墓から「生命によみがえ」る
1 キリストと共に審判者となる人々は,地上にいる間にどんな生命にはいりましたか。どのように?
過去19世紀のあいだ,天国においてみ子と共に審判者となるために神から選ばれた人々は,神の子の声を聞いてきました。そしてみ子の声が命じた事に従ったゆえに,彼らは地上にいるうちに霊的な生命にはいりました。そして人類の世が定められている死の状態から義とされました。人願の世は罪ととがと憎しみのうちに死んでいます。しかしすべて信ずる者のためにみ子が遂げた犠牲の死によって,神は彼らを死の定めから救われました。―ロマ 5:1; 8:1-4。
2 ヨハネ伝 5章26節において,「自分のうちに生命を持つ」と言われたイエスの言葉は,何を指していますか。
2 信ずる者を死から生命に移す神の働きに関連して,イエス・キリストのはたす役割は,つづいてイエスの言われた言葉に述べられています。「それは,父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に,子にもまた,自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」。イエスがここで述べられた論議に照らしてみるとき,イエスは,ある人の言うように,天の父あるいはご自身の「内に在る生命」,あるいはアメリカ訳の訳語で「自存」と言われているものの事を語ったのではありません。(ヨハネ 5:26)イエスの論議から見ると,イエスは生命を与える力のことを語っていたのです。従って新英訳聖書(1961年)は,イエスの言葉を次のように訳しています。「父が,生命を与える力をご自分の中に持たれるように,子も父からの贈物によってそれを持つ」。ロナルド・ノックスによるローマカトリック訳も同様です。「父がご自身の中に生命の贈物を持たれるように,子もまた自分の中に生命の贈物を持つことを父から許されたのである」。1950年に発刊されたクリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳も同じ考えを述べています。「父はご自身のうちに生命の賜物を持たれ,同様にして子が自分の中に生命の賜物を持つことをも許された」。
3 なぜ神は,「自分のうちに生命を持つ」ことを子に許すことができ,またそのことをお許しになりましたか。
3 どのようにして,何時またなぜ,天の父は,み子イエス・キリストがご自分の中に生命を与える力を持つことを許されたのですか。「いのちの泉」であるエホバ神は,生命を与える力をみ子に持たせることができました。(詩 36:9)人類の父アダムの犯した罪のゆえに死ぬようになった人間のために,神はそのことをされました。―ロマ 5:12。
4,5 (イ)神は人類に生命を授ける道を,み子によってどのように設けられましたか。(ロ)従って詩篇 40篇6節から8節は,ヘブル書 10章5節から10節において,どなたに適用されていますか。どのように?
4 罪と死に定められた人類に永遠の生命が与えられるとすれば,それは人の生命の犠牲によらなければなりません。人類の罪をあがない,人を死から救う人間の犠牲を備えるため,天の父エホバ神はみ子を遣わし,その生命を天から地に移されました。み子は神の力により,幼な子イエスとなってユダヤのベツレヘムで奇跡的に生まれました。イエスは成長して30歳となり,エデンにいた完全な人アダムに等しい完全な人間になりました。イエスは罪のない完全な人でしたが,天の父に奉仕してその生命をささげ,人類のためにその生命を与えなければなりません。そこで30歳のイエスは,この犠牲をささげ,神の祭司として奉仕するためにご自分をささげました。霊感によってヘブル書を書いた人は10章5節から10節において詩篇 40篇6節から8節をイエスに適用し,次のように書いています。
5 「それだから,キリストがこの世にこられたとき,次のように言われた,『あなたは,いけにえやささげ物を望まれないで,わたしのために,からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時,わたしは言った,「神よ,わたしにつき,巻物の書物に書いてあるとおり,見よ,御旨を行うためにまいりました」』。ここで,初めに,『あなたは,いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち,律法に従ってささげられるもの)を望まれず,好まれもしなかった』とあり,次に,『見よ,わたしは御旨を行うためにまいりました』とある。すなわち,彼は,後のものを立てるために,初めのものを廃止されたのである。この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって,わたしたちはきよめられたのである」。
6 その事と一致して,イエスは何を受けられましたか。そのとき神は,イエスにある程度まで何をお与えになりましたか。
