終わりの時における忠節
「というのは,過ぎ去った時の間,あなたがたは,不品行,欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝に傾いていましたが,諸国民の欲するところを行なうのはそれでじゅうぶんだからです」― ペテロ第一 4:3。
1 なぜ人類の悪はこの時代に悪化の一途をたどっているように思えますか。
第一次世界大戦以来,わたしたちは先例のない暴力行為,大がかりな流血行為,広範囲にわたる道徳の退廃などを特色とする,人類史上最も異常な時代に住んでいます。幾千年か昔の,これによく似た時代について,聖書の歴史的記録は次のように述べています。『エホバ人の悪の地に大いなるとその心の思念のすべてはかるところのつねにただ悪しきのみなるを見たまえり』。(創世 6:5)彼らは人類に対する神のご意志に「注意しませんでした」。これはノアの時の大洪水前の時代の事物の状態を説明したものです。人間が支配する現体制の終わりの日にもそれと同じ状態が存在するであろう,とイエス・キリストは言われました。(マタイ 24:37-39)1914年以来,わたしたちはその「終わりの日」に住んでいます。
2,3 クリスチャンはどんな悪い影響を感じますか。なぜ彼らはそれに抵抗しなければなりませんか。
2 人類の道徳水準が着実に低下の一途をたどっているので,真のクリスチャンたちに不道徳な行為を許容させようとする圧力は増しています。いわゆる「新しい道徳」の考えは彼らの周囲のこの世的な人びとに浸透しており,そういう人びとがつくりだす文学や娯楽に満ちています。これはすべてのクリスチャンに悪い影響をおよぼします。それでクリスチャンは堅い決意をもってそれに抵抗することが要求されます。ある人びとは真のクリスチャンになる前に,不道徳な生活さえしていたかもしれません。しかし今は,神のことばの高い道徳規準にしたがってつくられた新しい人格を着たのですから,諸国民のような生活をする時は過ぎ去りました。そういう生活に逆もどりすることは,犬が自分の吐いた物に帰るのに似ています。―ペテロ第二 2:22。
3 しかしながら,真のクリスチャンになったということは,堕落した肉の欲を経験しなくなるという意味ではありません。彼らはそれを経験します。その欲望は彼らのひとつの弱点です。もし自制力という道徳的防備を絶えず保持しないならば,この弱点は攻撃を受けやすくなる恐れがあります。この腐敗した人類の世の神であるサタンは,彼の世の,人を堕落させる影響力をとおしてこの弱点に働きかけます。彼は今日でも,紀元前15世紀にモアブ人とミデアン人がイスラエルを堕落させてエホバをイスラエル人に敵せしめようとした時に彼らに用いさせたのと同じ策略を用います。ですから今日,サタンは肉欲によってクリスチャンを誘惑して神の律法にそむかせ,そうすることによって神の不利な裁きを彼らの上にもたらそうとします。―ペテロ第一 5:8。
4 クリスチャンが悪い欲望をいだいてそれを思いめぐらすならば,どんなことになりかねませんか。
4 もしあるクリスチャンが,悪魔の事物の体制がつくり出した,道徳的に腐敗した文学や他の形の娯楽に楽しみを見いだすなら,そのクリスチャンは自分の身をさらし,無防備でいることにならないでしょうか。まちがった欲望を心にいだけば,時のたつうちにその欲望に負け,神のみ前に罪を犯す結果にならないでしょうか。(ヤコブ 1:14,15)そのような道を歩みつづけるなら,モアブの平野で殺された2万4,000人のイスラエル人の場合のように,神からの確実な滅びが臨むでしょう。サタンは,イスラエル人をして彼らの主なる神への忠節を失わせることにより,彼らに勝利を得ました。―民数 25:1-9。
すべてのことにおいて忠節である
5,6 (イ)神に対する忠節には何が関係していますか。(ロ)クリスチャンは王国に加えて何を求めねばならないとイエスは言われましたか。どのように求めますか。
5 あるクリスチャンは,王国の良いたよりを熱心に宣べ伝えているから,自分はエホバ神に忠節であると考えるかもしれませんが,忠節ということにはそれ以外の事柄も関係しています。アモリ人と勇敢に戦ったイスラエル人も,自分たちは神に対して忠節であると考えました。しかし彼らの多くは,次のことを悟りませんでした。つまり人はまた,その行ないすべてによって忠節を示さねばならないということです。もしクリスチャンが悪い欲望に負けるなら,その人が神の王国について宣べ伝えることは意味がなくなります。その人は神の王国の道徳律を犯すことによって,自分が実際に神の王国に忠節でないことを示しています。クリスチャンにふさわしくないその人の行ないは,王なる神のみ名に非難をもたらします。―ペテロ第二 2:2。
