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エホバに聞き届けられる祈りの仕方ものみの塔 1980 | 9月1日
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にうやうやしさを表わすある姿勢を取ることはふさわしい,と言えるでしょう。例えば会衆の集会では起立して頭を垂れるかもしれません。このように姿勢を変化させることは,わたしたちのために捧げられている祈りに気持ちを集中する助けにもなるでしょう。個人的に祈るときには,特にひざまずく姿勢が適切であるように思えます。(ダニエル 6:10; フィリピ 2:9,10と比較してください。)たとえ就寝前の祈りに際して寝床でうつ伏せになるとしても,祈るときには,「目ざめていなさい」,警戒を怠らずに注意していなさいという使徒の命令に留意しなければなりません。―エフェソス 6:18。
21 神のみもとに行って聞いていただくためには,どのように祈らなければなりませんか。
21 エホバへの祈りは,確かに,真面目に考えたい事柄です。天の父がいつ何時であってもわたしたちに耳を傾けてくださることを確信してみ父に近づけることを,わたしたちは本当に感謝すべきです。もとよりそのことは,信仰をもち,正しい経路を通して,また正しい心構えで神のみもとに来るかどうか,忙しくて祈れないという事態をなくし,たゆまず祈るかどうかに依存しています。そしてもしお子さんをお持ちでしたら,教えと立派な模範によって,祈りの重要性を忍耐強く教えてあげてください。
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『あらゆる祈りと祈願を用いなさい』ものみの塔 1980 | 9月1日
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『あらゆる祈りと祈願を用いなさい』
「あらゆる祈りと祈願をもって,すべての機会に霊によって祈りなさい。そのために,決してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい」― エフェソス 6:18。
1 (イ)祈りによってエホバ神のみもとへ行くとき,わたしたちはエホバについてどのように考えたいと思いますか。(ロ)祈りにはどんな四つの基本的な種類がありますか。
創造者であられるエホバ神は,人格の伴わない単なる第一原因などではなく,感情を持たれる真実の人格的存在です。この方は見ることも聞くこともおできになります。祈りによって神に近づくとき,わたしたちはエホバについていつもこのように考えたいと思います。神の言葉は,「あらゆる祈りと祈願をもって」そうすることを勧めています。(エフェソス 6:18)その中には何が含まれますか。祈りには,賛美,感謝,請願,祈願という四つの基本的な型があります。
祈りで神を賛美する
2,3 最も気高く,高揚した気持ちを表わす祈りは何ですか。それがエホバ神にふさわしい理由は数多くありますが,そのうちの幾つかを挙げてください。
2 賛美とは,もちろん,高揚した気持ちを表わす気高い祈りのことです。創造者の特質とみ業からして,これは当然捧げられるべきものです。この方は「主権者なる主エホバ」であられ,権威においてその右に出るものはいません。(サムエル後 7:28,新)エホバ神には始めも終わりもなく,匹敵するもののない「とこしえの王」であられます。(テモテ第一 1:17)その方は栄光に満ちた人格的存在であられるので,そのみ姿を見てなお生きられる人は一人もいません。(出エジプト 33:20)至高者は他の者の追随を許さない方であられます。力と知恵において無限な全く公正な方,利他的な愛の典型であられるのです。(申命 32:4。ヨブ 37:23。ローマ 11:33。ヨハネ第一 4:8)その方は万物を創造されたゆえに全宇宙を所有しておられます。(創世 1:1,31。詩 50:10)み名と名声においても,並ぶもののない方です。『わたしは,成る』と正当に言い得るのはこの方を置いてほかにありません。一人この方だけがエホバという名を持たれます。その名前は「彼は成らせる」という意味に解されています。(出エジプト 3:14,新; 6:3)次のように宣言できる権利を持つのもこの方だけです。「あなたがたはだれにわたしを例え,また等しくし,またなずらえて互いに似せようとするのか」,「わたしは神たる者であり,他に神はいない,わたしのような者はいない」― イザヤ 46:5,9,新。
