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だれに頼ることができますかものみの塔 1962 | 10月1日
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ん。ほんとうに信頼できる男性は,いつも妻に信頼されています。妻は夫が生活の指針としている正しい原則と,それらがいかに堅く夫の身についているかを知っています。この確信は,結婚関係にはかり知れぬ程貢献し,それを幸福なものにしますが,信頼のないところにどうして幸福があり得るでしょうか。したがって,正しい原則によって生活するがゆえに信頼できる人は,結婚においても仕事の面と同様に益を得ます。
人がひとたび妻の,あるいは兄弟たちの信頼を失うと,それを取戻すのは極めて困難なことです。どんなに悔改めても,信頼を裏切られた人々の心にはどうしても疑いが残ります。彼らの信頼を完全に取戻すのは長くてむずかしい道です。ですから一時的な「益」のために不誠実になるよりも,むしろいつも正しい原則をしっかりと守るほうがはるかに楽です。しかしそういう原則をどこで見つけることができますか。
生活の指針となる正しい原則の最善の源は聖書です。聖書のすぐれた原則と賢明ないましめは,人をその人にとって最善の道に,すなわち心の平和と他の人々の尊敬を保ち得る道に導きます。マタイ伝 22章39節(新口)の「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という原則よりもすぐれた,人間関係に関する原則があるでしょうか。そういう愛をもっているなら,隣人が金を払う場合に,その金額に相当するものを与えないであざむくことができますか。雇主の品物を盗めますか。修繕した物,あるいは売っている物についてうそが言えますか。不誠実な人がするようなことを一つでもできますか。そういう行いは愛を示すものではありません。
神の御言葉を深く尊敬し,神のみ前で正しい行いをしたいと思う人は,不正直な仲間に説得されても,他の人々の倫理にそむいた仕事の仕方に圧迫されても,心を動かして聖書の原則を破るようなことはしません。神のお定めになった聖書の原則をどうして破ることができるでしょうか。その原則に反することは神に反することです。そして献身したクリスチャンは決してそういうことに賛成しません。あなたも同じような確信に基づいて正しい事をしていますか。隣り人や他の人に愛を示したいという強い気持ちをもっていますか。そしてすべての行いにおいて信頼できる者になろうという同じ決心がありますか。そのような立派な心構えは,あなた自身の益となります。すべての人が,聖書の原則に従って生活するなら,どんなにすばらしい社会になるかを想像してごらんなさい!
人間行為を支配する聖書の中の原則や命令は,信頼できる人々で構成される社会の基礎です。その社会では,戸にかぎをかける必要もなく,貴重品をかくす必要もありません。それは,すべての人がエペソ書 4章25節(新口)に次のように述べられている通りのことをする社会です,「おのおの隣り人に対して,真実を語りなさい」。そういう社会の実現が可能であることは,新世社会のいつもの行いによっても証明されます。最高の神に仕えるこれらのクリスチャン証者たちは,神の定められた原則や命令を生活の指針にしました。
聖書の原則がまだあなたの生活の指針になっていないのでしたら,今こそ使徒パウロの述べた通りにして下さい,「あなたがたは,この世と妥協してはならない。むしろ心を新たにすることによって,造りかえられ……」。(ロマ 12:2,新口)神の御言葉をあなたの道徳の標準にして,それから離れないで下さい。真実と信頼性を人々に要求すると同様に,あなたも彼らに対して真実で信頼できる者であって下さい。
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「清い信心」ものみの塔 1962 | 10月1日
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「清い信心」
弟子ヤコブは次のように書きました,「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは,困っている孤児や,やもめを見舞い,自らは世の汚れに染まずに,身を清く保つことにほかならない」。(ヤコブ 1:27,新口)この事に関して,歴史家のジョン・ロードは,興味深いことを書いています,「初期教会の手本は,次のことを示しているようだ。すなわち宗教は,その信仰を告白する者たちを常に守り,清めることによってのみ,健全な発達をとげる。教会の真の使命は,腐敗させるような影響を及ぼす出来事とかかわることではなくて,教会の成員を向上させることにあろう」―「古いローマの世界」,550頁。
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