6 クリスチャンはその生き方全体によって,たとえささいに思える事柄においても,神と王国に忠節を示さねばなりません。クリスチャンの生き方は,この世の腐敗した生き方とは大きく異なっていなければなりません。たとえそのためにこの世的な知人や親族から非難されることがあっても。(ペテロ第一 4:3,4)神の王国に対する関心に何が伴わねばならないかをイエスが明示されたことに注意してください。「それでは,王国……をいつも第一に求めなさい」とイエスは言われました。しかし次に「神の義」をつけ加えられました。(マタイ 6:33)したがって,神の王国を忠節に擁護するためには,神の力によってしるされた聖書の律法や助言に明示されている神の義と一致した生活をしなければなりません。クリスチャンはその生き方によって,真のキリスト教を表わさねばなりません。
7 (イ)真のクリスチャンはエホバと個人的な関係を持つゆえに,とりわけ何を愛さねばなりませんか。なぜですか。(ロ)クリスチャンが正しいことを捨てるとき,それはなぜ不忠節の罪になりますか。
7 モーセの時代のイスラエル人のように,真のクリスチャンはエホバ神と個人的な関係を持っています。このことは,神と同じく,清く正しいことを愛するよう彼らに要求します。神の主要な敵サタン悪魔は,腐敗した正しくないことを愛します。ですから不従順な人類のこの世は,その支配者である邪悪な神の,堕落した不義の実を生み出します。(ヨハネ 8:44。コリント第二 4:4)クリスチャンが悪い欲望に負けて正しいことを捨てるとすれば,それは不忠実にも他の神,すなわちこの世の邪悪な神に従うことを意味します。彼はその邪悪な神の悪い実を結んでいるのです。モアブ人とミデアン人の祭りに行ったとき悪い欲望に誘惑されてバアル崇拝に巻き込まれた不忠実なイスラエル人のようです。エホバの義を求めるとき,わたしたちは考えと行ないを非常に清くするよう努力しているのです。わたしたちは聖書の次の訓戒に注意を払います。「自分をこの事物の体制に合わせてはなりません。むしろ,思いを作り直して自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らはっきり知るためです」― ローマ 12:2。
8 わたしたちの生活には,エホバの前で内密と呼べる部分がありますか。例をあげて説明しなさい。
8 エホバのみ名は,エホバの王国について証言する真のクリスチャンの上にあります。そのみ名は,宇宙内のすべての正しいこと,清いことを象徴します。み子が採るエホバの王国の王笏は「方正の笏です」。(ヘブライ 1:8)その王国と王国の至高の王エホバ神に対して忠節な臣民は,彼らの生活のあらゆる面でその方正を反映すべきではないでしょうか。忠節はそれを要求しないでしょうか。彼らは四六時中エホバのみ名を負っているのです。そしてもし人が,隠れてなら悪いこと,あるいは「いかがわしい」ことさえもできると考えるなら,その人はそのみ名を傷つけます。実際,エホバにかんするかぎり,わたしたちの生活には「内密」と呼べる部分はありません。もしひそかに悪いことをするなら,それは他の人間にわからないだけです。エホバはそれを見てこられました。忠節を欠いたイスラエル人がモアブ人やミデアン人の天幕の中でしたことをごらんになりませんでしたか。幾世紀かのち,イスラエルの忠節でない長老たちが,エルサレムのエホバの神殿の内庭の隠れたへやの中で行なったことを見られなかったでしょうか。彼らがそこで偶像崇拝を行なっていたのを見られませんでしたか。神に対するそのような忠節を欠いた行ないを隠すことはできません。『エホバは我らを見ずエホバこの地をすてたり』と言ったとき,彼らは自分をあざむいていたのです。(エゼキエル 8:9-12)真のクリスチャンは,神は死んでいると主張する今日のにせのクリスチャンのように,このまちがった考え方を採りいれる誤りを犯してはなりません。
9,10 (イ)肉の欲はどのようにクリスチャンを問題に引き込む危険があるか,説明しなさい。(ロ)この場合忠節はどう関係していますか。