6 死に至るまでも神への特別な奉仕に身をささげたことを象徴するため,イエスはバプテスマのヨハネの手によって水のバプテスマを受けられました。(マタイ 3:13-17)イエスが水のバプテスマを受けた直後,エホバ神は,いま献身したみ子に天からの聖霊をそそいでバプテスマを施し,イエスが霊的な子であることを宣言されました。このバプテスマの時に,み父は生命を与える力をみ子がある程度まで持つことを許されました。それゆえにみ子は,38年間病気で寝たきりの人をいやし,またユダヤ人を死からよみがえらすことができたのです。イエスはその愛した友ラザロが死んで4日も墓にいたのを復活させました。しかしイエスは,死に定められた人類の一人に永遠の生命を与える力はまだ持っていませんでした。なぜならば,イエスはご自分の完全な人間のからだを,実際の死によって犠牲にすることをまだされていなかったからです。
7 (イ)イエスの死後3日目に,神はどんな力を行使されましたか。どのように?(ロ)イエスは何を携えて昇天しましたか。なぜそれを携えて行きましたか。
7 しかし死んだイエス・キリストは,死にゆく人類に永遠の生命を与えることができません。そこで,生命を与える力をご自身のうちに持たれる,父エホバ神は,3日目にみ子を死人の中からよみがえらせ,天すなわち霊界において不滅の生命をお与えになったのです。死人の中から復活して40日後に昇天したイエスは,犠牲にした人間のからだを天に携えて行ったのではなく ― それは不可能です ― 犠牲にした完全な人間の生命の価値を携えて天に上り,人類のためにそれを天の父にささげられました。父なる神はこの犠牲の価値を嘉納され,イエス・キリストを人類のための大祭司にされました。―ヘブル 9:24-26。
8 イエスはよみがえった時,どんな者となりましたか。
8 そこで使徒パウロは,死んだクリスチャンの復活と,よみがえる時のからだについて次のように書いています。「肉のからだでまかれ,霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから,霊のからだもあるわけである。聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった」。(コリント前 15:44,45)使徒パウロはイエス・キリストを「最後のアダム」と呼び,また復活したイエスが「命を与える霊」になったことを述べています。
9 (イ)神のみ子は,いまどんな務をすることができますか。(ロ)神のみ子が「人の子」になることはなぜ必要でしたか。人類の大多数が死んでいても,そのことはイエス・キリストにとってなぜ妨げとはなりませんか。
9 このようにして父なるエホバ神は,み子イエス・キリストがご自分の中に生命を与える力を持つことを許されました。これによってみ子は,生ける者のみならず,死者を裁くことができます。天国において支配するとき,み子は死人をよみがえらせる力を持っているからです。この理由でイエス・キリストはその論議に次の言葉を加えました。「そして子は人の子であるから,子にさばきを行う権威をお与えになった」。(ヨハネ 5:27)神の天のみ子が,犠牲をささげるための「人の子」とならなかったとすれば,生命を与える力を得,生者と死者を裁く人類の審判者となる特権に与ることはなかったでしょう。御国の設立される時までには,死んでいる人のほうがはるかに多いことは言うまでもありません。しかしその事はイエス・キリストが人々を裁く妨げにはなりません。イエスは生命を与える力を持ち,人々を墓からよみがえらせてご自分の前に呼び出すことができるからです。
更に驚くべきこと
10 殺意を抱いたユダヤ人にむかい,イエスはヨハネ伝 5章28節から30節において,更にどんな驚くべきことを告げましたか。
10 イエスは,生命を与える力と裁きを行なう権威がご自分に与えられていると語りました。イエスを殺そうとしたユダヤ人は,それを聞いて驚いたに違いありません。しかしこのような事に驚いたとすれば,更に驚くべきことがまだ起こるのです。ユダヤ人はまだ全部の事を聞いていませんでした。そこでイエスは次のように言葉をつづけています。「これを怪しむな。記憶の墓aにいるすべての者が,彼の声を聞いて出てくる時がくる。善をした者は生命によみがえり,悪を行なった者は裁きによみがえるであろう」。「わたしは,自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして,わたしのこのさばきは正しい。それは,わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めているからである」― ヨハネ 5:28-30,一部は新世。
11,12 (イ)何人の人がよみがえりますか。全部の人が一度によみがえるのですか。(ロ)「時」という言葉が使われていても,すべての人が一度によみがえると考える必要がないのはなぜですか。