3 このように,匹敵するもの,右に出るもの,肩を並べるもの,なずらえるもののない神こそ,ほかのだれにも勝って,賛美されるにふさわしい方です。適切なことに,出エジプト記 15章11節から啓示 19章6節までの間には,エホバを賛美するようにとの励ましの言葉が幾度も述べられています。この点と一致して,わたしたちは祈りの中で至高者を単に賛美し続けるだけでなく,日ごとの会話の中でも自分にではなくこの方に注意を向けるようにしたいものです。何と言っても,いただいたのでない物は一つもなく,その方を離れては,確かに何も成し遂げることができないからです。―詩 127:1。コリント第一 4:7。
エホバに感謝を捧げる
4,5 さまざまな聖書筆記者たちは,エホバに感謝を捧げることについてどんな意見を持っていますか。わたしたちがそうすべき多くの理由のうちの幾つかを挙げてください。
4 エホバを賛美することと不可分の関係にあるのは,感謝を捧げることです。エホバがわたしたちのためにかつて行なわれたこと,今行なっておられること,そしてこれから行なわれることのすべてに対して感謝を表わすのは本当に正しいことです。詩篇作者たちは,人間がエホバに感謝を表わすのは当を得たことであるという意識を人一倍敏感に持っていたようです。「ああ,民がエホバにその愛ある親切に対して感謝を捧げるように。また,人の子らへのその驚くべきみ業に対しても」というような表現が何度か見られます。(詩 107:8,新,15,21,31)同じように,パウロも『感謝をささげつつ,祈願を』なすようにと諭しています。わたしたちは『常にすべての事に対してわたしたちの神また父に感謝をささげる』べきです。―フィリピ 4:6。エフェソス 5:20。
5 天の父に対し,わたしたちが日に日に感謝を表わすべき事は何と多いのでしょう。わたしたちに与えられている,そして生活を可能にするだけでなく楽しくしてくれる身体上の必要を満たす物質的な物のすべてに対して,天の父に感謝を捧げるべきです。(ヤコブ 1:17)キリストの犠牲の益,神の言葉と神の霊,クリスチャン会衆と祈りの賜物など,エホバがご自分の僕たちに惜しみなく与えておられる数々の霊的な祝福に対し,わたしたちは感謝しているでしょうか。仲間の信者との交わりという祝福,他の人の必要に仕える特権,すばらしい王国の希望についてはどうでしょうか。もし感謝しているなら,祈りによって感謝を表現しましょう。もちろん,神がわたしたちのためにしてくださったことを余すところなく思い起こしたり列挙したりすることがいつでもできるわけではないでしょう。しかしわたしたちは次の詩篇作者と同じように感じて然るべきです。「エホバをほめたたえよ,我が魂よ。そのすべての行ないを忘れてはならない」― 詩 103:2,新。
エホバに請願する
6 わたしたちの請願に含まれる三つの一般的な分野とは何ですか。まず第一に何について祈るようにとイエスは教えられましたか。
6 請願するときに「はばかりのない言い方」でエホバのみもとに行けるのは,本当に大きな慰めです。(ヘブライ 4:16。ヨハネ第一 3:21)イエスが模範的な祈りの中で示されたように,わたしたちの請願には普通,三つの一般的な分野が関係しています。正義の勝利,わたしたちの霊的な必要物,わたしたちの物質的な必要物の三つです。まず第一に,エホバのみ名が神聖なものとされること,王国の到来,ご意志がこの地に成されることを祈るようにとイエスは述べられましたが,それはふさわしいことでした。イエスご自身も,「父よ,み名の栄光をお示しください」と祈っておられます。(マタイ 6:9,10。ヨハネ 12:28)こうした請願の中には,エホバが地上におけるご自分の僕たちの業を繁栄させてくださるように,またみ名のゆえに苦難と試練を経験している人々を支えてくださるようにという請願が含まれます。(詩 118:25)それに,「わたしたちが,敬神の専念を全うし,まじめさを保ちつつ,平穏で静かな生活をしてゆくため」高い地位にあるすべての人々について祈ることを勧めたパウロの言葉も見過ごすべきではありません。―テモテ第一 2:2。
7,8 次に,どんな個人的な事柄に関して,エホバに請願すべきですか。
7 祈りには,当然,自分の霊的な状態に対する真面目な関心も表われているべきです。その一つとして,わたしたちの罪の許しを天のみ父に請願することが挙げられます。「もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます」。(ヨハネ第一 1:8-2:1)加えて,神の霊をもっと多くいただけるように,そしてその霊を憂えさせることがないようにという祈りを捧げたいと願うべきです。(ルカ 11:13。エフェソス 4:30)困難な状況に対処するに当たっては知恵を祈り求めるように,と聖書の中で勧められています。(ヤコブ 1:5-8)さらに,野外での宣べ伝え教える業を含め,わたしたちの神聖な奉仕の上にエホバの祝福を祈り求めることができます。またそのように祈り求めるべきです。このような祈りは,植えかつ水を注ぐのは人間であっても,物事の成長を図り,物事を繁栄させてくださるのは神であるという原則を認めることです。―コリント第一 3:7。
