平和の追求
1 生命を愛する者は,平和を見出してから,何をしなければなりませんか。どんな責務がいま彼の上に課せられていますか。
生命を愛する者が,御子イエス・キリストを通して神との平和を探し求めた後,彼は何をしなければなりませんか。その者は,今後も平和を追い求めねばなりません。クリスチャン使徒ペテロは,「平和を求めて追え」と助言しています。(ペテロ前 3:11,新口)その者は,残りの生涯中,平和を追い求めねばなりません。平和を保ちつづけねばならない,という意味です。彼ひとりだけがキリストを通して神との平和を楽しんでいるのではありません。彼は神との平和に入ることにより,キリストを通して神に全く献身している者たち,そして神に和解している者たち,によつて構成されている会衆と平和な関係に入ります。(コリント後 5:18-21)彼はクリスチャン会衆の平和をかきみだす者であつてはなりません。この制度と静かな,平穏で波風を立てぬ一致調和した関係を保つことは彼の責任です。彼はクリスチャン統治体の使徒が述べた行為の規則にふさわしい生活をしなければなりません,「互に平和に過ごしなさい。兄弟たちよ。あなたがたにおすすめする。怠惰な者を戒め,小心な者を励まし,弱い者を助け,すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもつて悪に報いないように心がけ,お互に,またみんなに対して,いつも善を追い求めなさい」。―テサロニケ前 5:13-15,新口。
2 どんな状態の中にあつて,クリスチャンはこの道を追い求めねばなりませんか。彼らは攻撃を受ける主要な対象である故に彼らについてはどんな企てがなされていますか。
2 どこもかしこも,いまだかつてない混乱の満ちているいまの世界の只中にあつて,クリスチャンはこの道を追い求めねばなりません。1914年に神の御国が天で生まれてすぐ後に,サタン悪魔とその悪鬼共は,この地に追い落されました。それ以来,彼らは人々のあいだにあらゆる災,混乱,そして不安動揺を引きおこそうと,悪意をこめて躍起につとめているのです。(黙示 12:12)いま彼が攻撃している主要な対象物は,霊的なイスラエルの残れる者クリスチャンと,それにともなつている羊のような「大いなる群衆」です。(黙示 12:17)サタンは彼らの間に不安,動揺,そして分裂を生ぜしめようとあらんかぎりのことを行なつています。それは制度を打ちくだくのが狙いです。
3 サタンはどんな差別を設けることによつて,世界を混乱させましたか。しかし,古いむかし神は御自分の会衆内でこのことをどのように除去しましたか。
3 それで,生命を愛する人が探し求めてきた平和を神の見える制度内に見出したならば,その平和をしつかり追い求めて行かねばなりません。この世では,サタン悪魔は人種差別,種族の差別,そして皮膚の色による差別によつて平和を撹乱し,大変な混乱をひきおこしています。しかし,神はキリストによつて,御自身の真のクリスチャン会衆内では,このことを除去しました。クリスチャン会衆は,昔のエルサレムでほとんどユダヤ人だけのクリスチャン制度として出発しました。しかし,その中には,割礼を受けてユダヤ教に改宗していた他の国民の者も入つていました。(使行 2:10; 6:5)それから割礼を受けていたサマリヤ人は,信者に加えられました。(使行 8:4-25)イエス・キリストがエルサレム外の苦しみの杭上で死んでから3年半たつて始めて,割礼を受けていない異邦人,つまり非ユダヤ人がクリスチャン会衆に入れられました。コルネリオという名前のイタリヤ人で,多数の親族や親しい友人たちもいつしよに入つたのです。―使行 10:1から11:2まで。
4 割礼を受けたユダヤ人のクリスチャンは,異邦人に対するこの恵みの取り極めに順応しましたが,神はどのようにそのことを可能にせしめられましたか。
4 最初,このことがらは割礼を受けていたユダヤ人クリスチャンたちの間に大きな動揺を生ぜしめました。しかし,時たつ中に彼らは恵みにみちる神のこの取り極めについて,平和な態度の中に順応しました。割礼を受けなかつた非ユダヤ人たちが,ついにクリスチャン会衆内に入れられることは,神により可能とされたのです。どのように? 神は,へがきの壁,分けへだての壁を取りのぞきました。すなわち,モーセを通して与えられた律法を取りのぞいたのです。この律法は,ユダヤ人を異邦人の世界から分けへだてていました。神は,御自身と人間とのあいだの仲立ちであるイエス・キリストにより,クリスチャンと新しい契約を設立しました。
5,6 会衆内では,いろいろの理由にもとづく差別があつてはならないと,パウロはエペソの会衆に宛ててどのように説明しましたか。
