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あなたは神のしもべたちと共にいることを感謝していますかものみの塔 1979 | 10月1日
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しかし信仰の面で揺れ動くことはありませんでした。次のような結論に達したからです。「神を待ち望め,わたしはなおも我が身の偉大な救いとして,また我が神として彼をたたえるからだ」― 詩 42:11後半,新。
自分の身の上に何が起こるかにかかわりなく,わたしたちも詩篇作者のように,引き続きエホバ神に助けを求めてゆけますように。また,現在わたしたちが享受している,他の人々との霊的な交わりすべてを深く感謝できますように。
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「わたしのせいではありません!」ものみの塔 1979 | 10月1日
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「わたしのせいではありません!」
あなたはいつもこのように言うことができますか。人は他の人の言動に影響されます。周囲の人の行ないや言葉のために腹をたてたり,意気消沈したりするのが無理もないと思われる時もあります。
たぶん,こうした経験がおありでしょう。しかし他の人の腹立ちや憂うつ,苦しみに自分は責任がないと,本当に言えますか。実際のところ,どんな時にも,「わたしのせいではありません」と,言えますか。
残虐な行為や悪行はのけ者にされるもとになる
人は周囲の人と少なくともあるていど気持ちの良い交際をしたいと思うのが普通です。事実,他の人から無視されると,その事をかなり気にする人が少なくありません。そのような人は,自分を避けているように見える人のことを不親切で,不人情な人だと思うことさえあるでしょう。
しかし,知っている人を“無視”したほうが悪いとは言い切れません。霊感による箴言は次のように述べています。「愛の親切を施す人は自分の魂を報い豊かに扱っている。しかし,残虐な人は自分の肉体を自らのけ者にしている」。(箴 11:17,新)そうです,他の人に不親切で残虐なことをすれば,自分自身につらく当たることになりかねません。冷たい仕打ちをされた人は,相手の不人情によってそれ以上傷つけられたくないというだけの理由で,相手を“無視”するとしても,しまいには交際を望まないようになるでしょう。
わたしたちは自分の悪行によっても,のけ者にされる憂き目を見ることがあります。昔のイスラエルにおいて,神から命ぜられた事柄を従順に行なわなかった家の頭は,自分の家にそのような憂き目を見させることになりました。例えば,アカンはシナルの衣服,銀200シェケル,金の延べ棒一本を着服することにより,神のものを盗みました。しかしアカンの悪行が暴かれた時,『エホバは彼をのけ者にし』,アカンは家族もろとも石打ちによって殺されました。(ヨシュア 7章,新)今日,クリスチャン家族の頭と家の者は,クリスチャン会衆から排斥される結果となる悪行に巻き込まれるかもしれません。実際のところ,自ら神の言葉を破り,家庭内の重大な悪行を大目に見るこのような人は,『自らの家を他からののけ者にならせる』のです。(箴 11:29,新)こうした人,そしておそらく家族の他の者も,悔い改めない悪行者として交わりから締め出され,忠実なクリスチャンたちの中から正当に追放されます。(コリント第一 5:11-13)悪行のこの結果に直面して,このような人は「わたしのせいではありません」とはまず言えないでしょう。
適切な援助が与えられない場合
クリスチャンの長老は,図らずも誤った道に足を踏み入れた仲間の信者を助けることに無論,努めなければなりません。使徒パウロはこの事を次のように説明しています。「兄弟たち,たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも,霊的に資格のあるあなたがたは,柔和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め,それとともに,自分も誘惑されることがないよう,おのおの自分を見守りなさい」。(ガラテア 6:1)にもかかわらず,会衆の任命された長老たちが時宜にかなった霊的な援助を与えなかったとすれば,道を踏みはずした人がついに誘惑に屈した場合,長老たちに全く責任がないと言えるでしょうか。
他方,援助がどのように与えられるかにも,多くの事が懸かっています。霊的に資格のある人々は,道を踏みはずした人に再調整を施すに当たり「柔和な霊をもって」すべきであると,パウロも述べました。しかし穏やかに助言を与えなかった長老がいるとします。そしてその結果,助言を与られた人は意気消沈し,怒りを覚え,あるいは狼狽させられたとしましょう。道を踏みはずした人は,厳しい扱いを受けたために,「再調整」されるどころか,悪い道から抜け出そうとしなくなるかもしれません。このような事情の下で,その不親切な長老は「わたしのせいではありません」と本心から言えますか。―ルカ 17:1,2。コリント第二 6:3と比べてください。
虐げられる時
さらに,他の人々に対して権威を行使する人が威圧的であることを表わしたとすればどうですか。その厳しい態度のゆえに,ある人々は安らぎを得ることがほとんど不可能となり,自分の気持ちを制するのに極端な努力を強いられるかもしれません。これも驚くには当たりません。聖書はこう述べているからです。「単なる虐げが賢い者に気違いじみた行動をさせることがあ(る)」― 伝道 7:7,新。
事実,虐げが長びくと,賢明な人でさえも早まった行動に駆り立てられることがあります。例えば,その人は自制を失って何か悪事に走るかもしれません。その場合,虐げる者はすべての責任を振り捨て,「わたしのせいではない」と言えますか。
他方,伝道の書 7章7節は,賢い者自身が人間性に逆らい,虐げられた人々の苦境に目をつぶって,自ら行なう虐げのことを述べているとも考えられます。その者は威圧的な精神に動かされるままになって気違いじみた行動を取り,自分の方法をあえて批判する者をたたきのめす権利のある偉大な恩人と思い込むかもしれません。(歴代下 16:10と比べてください)しかし虐げる者が思い違いをしているとしても,決して罪なしとはされません。
愛と信頼の必要
とがめるべき事柄という問題は,当然に生活の多くの面に関係してきます。例えば,結婚のことを考えてごらんなさい。幸福な結婚生活には愛,優しさ,そして互いの関心が肝要です。しかし配偶者がこのような資質を示さないならどうですか。また夫あるいは妻が,その結婚の分を故意に,そして終始一貫して与えようとしないならばどうですか。
拒絶された配偶者は,このような禁欲の圧力の下で,また愛,優しさ,真の関心の欠けた境遇の下で誘惑に負けて姦淫を犯すかもしれません。もしそのような事になるなら,愛を示さなかった結婚配偶者は,「わたしのせいではない」と言って,すべての責任を否認できますか。まずできないでしょう。
使徒パウロが次のように書いたのも,このような事態になるのを防ぐためでした。「互いに[当然受けるべき結婚の分を]奪うことがないようにしなさい。ただし,定めた時のあいだ相互に同意し,祈りに時をささげて,そののち再びともになる場合は別です。これは,あなたがたが自己抑制の足りないことのゆえに,サタンがあなたがたを誘惑しつづけることのないためです」― コリント第一 7:1-5。
クリスチャンは自分の家族の者を扱うにも,家族以外の人との交際にも,信頼に足る行動を取らねばなりません。他の人の福祉を顧みず自分の目的を遂げることにのみ熱中する人は,自分の望む目的が,それを達成する手段を正当化すると決めこんでよこしまな策略に訴えるように誘惑されるかもしれません。しかし人が相手に『その口にあってこうかつな舌がある』のに気づく時,どうなりますか。(ミカ 6:12,新)おそらく,そのよこしまな人を二度と信用せず,またその人から遠ざかることでしょう。当人はその事を気に病むかもしれません。しかし自分でそれを身に招いた
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