8 同時に,神に請願するときには,自分とクリスチャンのある兄弟との間,および配偶者や家族の他の成員との間に生じ得る意見の相違を見過ごしたり無視したりしないようにしましょう。そのような場合には,口をきかなくなりがちなものですが,それはたやすいとはいえ,知恵を欠いた利己的なやり方です。むしろ,今自分が抱えている他の人との間の難しい問題を解決できるように,導きと力を祈り求めなければなりません。苦々しい気持ちになったり恨みを持ったりしないために,不平のもととなった事柄を許し,忘れるための助けも求めましょう。―マタイ 6:12。
9,10 物質的な事柄や身体的な要求に関する事柄についてエホバに請願できるどんな根拠が聖書にありますか。
9 イエスが示されたように,霊的な事柄だけではなく,日ごとのパンや物質上の必要物についてもエホバに請願を行なうのはふさわしいことです。(マタイ 6:11)確かに,わたしたちの必要物がどんなものであっても,一日ごとにそのすべてについてエホバに願い求めることができます。これは山上の垂訓でイエスがその後に述べられた「次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです。一日ごとの悪はその日にとってじゅうぶんです」という言葉と調和しています。―マタイ 6:34。
10 職がなく,失業した状態の人がいるでしょうか。では働き口を見つけるための努力をエホバが祝福し導いてくださるようエホバ神に請願することができます。病気の人がいるでしょうか。では,考えられる最善の方法で自分の窮状に対処するための知恵と力と忍耐を祈り求めることができます。思い煩いをすべてエホバに注ぎ出せるのは本当に大きな慰めです。まさに次の聖句が述べる通りです。「何事も思い煩ってはなりません。ただ事ごとに祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたがたの請願を神に知っていただくようにしなさい」。(フィリピ 4:6)言うまでもなく,前述のすべての事に関しては,ちょうどイエスがゲッセマネの園で祈られたように,『もしそれが神のご意志であれば』との条件をつけて祈ります。―マタイ 26:39。コリント第一 4:19。ヤコブ 4:15。
祈願をもって
11-13 (イ)エホバに祈願するとはどういう意味ですか。どんな事について祈願するのは最もふさわしいでしょうか。(ロ)一人の男の子の経験はこのことをどのように示していますか。
11 「あらゆる祈りと祈願」をもって祈りなさい,とわたしたちは勧められています。(エフェソス 6:18)請願に祈願が加えられているのはなぜですか。祈願は請願よりも一歩進んだものだからです。それは,ことのほか熱のこもった真剣な祈りであり,真情のあふれた嘆願です。祈願は“謙遜で熱心な嘆願”と定義できます。クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でこの原語となる言葉は,いつも神に関連して用いられています。ですからこの語は,たゆまず祈ることに加えて,祈るときには真剣そのものでなければならないことを強調するものです。当然のことながら,請願のすべてが祈願であるわけではありませんが,このような祈りもわたしたちは捧げなければなりません。イエス・キリストは「強い叫びと涙をもって,祈願を[ささげ],その敬神の恐れのゆえに聞き入れられ(た)」と記されているのです。(ヘブライ 5:7)同様に,わたしたちの兄弟が残忍な迫害に遭っているのを聞いた場合には,彼らのために神に請願するのみならず,彼らに耐え忍ぶ力を与えてくださるよう,そして迫害の目的が潰え去るようエホバに祈願するのは適切なことでしょう。―コリント第二 1:8-11と比較してください。
12 自らの体を打ちたたく闘いに援助を求めてエホバに懇願するとき,わたしたちはまちがいなく哀願者として神のみ前に出ているのです。(ローマ 7:15-24。コリント第一 9:27)自分の考えを制したりかんしゃくを抑えたりすることで問題がありますか。では,自分が引き起こしたと思われる何らかの苦痛のつぐないをすることに加え,エホバ神の助力を謙遜に嘆願し祈願すべきです。問題が飲食に関することであればどうですか。その場合にも,エホバに助けを祈願し,あるいは家族のメンバーや会衆の長老たちの援助を得るのはふさわしいことでしょう。
13 正しく教えられれば,子供たちでさえエホバに祈願を捧げ,その祈願を聞いていただくことができます。例えば,10歳の男の子は次のような手紙をものみの塔協会に書き送ってきました。「11月20日の午後3時に,校庭にいた僕のところに二人の男の子がやって来ました。そのうちの一人はナイフを僕ののどに当てて,殺すとおどかしました。僕はエホバに祈りました。するとその時,パトカーがそばを通ったので二人は逃げました」。