11 ここでイエスは,生命を与える力を持つ審判者であるご自分の声を聞いて「記憶の墓にいるすべての者が……出てくる」と言われました。そのことに注目して下さい。従ってよみがえるべく記憶に留められている死人は,善人も悪人もすべて復活しなければなりません。しかしこれは,すべての人が同じ日,同じ時に復活しなければならないという意味ではありません。たしかにイエスは,このすべての事の起こる「時」が来ると言われました。それでも「時」という言葉は,この場合ちょうど60分すなわち3600秒を意味するのではありません。
12 西暦98年頃,使徒ヨハネの書いた次の言葉が,一日の24時間目を指していないことは明らかです。「子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように,今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る」。(ヨハネ第一 2:18)それでイエスがここで言われた「時」は,設立された神の国の下における一つの期間を指しています。それは重大な期間であり,いわば重大な「時」です。
13 すべての人が墓から出てくる以上,イエスの言われたのはどんな種類の復活ですか。なぜこれはすべての人が一度に復活するということを意味しませんか。
13 記憶の墓にいるすべての死者がイエスの裁きの声を聞いて出てくると言われたイエスの言葉は,一つの大きな,一般的かつ普遍的な復活があることを意味しました。しかしイエスが指摘しているようにこの包括的な復活に与る人々に及ぶ結果は,人によって異なります。またこの普遍的な復活に与る人々が,同じ年,同じ日,同じ時に復活するのでない事は,聖書の他の箇所から見ても明らかです。
14 コリント前書 15章22,23節において,使徒パウロは復活に順序があることを,どのように示していますか。
14 復活の確実性を述べた論議の中で,使徒パウロは次のように書きました。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ,各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト,次に,主の来臨に際してキリストに属する者たち……である」。(コリント前 15:22,23)御国においてイエス・キリストと共に審判者となる霊的なクリスチャンのすべてが,イエスの来られる時,すでに死んでいるわけではありません。その中には,神から与えられた地上のわざをなおつづけ,その後において生命を用いつくして地上の生涯を終える人々もあるのです。
15 テサロニケ前書 4章16,17節において,パウロは復活の時期の相違をどのように示していますか。
15 ゆえにイエスの来られたとき,すべての人が同時に復活するのではありません。テサロニケ前書 4章16,17節に使徒パウロは次のことを述べています。「すなわち,主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに,合図の声で,天から下ってこられる。その時,キリストにあって死んだ人々が,まず最初によみがえり,それから生き残っているわたしたちが,彼らと共に雲に包まれて引き上げられ,空中で主に会い,こうして,いつも主と共にいるであろう」。「最初」および「それから」という言葉は,復活の時に相違のあることを示しています。
16,17 天においてイエス・キリストと共に審判者となる人々に関し,ヨハネは黙示録 20章4-6節において何を述べていますか。
16 上級の審判者イエス・キリストと共に天の位に座して共同の審判者となる人々に関して,使徒ヨハネは黙示 20章4節から6節に次のことを書いています。
17 「また見ていると,かず多くの座があり,その上に人人がすわっていた。そして,彼らにさばきの権が与えられていた。また,イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり,また,獣をもその像をも拝まず,その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって,キリストと共に千年の間,支配した。(それ以外の死人は,千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は,さいわいな者であり,また聖なる者である。この人たちに対しては,第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり,キリストと共に千年の間,支配する」。
18 彼らはどんな復活に与りますか。なぜ彼らの復活はそのように呼ばれているのですか。
18 天の位に座し,「さばきの権」を与えられる人々は,使徒ヨハネの言う「第一の復活」に与ります。「第一の」という言葉は,彼らの復活が人類の他の者の受ける復活と異なることを示しています。それは重要性においてのみならず,時間的に見ても第一のものです。