9 クリスチャンは,強力な防備の維持をやめるときに問題を起こし始めます。まちがった肉の欲を誘う状況から遠くへ離れる代わりに,できうるかぎりそれに近いところを歩もうとするかもしれません。良心がその欲望の正しくないことを告げてもそれを心にいだきつづけるかもしれません。長くそれをもてあそべばもてあそぶほど,その欲望は強くなります。忠節でなかったイスラエル人のように,「害になる事」に対するまちがった欲望を退けません。(コリント第一 10:6)結婚していないふたりの異性が,人目につかない場所で互いの陰部に触れ合い,互いに相手を性的に興奮させるようなことをし始めると,そのような状況の発展する恐れがあります。これは一種のわいせつ行為であって,神の義を反映する生き方をすべきクリスチャンにはふさわしくありません。
10 こうした問題においてわたしたちは,一般の世間で許容されることを指針にすることができますか。それはできません。というのは,この世はわたしたちに健全な規準を与えはしないからです。この世は,エホバ神の義を反映するのではなく,エホバの敵である「この事物の体制の神」の不義を反映するものだからです。(コリント第二 4:4)だまされて平気になったり,自分自身をあざむいたりすることなく,むしろ正直に次のことを認めるべきです。つまり,情欲がかきたてられると,性的結合によってそれを満足させようとする非常に強い衝動にかられる場合があるということです。これは生の実態です。結婚している人たちの場合には,それを満足させることは正常で適当なことです。しかし未婚の人たちがそのような結合によってそうした情欲を満たすことは,神の律法に対する重大な違反行為です。実際にそれは,神に対するクリスチャンの忠節を欠いた行為です。そうであれば,忠節はそのような違反の危険からわたしたちを守り,性欲を刺激する危険な行為を避けさせるものではないでしょうか。
11 (イ)激しい「ペッティング」を正当化するためにある人びとはどのように論じますか。なぜそれはまちがいですか。(ロ)実際の性的結合が関係していなくても,汚れた行ないはどのように「淫行」(ポルネイア)に達する危険がありますか。
11 現代の習慣となっている「デート」で,多くの若い男女は,強い情欲的感情をかきたてる「ペッティング」を行ないます。しかしなかには,性器の実際の結合がないかぎりこれは悪いことではない,彼らが問題を理解しているところによると,聖書が未婚の人びとに明確に禁じているのはそのことだからである,と主張する人もあるかもしれません。そのような推理はまちがいであり,また危険です。クリスチャンはその肢体をもはや「不法と汚れの奴隷として」ささげるのではなく,「神聖さの見込みを伴う義の奴隷として」ささげるよう勧められています。(ローマ 6:19)たとえ激しい「ペッティング」が,聖書的意味の「淫行」(ギリシャ語,ポルネイア)にまで達しなかったとしても,それはやはり「汚れ」(ギリシャ語,アカタルシア)であって,みだらな,清くない行ないと言えます。「汚れ」は,使徒が列挙した堕落した肉のわざの中で「淫行」の次にあげられています。そして使徒は,悔い改めることをせずに「そのような事柄をならわしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」と警告しています。(ガラテア 5:19,21)それにそのような汚れた行ないは,その性質もしくは程度において徐々に悪化し,ついに「淫行」(ポルネイア)の部類に入れられるのが当然のところまで発展するかもしれません。というのは,聖書的に言ってこの語は,未婚者間の性的結合だけを指すのではなく,売春宿で行なわれるようなあらゆる種類のひどい不道徳あるいはみだらな行為をも指すからです。
12 (イ)婚約していれば激しい求愛行為にふける権利がありますか。(ロ)独身者はどんな状況を避けるべきですか。なぜですか。
