子どもを教えることはどれほど早くから始めるか
1 進化論によれば,幼少時の教育に対するどんな見方が薦められていますか。
お子さんを教えることをどれほど早い時期に始めれば,「じゅうぶん早い」といえるでしょうか。生まれてまもない最初の二,三年間は一種のきまりきった「過程」にすぎず,子どもは多かれ少なかれ一定の「段階」を自動的に経過するので,そうした誕生後の何年かの間に起きる事がらは子どもの後の人生に大きく影響するものではないと感じている人は少なくありません。しかしこれほどまちがった考えはありません。こうした考えはおおむねダーウィンの提唱した進化論を通じて一般化されたものであることが今や認められています。「今日の学齢期前の教育」と題する本は,こうした考えに反論し,そのような考え方がどんな結果をもたらすかを示して,その30ページでこう述べています。「こうして,幼いジョニーが何か『悪い』ことをするたびに,その行動は子どもが順々に進む一つの段階にすぎないのだと説明される。そのうえ,尾を切ると後ろ足が育たないという,オタマジャクシにかんする[ある進化論者の]たとえ話に従って,ジョニーの好ましくない行動を押えてはならない。さもないと,何か望ましい特性が将来現われなくなるかもしれない,とされている」。さて,あなたは子どもの訓育にさいして,こうした進化論的な考え方にならいますか。それとも,神のみことば聖書を指針となさいますか。
2,3 (イ)聖書は子どもの生活の幼少期をどう見るように教えていますか。(ロ)マルコ伝 10章15節に示されているように,子どものための宗教的訓練はいつ始めるべきですか。
2 そうした考え方とは全く逆に,聖書は,そうした初期の何年間が貴重で,肝要で,重大な時期であり,親がその時期を無駄にすべきではないことを示しています。イエス・キリストが,「凡そ幼児の如くに神の〔王国〕をうくる者ならずば,之に入ること能はず」と言われたのを思い出してください。(マルコ 10:15〔新〕)「幼児」と訳されているギリシア語はパイディオンです。この語は,マルコ伝 5章40-42節で,イエスが復活させた少女のことが述べられている場合のように,12歳の子どもについても用いられます。しかしそれは,羊飼いたちが尋ねた時の子どものイエスについて用いられているように,生まれたばかりの赤ん坊にもあてはまります。―ルカ 2:17。
3 イエスの述べられたことから見て,子どもの幼年期が過ぎるのを待ってから,聖書の肝要な教えを授けることについて真剣に考えはじめるのは,なんと愚かでしょう。そのときになると,親はこう言わねばならないのです。『あなたはもう小さな子どもではないのだから,さあ,「身をめぐらして」,もう一度幼子のようになり,神の王国の真理を学んで,それを受け入れられるようになりなさい』。まだ幼子としての貴重な特質のある間に,どうして子どもを教えないのですか。息子あるいは娘のいずれを問わず,お子さんが謙そんで,すなおで,物事を進んで熱心に学ぼうとする幼子である絶好の時期をなぜ無視するのですか。では,神の恵みのうちに受ける命を亭受するよう子どもをいつから訓練しはじめるべきでしょうか。誕生の時からです。一刻もおくらせてはならないのです!