5 使徒パウロは,人種,種族,国家または皮膚の色というような理由でもつて,クリスチャン会衆内に分けへだてがあつてはならないわけを説明しました。彼はエペソの会衆に宛てて手紙を書き送りましたが,その会衆のなかにはかつてはヱホバから離れていた異邦人すなわちユダヤ人でない者も入つていたのです。
6 「前には遠く離れていたあなた方も,いまはキリスト・イエスと一致してキリストの血により近いものとなつた。実に彼は私たちの平和である。彼は二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにし,隔ててしきる中垣を滅ぼされた。イエスは(苦しみの杭にかけられた)その肉により,憎しみ,すなわちかずかずの規定で成り立ついましめの律法を廃止された。それは御自身にあつて,二つの民(ユダヤ人と異邦人)をひとりの新しい人につくりあげて平和をつくり,その苦しみの杭を通して一つの体なる両方の民を神に十分和解させるためである。イエスは,御自身によつて憎しみを滅ぼされたからであつた。また,彼は来られて,遠く離れていたあなた方(異邦人)に,平和の良いたよりを伝え,近い者にも(ユダヤ人)平和を伝えられた。キリストによつて,私たち二つの民(ユダヤ人と異邦人)が一つの霊によつて父(ヱホバ神)に近づくからである」。―エペソ 2:11-18,新世。
7 ずつと以前の霊的イスラエルになされた調整から判断して,今日なぜ他の羊の大いなる群衆と霊的なイスラエルを分けへだてる基礎はないのですか。ハガイ書 2章6-9節は,このことをどのように示していますか。
7 苦しみの杭上におけるイエスの犠牲は,信者であるユダヤ人と,あらゆる国民から来た信者の異邦人たちを一致せしめる基礎です。「世の罪」のためにささげられた同じイエスの犠牲は,今日の霊的イスラエルの小さな残れる者と,あらゆる国民,種族,民族そして言語から来た地的な羊級で構成される「大いなる群衆」を一つにして一致させる基礎であることはたしかです。今日,ヱホバの正しい羊飼は他の羊を御自分の右に集めています。それで,他の羊の大いなる群衆と霊的なイスラエルのあいだに分けへだてはありません。「ついに一つの群れ,ひとりの羊飼となるであろう」と正しい羊飼イエス・キリストは言われました。(ヨハネ 10:16。マタイ 25:31-40)正しい羊飼イエス・キリストのみちびく一つの群れの内にいるすべての者には,クリスチャン調和,一致,そして平和がなければなりません。「なぜなら彼は私たちの平和である」。ヱホバは次のように言われています,「この処においてわれ平康を与えん,と万軍のヱホバ言い給う」。(ハガイ 2:6-9)これは,全国民をふるつて,全国民の貴重なもの望ましいものを,御自分の崇拝の家に来らせる,というヱホバの御約束に関連して語られたのです。今日にいたるまでサタンとその悪鬼共は,この預言の成就をさまたげるのに失敗しました。
それを祈る
8 詩篇 122編6-8節に一致して,私たちは日々何を祈りますか。なぜイエスは,そのような状態でない会衆のかしらに,なり得ませんか。
8 制度の良さを真実に心から認識して神に栄光を帰するなら,私たちは神の民を一致,調和,そして静粛さの中に保つよう,平和の神に祈ります。私たちが毎日ささげる祈りの中に,詩篇記者ダビデの言葉を心にとめます,「エルサレムのために平安を祈れ,『エルサレムを愛する者は栄え,その城壁のうちに平安があり,もろもろの殿のうちに安全があるように』と。わが兄弟および友のために,私は『エルサレムのうちに安平があるように』と言う」。(詩 122:6-8,新口)その祈りにふさわしく,エルサレムという名前は「平和の保持」または「平和に設立される」という意味です。祭司メルキゼデクは,そのエルサレムの王でした。その称号は「平和の王」という意味です。御子イエス・キリストは永久にメルキゼデクの状に似た祭司 ― 王になるであろう,とヱホバ神は誓われました。栄光を受けた神の御子の名前の一つは,平和の君です。(創世 14:18-20。詩 110:1-4。ヘブル 6:20から7:21まで。イザヤ 9:6,7)そのような称号を持つ平和の君なる王イエス・キリストが,分裂と混乱になやまされ,党派に分れ,敵対とか派別にみちている会衆の霊的なかしらになど,どうして成り得るでしようか。キリスト教国は,今日そのような状態であり,今までもそうでした。イエス・キリストは,その霊的なかしらになりません。しかし,王であるイエス・キリストは,「自分のからだである会衆」内に平和を施行し,維持することができます。(エペソ 1:22,23,新世)イエスは,平和をみだす者たちを御使を用いて集めます。―マタイ 13:41。