12 婚約したふたりが互いに対して愛情を示すのは当然です。しかしそれは,既婚者の正当な領域とされている親密な関係を楽しんでよいという意味ではありません。結婚するまでは,実際の性的結合を持つ自由はないのですから,結婚における性関係の予備行為である親密な『愛戯』のようなことをすべきではありません。それをすることは汚れたことであって,神の取決めを尊重する気持ちが欠けており,神がお定めになった神聖さの清い標準に対する忠節心が欠けていることを示すものです。ですからどんな愛情の表現においても,ふたりは忠節であるために注意し,正しく抑制しなければなりません。人前で土地の習慣に反するふるまいをして人びとをつまずかせるようなことをすべきでないのはもちろん,ふたりだけでいるときでも,ほかの人が急に現われたら恥ずかしくなるような行ないをすべきではありません。ほかの人たちがいるということは,自分の弱さや肉の欲に対するよい保護となる場合が少なくないのは事実ではないでしょうか。一方,暗い所や人目につかない所は防御力を低め,決意を弱める恐れがあります。(箴 9:16-18。ヨハネ 3:20,21。エフェソス 5:7-13)たとえ婚約していても,クリスチャンであるふたりは,汚れた行ないを助長する事態を避けることにより,自尊心と互いに対する敬意を危うくすることを避けるのが賢明ではないでしょうか。自分たちのいるへやまたは場所にはだれでもたやすくはいってこられるという健康的な抑制を感じなくなるほど,他の人たちから離れたところにいないようにすれば,そうした事態を避けることができます。確かに,婚約していない人たちは,人目につかない場所での交際ではなく,他の人びととのおおっぴらな交際の中でお互いの交わりを楽しむようにして,より大きな抑制を働かせなければならない理由があります。
会衆が取る措置
13,14 クリスチャン会衆が取るどんな処置は,イスラエルの忠実な長老たちが,不忠節な者たちに関して取った処置に似ていますか。不道徳なことを常習的に行なっている者に対するこの処置はなぜ必要ですか。
13 イスラエル人が,モアブ人とミデアン人の祭りに行って,肉の欲に負けたとき,神およびイスラエルの会衆の代表たちは彼らを処罰しました。それらの代表はおそらく1,000人という多数の不忠節なイスラエル人を自分で殺したでしょう。(民数 25:3-5)これに似たことは今日のクリスチャン会衆内でも見られます。重大な罪を常習的に犯す不忠節なメンバーを処刑する権限は神から与えられてはいませんが,もし悔い改めなければ会衆から排斥する,という処置をとる権限は与えられています。(コリント第一 5:11-13)これは会衆を清く保つために必要なことです。もしそれをしなければ,どうして義であられるエホバとイエス・キリストに属すると正当に主張できるでしょうか。神の義の律法を支持するのは義務です。
14 「ポルネイア」という語が表わすひどい不道徳はすべて,人が神の王国を継ぐことを妨げ得るみだらな行為ですから,クリスチャン会衆は当然,それを常習的に行なう人,そして心からの悔い改めを示さない人を排斥します。またどんな種類の「汚れ」にせよそれに固執する人の場合も同じです。しかしながら,汚れは幅広い度合いを表わす広い意味のことばです。ちょうど人がからだをほんの少し汚すこともあれば,ひどくきたなくすることもあるように,道徳上の汚れについても同じことが言えます。したがって,汚れの度合いを見定めるにさいしては,行為の重大さを見定めるために,汚れた行ないをするに至らせた動機や事情や事柄をすべて検討しなければなりません。そうすれば,清潔さと清さを維持しようとするクリスチャン会衆の関心は無理なものとはならず事実に合ったものとなります。また性急に排斥処置を取ることもなければ,その処置を必要とするひどい,悔い改めの見られない常習的行為の場合に手間どることもありません。これはテモテへの第二の手紙 2章19節に記述されていることと一致します。同聖句はなかでも次のことを述べています。「すべてエホバの名をとなえる者は不義を捨てよ」。会衆の長老たちが取るその公正な処置は,会衆と会衆の評判が清くない行ないによって汚されたり傷つけられたりしないように守ります。そのことはまた,道徳上まちがった欲望をいだく人はどういうことになるかを,会衆内のすべての人に示す健全な警告となります。
15 どうすれば非行の許しを得ることができますか。
15 もちろん,犯した罪を心から悔いていることを示し,許しを求めるなら,その人は許しを得ることができます。神はそのような人を許すことを明示しておられます。そしてクリスチャン会衆は神の許しと調和した措置を取ります。(ヨハネ第一 1:9)その人は審理委員会によって公にその非行を叱責されるかもしれず,あるいは個人的に叱責を受けるかもしれません。(テモテ第一 5:20)排斥されなければならなかった人でさえ,後日真に悔い改め,悪行を改めたことを証明するなら,許しを得ることができます。ですから罪を犯す人にとって事情は必ずしも希望のないものではありません。―エゼキエル 33:11。