19 (イ)ピリピ書 3章11節において,パウロはどのように復活の時期に言及していますか。(ロ)第一の復活に与る人には,だれが含まれますか。
19 「なんとかして死人からの早い復活に達したい」と書いた使徒パウロは,この時間のことを考えていました。(ピリピ 3:11,ロザハム訳。新世訳)「第一の復活」に与り,位に座してさばく人々の中には,イエスご自身が約束されたように,12使徒も含まれています。(マタイ 19:27,28)使徒パウロは,忠実な,清められた,彼のクリスチャン兄弟たちもその中に含まれることを述べました。(コリント前 1:1,2; 6:2)全部でその数は14万4000人です。使徒ヨハネは幻の中で,これらの人々が生ける神の印を額におされ,犠牲となった神の小羊イエス・キリストと共に天のシオンの山に立っているのを見ました。―黙示 7:4-8; 14:1-3。
「それ以外の死人」
20,21 (イ)「それ以外の死人」は,どんな復活に与りますか。(ロ)使徒ヨハネは,彼らの復活と裁きをどのように述べていますか。
20 14万4000人は第一の復活に与り,位にすわって「さばきの権」を与えられますが,「それ以外の死人」についても説明がなければなりません。第一の復活にあずからないこれらの人々には,第二の,あるいは後の復活があるに違いありません。同じ幻の中で使徒ヨハネは,「それ以外の死人」の復活を見,それを次のように描いています。
21 「また見ていると,大きな白い御座があり,そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って,あとかたもなくなった。また,死んでいた者が,大いなる者も小さき者も共に,御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが,もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ,この書物に書かれていることにしたがって,さばかれた。海はその中にいる死人を出し,死も黄泉もその中にいる死人を出し,そして,おのおのそのしわざに応じて,さばきを受けた。それから,死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池は第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな,火の池に投げ込まれた」。(黙示 20:11-15)「火と硫黄の燃えている池」ば黙示録 21章8節にも出てきますが,そこでは14万4000人の一人となるはずのクリスチャンでありながら,おくびょうと信仰の不足のためにこの世に勝たず,悪に染まって落伍する人に関連して述べられています。
22 逃げ去る天と地は,なぜ実際の天地ではありませんか。
22 大きな白い,裁きの御座にいますかたの前から逃げ去る天と地は,言うまでもなく象徴的であって,実際の天地ではありません。もしそうでないとすれば,復活した人々は裁きの座の前に出るためどこに立つのですか。また実際の地球上にある記憶の墓,あるいは黄泉すなわち実際の地の中にある人類共通の墓,あるいは多くの人のおぼれ死んだ海は,どうして死人を出すことができますか。ゆえに逃げ去った天と地は象徴的です。
23 何時そしてどのように象徴的な地,ついで象徴的な天が逃げ去りますか。
23 象徴的な地が逃げ去るのは,大いなるバビロンがまず滅ぼされ,その直後に象徴的な獣と「にせ預言者」および地の王たちとその軍隊がハルマゲドンの戦いにおいて滅ぼされた時です。その有様は黙示録 16章13-16節,17章15-18節,19章19-21節に描かれています。象徴的な天が逃げ去るのは,サタン悪魔と悪鬼が捕えられて,底なきところにつながれる時です。黙示録 20章1節から3節に描かれているように,キリストが地を治める1000年のあいだ,悪魔と悪鬼は束縛されます。
24 (イ)この裁きの日を24時間の一日と考えることはなぜ不合理ですか。(ロ)この裁きの日の長さをどのように計算しますか。
24 使徒パウロも示しているように,死人の復活には順序と位があることを心に留めて下さい。ですからこれらの死人が,同じ時あるいは24時間の一日のうちに黄泉あるいは海からよみがえると考えるべきではありません。このように急いで裁きをすすめる必要はないのです。死んでいる人は何百億という数に上る以上,上級の審判者イエス・キリストと共に14万4000人の審判者がいるにしても,24時間の一日のうちにその一人一人を正しくさばく事はとうてい不可能です。14万4000人の共同審判者はキリストと共に1000年間治めますから,人類の死者を裁く日は1000年の長さです。それによって,復活を受けた各人は十分の時間をかけてさばかれ,生命の書に名前をしるされるかどうかが決められます。ペテロ後書 3章8節も次のように述べているではありませんか。「愛する者たちよ。この一事を見のがしてはいけない。エホバのみ前に一日は千年のようであり,千年は一日のようである」。ですから聖書的に考えましょう。
