真実を歪曲する
「買手は注意せよ」という言葉は買物をする時だけでなく,物を読む時にもあてはまります。
人間にとって貴重なものは真実です。事の次第によっては,真実であるかどうかが人の健康,貧富,幸不幸,生死をも左右しかねません。それで聖書の中に「おのおのその隣にまことをかたれ」という言葉があるのも深い理由にもとづいているのです。―エペソ 4:25。
しかしながら,人はその不完全さ,弱さ,利己心そして堕落のゆえに,時に真実を曲げてしまう事があります。つい感情に走ったとか,熱意があまったとか,知識が不足していたとか,様々の言いわけがなされるかも知れませんが,いつもそれですむとは限りません。自分の意見や主張を押し通し,また自分の利益をはかるため,故意に真実を歪曲するという不正直さに起因することがよくあります。
真実を曲げるという人間の性向は,商業界においてはむしろ当然の事とされているくらいです。その度合のほどは,買主の危険負担すなわち,「買い手は十分注意せよ」という言葉がある事からも推量できるでしょう。真実を曲げるという人間の性向から人々を保護するため,国によっては政府の機構の一環として,誇大な宣伝や不当なレッテルを取り締るための特別機関を設置しているところもあるほどです。たとえば今年の初めアメリカ政府は,靴製造業者を対象に製品が皮革を原料としているものかどうか,その皮革の品質は第一級かどうかを広告やレッテルの中に明示するよう規定する法案を成立させました。
しかし,多くの人がうっかり無視している事ですが,なにかの思想を買う時,すなわち,一定の考え方,哲学,宗教的信条などを読者に「売り込む」事を目論んで書かれている本や論文を読む際にも,「買い手は十分注意せよ」という言葉をしっかり心にとめておかねばなりません。そうした論文や本を買う人はそれなりの理由があるにしても,真実を一方に曲げるという傾向に走っているのかも知れません。しかも,これは巧みに行なわれ,時には取り上げている問題に附随する事実を単に見過すということによってなされる場合もあります。
一例をあげれば,今日,時代の先端である事を誇る神学者の多くは,一般にペンタチュークとして知られる聖書の初めの五冊,特に,五番目の申命記がモーセによって記録された事を認めません。だれが申命記を書いたかという問題を考えるにあたっても,こうした神学者の多くは申命記そのものが提供している資料を故意に無視しています。
「モーセこの律法の言をことごとく書に書きしるすことを終たる時,モーセエホバの契約のはこをかくところのレビ人に命じて言けるはこの律法の書をとりて汝らの神エホバの契約のはこの傍にこれを置き之をして汝にむかひて証をなす者たらしめよ」。だれが申命記を記録したかについて論ずる際に,あたかも聖書はその部分を記者不明のままにしているかのごとく,この明白な一文を無視するのは,真実を曲げる事になります。
宗派心による真実の歪曲
一つの文脈からある部分だけが引用される場合にも,真実が曲げられる事があります。一例をあげましょう。この雑誌を一般に配布する人々からの手紙にまじって時おり「ナイツ・オブ・コロンバスの誓」と称する一文が届きます。この手紙の内容は同名のカトリック友愛団体が持つ熱狂的な雰囲気を反映しています。たいいてこの手紙の一部には,この誓文はアメリカ合衆国連邦議会議事録に記載されたという意味の事が添え書きされています。
この誓文が議事録に記載されたという事は真実です。しかし,ナイツ・オブ・コロンバスの誓そのものは真実ではありません。というより,その誓が議事録中に記載されたのは,宗教的な背景にたってある役職に立候補した者を攻撃するために人はどのくらい身を低くするかを示す一例としてです。それゆえ,国会の議事録にも記載されたからこの誓文はすぐれたものであるというなら,真実を曲げている事になります。
また,事実ははっきり述べられても,その述べ方によって見当違いの結論を暗示させる事もあり,これも真実が曲げられる一つの場合となります。たとえば,カトリックの平信徒,ウイリアム・フェイルンはエホバの証者に関する権威者であると自ら称し,さらにエホバの証者に対する自分の評価は客観的である。すなわち,感情にとらわれず正直な見方をしているとさえ語り,ある雑誌の一記事の中でものみの塔聖書冊子協会の先の会長J・F・ルサフォードについて,「『現在生存する万民は決して死することあらじ』というスローガンをあみ出したが,ルサフォード判事は一九四二年に死んだ」と述べています。
ここにしるした引用文の中に出てくる二つの点はどちらも事実です。ルサフォードは引用文中の言葉を作りましたし,実際に1942年に死亡しました。しかし,正しくないのは,「あみ出したが」という表現によってあたかもルサフォード自身も「万民」の中に含まれていたかのような印象を読む者に与える事です。フェイルン自身も良く知っている通り,エホバの証者は,イエス・キリストに信仰を抱く者すべてに救いがそなえられているが,それには地的なものと天的なものの二種類の前途がある事を教えています。天的な前途はイエス・キリストと14万4000人に数を限定されたキリストの「花嫁」を構成する人々のためのものですが,それを得る者はひとたび死なねばなりません。ルサフォードはこの種の前途にあずかる希望を抱いていたのであり,それゆえに死ぬ事を予期していました。「現在生存する万民は死する事あらじ」というスローガンをルサフォードがあてはめたのは,黙示録 7章9節とヨハネ伝 10章16節に記述されている地上の楽園に生活する前途を持つ「大いなる群衆」あるいは「他の羊」に対してだけでした。それゆえ,エホバの証者に関するエキスパートであると称し,客観点な立場で問題を扱っていると主張する者が,ルサフォード自身は「決して死する事のない多くの現存する民」の一人になると思っていたかのごとき説明をするなら,それは明らかに不正直であり,真実を歪曲している事になります。