不忠節な行為を避ける
16,17 わたしたちは何に対して強力な防御態勢を保たねばなりませんか。どうすればそれができるか説明しなさい。
16 次のことを認めるのはわたしたちにとって重要なことです。つまりわたしたち人間は肉の欲を持っているために傷つきやすいということです。ですからわたしたちは常に強力な防御態勢を保ち,それをくつがえすおそれのある状況を見分ける必要があります。使徒パウロは肉の弱さを認め,こう述べています。「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないためです」。(コリント第一 9:27)これは情欲を制御するために常に戦わねばならないことを意味しています。わたしたちは自制する努力をやめることはできないのです。もしこの世的な人びとの腐敗した考えを反映する好色的な文学を読むなら,それはわたしたちが強力な防御態勢を保つ助けになるでしょうか。あるいはわたしたちを弱めないでしょうか。まちがった欲望をいつまでも思いめぐらすならば,わたしたちは確かに強められはしません。それどころか,自分自身をいっそう傷つきやすくします。ですからフィリピ人への手紙 4章8節の次の助言に従うほうが賢明です。「終わりに,兄弟たち,なんであれ真実なこと,なんであれまじめなこと,なんであれ義にかなっていること,なんであれ貞潔なこと,なんであれ愛すべきこと,なんであれよく言われること,またなんであれ徳とされることや賞賛すべきことがあれば,そうしたことを考えつづけなさい」。正しくないことや汚れた欲望をかき立てる事柄を考えつづけなさいとは言われていません。もし正しい事柄を念頭に置くなら,正しくない行ないをするでしょうか。
17 わたしたちは次のことを認める必要があります。つまり悪魔は,わたしたちを誘惑して,神が悪とされることをわたしたちにさせようと懸命になっているということです。もしわたしたちが許すなら,悪魔はわたしたちがまっさかさまに不品行に飛び込むところまでわたしたちを連れて行くでしょう。もしわたしたちがそれに引きずられて行くなら,そして自分のしていることを合理づけようとするなら,わたしたちは必ず起こる問題を自ら招いているのではないでしょうか。それよりも最初から誘惑を退けるほうが賢明ではありませんか。もしバアル崇拝に巻き込まれたイスラエル人が,モアブ人とミデアン人によって彼らの前に置かれた最初の誘惑を退けていたなら,あのようなことにはならなかったのではないでしょうか。
18 (イ)聖書は『女に触れる』ということにどんな意味を付していますか。なぜですか。(ロ)この事実から独身者はどのような見方を持つべきですか。
18 エバの場合を考えてみましょう。彼女は,エデンの園の中の禁じられた実には触れることさえしてはいけないということを知っていました。触れることはそれを食べる最初の段階だからです。(創世 3:3)食べることを許されていた果実がほかにたくさんあったので,その一本の木の実を食べることを禁じられても,彼女にとってそれはつらいことではありませんでした。彼女がそれに触れることは,神が禁じたことに対してまちがった欲望をいだいていることを示しました。このことを念頭において,コリント第一 7章1節の,「男は女に触れないのがよい」という助言を注意深く検討してみましょう。ヘブライ語聖書では,『触れる』ということばは時々性的接触を表わすのに用いられています。(箴 6:29。創世 20:6,7とくらべてください)これはおそらく,性的結合に至る一連のできごとが,情熱的な方法で異性に触れることから始まるためでしょう。イエスは,「女を見つづけてその女に情欲をいだく」ようなことさえしてはいけない,と警告し,そうする者は「すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」と言われました。(マタイ 5:28)それで『女に触れる』ということには,不義な情熱から生じた,あるいは不義な情熱を刺激する仕方による異性との肉体的接触すべてが含まれるようです。もし人が情熱を制御することができず,情熱的な,あるいは清くない仕方で異性に触れる傾向があるなら,使徒パウロがつづけて述べているように,結婚するほうがよいでしょう。(コリント第一 7:2,9)一方,まだ独身でいるクリスチャンたちにとって賢明な道は,容易ならぬ非行を招きやすい,情熱をいだいて「見る」ことや「触れる」ことを避けることです。そうすれば,神と人との前で清い良心を持つという満足のいく喜びがあるでしょう。
