは喜びをもって出てきて,安らかに導かれて行く」。つづく言葉は,キリストの経綸の下に集められている,献身した神の民の霊的な繁栄の状態,復興した楽園の状態を美しく描いています。「これは主〔エホバ〕の記念となり,また,とこしえのしるしとなって,絶えることはない」― イザヤ 55:8-13。
23 エホバは今日の私たちにどんな慰めと励みを与えられていますか。
23 現代の世界は自己矛盾に陥り,その国々は分かれ争っています。それとくらべて,これは著しい対照をなしているではありませんか。今日エホバはみことばを送り,私たちにその理解を与えました。それは清い真理の音信です。エホバの過分のご親切の富によって,私ちは決して神に背くことなく,互に一致して宣教を全うします。この時代に関してエホバはそのことを預言されました。「その時われ国々の民に清き唇をあたえ,彼らをして凡てエホバの名を呼しめ心をあはせて之に事へしめん」― ゼパニヤ 3:9,文語。