25,26 (イ)地上の人間の復活の順序と位に関して,ヘブル書 11章35節は何を示していますか。(ロ)これはだれのための復活ですか。この人々は長いあいだ何と呼ばれていましたか。
25 地上における人間の復活に関しても,順序と位のあることが考えられます。それを示す聖句に注目して下さい。ヘブル書 11章1節から12章1節までにおいて筆者は,イエス・キリストの死と復活以前に生存した「多くの証人」のことを簡単に述べています。これらの人々は当時のエホバの証者でした。(イザヤ 43:10-12; 44:8)11章35節は,これらの人々がまさった復活を受けることを明らかに述べています。「女たちは,その死者たちをよみがえらせてもらった。ほかの者は,更にまさったいのちによみがえるために,拷問の苦しみに甘んじ,放免されることを願わなかった」。
26 「多くの証人」のすべてに約束されていたのは,この「まさったいのちによみがえる」事であったに違いありません。それだからこそ,ある人々はそれを得るために拷問と死をさえ甘んじて受けたのです。この人々の艱難や苦しみについて述べたのち,ヘブル書 11章38節は,これら昔の証者について,「世は彼らを置くに堪へず」(文語)と述べています。クリスチャン聖書研究生は,この人々のことを「昔のふさわしい者」b と長いあいだ呼んでいました。
27 (イ)ヘブル書 11章39,40節は,復活の相違に関して何を示していますか。どんな相違がありますか。(ロ)昔の証人の復活はどのようにまさっていますか。
27 昔の「多くの証人」の復活は,天においてキリストと共に審判者となる14万4000人のクリスチャンの復活とは異なっています。それでヘブル書 11章39,40節は,これら昔の証人について次のことを述べています。「さて,これらの人々はみな,信仰によってあかしされたが,約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために,さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので,わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」。キリストの忠実な追随者のために,神はさらに良いものを先見されました。それは昔の「多くの証人」が復活の時に受けるものよりも,さらに良いものです。「多くの証人」は第一の復活すなわち天的で霊的な復活に与りません。彼らは地的な復活を受けます。しかしその復活は,「女たちは,その死者たちをよみがえらせてもらった」という言葉に述べられた復活,すなわち昔の預言者によってよみがえらされた人々が得たものにまさっています。彼らはキリストを王とする神のみ国の下で復活を受け,従って忠実を保つならば,二度と死ぬことはありません。
28 詩篇 45篇16節は,どなたの先祖のことを述べていますか。彼らは何になりますか。
28 「更にまさったいのちによみがえる」,キリスト教時代以前の昔の証人のことが,詩篇 45篇に出ています。詩篇 45篇は,メシヤなる王イエス・キリストのこと,天の御国におけるキリストの共同相続者14万4000人の花嫁級とイエス・キリストとの婚姻のことを預言的に述べた詩篇です。ついで王イエス・キリストに語りかけた詩篇 45篇16節は,預言的に次のことを述べています。「あなたの子らは父祖に代って立ち,あなたは彼らを全地に君とするであろう」。人間イエス・キリストの父祖の中には,エホバの忠実な証者であったアブラハム,イサク,ヤコブおよびダビデ王がいます。
29,30 (イ)全地に君を任命することがキリストの父祖たちに限られるかどうかについて,何が言えますか。(ロ)彼らが君として任命されることは,人々の復活に関して何を明らかにしていますか。
29 その忠実な父祖たちを天の御国の下において「全地に君」とするために,イエス・キリストは彼らを記憶の墓からよみがえさなければなりません。キリストの千年統治のあいだ,キリストの忠実な父祖たちの行なう君の支配が地上の他の人々を益するためには,たとえ何千年前に死んだとしても,これらの父祖たちがキリストの支配のはじめの頃に復活しなければなりません。支配する王イエス・キリストによって全地に君とされる人々が,イエスの敬虔な先祖に限られるとすれば,このような君の数は決して多くないでしょう。昔の「多くの証人」の中には,等しく忠実であった他の人々がいます。ゆえにこれらの忠実な証人たちもまた,地の各地において君となるのにふさわしい者とされるでしょう。