祈りに従って行動する必要がある
14,15 祈る人は,どんな面で矛盾がないようにしなければなりませんか。この原則を例証している聖書的な例を幾つか挙げてください。
14 エホバ神に祈る際には,むろん,自らの分を進んで果たす必要があります。ダビデ王は極度の苦難に遭った時に神に祈願を捧げただけでなく,実際的な処置を取りました。(サムエル後 15:31-17:14)ヤコブのような他の忠実なエホバの僕たちも同じでした。(創世 32:9-21)わたしたちの行動は,わたしたちの願い求めることと一致しているべきです。
15 日ごとのパンについて祈りますか。そうであればそのために喜んで働かねばなりません。「働こうとしない者は食べてはならない」からです。(マタイ 6:11。テサロニケ第二 3:10)誘惑に遭わせないでくださいと祈りますか。それでは,妥協しやすい状況に自分自身を置くことを慎重に避けなければなりません。(マタイ 6:13)自分たちの間の平和を祈っていますか。では,平和を作り出す者でなければなりません。(詩 122:6-9。ペテロ第一 3:11)ということは,不必要に他の人を怒らせないよう,そして不必要に問題を起こさないようにしなければならないということです。度を過ぎて敏感であってはなりません。神の業が増大することを祈りますか。では「主の業においてなすべき事を……いっぱい」持つべきです。(コリント第一 15:58)知恵を祈り求めますか。それなら,知恵を得るために神が備えてくださったすべての手段を活用することも必要です。―ヤコブ 1:5-8。詩 119:105。テモテ第二 3:16。ヘブライ 10:23-25。
祈りの質を向上させることができるか
16,17 どうすれば祈りを温かく意義深いものに保ち,祈りの質を向上させることができますか。
16 祈りは,自分が本当はどれほど霊的な思いを持っているかを明らかにします。祈りの質を向上させるのは可能でしょうか。もし可能であればどのように? 何を差し置いても,祈りを真剣に考慮して心から自分を言い表わすべきです。神の善良さや神の愛ある親切についての黙想を深め,愛ある父であると同時に正しい事には毅然としておられる神について思いめぐらすことにより,わたしたちは祈りの中に一層の温かさと感情を込めることができるのです。確かに,心から,謙遜に神に話しかけたい,というのがわたしたちの願いです。したがって祈りを早くすませることがないように注意しなければなりません。ほかのことはともかく,祈りをゆるがせにすることが決してあってはなりません。
17 同じ言葉や言い回しを何度も繰り返さないようにすることによっても,祈りの質を向上させることができます。(マタイ 6:7)このような反復は祈りを真情や意味の欠けたものにしてしまいがちです。記憶した言葉は,心からではなく頭から出やすいものです。家族の祈りで毎日家族を代表するクリスチャンは特に,この点に気を付けなければなりません。くる日もくる日も同じ言葉を使うなら,それを聞く人の思いはさまよいだしてしまうでしょう。日ごとに聖書的な考えを黙想し,わたしたちに示されるエホバの過分のご親切に対する認識を一段と深めることは,祈りを温かく意義深いものにすることに貢献するでしょう。
直接,間接の報い
18 受け入れられる祈りに関する神のご要求にかなっていない一部の人が,自分たちの請願が聞き届けられたと結論づけることがあるのはなぜですか。
18 祈りは世界中で行なわれている崇拝の一形態です。自分たちの請願が祈りに対する神のご要求と一致しなくても,神は自分の祈りに答えてくださると信じている人も少なくありません。この矛盾とおぼしきものをどのように説明できますか。一つには,それは単に確率的なものかもしれません。その一例ですが,たこつぼ壕の中の兵士は一人残らず祈ると言われています。その中の大部分が通常生き残ることから,生き延びた人々が,神は自分たちの祈りに答えてくださったと結論する場合があります。しかし,それは偶然の一致の問題だったのかもしれません。ないしは,身心相関の原則,つまり心が身体に対して及ぼす影響で説明がつくことなのかもしれません。
19 ご自分のまことの民であり祈りに関するご自分の要求にかなっている人々の祈りにエホバ神が確かにお答えになることを示すどんな証拠がありますか。
19 しかし,祈りに関する神のご要求にかなう人々には,エホバ神が祈りに確かにお答えになったことを示す動かし難い証拠が伴っています。彼ら個人の,あるいは彼らの一致した努力の上にエホバの祝福が見られたのです。その結果,『その小さい者が千となり,その弱小な者が強大な国民となりました』。(イザヤ 60:22,新)彼らの祈りに答えてエホバは,『彼らに敵して形造られるどんな武器といえども効を奏さない』よう,物事を巧みに誘導されました。―イザヤ 54:17,新。