9 (イ)パウロは,ピリピ書 4章6,7節で祈りが平和をもたらす力をどのように強調しましたか。(ロ)神の従順な僕たちは,テモテ前書 2章1-4節と一致する祈りを捧げ,いかなる政府の下にいようとも,何に参加しませんか。
9 真心をこめてささげる祈りには,平和をもたらす力があります。使徒パウロは,その力を明白に示すため,ピリピにいる愛するクリスチャン兄弟たちに次の言葉を書きおくりました,「何ごとも思いわずらつてはならない。ただ,事ごとに,感謝をもつて祈と願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が,あなたがたの心と思いとを,キリスト・イエスにあつて守るであろう」。(ピリピ 4:6,7,新口)使徒はまた次のことをも心にとめていました,すなわち地上にいる真のクリスチャンたちは,ヱホバ神との平和を求めないこの世の政治支配者たちの下に生活せねばならぬ,ということです。この世の政治支配者たちの政府は,平和の君に正しく従う者たちの生活に影響します。それで,パウロはクリスチャン監督テモテにあてて,次のようなさとしの言葉を書きました,「そこで,まず第一にすすめる。すべての人のために,王たちと上に立つているすべての人々のために,願いと,祈と,とりなしと,感謝とをささげなさい。それは私たちが,安らかで静かな一生を,真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは,私たちの救主である神のみまえに良いことであり,また,みこころにかなうことである。神は,すべての人が救われて,真理を悟るにいたることを望んでおられる」。(テモテ前 2:1-4,新口)私たちの救い主であるヱホバ神に従順にしたがう僕たちは,そのように祈ります。そして,政治の要職や政府の要職についている人々に対する,反乱,革命,反抗,反逆,脱退,陰謀,またあらゆる種類の人気取りの行動や,平和撹乱,暴力行為に参加しません。どんな種類の政府の下にいようとも,たとえ禁止令の下にいようとも,ヱホバの忠実な証者たちは安らかで静かな一生をすごします。
10 「すべての人」と相和するようにつとめることは,会衆内の者たちに何を意味しますか。これは,何の実,何の知恵を証明しますか。
10 「すべての人と相和し,また自らきよくなるようにつとめなさい。きよくならなければ,だれも主を見ることはできない」とヘブル書 12章14節はすすめています。クリスチャンが会衆外の者と相和するようにつとめるというのであるなら,献身した兄弟たちである会衆内の者と相和するようつとめねばならないことは当然です。平和は神の御霊のむすぶ実の一部であることを忘れてはなりません。私たちは,十分の手入れを行なつて,その実を豊かにみのらせねばならないのです。(ガラテヤ 5:22)それは天的な知恵を持つていて行使することを証明するものです。なぜなら,「上からの知恵は,第一に清く,次に平和」だからです。(ヤコブ 3:17,新口)霊感を受けて書かれたシンゲンの言葉は,「悟りを得る人はさいわいである」と述べて,ヤコブの言葉と一致しています。なぜ? なぜなら,「その道は楽しい道であり,その道筋はみな平安である」。シンゲン 3:13-17,新口。
11 平和は会衆を一致させるものである,とパウロはどのように語っていますか。それで,誰は会衆内にいる資格の無いものですか。
11 たしかに,内部における争い,悶着,そして不一致というものがないのでヱホバの証者のクリスチャン会衆は一致しているのです。その証言として,パウロは次のように書いています,「これらいつさいのものの上に,愛を加えなさい。愛は,すべてを完全にむすぶ帯である。キリストの平和が,あなたがたの心(動機のあるところ)を支配するようにしなさい。あなた方が召されて一体(二つとかそれ以上の分裂した体ではない)となつたのは,このため(平和のため)である」。(コロサイ 3:14,15,新口)私たちが平和を絶えず追い求めるなら,平和は神の御霊を持つ者たちを一致させるきずなとなります。パウロは次のように語つています,「あなた方が召されたその召しにふさわしく歩き,できる限り謙虚で,かつ柔和であり,寛容を示し,愛をもつて互に忍び合い,平和のきずなで結ばれて,聖霊による一致を守りつづけるようにつとめなさい。(キリストの下にある)からだは一つ,御霊も一つである」。(エペソ 4:1-4,新口)意識的に,また悪意をもつて平和をみだす者は,平和の神のクリスチャン会衆内にいるものとしてのふさわしい歩きをしていません。―ロマ 16:17,18。
神権的な取り極めの影響
12 (イ)神の御国が誕生したからといつて,どんなことに耽けつても良い,というわけではありませんか。(ロ)生命と平和を楽しむために,私たちは何を心がけるべきですか。そしてなぜ?