4 生後最初の2年間に子どもの脳はどの程度発達しますか。
4 それは実際的なことですか。現実にかなっているでしょうか。まさにそのとおりです。生まれたばかりの赤ん坊が呼吸し,食べ物を消化し,感じ,泣き,あくびをし,眠ることはできても,それ以外にあまりできないことは確かです。でもすでに,数日また数週間のうちに,赤ん坊の脳裏にはさまざまな印象が刻まれています。その能力はすでに働きはじめているのです。親がおかしかねない最大のあやまりの一つは,こうした早い時期における子どもの知力を軽視することでしょう。誕生時における子どもの脳の重さは,成人のそれの4分の1にすぎません。しかし,わずか2年のうちに,その脳は急速に成長し,成人のそれの4分の3に達するのです。
5 (イ)研究者たちは,子どもの知力の発達についてどんな興味深い注解を述べていますか。(ロ)子どもの知能を例を上げて説明しなさい。
5 子どもの知力もまた発達してゆきます。研究者によると,最初の4年間における子どもの知力の発達は,その後の13年間のそれに匹敵します。「子どもは,5回目の誕生日を迎えるまでに,生涯中に遭遇する最もむずかしい概念の幾つかを学び取る」と言う人もいます。子どもが学び取るそうした概念の一つは言語です。別の研究者はそうした言語の修得を「おそらくひとりの人間に求められる最もむずかしい知的業績」と評しています。もしこのことを疑われるなら,何か新しい言語をちょっと学んでみてください。ちょっとのあいだに話し方を覚える赤ちゃんが,知的な面で驚くべき芸当をやってのけていることに気づかれるでしょう。しかも,忘れないでください。あなたが新しいことばの勉強をはじめるときには,すでに一つの言語を知っており,言語がどのように働くかを知っていますが,赤ちゃんは何も知らないのです。また,国籍の違う親を持つ子どもや,二つの言語が用いられている土地に住む子どもの場合も考えてごらんなさい。ほんの四,五歳の時に,そのような子どもが,一つではなく,二つの言語でやすやすと会話をし,しかもなまりもなくそうしている場合が少なくないのです! そこに知力が働いているのは明らかです。小さな子どもたちは驚くほどの修得能力を備えています。しかし,その能力は活用し,発展させ,指導することが必要です。それにはあなたの助けが必要です。あなたに大きく依存しているのです。
6 (イ)子どもの知的な面での発達以上に注意を受けるにふさわしいのは何ですか。(ロ)こうした点で生後最初の1年間に何が起きますか。
6 しかし,キリストの真の弟子として,あなたはお子さんの思いとその知的な発達だけに関心を持つべきではありません。お子さんの心,および正しい動機を与えるという面での心の発達にはるかに大きな関心を払うべきです。(箴 4:23)誕生時の子どもの心臓は比較的大きいのですが,最初の1年間でその大きさは倍になることをご存じでしたか。その後はもう少しゆっくりと成長してゆきます。幼子には生後1年目にすでにいろいろなくせがつきはじめます。その1年の間に子どもはおとなの求めに進んで応じる態度,あるいはそうした態度の欠如を示しはじめます。神の恵みを受けるための要求のうちで最も基本的なのは従順です。それは生死の違いを意味する場合があります。では,子どもの性格形成を,その誕生時から始めるのはなんと大切ではありませんか。―伝道 12:13。エレミヤ 7:23。
7 (イ)性格形成に関して研究者たちは何といっていますか。(ロ)この点を正しく認識していない母親が多いということを何が示していますか。
7 このことを確証しているのはサイエンス・ダイジェスト誌1969年3月号の一記事です。その中でマーピン・アック博士は,「人の性格の大半は就学以前に確立される」ことが研究によって示されており,「学齢期以前の子どもがきわめて感受性が強く,また順応性に富んでいるということは言うまでもなく広く知られている」と述べています。そして,さらにこう述べました。「しかしながら,われわれが発見したところによれば,子どもが態度や経験という点で幼少時に遭遇したものは,永続する,時には不変の行動様式を形成する場合が少なくない」。このことは,5歳以後では,そうした行動様式は変えられないという意味ですか。別の研究者はこの点に否と答えて,こう述べます。「子どもは最初の7年間はかなり順応性に富んでいるが,長く待てば待つほど,その環境をいっそう徹底的に変えなければならなくなる……そして,変化の可能性は年ごとに小さくなる」。すべての親がこの事実を認識しているわけではありません。アメリカの場合だけを見ても,学齢前の児童およそ400万人の母親が家庭の外で働いています。おそらく,やむをえずそうしている母親もいることでしょう。しかし,そうした幼少時に子どもに教えうるようなことはとにかくほとんどないと思い込んでいる親が多いことも明らかです。なんと痛ましい誤った考えでしょう。