20 ご自分に向けられた誠実な請願に,エホバはどんなさまざまな方法でお答えになりますか。
20 エホバは,ご自分に向けられた誠実な請願に答えるに際し,ご自分の天的な僕たちと地的な僕たちの双方を用いられます。時として,祈りを込めて神を探し求めている人の家をエホバの僕の一人が訪問するように物事を導くのは,み使いです。(使徒 10:30-33; 17:26,27)それから,ご自分の地上の機関を用いて多くの祈りに答えることもエホバはなさいます。切実に助けを必要としているふさわしい人に愛を差し伸べ,親切を示したいとの願いを,ご自分の民の一人の心に植えつけられる場合もあります。また,祈りに対する答えが,聖書に基づいた出版物を精読することにより,つまり神の言葉の研究から得られることもあれば,会衆の長老たちによって注意するよう促された事柄から得られることもあるでしょう。エホバの僕たちの祈りが,大抵の場合,特定の状況に対処する際の霊的な啓発や知恵を求めるものである以上,これは当然のことです。
21 祈りの間接的な益にはどんなものがありますか。
21 加えて,祈ることからは間接的な益も得られます。天の父エホバに自分の心中を打ち明けたという事実そのものが,エホバを身近に感じさせるものとなるのです。賛美と感謝を捧げて神に対する認識を言い表わすことで,わたしたちはどうにもならない自分の境遇に甘んじるための助けを得るのです。熱烈にエホバに祈願することにより,謙遜になるよう,自分自身の理解や力よりも神に頼るよう助けられます。(箴 3:5,6。フィリピ 4:13)そしてもちろん,祈るときは築き上げる事柄に自分の思いを留めましょう。(フィリピ 4:4-8)例えば,夜の寝つけない時などには,王国の関心事や霊的な事柄について祈る方が,心配したりいらいらしたり,不平の種を思いめぐらしたり,とりとめのないことを考えたり,肉的な事柄に思いを向けたりするより数段勝ったことであるに違いありません。わたしたちは『自分の思い煩いをすべてエホバにゆだね』たいと思います。『神はわたしたちを顧みてくださるからです』。天の父に何も隠し立てをしないことは,わたしたちの自己吟味の助けとなり,神に一層近づき神とますます親密になるための力となります。―ペテロ第一 5:7。コリント第二 13:5。
22 祈りを真剣に考慮するとはどんな意味ですか。その結果どんな確信を抱けるようになりますか。
22 確かに,賛美,感謝,祈願などの祈りは貴重な特権であり,わたしたちは,自分の祈りを真剣に考慮するなら多大の益が得られる立場にいます。祈りは,間違いなく信仰を持っていることの表われです。わたしたちは何としても自分の祈りに調和した行動を取りたいと思います。急いで終わらせないように,いつも質の向上を追い求め,単なる決まりきった言葉の反復に堕することがないようにしたいと思います。そうすれば,間接的な益にもあずかり,エホバ神はご意志に調和した祈りにお答えになることによりわたしたちに報いてくださる,との確信を抱くことができるのです。
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神の言葉,生活の必要物,クリスチャン会衆,祈りと奉仕の特権に関し,わたしたちは神に感謝しなければならない
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欺かれた最初の女性ものみの塔 1980 | 9月1日
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欺かれた最初の女性
女性の中でもこの人のような女性はいません。幼児期・少女時代・一人前の女性になる変化の時期を人生で経験したことがないのです。その人は存在した当初から成熟した女性でした。事実,存在するようになった最初の日はその女性にとって結婚の日だったのです。
その女性を見たとたん,男性であるアダムは感動のあまり次のように言いました。「これこそついにわたしの骨の骨,わたしの肉の肉。これは“女”と呼ばれよう。男から取られたのだから」― 創世 2:23,新。
生まれて初めて目にした女性について,アダムはなぜそのように言ったのでしょうか。アダムはしばらくの間,生きるのに必要な物がみな備わっている美しい楽園,園もしくは公園に住む唯一の人間でした。アダムは,様々な動物を観察し,それぞれに適切な名前を選んだとき,動物がみなつがいになっていることに気づきました。しかし,親密な交わりを持ち,愛を分かち合える自分と同じ人間を動物の中に見いだせませんでした。(創世 2:19,20)ですから,アダムはその女性が自分にふさわしいつれ合いであり,自分を補う者であることをすぐに悟りました。そして,後にその女性の名を「生きている者」という意味を持つエバと
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