読者よりの質問
● サタンは,どんな形で,またどんな方法で,イエスを誘惑しに来ましたか。人間の形をしてあらわれましたか。それともイエスは声だけ聞いたのでしょうか。また,サタンが,荒野から自分を連れ出して,町の中を通って宮のいただきまで連れてくるのをイエスがゆるしたというのはどういうことですか。イエスは肉体のまま宮のいただきに連れていかれたのでしょうか。―シエラ・レオネの一読者より
ユダ書 6節には,「そのおるべき所を捨て去った」ので神が「大いなる日のさばきのために,永久にしばりつけたまま,暗やみの中に閉じ込めておかれた」天使たちについて書かれています。1955年12月15日号の「ものみの塔」の466頁と467頁は,この暗やみが霊的なもので文字通りのものでないことを示したのち,さらにこう述べています,「『彼らが永遠にしばられる』ということは,大洪水以前のように,彼らが人の形に現われることはもはや許されていないとうことです。大洪水から,キリストの忠実な使徒の時代にいたるまでの何千年のあいだ,イエス・キリストや神の忠実な御使たちは,人間の形に現われ得るこの力を用い,神の御こころと御目的を果たしました。しかし,罪を犯した御使たちは,その力を悪用するため,もはやこの力を用いることは許されていません」。
このことから見て,私たちは,サタン悪魔もまた,イエスを誘惑するために体現することを禁止されていたと結論すべきです。
サタンがイエスを宮の狭間胸壁に連れてくるのをイエスが許したことについていえば,荒野でのイエスの誘惑に関する記録の全部を文字通りに解釈するのは合理的でないようです。「この世のすべての国々とその栄華」が見れるような山は確かにありません。そうであれば,サタンも文字通りイエスのからだを,「聖なる都に連れて行き」,「宮の狭間胸壁のうえ」に立たせたのではないという合理的な結論を出さねばなりません。そういうことは,強い誘惑をしかけるのに少しも必要ではなかったのです。―マタイ 4:3-10。
● ピリピ書 2章10節で言われている「地下のもの」というのはだれのことなのですか。―アメリカの一読者より
ピリピ書 2章10,11節(新口)にはこう書いてあります,「イエスの御名によって,天上のもの,地上のもの,地下のものなど,あらゆるものがひざをかがめ,また,あらゆる舌が,『イエス・キリストは主である』と告白して,栄光を父なる神に帰すためである」。ここで「地下のもの」と言われているのは,記憶の墓で復活を待っているとイエスがいった者たちのことです。(ヨハネ 5:28,29)これらすべての者は最後には死からよみがえらせられて生き続け,神に栄光を帰するためにキリストを主と認めるようになります。記憶の墓にいる者だけ,あるいは神の記憶にある者だけが,たとえ地下で死の眠りについていても,存在していると言えるでしょう。死んだ悪人は目をさますことがなく存在していません。彼らはうせ去ります。―詩 37:10。
これに関連しているのはエペソ書 1章9,10節(新口)のパウロの言葉です。なぜなら,同じことに言及しているからです。「御旨の奥義を,自らあらかじめ定められた計画に従って……時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって,神は天にあるもの地にあるものを,ことごとく,キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」。
● コリント前書 14章2節をどのように説明するか教えて下さい。―アメリカの一読者より
質問の聖句は次の通りです,「異言を語る者は,人にむかって語るのではなく,神にむかって語るのである。しかしだれもそれを聞かない。彼はただ,霊によって聖なる奥義を語っているのである」。(新世)この聖句を同じ章の13-19節(新世)にてらして考えると分かります。次のように言っています。
「このようなわけであるから,異言を語る者は,自分でそれを解くことができるように祈りなさい。もし私が異言で祈るなら,私の霊の賜物は祈るが,私の理解は実を結ばないからである。それでは,どうしたらよいのか。私は霊の賜物で祈と共に,理解をもって祈ろう。霊の賜物でさんびを歌うと共に,理解をもってまた歌おう。そうでないと,もしあなたが霊の賜物で祝福の言葉を唱えても,初心者の席にいる者は,あなたの感謝に対して,どうしてアァメンと言えようか。
別の言葉で言うなら,異言を語る者は聞いている者がわかるようにその言葉の意味を解釈する者を持たないなら,人に語っているというよりむしろ神に語っていることになります。神の聖霊の奇跡的な力によって与えられた音信の異言を理解しない聞手にとって,それは意味のないものです。そのわけで使徒パウロは「だれもそれを聞かない」と言っています。なぜならだれも分からないからです。異言を語っている者でも,自分自身の語っていることが分からないかもしれません。そうでないならパウロは異言を語る者は自分でそれを解くことができるように祈りなさいとは言わなかったでしょう。それで異言を語る者はほかの者が解いてくれないと,霊によって自分自身が語っていることすら分かりませんでした。
それで語っていることを通訳したり解いてくれる者がないなら人にむかって語っているのではなく,たしかに神にむかって語っていることになりました。そのわけで使徒パウロは解く者がない時,異言を語っている者が自分で解くことができるように祈れと言ったのです。そのようにして自分で解くことにより,人々を高めるように語ることができ神をさんびすることができます。
異言を語ることができると主張する現代における宗派と,使徒パウロは何と違っていることでしょう! 彼らは自分たちのしゃべることが聞手に分からなくてもかまいません。むしろわけのわからぬ言葉により聞手に感銘を与えたいと思っています。さらにパウロは「異言はやむ」と預言しました。それで異言はやんでしまいました。異言の奇跡的な賜物は,聖霊の他の奇跡的なしるしと共に,クリスチャンの会衆を設立するのに必要でした。クリスチャンの会衆が円熟したものになったので,その賜物は「幼な子らしいこと捨ててしまった」のです。―コリント前 13:8,11,新口。