今日ではパンフレットの形で印刷しなおされている前述の記事の中で,フェイルンは,エホバの証者が「カイザルはサタンである」と教えていると非難しています。しかし,実際はそうではありません。カイザルはコリント後書 4章4節でその神はサタンであるとされているこの世の一部をなしていると言うのと,カイザルはサタンそのものであると言うのとは全く別個の事柄です。エホバの証者はこれまで絶えず,「カイザルのものはカイザルに」納めねばならないから,カイザルが神の律法に直接逆らう事を要求しないかぎりカイザルに服さねばならず,神の要求に直接逆う事柄を要求された場合にのみ,「人に従はんよりは神に従ふべきなり」という原則があてはまると考えてきました。しかし,サタン悪魔についていえば,エホバの証者はどんな事があってもサタンに従ってはならないと主張してきました。したがって,エホバの証者はカイザルをサタンと考えていると語るのは,エホバの証者について政府に偏見を抱かせることになり,また,真実を曲げる事になります。これはイエスの時代の宗教指導者が,当時の政治支配者をしてイエスに対する偏見を抱かしめるためにわざわざ事実を歪曲したのに良く似ており,興味深い事柄です。―マルコ 12:17。使行 15:29。ルカ 23:2。
科学の名の下に
科学の名の下に,特に,進化論者によって真実の歪曲が行なわれる事が多くあります。人類の起源とか下等動物から除々に転じてきたとかについて,大ざっぱで確かな根拠も持たぬ事柄がさながら事実であるかのごとく断定的な仕方で語られます。真実を曲げるこの種の傾向に一種の義憤をさえ抱いて取組んでいる科学者は哲学博士イバル・リスネーで,その著作はすでに14ヵ国語で出版されています。この人の近著,1961年に出版された「しかし神はそこにいた」aの中で彼は,「ネアンデルタール人や北京原人を復元しようとするすべての試みの言い知れぬ愚かさ」について述べさらに次のごとく続けます。「世界のどこの博物館に行っても獣的な顔つきを備え,誇張されたように毛深い石こう像がいかにも野蛮なおももちで見る者をにらんでいる。その容貌について言えば,顔色はチョコレートのような茶色,毛髪はぼうぼうで乱れ,あごはぐっと前に突き出ており,ひたいはへこんでいる。―旧石器時代の皮ふはどんな色であったか,その毛髪はどのようになっていたのかについては全く手がかりがないのにもかかわらず,またその人相や顔の特徴についてはほとんどなにも手がかりがないのと同然であるにもかかわらず」。「この分野におけるアメリカの権威者T・D・スチュワートが,1948年に,毛髪,目,鼻,くちびる,その他の顔の表情を復元する事は不可能であると指摘したのは正しい。『初期の人類の表情が我々の表情よりもきつかったという可能性は少しもない』と彼は書いている。
「博物館に北京原人やネアンデルタール人の像がホモサピエンス(現代人)の像と共に並んでいると,いかにも肉体的また知的発展がなされたかのような概念を見る者に与えずにはおかない。しかしその概念は当今の科学的な論説とはすでに一致していない。この種の石こう像をつくる者はとかく自分の想像に走る事がある。……こうした半人半獣像の展示は現代における道徳上の尊大さのあらわれであり,『かくも我々は進んできたのだ』という独善的な考え方に鼓吹されている」。また他のところで科学者リスネーは,いかなる時代においても人間は他の下等動物より傑出していた事,および,常になんらかの形式の宗教を保持していた事を示しています。そして彼はある本の巻末において読者に次のように問いかけています。「なぜ我々は古い理論にがんこに執着するのだろうか。我々の起源を神に見出さず,動物に見出そうとするのはなぜだろうか」。明らかにそれは,創造者に帰すべき恩義を認めるのを渋っているからであり,神に服する事をちゅうちょしているからです。人は「エホバこそ神にますなれ,われらを造り給へるものはエホバにましませば我らはそのものなり」という言葉の真実を認めようとしていません。―詩 100:3。
あげれば他にいくらでもあるでしょうが,ここに取りあげたいくつかの例を考えるだけでも,真実を曲解し,しかも,疑いの気持からそうした行為をなす者の有罪性がうかがわれます。それで,「買い手は注意せよ」の原則は,どんな種類のものであろうと真実を看板にし,しかもそれにもとづいて人の信念や行為が決定されるものすべてを読んだり聞いたりする場合にいつもしっかりと心にとめておかねばなりません。神の言葉である聖書も「凡てのことを試みて良きものを守」れとすすめています。―テサロニケ前 5:21。
[脚注]
a これはドイツ語の本名「Aber Gott War Da」の直訳です。