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忠実さによって生き続けなさいものみの塔 1974 | 12月1日
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は皆,自分とエホバ神との関係をいかなるものにも阻ませないことを決意しましょう。そうすれば,神の破れることのない愛が,厳しい試練のもとでも忠実の道を歩み続けるようわたしたちを支えます。(ローマ 8:38,39)一切の事を神の栄光のためにするなら,境界を踏み越えたり,永遠の命に至る明確な道からそれたりするようなことを避けられます。
30 どうすればわたしたちもエホバの心を喜ばせることに加われますか。
30 わたしたちの忠実な神に対する忠誠を守り,神の敵対者である悪魔を含め,いかなる者もこの道からわたしたちを離しえないことを実証すること,これが常にわたしたちの主要な願いでありますように。こうしてわたしたちは,エホバの心を喜ばせることができます。―箴 27:11。
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真のクリスチャンの一致した集合体がありますかものみの塔 1974 | 12月1日
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真のクリスチャンの一致した集合体がありますか
真のクリスチャンというとだれもが,品性のすぐれた,善良な性格の人であることを期待します。それはまちがいではありません。しかしクリスチャンというのは,ただそれだけのものではありません。
クリスチャンだと言わない人々の中にも,りっぱな品性の,好感のもてる性格の人はいます。ではどこが違うのでしょうか。
クリスチャンには,そうしたことに加えて,イエス・キリストと同じく,聖書の神の真の崇拝を促進したいという強い願いがなければなりません。その方面に熱意を持ち,活動的であることが必要です。
しかし,仮にこの事実を理解しているとしても,今の時代の真のクリスチャンは実際にだれなのか確認しようとすると,混乱してくるかもしれません。それどころか,真のクリスチャンなんているのだろうか,と思うかもしれません。というのは,キリスト教世界の信心深い人々の間には,考えや行動の一致がほとんど見られないからです。道徳上の問題や社会問題についてもそうですし,神の崇拝となると,とくにそうです。神と神の目的について,また真の崇拝を行なって神を喜ばすなら天と地のいずれかにおいて永遠の命を得る機会があるということについて説明する努力はほとんど払われていません。
一致した考えと努力は不可欠
聖書に記されているとおりに神の崇拝に献身し,しかも全員一致してそれを行ない,他の人々にもそれをさせるように積極的に努力する人たちの集団は,当然存在すべきものなのでしょうか。そして現実に存在するのでしょうか。
使徒パウロが1世紀のコリント人に与えた訓戒によると,それは存在してしかるべきです。彼は高い道徳やクリスチャンの人格について多くのことを書きましたが,こういうことも言いました。「ただ,キリストについての良いたよりにふさわしく行動しなさい。わたしが行ってあなたがたに会うにしても,あるいは離れているにしても,あなたがたについてこのことを聞けるようにです。すなわち,あなたがたが一つの霊のうちにしっかりと立ち,一つの魂をもって良いたよりの信仰のために相並んで奮闘し(ているということです)」― フィリピ 1:27。
クリスチャンの義務についての例え
イエスとその使徒たちが,真の崇拝を地の果てにまで広めることにきわめて熱心であったことは,おそらくだれも否定しないでしょう。彼らはこの目的において結束し,教理と活動において一致していました。イエスの弟子たちはいかにあるべきかを示すために,イエスはタラントの例えを話されました。(銀の一タラントの価値は何万円にも相当する)この例え話は,真のキリスト教を最大限にいわばふやす義務が彼らにあることを,明確かつ強力に示すものです。
イエスの弟子たちはイエスに尋ねました。「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。タラントの例えはこの質問に対するイエスの答えの中に含まれています。したがってその例えが語られたのは,「事物の体制の終結」のときに住んでいるクリスチャンたちに,主イエス・キリストが王国の権を帯び目に見えないさまで臨在していることを明らかにするためでした。しかしその例えは,イエスが地上におられた時に成就し始めました。わたしたちは,ミナもしくは「ポンド」についてのよく似た例えから,このタラントの例えの意味をよく理解することができます。キリストの話を聞いた1世紀の人たちは,そのミナのたとえから,神の王国は,彼らが考えていたように「たちどころに出現する」のではないことを知りました。―マタイ 24:3。ルカ 19:11-27。
この二つの例えは両方とも,天の王国にかんするものでした。タラントの例えは次のようにはじまります。「それ[すなわち天の王国と関係のある事情]はちょうど,人が外国へ旅行に出るにあたり,奴隷たちを呼び寄せて,自分の持ち物をゆだねたときのようになるのです。そして,ある者には五タラント,別の者には二タラント,さらに別の者には一タラントと,各自の能力に応じてひとりひとりに与えてから,外国に行きました」― マタイ 25:14,15。
この「人」とはイエス・キリストのことです。イエスはまもなく「外国」への長い旅,つまり天の父のもとにもどる旅に出ようとしておられました。死んで復活したのちにその旅をなさるおつもりでした。そして天に行かれたなら『神の右に座し,それ以後,自分の敵たちが自分の足の台として置かれるまで待つ』ことになっていました。(ヘブライ 10:12,13)み父から,王国の権を完全に執るよう命令を受けるまでには長い期間がありますが,それを受けた時には,イエスはまずご自分の「奴隷」たちをよく調べ,報いをお与えになります。イエスは奴隷たちが一致してイエスの「商売」を営み,お互いに反目し合ってなどいないことを期待されます。調べが完了したなら,ルカ 19章15節から27節に示されているように,敵を地から追い出されます。―詩 110:1-3。
「奴隷たち」にゆだねられる「持ち物」
さて,この「人」には,王の権を得てもどってくるまで「奴隷たち」にゆだねておく「持ち物」がありました。イエス・キリストには大きな価値のあるどんな持ち物がありましたか。イエスにはお金もなければ,土地や建物などの大きな財産もなく,政府機関から権威を認められてもいませんでした。イエスは,ユダヤ人の強い要求により,ローマ帝国の手で殺されました。ではイエスは,「奴隷」たちにゆだねるべきどんなものをお持ちだったのでしょうか。
それは,先に述べたような種類の持ち物とは異なる価値のあるものでした。キリストは,人間となって宣教しておられたあいだ,天のみ父の王国を第一に求め,伝道し教えることによってひとつの畑を耕されました。イエスはこの畑を潜在力 ― 弟子たちを生み出す隠れた力 ― を持つものとされました。イエスが弟子たちに残された財産はこれでした。イエスは,死んで復活する2年以上前に,すでに次のように使徒たちに言っておられました。
「さあ,あなたがたに言いますが,目を上げて畑をご覧なさい。収穫を待って白く色づいています。すでに,刈る者は報酬を受け取って永遠の命
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