8 家庭環境は善かれ悪しかれ子どもにどう影響するかを説明しなさい。
8 そうした幼少時にお子さんのために整える環境は,お子さんの人格形成において非常に大きな役割を果たします。問題は単にどんな家に住むかということではなく,その家でどんな家庭を営むかということなのです。それは清潔で,きちんとしており,整然としていますか。それは,言い争ったり,叫んだり,怒ったりするようなことのない平和な家庭ですか。親は互いに対して敬意をいだいていますか。もしそうでないなら,幼い子どもにそれとは違って,親に敬意を示すよう正当に期待できますか。親である皆さんは,自分のあやまちを認めますか。もし子どもが父親や母親が謙そんさを示すのを一度も見たことがないなら,どうして子どもは謙そんさを自分の従うべき規準とすることができるでしょうか。また,次のような危険もあります。つまり,もし親が自分は決して間違いをしないというような印象を子どもに与えるなら,子どもは,なんでも親のすることならしてもだいじょうぶだ,それは常に正しいのだと考えるかもしれません。もし親が,「ちょっとした」うそとみなすものを,ひょっとして隣人や集金人に語るなら,子どもは自分もちょっとしたうそなら,うそをついてもかまわないのだと感ずるでしょう。そして,もし両親が子どものしつけの問題で意見が食い違う場合,あるいはいつも子どもを戒めておきながら,めったに戒めを履行しないなら,子どもはすぐにそれに気づき,親が定める規則に対する敬意はたちまち薄れるでしょう。このことを決して疑ってはなりません。―こうした事柄は若い人たちの感じやすい思いに強い,ほとんど消しがたい印象を与えるのです。子どもの生来の無邪気さ,また生まれつきの正直さや公正さが,人生の経過とともに打撃を受けるのは避けがたいことです。しかし,そうした打撃が,どうか,あなたからもたらされるものではないようにしてください。
聖書そのものを用いる ―『幼い時から』
9 子どもの訓練に聖書そのものを用いるのはなぜ重要ですか。これはどれほど早く始めるべきですか。
9 しかし肝要であるとはいえ,手本だけでは不十分です。子どもは親がなぜその規準に従うのか,またなぜ自分にその同じ規準に従うことを求めるのかを知る必要があります。これはつまり聖書を用いるということであり,これもまた幼い時から行なわれなければなりません。使徒パウロはテモテに対して,こう書きました。「されど汝は学びて確信したる所に常にをれ。なんぢたれよりこれを学びしかを知り,また幼き時より聖なる書をしりし事を知ればなり。この書はキリスト・イエスを信ずる信仰によりて救に至らしむる知恵を汝に与へ得るなり」― テモテ後 3:14,15。
10 ここでパウロが用いているギリシア語は実際に「幼子」を意味していますか。それとも単に『子どもの時代』をさしているのでしょうか。
10 パウロがここで用いている「ブレフォス」というギリシア語は,実際にはただの幼子を意味しているのでしょうか。そうです。事実,このことばは普通,ルカ伝 1章41,44節の場合のように生まれる前の子どもをさして用いられています。エリサベツを尋ねたマリヤについて述べたその記録は,エリサベツがマリヤのあいさつを聞いた時,『エリサベツの胎内で幼子がおどった』と述べています。しかし,ブレフォスは生まれたばかりの子ども,幼子もしくは赤子をも意味します。たとえば,使徒行伝 7章19,20節では生後3か月の赤ん坊であったモーセについて用いられています。それでパウロは,テモテが単に『若い時』あるいは『子どもの時代』からではなく,実際に幼い時から聖なる書を知っていたと述べているのです。どうしてそのようなことがありえたのでしょうか。
11 テモテはどうして「幼子」のときから聖書のことを知っていたのでしょうか。
11 明らかにテモテは,どこまで自分の記憶をたどっても,霊感を受けた神のみことばを母親や祖母から教えてもらわなかった時期を思い出すことなどできませんでした。パウロはそのことを述べていたのです。(テモテ後 1:5)テモテはごく幼いころの記憶をたどっても,聖なる書とその教えのことがその記憶に伴っていました。テモテはエホバに向かって,詩篇 22篇10節のダビデのように,「わが母われを生しときより汝はわが神なり」と言うことができました。あなたのお子さんはそのように言うことができるでしょうか。テモテの母親と祖母が行なった事を,親の皆さんも今日行なうことができますし,テモテの場合のようにすぐれた結果を当然期待できます。
12 (イ)家庭ではだれが子どもを教えるべきですか。(ロ)子どもとともに一時を過ごし,子どもに親しい配慮を示すのはなぜ大切なことですか。