30 君に任命される以上,この人々は神の国の治める地に住む他の人々よりも早く復活しなければなりません。これは地的な復活にも順序と位のあることを物語っています。従って黄泉と海が一度にその中の死人を地に出すのではありません。よみがえってくる人々を受け入れる態勢が,まずととのえられなければなりません。c
「生命によみがえ」る
31 (イ)一部の聖書解説者は,ヨハネ伝 5章28,29節について何をいぶかってきましたか。(ロ)イエス・キリストは,復活する人々をどのように分けましたか。
31 イエスは,記憶の墓から出てくることを,総括的な一つの出来事として述べられました。しかしすべての人が与るこのような復活の結果は,人によって異なることが指摘されています。ヨハネ伝 5章28,29節において,イエスは次のように言われました。「記憶の墓にいるすべての者が,彼の声を聞いて出てくる時がくる。善をした者は生命によみがえり,悪を行なった者は裁きによみがえるであろう」。(新世)そこで一部の聖書解説者は,ここに述べられた二つの部類の人々がそれぞれ受ける二つの復活があるのではないかと考えてきました。d しかしイエス・キリストはここで復活のことを論じて,それを「第一の復活」および「それ以外の死人」の復活というように復活を二つに分けているのではありません。イエスは,復活の結果に関して,人類を二つに分けているのです。
32 善をして「生命によみがえ」る人には,だれが含まれますか。
32 「生命によみがえ」るという表現は,聖書中に1回だけ,ヨハネ伝 5章29節に出てきます。それに与るのは「善をした者」であると,イエスは語りました。善をした者の中にはだれが含まれていますか。それは復活してのち,メシヤの下にある,来たるべき神の正義の新秩序において永遠の生命を得るすべての人です。これが聖書の答えです。イエス・キリストの共同相続者また共同審判者として天に不滅の生命を得るか,あるいはメシヤによる神の国の治める地上で完全な人間の生命を得るかは問題ではありません。e いずれにしても,このような生命はイエス・キリストを通して与えられます。
33,34 (イ)「生命によみがえ」るという表現自体は,直ちに完全な生命を得ることを意味していますか。(ロ)しかしキリストと14万4000人の共同相続者およびその残れる者については何が言えますか。
33 「生命によみがえ」ると言っても,それ自体は,天における霊者のものであっても,地上の人間のものであっても,死からよみがえって瞬時に完全な生命を得ることを意味しません。天においてイエス・キリストと共に審判者,王,祭司となるのにふさわしいことを証明した14万4000人のクリスチャンの場合には,たしかに復活と同時に神の不滅の,朽ちない霊的な子となります。彼らの指導者イエス・キリストは復活と同時に,神の霊的な子の長となりました。キリストの共同相続者となる14万4000人の復活も同様です。(ロマ 6:5)使徒パウロは復活の論議の中で,主の来られる時まで地上に生き残り,従って地上の生涯を終えたとき,死の眠りについて主の来られる時を待つ必要のない忠実なクリスチャンのことを語っています。コリント前書 15章49節から55節にパウロは次のように書きました。
34 「すなわち,わたしたちは,土に属している〔最初の人アダムの〕形をとっているのと同様に,また天に属している〔イエス・キリストの〕形をとるであろう。兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができない」,朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで,あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては,眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に,またたく間に,一瞬にして変えられる。というのは,ラッパが響いて,死人は朽ちない者によみがえらされ,わたしたちは変えられるのである。なぜなら,この朽ちるものは必ず朽ちないものを着,この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着,この死ぬものが死なないものを着るとき,聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった』」。
35 14万4000人は復活と同時に完全になる前に,さばかれますか。コリント後書 5章10節は何を示していますか。
35 14万4000人は復活と同時に完全にされ,天の霊的な生命を与えられます。ではこの人々がまずさばかれることはないのですか。さばきはあるのです。使徒パウロは,キリストの忠実な追随者の会衆に宛て,コリント後書 5章10節に次のことを書きました。「なぜなら,わたしたちは皆,キリストのさばきの座の前にあらわれ,善であれ悪であれ,自分の行ったことに応じて,それぞれ報いを受けねばならないからである」。このようにキリストの共同相続者は,いまさばかれています。