19 わたしたちはなぜ自分の生活にエホバの義を反映させるべきですか。
19 わたしたちはエホバ神の義と,良い律法と,愛のこもった親切または忠節な愛とのゆえに,エホバ神を愛することを学びました。わたしたちは全地が,不義の政府の妨害を受けることなくエホバ神の王国の支配下にはいるという見込みに喜びをいだいています。わたしたちはそれが人類にとって,永遠の平和と安全を伴う公正で義なる支配を意味することを知っています。この義なる宇宙支配者の地的組織の一員としてその支配者の近くにいることを喜びとする人はみな,神の律法に従って生活することにより,自分の生活の中で神の義を反映するよう,力のかぎり励むべきではないでしょうか。これは確かに神に対して忠節を示すことではありませんか。
20 忠節を示すことは,なぜイエス・キリストの模範にならうことの一部であると言えますか。
20 キリスト教に対する人の信仰は,水中に浸されることによりエホバ神への献身を公に示すことだけでなく,クリスチャンにふさわしい人格を持つことによっても示されます。それには,「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された」新しい人格が関係してきます。(エフェソス 4:24)イエス・キリストは四六時中,神の義の律法に一致した行動をされました。それらの律法はイエスの心のうちにあり,イエスがその心に神のご意志に従うことを願う動機となりました。(ヨハネ 5:30)わたしたちの心の中にもそれと同じ義の律法があって,そのような願いをいだかせるようでなければなりません。
忠節であることから来る益
21,22 エホバに忠節であることから来る益をいくつかあげなさい。これは肉の快楽とどのように比較できますか。
21 人が今まちがった肉の欲を満たすことから得るかもしれない快楽は一時的なものです。しかし,エホバに対する忠節から生まれる益は永久的なものになる可能性があります。なぜそのような永久的な益をつかのまの快楽のために捨てますか。モーセは,「罪の一時的な楽しみを持つよりは,むしろ神の民とともに虐待されることを」選びました。なぜなら,エホバの忠節なしもべとなることから来る益のほうがはるかに大きかったからです。(ヘブライ 11:25)わたしたちが今日期待しうるきわめて著しい益は,現体制に悲惨な終わりをもたらすきたるべき「大患難」の時に守られて生き残る,エホバの忠節な崇拝者の「大群衆」の一員となることです。―ダニエル 2:44。啓示 7:9,14。
22 もうひとつの顕著な益は,神の王国が招来する新しい時代に限りなく生きることです。つかのまの不義の快楽よりも,義の支配者たちのもとで平和に安全に暮らすことのほうが,はるかに大きな益ではありませんか。そのような快楽よりも命そのもののほうが大きな価値を持たないでしょうか。エホバに対する不忠節は永遠の死を意味しかねませんが,エホバに対する忠節はその反対,つまり永遠の命を意味しえます。「さらに,永遠の命,これが,ご自身がわたしたちに約束してくださったその約束のものなのです」。(ヨハネ第一 2:25)これらや他の多くの顕著な益が忠節な者たちにもたらされます。
23 それで今日歩むべき賢明な道とは何ですか。
23 クリスチャンが,新しい時代のまさに入口まで来て,まちがった肉の欲をいだき,真の神に不忠節になって落伍するのは悲劇です。それよりも,この終わりの時に神に忠誠をつくす正しい道を歩んで,清い良心を保つほうがどんなにか賢明でしょう。―詩 37:28,29。
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結婚を準備している未婚のクリスチャンたちは,人目につかない,ふたりだけの場所でともに過ごすのを避けることにより,清くない行ないをしないよう自分を守ることができる