12 テモテの父親はクリスチャンではありませんでした。とはいえ,クリスチャンの父親は子どもを教えることをすべて妻にまかせようとはしません。もしそうするなら,父親に対する子どもの敬意を薄れさせるという報いを刈り取るでしょう。エペソ書 6章4節(新)にある使徒の助言はこうです。「父たちよ,あなたがたの子どもたちをいらだたせず,エホバの懲らしめと精神の調整とによって養育してゆきなさい」。子どもをいらだたせることの一つは,子どもが自然に求める親の配慮を与えないことです。子どもは赤ちゃんの時以来,そうした親の配慮のもとですくすく育つのです。確かに赤ちゃんに少しでも関心を示すと,赤ちゃんは小さな口を大きく開いて(おそらくはえかけの歯を一,二本のぞかせながら),すぐ笑いませんか。父親や母親の配慮を示すちょっとしたしぐさでさえ,赤ちゃんをくっくっと笑わせたり,大はしゃぎさせたりしませんか。年長の子どもたちも親から向けられる関心を渇望します。それを得ようとしてわざわざいたずらをする場合さえあります。そうです,親の皆さんが子どもの年齢を問わず,お子さんに与えうる最もすぐれた贈り物の一つは,あなたの時間であり,親しい配慮と関心なのです。ただ命じたり叱責したりするだけでは不十分です。その種の懲らしめはそれだけで子どもをいらいらさせるおそれがあります。子どもはあなたがいっしょに腰をおろして,ただ単に「こうしなさい」「そうしてはいけません」というだけでなく,「なぜか」また「どうしてか」を時間をかけて説明してもらいたいと思っていますし,またそうしてもらう必要があるのです。お子さんがそのような助けを受けられるようにしてください。なぜなら,そうするのは愛のあることだからです。
13 何が正しいか,何がまちがっているかを聖書の見地から時間をかけて説明する親は何を得ますか。
13 時間をかけて子どもたちに神のみことば聖書を教えることによって得られるものについて考えてみてください。そのようにして教えないなら,小さな子どもたちは,この従順という問題は明らさまに言えば,親が単に,『さあ,わたしたちのほうが最初からここにいるのだし,子どもたちよりも大きくて強いのだから,なんでもわたしたちの言うとおりになるのだ』と言っているにすぎないと感ずるかもしれません。しかし,親が聖書の観点に立って,何が正しいか何がまちがいかを時間をかけて説明するなら,子どもたちは,親が単に自分の考えを説いているのではないということを認識するようになります。それは創造者の言われることであり,創造者の意志なのです。これこそ,他のいかなる点でも匹敵するもののない親の助言に強さを与えるものです。そして,そのことばを子どもの思いと心に深くしみ込ませます。それだけではありません。それはまた,子どもにいっそう強さを加えるすばらしい力の源なのです。それは,若い人たちの生活につらい事態が生じはじめても,正しい原則をしっかり守らせるものとなります。あなたのお子さんは親としてのあなたを愛し,深く尊敬していることでしょう。それでも,誘惑や危機に直面する場合,神に対する愛と敬意のほうが子どもにとってはるかに大きな力になるということを親はぜひ知らなければなりません。―詩 119:109-111。箴 6:20-22。
心を動かす教え方
14 (イ)子どもはなぜたくさん質問をしますか。もし子どもが自分の質問は親にとってはうるさいだけのものにすぎないと感じさせられるなら,どんな結果が生ずるおそれがありますか。(ロ)エホバはイスラエル人に対して,子どもたちにどの程度の配慮を払うよう命じられましたか。
14 言うまでもありませんが,ひとたび話すことを覚えると,子どもはさながら質問の大量生産工場のようになります。しかし忘れないでください。小さな子どもにとって,質問は物事を学ぶためのきわめて強力な道具の一つなのです。もし子どもの質問を退けてしまうなら,あるいは耳を貸さないなら,やがて子どもは質問をしなくなるでしょう。しかしそうする親は,子どもとの意志の疎通を危うくしはじめているのです。ここでも,お子さんが求めるとともに必要としているのは,あなたの幾らかの時間なのです。創造者は,それを子どもたちに,しかもたくさん与えるべきであると述べておられます。エホバはイスラエル人に命じました。「今日わが汝に命ずるこれらの言は汝これをその心にあらしめ勤て汝の子等に教へ家に坐する時も路を歩む時も寝る時も興る時もこれを語るべし」。あなたはこうした配慮をお子さんに与えておられますか。―申命 6:6,7。
15 子どもとの勉強のさい,質問をするよう子どもを励ますのはなぜ有益ですか。