36 ゆえにペテロ前書 4章17,18節は14万4000人に何を警告していますか。
36 ペテロ前書 4章17,18節において使徒ペテロが警告しているのはこのことです。「さばきが神の家から始められる時がきた。それが,わたしたちからまず始められるとしたら,神の福音に従わない人々の行く末は,どんなであろうか。また義人でさえ,かろうじて救われるのだとすれば,不信なる者や罪人は,どうなるであろうか」。
37 14万4000人は「善をした者」であることを何時,どこで証明しなければなりませんか。
37 ゆえに彼らが死んで「生命によみがえ」るまえに,審判者は彼らが「善をした」ことを確かめなければなりません。14万4000人の共同相続者は復活と同時に天の霊者となって,完全な生命を与えられます。ゆえに肉体を持つ,いまの時期において,善をした者であることを証明しなければなりません。天における不滅と不朽を瞬時に受ける前に,それをすることが必要です。
善をした他の者
38 復活し,地上で永遠の生命の機会を得る人の場合,「いのちの書」に名前を書かれるかどうか,また名前をそこに留めるかどうかは,何によって決まりますか。
38 地上に復活し,神の国の治める楽園の地上において完全な生命の希望を与えられる人はどうですか。記憶の墓に死んでいたこれらの人々がよみがえると同時に完全な人間になることはなく,またその必要もありません。その人々がいのちの書に書き入れられるかどうか,あるいは前から書かれていたのがそのまま残るかどうかは,行いによってきまります。そしてこのような行いは,まだすんでいないのです。キリストの治める1000年のあいだ,その人々は地上でどんな行いをしますか。そのうえ千年統治の終わりにサタンと悪鬼が解きはなたれて行なわれる最後の試験が,すべての人の前途にあります。(黙示 20:7-10)この試みにあって忠実を保つ人は「善をした者」となります。その時が来なければ,最終的な決定は下されません。
39,40 (イ)バプテスマのヨハネをも含めて,「多くの証人」は何を学ぶ必要がありますか。(ロ)「多くの証人」は,どんな者であることを証明しなければなりませんか。罪のためのどんな犠牲の益に与ることができますか。
39 たとえばアブラハム,イサク,ヤコブ,モーセ,ダビデ王,バプテスマのヨハネなど,昔の「多くの証人」のことを考えてごらんなさい。これらの人々は「全地に君」とされます。しかし多くの事,とくにメシヤ,イエスおよび神の目的と神のわざに関連してイエスのはたした役割を学ばねばなりません。それを理解し,復活後に与えられたこの知識に関して試みられることも必要です。バプテスマのヨハネは,イエス・キリストの死と復活と昇天のおよそ2年前に首を切られました。バプテスマのヨハネは獄の中からイエスに使いを送り,イエスがメシヤの完全な成就であるか,それとも別の者を待つべきかを尋ねさせています。
40 従って「まさったよみがえり」に与る「多くの証人」は,キリストの千年統治の終わりに至るまで,善をする者であることを証明しなければなりません。昔これらの人々は,人間の罪を除くことのできない動物の犠牲の益に与ったに過ぎません。しかし地上によみがえされてのち,イエスのあがないの犠牲と,罪人にとって神の大祭司であるイエスのつとめから益を受けることができます。永遠の生命はそのことに依存しているのです。
41 (イ)黙示録 7章9-17節の「大ぜいの群衆」はどのグループに属しますか。(ロ)彼らには生き残るどんな希望がありますか。瞬間的に完全な人間に変えられますか。
41 黙示録 7章9節から17節には,「大ぜいの群衆」のことが出ています。これは地に住む人々です。神のみ霊によって生み出された人々ではありません。従って天に行くことはありません。この人々は,良い羊飼イエス・キリストの「他の羊」に属し,救われた人々の一つの群れの中に導き入れられます。ヨハネ伝 10章16節にイエスはその事を言われました。すべての「他の羊」は,天の神の国が治める「新しい地」に住みます。しかし今日「大ぜいの群衆」は,現存する事物の制度を終わらせるハルマゲドンの戦いを生き残ることを望んでいます。それはノアの息子たちと義理の娘たちが,箱舟にあってノアとその妻と共に生き残ったのと同様です。それで彼らは死ぬことなく,ハルマゲドン後の事物の新しい制度の下に生き残ることを望んでいます。しかしハルマゲドンの戦いの直後に完全な人間に変えられるのではありません。この人々すべては,神の国の助けを得ながらキリストの千年統治の終わりに至ってのち,はじめて完全な人間となります。
42 「大ぜいの群衆」の一人で,ハルマゲドンの戦い前に死ぬ人々は,何時,完全な人間となり,また「善をした者」であることを証明しますか。