12 1914年以来,私たちが神の御国の下に生活しているということは明白です。神の御国は,その年に天で誕生しました。神を愛する者,そして生命を愛する者の中にあつて,このことは大きなよろこびをもたらす原因です。しかし,貪欲な気持のうちに無節制にも,物質主義的な気持に駆られて食べたり,飲んだりしても良い,ということではありません。そのようなことをするなら,他の者たちをつまづかせて霊的にだめにしてしまうでしよう。長く待ちのぞんだ神の御国の恩恵を楽しむ,ということは,過度に食べたり飲んだりして感覚をにぶくさせることよりも一段と高いことを意味します。パウロは,次のように語つています,「神の国は飲食ではなく,義と,平和と,聖霊におけるよろこびとである。こういうわけで,平和に役立つことや,互の徳を高めることを,追い求めようではないか。食物のことで,神のみわざを破壊してはならない」。(ロマ 14:17,19,20,新口)利己的な肉について思いめぐらすことは,クリスチャンの求めるべきことではありません。しかし,神の御霊の実をむすぶことこそ,クリスチャンの求めるべきことです。もし私たちが生命を愛し,神の御国の下にある良い日を愛するなら,次のいましめの言葉に注意を払います,「肉の思いは死であるが,霊の思いは,いのちと平安とである。なぜなら,肉の思いは神に敵する(友好関係のないこと)からである。すなわち,それは神の律法に従わず,否,従い得ないのである。また,肉にある者は,神を喜ばせることができない」。(ロマ 8:6-8,新口)それで,霊のことを思いなさい。神と平和になりなさい。
13 神の御国が1914年に力を取つたことは,その民の会衆にとつて何を意味しましたか。いつこのことは,彼らにとつて真実となり,イザヤ書 60章17節を成就しましたか。
13 1914年に神の御国が天で力を取つたことは,御国の民の地上の会衆内にあつて,今までよりも引きしめられた行動を意味します。むかし,イスラエルに人間の王がいなかつたとき,各イスラエルは人自分たちの目に正しいと思われることをするのがならわしでした。しかし,神が彼らの要求に答えて,人間の王を与えたとき,個人的に自由勝手な行いをすることは許されなくなりました。全くヱホバ神が前もつて警告した通りになつたのです。(シシ 21:25。サムエル前 8:9-18)このように引き締められた行動は,ヱホバの現代の証者たちについても真実のことになりました。すなわち,災をもたらした第一次世界大戦後の1919年に彼らは再組織して,神権的な取り極めや機構を建て始めたのです。それは,1938年の「ものもの塔」誌が,聖書のイザヤ書 60章17節(新口)にもとづく「制度」と題する二部に分れた記事を出版して後,特に真実となりました。その聖句はこうです,「私は青銅の代りに黄金を携え,くろがねの代り,しろがねを携え,木の代りに青銅を,石の代りに鉄を携えてきて,あなた(神の象徴的な首都または制度)のまつりごとを平和にし,あなたのつかさびとを正しくする」。
14 神権的な秩序を設立したことの結果は,どのような改善になりましたか。それで,生命を愛するすべての者は,忠節の気持ちの中に何を支持して維持しなければなりませんか。
14 この預言の中に約束されているごとく,1938年以来この地上にいるヱホバの証者のあいだに神権的な運営が始められたことは改善を意味しました。その結果は,目ざましい改善でした。大きな平和が得られました。それは制度内に平和を保つ助けになりました。それは全地におけるヱホバの証者の運営と行いの仕方を統一せしめました。現在,ヱホバの証者は,神の御国のよろこびのたよりを175の国々で伝道して,マタイ伝 24章14節を成就しています。それは,全地にまたがる制度から,不同,混乱,不平等,そして不秩序を取りさりました。それは神の妻のごとき制度に対する神の愛にみちる約束の成就を援助するものでした。「またなんじの子らはみなヱホバに教えをうけ,なんじの子らの安きは大いならん」。(イザヤ 54:13)それですから,生命を愛するすべての者は,平和を誠実な気持の中に追い求め,そして,制度の神権的な取り極めを忠節に支持して維持するでしよう。
