うわさに注意しなさい
うわさを聞いたことのない人がいるでしょうか。うわさというものは,奇異で,人を興奮させるもの,あるいは中傷するものであればあるほど信じられやすく,広がりやすいものです。うわさは,人を興奮させたり,人の心を乱したり,心配させたり,偽りの希望をもたせたりし,また人を中傷することもあります。ですからうわさには用心しなければなりません。ではどうすればうわさに迷わされたり,不必要に心を乱したり,空しい望みを抱くようなことをせずにすみますか。
それにはまず,「人々がいいふらす,事実としての証拠のない話,もしくは言明」という,うわさの定義をおぼえておくと役に立ちます。事実にもとづいていてもいなくても,うわさにはしっかりした根拠がありません。したがって,うわさであるかどうかは,「これこれのうわさがあります」というはっきりした言葉からわかるだけでなく,明確な証拠がないという,うわさの著しい特色によってもわかります。うわさには証拠となる確かな標準がありません。ではうわさを信じてもよいでしょうか。
うわさは,ちょうどこわれた鏡が完全な鏡と異なるように,真実と異なる場合が多いのです。それを確実なものとして受け入れるのは賢明ですか。ほとんどの場合,とりわけ,うわさが自分に直接影響のないとき,理くつに合わないとき,自分の知っている明らかな事実と矛盾するときに,それを信じるのは賢明ではありません。盲目的にうわさを真実と信じこんで,それを言いふらすなら,責任を取らねばならぬこともあることを忘れてはなりません。
うわさから自分を守るには,人から聞くことがらを考量し,自分の知っている事実に照らしてそのうわさを調べてみることです。私たちは友だちも守らなければなりません。しかし不幸にして多くの人はそれをしません。うわさの内容が十分におもしろいなら,ある人を傷つけることになっても,そのうわさをまきちらします。うわさの広がる早さには,まったく驚くべきものがあります。工場に,事務所に,町に,多くの通信機関よりも急速度で広がって行きます。
たとえば,ネロが西暦64年にローマに放火したといううわさは,野火のように広がったに違いありません。そのうわさを流したのはネロの敵でした。現代のほとんどの学者はネロが火事に関係のあったことを疑問視し,その火事を事故によるものと見ます。しかし,ネロが町に火を放ったといううわさはなかなか消えず,今日に至っています。そのいつわりのうわさを相殺するため,ネロは,クリスチャンたちが町に放火したといううわさを広めました。その結果クリスチャンは激しい迫害を受けました。
いまの時代でもうわさは盛んです。ごく最近のものとしては,ソ連の指導者フルシチョフが死んだといううわさで,1964年4月13日に世界中に広がりました。それは間違ったうわさで,悪ふざけから出たもののようです。西独,ハンブルクのテレビジョン事務所は,フルシチョフが「ヘファカパリー・タイロシス」病で死んだという至急電報を受け取りました。しかし事務所はそれに疑いをもち,全然行動を起こしませんでした。ケルンのラジオ事務所もうわさの電報を受け取りました。この事務所は,ドイツの新聞社のハンブルク本社に,そのことを伝え,最後に「そのことを証明できますか」という言葉をそえました。しかしテレタイプを読む者は興奮して,最後の文章が出ないうちに通信文を破りとってしまいました。その結果「フルシチョフが死んだ」という知らせがとびました。「そのことを証明できますか」という文章が発見された時はすでに後の祭りでした。間違ったうわさは世界中にひろがりました。
うわさを耳にするとき,自分を守るためにどんな適当な処置をとりますか。多くの場合証拠がなければ,無視するほうが賢明です。自分がうわさの根拠を知らないことに気づけば気持ちは落ち着きます。ですからうわさに証拠がないときは,興奮したり,悲しんだり,怒ったり,得意になったり,落胆したりなど,うわさが引き起しがちな感情に悩まされないようにすることがたいせつです。
もしうわさが自分の健康や安全に直接影響をおよぼす場合はどうしますか。ニュースの根拠が知られていなくても,それだけでそのニュースが絶対に,間違いだ,ということはいえません。それは真実かも知れません。ひどい嵐が近づいているそうだ,とある人が言ったなら,あなたはその情報の出所を調べるでしょう。その人はただ「うわさを聞いた」にすぎないかも知れません。しかしそれは自分の安全に影響するので,確かめねばなりません。しかもそれはラジオをかけるとか,気象台に問い合わせるなどして,簡単に調べられる場合が少なくありません。
しかし自分に直接影響のないうわさはどうしますか。それは時間を費して根拠を調べるだけの価値がありますか。そうすることは実際にあなたの責任ですか。たいした結果にならないことなら,そのうわさを確かめたり否定したりするために,自分の時間と,うわさに関係のある人の時間とを費すだけの価値がありますか。どちらにしてもたいした相違がないなら,心をわずらわす必要はありません。
自分とは無関係で,新聞や雑誌を調べるとかラジオをかけるくらいでは確かめられないようなうわさなら,言いふらさないことです。それは事実でないかも知れません。
うわさが間違いであることを知っているなら,うわさの風船がさらに遠くへ飛ばないうちにそれを破つてしまわねばなりません。
もし間違ったうわさが自分の交わる組織に関係のあるものなら,なおさらのことです。一つの例をあげましょう。ある聖書研究団体がその機関誌に定期的に知識を発表します。しかしある人が,その機関誌にのせられることと矛盾するうわさをもってくるとします。その場合どうしますか。正式に発表されていることよりうわさのほうを重要視しますか。それは賢明ではありません。あまり確かでないなら公表されていることを調べてみます。信用のおける団体が,うわさをする者の口を通して重要な情報を広めるでしょうか。いいえ,そのような団体はスポークスマンや正式の出版物を用います。
クリスチャンはとくに,うわさの何なるかを認めなければなりません。というのは神は次のように命じられているからです。「あなたがたは偽りを捨てて,おのおの隣り人に対して,真実を語りなさい。……必要があれば,人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って,聞いている者の益になるようにしなさい」。―エペソ 4:25,29。