42 「大ぜいの群衆」の中には,すでに死んだ人も少なくありません。その人々は神に忠実に奉仕しました。ハルマゲドンの戦い前に死ぬ人もあるでしょう。それでこの人々は栄光を受けた人の子の声を聞いて,記憶の墓から復活しなければなりません。ハルマゲドンの戦いを生き残る人々がハルマゲドンの直後,完全な人間にたちまち変えられないのと同様,その人々も直ぐには完全な人間にならないでしょう。ハルマゲドンを生き残る人々も,記憶の墓からよみがえる人も,キリストの千年統治の終わるまでは完全ではありません。そしてサタンと悪鬼の解き放たれるときにも,善を行ないつづけることを証明しなければなりません。サタンがしばらくの間解き放たれた時にも,「善をする」人だけが地上に永遠の生命を得ます。
43 黙示録 20章11-13節にある死人の中には,だれが含まれていますか。
43 人類一般の死者に関して,黙示録 20章11節から13節は,黄泉も海もその中の死人を出したと述べています。その中にはアベルからバプテスマのヨハネに至るまでの忠実な預言者や証者がおり,また今日の「大ぜいの群衆」のうち,ハルマゲドン前に死ぬ人およびイエスの言われたように「記憶の墓」にある他のすべての人が含まれています。
44 その人々についてどんな疑問が起きますか。彼らは何に応じてさばかれますか。
44 では問題は,だれが「いのちの書」に名前をしるされ,あるいは「いのちの書」に名前を留めるかという事です。明らかにそれは,最終的な裁きの結果,「善をした者」と認められる人々です。このような者とされるには,キリストの千年統治のあいだ開かれる神の教えの「書物」に従って生きることを学ばなければなりません。キリストの治めるあいだ,開かれるかずかずの書物を導きとして行動しなければなりません。「大きな白い御座」の前に立つ人々は,「そのしわざに応じ」て裁かれるからです。―黙示 20:12。
45 (イ)この人々はだれであっても,「善をした者」として何時公に認められますか。(ロ)生命の書に名前を書かれない者は,どうなりますか。
45 キリストの千年統治の終わりにサタンと悪鬼がしばらくのあいだ解放されて,決定的な試みが臨むとき,人々は忠実にそれに耐えなければなりません。この最後の決定的な試みを経てのちに,人々は「善をした者」として公に認められ,その不変な立場を保つことができます。その名前は「いのちの書にしるされ」ます。すべての人の名がいのちの書にしるされるのではありません。その名をしるされない人々の最後が,黙示録 20章15節にしるされています。名前のしるされていない人々は「第二の死」を受けます。記憶の墓からよみがえされた人々のうち,だれが「生命によみがえった」かは,このようにして最終的に決定されます。
[脚注]
a ここに記憶の墓と訳されたギリシャ語はムネミオンの複数形であり,タフォスと異なっています。これについて,A・T・ロバートソン博士著「新約聖書における絵のような描写」(第5巻)87頁は,ヨハネ伝 5章28節について次のように述べています。
「タフォス(墓)は,マタイ伝 23章27節における如く,埋葬(タフォト,葬る)の意を表わし,ムネミオン(ムナオマイ,ミムネスコから出ている。思いおこすの意)は記念(記念碑としての墓)である。」
b 1928年発刊の「政府」(英文)274,276頁また1928年発刊の「和解」(英文)292,293頁。
c ヨハネ伝 5章25,28-30節は,マイヤー著「ヨハネ福音書の批評的,解釈的ハンドブック」に解説されています。186頁1節は,ヨハネ伝 5章28節の「すべての者」という語について,次のことを述べています。
「すべての者が同時によみがえることはここでほとんど示唆されていない。それは25節において,霊的な死人が一時によみがえることが示されていないのと同様である」。
d A・T・ロバートソン著「新約聖書における絵のような描写」(1932年版)第5巻88頁に次の言葉が出ています。「結果から見るとき,二つの復活がある。すなわち生命に至るものと裁きに至るものである」。すなわち結果に関してのみ,二つの復活があるのです。
国際スタンダード聖書百科第4巻(1955年版)2564頁a「復活」の項は,ヨハネ伝 6章39,40,44,54節,11章25節,およびヨハネ伝 5章28,29節にふれて次のように述べています。「これらの句が二つの復活を述べているのか,あるいは復活の状態における極端な相違のみを強調しているのかは決定し難い」。
e 長年のあいだ,クリスチャン聖書研究生は,「生命によみがえ」る人の中に次の人々が含まれるものと理解していました。(1)14万4000人のキリストの共同相続者からなる教会すなわち会衆(2)14万4000人には含まれないが,その下にあって天で奉仕する霊的なクリスチャンの数えることのできない「大いなる群衆」(3)ヘブル書 11章1節から12章1節に述べられた,いわゆる「昔のふさわしい者たち」。たとえば1904年に出版された「新しい創造」(英文)709頁2節,707頁1節とその注。