15 この運営は,コリント前書 14章26,29-33節の中でパウロが述べているごとく,会衆の集会にもどのように適用しますか。
15 神権的に神の規則にしたがつて制度を運営することは,クリスチャン会衆の集会を司会すること,およびそのような集会に出席する者たちに対するプログラムについても適用します。神権的な統治体の一員であつたパウロは,無秩序な集会を禁ずる言葉を語りました。すなわち,良いつながりのない集会,プログラムが円滑に運営されない集会,つまり発言や行動が何の統一もなしになされて,説明や理解の与えられないような集会について,パウロはそれを禁じました。彼は次のように語つています,「すべては徳を高めるためにすべきである。預言をする者の場合にも,ふたりか三人かが語り,ほかの者はそれを吟味すべきである。しかし,席にいる他の者が啓示を受けた場合には,初めの者は黙るがよい。あなた方は,みんなが学びみんながすすめを受けるために,ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。かつ,預言者の霊は預言者に服従するものである。神は無秩序の神ではなく,平和の神である」。―コリント前 14:26,29-33,新口。
16 平和を追い求める際に,私たちは何を守るべきであると,ダビデおよびペテロは強調しましたか。そして,どのように?
16 会衆の一致,調和,そして静けさを保つために,私たちは特に舌と唇を守らねばなりません。詩篇記者ダビデも,さいわいを見ようとして,いのちを慕い,ながらえることを好む人はだれか,とたずねたすぐ後に「あなたの舌をおさえて悪を言わせず,あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな」と言いませんでしたか。(詩 34:13,新口)そうです。そして,使徒ペテロはクリスチャン兄第たちに助言の言葉を告げた後に,そのダビデの言葉を引用しませんでしたか。彼は次のように語つています,「悪をもつて悪に報いず,悪口をもつて悪口に報いず,かえつて祝福をもつて報いなさい。あなた方が召されたのは,祝福を受けつぐためなのである」。(ペテロ前 3:9,新口)たしかに,舌とくちびるによつて,私たちは悪をもつて悪に報いることができます。舌とくちびるによつて,私たちは悪口を言う者に悪口を言い返すことができます。しかし,舌とくちびるによつて,私たちは,自分に悪をする者や悪口を言う者に祝福を与えることができます。祝福を与えることは,良い結果をもたらします。それは,怒りを取りのぞく温和な答です。(シンゲン 15:1)祝福を与える者は,すくなくとも霊的な益を受けます。害の言葉を語る話し手,または悪口を告げる者にはならないでしよう。それは制度内に平和を生ぜしめます。それですから,平和を追い求めるとき,当然私たちは舌を押えて悪を言わず,くちびるを押えてあざむきを告げてはなりません。私たちは,そしり,陰口,そして悪口を語つてはならないのです。
17 これに対する最善のまもりはなんですか。なぜ,平和の追求の意味は,このことと反対ではありませんか。
17 これに対するいちばん良いまもりは,神の御国についての貴重な真理を教えて,伝道することです。私たちの集会所内だけでするのみでなく,公にもまた家から家にも行うことです。間ちがつてはいけません。敬虔な平和は,無活動,不注意な安易さ,怠惰を意味するものではありません。平和の神は,御自分の組織化した民,すなわち地上の証者たちに,大きな仕事を与えました。それは,ヱホバ神とその統治している御子イエス・キリストについて全地にわたつて,証しを立てるわざです。それは,諸国民がハルマゲドンで全くほろびる前に,全国民に対してなされねばなりません。
18 (イ)このわざを行うに当つて,あらゆるところから来たヱホバの証者は,どんな肝要な事実を認めますか。(ロ)それで,彼らはイエスのどんないましめに従いますか。それは,平和と兄弟愛についてのどんな預言を成就するものですか。