15 お子さんと神のみことば聖書を学ぶさい,神のみことばが,単に子どもの頭にはいるだけでなく,「その心にあらしめ」たいと思われるでしょう。このことを目ざして,質問をするよう子どもを励ましてください。自分の考えを言い表わすよう子どもを励ましてください。子どもに話させて,お子さんがどのように考え,物事をどのように感じているか。その心に何があるかを見いだしてください。
16 親が子どもといっしょに用いられるよう,ものみの塔協会が備えた研究資料の中に載せられている質問の二つの目的は何ですか。
16 親が子どもといっしょに用いられるよう,ものみの塔協会が備えている研究資料には全体として,その場に適した幾つかの質問が載せられています。それらの質問は話し合いを促進するためのものです。子どもは物事に参加することを好みます。このことを忘れないでください。それがないと,子どもの興味はすぐに薄れてしまいます。ちょっと立ち止まって,子どもに自分の考えを述べさせるなら,それらの質問は子どもの興味を保たせるのに役だつでしょう。しかし,より大切な点として,それらの質問は,あなたがお子さんの思いと心にあるものを察知する助けとなります。
17 子どもが自分ひとりで読むのはどうして有益ですか。しかし,親といっしょに読むかわりに,いつも子どもに自分ひとりだけで読ませるべきではありません。なぜですか。
17 やがてお子さんが自分ひとりでその記事を読めるようになったら,そうするようお子さんを励ましてください。神のみことば聖書に基づく健全な資料を読めば読むほど,そこにある良い助言がお子さんの思いと心に銘記されてゆきます。しかし,あなたとお子さんの間の愛情と敬意のきづなを強めるために,そうした資料をぜひ定期的にいっしょに読んでください。
18 子どもとの勉強の時間については何を考慮しなければなりませんか。
18 心を動かすには,勉強の時間を苦しみのそれではなく,楽しい時間にしてください。小さな子どもは長い時間気持ちを集中させることはできません。遊びの場合でさえ,子どもはすぐにあきて,別の遊びを求めるかと思うと,またすぐに初めの遊びに戻ったりします。幼子の興味が移りやすいのは自然なことです。しばらくすると,小さな思いはいわば閉じられて,ほかのところに転じてゆきます。そのようになったら,無理に興味を持たせようとしても,ほとんど効果がありません。最初からお子さんがすべての要点をつかまなくても心配しないでください。それらの点は他の機会をとらえて強調できます。
19 (イ)家族で行なう研究のさいに親が熱意を示すことにはどんな価値がありますか。(ロ)ほめることは,子どもの進歩にどう影響しますか。
19 子どもとの勉強を成功させるための肝要な要素は親の熱意です。もしかしてあなたは表現力に富む人,あるいは快活な性格の人ではないかもしれません。それでも,お子さんとの勉強が自分にとってほんとうに楽しみであり,喜びであるということだけは示せるはずです。箴言 23章15,16節で次のように語る父親のようであってください。「わが子よもし汝のこゝろ智からば我が心もまた歓び,もし汝の口唇たゞしき事をいはゞ我が腎腸も喜ぶべし」。そうした喜びを表わしてください。そして,お子さんがよく学び,また神のみことばの真理を自分の生活にあてはめるなら,そのたびにぜひお子さんをほめて励ましてください。そうすれば子どもの心は暖められ,神のみことばの助言をいつも心から受け入れられるように助けられます。
20 (イ)どうすれば,エホバに対する愛を子どもに築かせる点で助けが得られますか。(ロ)このことはなぜ非常に大切ですか。
20 みなさんはお子さんの心の中に神に対する愛を築かせたいと望まれるでしょう。では,神とそのみ子が,いつも,「してはいけない」「すべきではない」ということばと結びついた消極的な見地から見られるだけにとどまることがないようにしてください。お子さんが神の善良さ,その親切さや寛大さを認識するよう助けてください。そのときあなたは,お子さんの心の中に神に対する愛をほんとうに築き上げていることになるのです。使徒ヨハネはこう書いています。「我らの愛するは,神まず我らを愛したまふによる」。(ヨハネ第一 4:19)お子さんが,神に仕えなければならないということを単に知るだけでなく,愛の気持ちから神に仕えたいと思うようになることが非常に大切なのです。(詩 110:3; 112:1)もし愛が基となっていないなら,その子どもの奉仕は決して持続するものとはならず,また報いをもたらすものとはなりません。当然強調すべきこと,すなわち,神の善良さや憫れみを強調することによって,お子さんは神に信頼すること,確信をいだき,『恐れを除く』完全な愛をもって神に祈ることを学べます。―ヨハネ第一 4:17,18。
21 そのうえ,イエスの真の弟子になるには,子どもは他の人との接し方について何を学ばなければなりませんか。