18 この仕事は,あらゆる国籍,種族,人種,皮膚の色,そして言語から来ている献身した証者により成されねばならないのです。自然に生じた外面的な相違のために,互いどうし戦つたり,争論したりしながら,このわざを一致して行うことはできません。彼らは平和のうちに協力しなければならないのです。神の与えた証言のわざを調和のうちに全地にわたつて行うには,彼らのうちに国際的の平和,人種的の平和,会衆内の平和が必要です。ヱホバの証者は,この肝要な事実を認めます。それで,彼らはヱホバの長なる証者イエス・キリストのいましめに従います,「互に和らぎなさい」。(マルコ 9:50,新口)彼らは,その行いと努力を,イザヤ書 2章1-4節に述べられている美しい預言的なまぼろしと一致させます。そのまぼろしは,国際的な平和と兄弟愛のうちに,ヱホバ神に一致した崇拝をささげるまぼろしです。それで,彼らの証言のわざは繁栄します。―ヤコブ 3:18。
19 (イ)彼はどんな戦争に対して武具を身につけていますか。そしてどのように?(ロ)家から家のわざにおいて,彼らは誰を探しますか。しかし,誰のところから去りますか。
19 彼らが御国の音信をたずさえてどこに行こうとも,神の正義の新しい世を飾る永久の平和を促進します。彼らは霊的な戦いをするために武具をつけているのであつて,肉と血を持つ者に対する流血の戦争に対しては武具をつけません。それで,彼らは使徒パウロの述べた通りの武具を身につけます,「平和の福音の備えを足にはけ」(エペソ 6:11-15,新口)彼らは,家から家のわざをする際に,神と平和の友になる人々を探し求めます。イエス・キリストは,このことをせよと彼らに告げて,次のように語りました,「どこかの家にはいつたら,まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。もし平安の子がそこにおれば,あなたがたの祈る平和はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかつたら,それはあなた方の上に帰つてくるであろう」。(ルカ 10:5,6。マタイ 10:12,13,新口)もし家の人が平和の敵であるなら,彼らはその家を去ります。彼らはヱホバの敵と宗教的な争論をしません。
20 宗教的な迫害を受けながらも,なぜ彼らはよろこびつづけますか。彼らは平和についてどんなたしかな希望を持ちますか。
20 それにもかかわらず,彼らはたくさんの宗教的な迫害を受けます。しかし,彼らはよろこびつづけます,「和平をはかる者には,よろこびあり」。(シンゲン 12:20)彼らは,自分たちに不当な苦しみをくわえる者たちが,ハルマゲドンで滅ぼされるという神の約束を知つています。(テサロニケ後 1:6-10)彼らは次のようなたしかな希望で力づけられ,慰めをうけています。すなわち彼らが平和をつづけて追い求めて行くことは,ハルマゲドンの後に正しい裁き主,ヱホバ神の約束する新しい世で,十分に報われるということです。「神は,おのおのに,そのわざにしたがつて報いられる。すなわち,一方では,耐え忍んで善を行なつて,光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に,永遠のいのちが与えられ,他方では,党派心をいだき,真理に従わないで不義に従う人に,怒りとはげしい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には……患難と苦悩とが与えられ,善を行うすべての人には……光栄とほまれと平安とが与えられる」。―ロマ 2:6-10,新口。
21 霊感を受けたどんな質問に対する答として,私たち各人は,自分がなんであると示したいと欲しますか。それで,私たちは何を追い求めますか。
21 「さいわいを見ようとして,いのちを慕いながらえることを好む人はだれか」という神からの霊感をうけた質問にたいして,私たち各人はいま「私です」と答えることができますか。もしできるなら,ヱホバ神の道に従い,平和を求めて,それを追い求めましよう。