21 神への愛に伴うのは隣人への愛です。小さな子どもには,魅力的で,かわいらしく,喜ばしくもある無邪気さがあります。しかしそれはいつまでも続くものではありません。それはやがて消えますが,子どもの生活はつづいてゆくます。その子どもらしい無邪気さに取ってかわるのは何でしょうか。あなたはお子さんが清潔で,きちんとしているように助けることができますが,それだけでなく,すべての人に対して敬意をもち,他の人々に対して思いやりがあり,親切で,人を助ける者になるように援助することもできます。これらは,単なる子どもらしさよりもはるかに愛すべき特質です。偉大な教え手,イエス・キリストのことばを含め,聖書を用いれば,それらの特質がどんなに肝要かをお子さんに教える助けが得られます。(ルカ 6:31。ヨハネ第一 4:20,21)そうした知恵を用い,またお子さんに対する真の愛をもってすれば,お子さんを助けて,神のみ子の真の弟子にすることができます。
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22 子どもの時代に最善の訓練を受けなかった人たちの中には,それをどのように自分の行ないの言い訳けにしようとする人がいますか。
22 ここでは,子どもたちが偉大な教え手から学ぶのを助けることについて多くを述べましたが,そのようにして学ぶのは子どもの時代に限られているわけではありません。若い独身の男女の皆さんや結婚した人たちの中には,子どもの時代に必要な援助を親から十分受けなかったと感ずるかたがいるかもしれません。もしかすると,自分が子どもだった当時,親は偉大な教え手の弟子ではなかったために,あるいは単に親が,子どもといっしょに定期的に勉強して子どもに援助を与える必要を十分認識していなかったために,教えてもらえなかった事がらの価値を,あなたは今気づいておられるかもしれません。あなたは今,そうした事情を,聖書の規準にもとる自分の行為の言いわけとしますか。ある誤った仕方を指摘されると,『わたしを責めないで,わたしの親を責めてほしい。わたしはそのような仕方で育てられたのだから,しかたがない』と言いますか。それは健全な考え方ですか。
23 どんな人でも,もしほんとうに望むなら,自分の生活の仕方をイエスの教えに一致させることができます。現代のどんな実例はこのことを示していますか。
23 「ものみの塔」誌や「エホバの証人の年鑑」の記事の中には,時にはたいへんひどい背景を持った男女のことが出ています。それでもそれらの人々は変わりました。神のみことば聖書は,あらゆる種類の人,劣悪なことをならわしにしてきた人たちでさえ変わることができ,また実際に変わって,神のみ子の真の弟子になったことを示しています。親がしてくれなかったことを責めて暮らしてみたところで,なんの益にもなりません。あなたには今,偉大な教え手から学ぶ機会が十分にあり,しかも偉大な教え手は,あなたが自分のひととなりを作り直して,その教え手のひととなりに合わせ,また自分の思いを作り直し,誤った道を改め,純粋な心と新しい霊とを培うのを助けることができます。(詩 51:10)ただ一つの問題は,それをあなたがほんとうに望むかどうかということです。
24 永遠の命を得るのに必要な変化をほんとうに遂げたいと願っている人たちのために神はどんな助けを備えておられますか。
24 神のみ子を通して得られる知恵は,あなたのどんな問題をも解決するに十分なものであり,神の霊はあなたを助けて,不利な背景,根づよいくせ,誤った考え方や悪いならわしを克服させるに足る強力なものです。『知恵を得る者は命を得,知恵を失う者はおのれの魂をそこなう』ということを忘れないでください。心をつくしてその知恵を求め,死ではなくて命を愛していることを示してください。日々,偉大な教え手から学び続けてください。
「こどもらよ父の訓をきけ,聡明を知んために耳をかたむけよ。われよき教をなんぢらにさづく,わが律を棄つることなかれ。われも我が父には子にして我が母の目には独の愛子なりき。父われを教へていへらく『我が言をなんぢの心にとどめ,わが誡命をまもれ,さらば生べし』」― 箴言 4:1-4
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子どもの心臓は,生後1年で2倍の大きさに発達し,脳は最初の2年間で成人のそれの3/4に達する。したがって,適切な訓練は子どもの後日の生活に大きく影響する。あなたはお子さんを訓練するにさいして,こうした時期を有効に用いておられるであろうか
[335ページの図版]
神のみことば,聖書は,子どもは『幼い時から』創造者やそのわざについて教わることができ,またそれが有益なことをはっきり示している