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「何事も思い煩ってはなりません」ものみの塔 1981 | 2月1日
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「何事も思い煩ってはなりません」
「何事も思い煩ってはなりません。ただ事ごとに祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたがたの請願を神に知っていただくようにしなさい」― フィリピ 4:6。
1 どんな聖書的な理由で,エホバは「平和の神」であると言えますか。
エホバは「平和の神」であられます。(フィリピ 4:9)神は,苦痛となる思い煩いや精神的な動揺や危惧の念を経験されることはありません。何物も,悪人の邪まな行為でさえ,神から穏やかさを奪い取ったり,平静を失わせたりすることはできません。神の属性はどんなときでも完全な平衡を保っています。例えばエホバは,愛のうちに行動され,「邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ」ておられます。(マタイ 5:44,45。ヨハネ第一 4:8)神は決して公正を曲げることはなさいません。(創世 18:25)神はその比類のない知恵によって,『始めから結末を見る』ことができ,どんな不慮の事態にも対処することがおできになります。そして神の無限の力は無責任に行使されることはなく,常にその義にかなったご意志を成就するものとなります。―ヨブ 12:13。イザヤ 40:26; 46:9,10,新。
2 エホバの崇拝者はエホバをどう見るべきですか。
2 この比類のない「平和の神」を,その崇拝者たちからなる宇宙的な家族はどう見るべきでしょうか。(エフェソス 3:14,15と比較してください。)天の父はあらゆる状況に対処することがおできになるのですから,エホバの賛美者たちが穏やかさを保てるのも至極もっともなことです。彼らは神との関係によって,真の安心感を抱くことができます。
完全に思い煩いをなくせるか
3 エホバの僕たちが何らかの思い煩いを経験するとしてもなぜ驚くことはありませんか。
3 とはいっても,もちろん,「エホバを愛する者たち」に全く思い煩いがないわけではありません。(詩 97:10,新)彼らはアダムから受け継いだ不完全さを有しており,その最初の人間の罪深い子孫たちの中で生活しなければなりません。(列王上 8:46。ローマ 5:12)『彼らの年の日数』には悩みがつきまとい,不完全な人間は一人残らず『短命で動揺に飽いています』。(ヨブ 14:1; 詩 90:10,新)ですから,エホバの僕たちが何らかの思い煩いを経験するとしても驚くことはありません。
4 敬神の思いを抱く人々にとって全く思い煩いのない状態はあり得ませんが,どの聖句がその理由を示していますか。
4 例えば,エサウのヒッタイト人の妻たちが,神を恐れるその親イサクとリベカにとって『苦々しい霊を抱かせるものだった』ように,感情的な苦痛の生じることがあるかもしれません。(創世 26:34,35,新)病気は今日の神の僕たちにとって,ある程度思い煩いのもとになります。テモテやトロフィモのような忠実なクリスチャンたちの生活の場合も同じだったに違いありません。(テモテ第一 5:23。テモテ第二 4:20)「義人ロト」のように,現代のエホバの賛美者たちは,無法な人々の不道徳な歩み方に苦しめられています。(ペテロ第二 2:7)時には,エホバに献身した人々でも乏しい物資で暮らして行かなければならない場合があり,当然そのことが普通以上の心配の種になります。(フィリピ 4:12)そして使徒パウロのように,現代の多くのクリスチャンの男子には,仲間の信者たちに対する心配があります。(コリント第二 11:28)これらすべてのほかにも,敬神の思いを抱く人ひとりひとりを悩ませる問題があります。ですから,今は思い煩いの全くない状態などあり得ないことが容易に理解できます。
5 (イ)エホバの民には,思い煩いに対処する上でどんな特別な助けがありますか。(ロ)聖書の中で用いられているように,「平和」は何を意味しますか。
5 しかしエホバの僕たちには,あらゆる思い煩いに対処するための神の助けがあります。それは,霊性を備えていない人はだれも得ていない貴重な助けです。(ユダ 17-21と比較。)エホバは単に「平和の神」であるばかりでなく,喜ばしいことに,「平和を与えてくださる神」でもあられます。(ローマ 15:33)聖書で言う「平和」には,争いがないということ以上の意味があります。特にそれは,『幸い,幸福,繁栄そしてあらゆる種類の良いもの』を指し示しています。(創世 41:16,欽定訳。マルコ 5:34。ルカ 1:79)確かに,こうした非常に包括的な平和を得ているなら,生活の思い煩いは相殺されるか軽くなるはずです。
6 神から与えられる平和を勝ち得てそれを維持したいなら,何をしなければなりませんか。
6 しかし神から与えられるこの平和を勝ち得て維持するためには,エホバとそのみ言葉に対する深い愛を抱かなければなりません。それには神を愛すること,その戒めを守ること,み子イエス・キリストの名に信仰を持つこと,他の人々に愛を示すことが関係しています。(ヨハネ第一 3:19-24; 5:2-4)神の戒めを守るには,もとよりそれを知らなければなりません。それを知るためには聖書研究を日ごとの関心事とすることが必要です。(ヨシュア 1:8)そしてエホバの言葉に時間を費やせば費やすほど,それを「慕う気持ち」は強くなることでしょう。こうして,より豊かな,心と思いの平和がもたらされます。―ペテロ第一 2:1-3。
力ある業を行なわれる愛ある父
7 神の言葉に関する知識が増し加わると,わたしたちと神との関係はどんな影響を受けますか。またそのことによって,わたしたちはどのように思い煩いから解放されますか。
7 神の言葉に関する知識を増し加えると,わたしたちは至高者に一層引き寄せられます。ただしそのためには,子供のような謙遜さと,「上からの知恵」を得たいという心からの願いがなければなりません。(ヤコブ 3:17,18)エホバが,「憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛の親切と真実に満ちる神」であられるという事実はわたしたちの心を動かします。(出エジプト 34:6,新)わたしたちは神が「善良で,進んで赦しを与えてくださる」ということをより深く理解するようになるでしょう。(詩 86:5,新)わたしたちは不完全で罪深いので,途中でつまずくことがありますが,次のような保証の言葉が与えられています。「父がその子らを憐れむように,エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。神はわたしたちの造りをよくご存じであり,わたしたちが塵であることを覚えておられるからだ」。(詩 103:13,14,新)こうして,ほうっておけばわたしたちを押しつぶしてしまいそうな思い煩いが,わたしたちの心と思いから取り除かれるのです。さらに,人間の考えでは及びもつかないような愛の行為としてエホバの贖いの備えがあります。それは,「だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つように」,その愛するみ子を通して備えられました。―ヨハネ 3:16。テモテ第一 2:5,6。
8,9 (イ)エホバが「力あるみ業」を行なわれる方であることをどんな聖句が示していますか。(ロ)神の過去の行動は,神の民が生活の思い煩いに対処する際の助けを期待できることを証明しています。なぜそう言えますか。
8 わたしたちの天の父は「力ある業」を行なわれる方でもあられます。(詩 106:1,2; 145:4,11,12,新)神からの好意を懇願するに当たってモーセは次のように述べることができました。「至高の主エホバよ,あなたは,ご自分の偉大さと強い御腕とをこの僕に見させ始められました。と申しますのは,あなたのような業,あなたのような力ある業を行なうどんな神が,天,あるいは地にいるでしょうか」。(申命 3:23,24,新)モーセは,エホバが大いなる力をもってご自分の民をエジプトの奴隷状態から解放し,履き物をぬらすことなく紅海を渡れるようにしてくださったいきさつを思い起こすことができました。(出エジプト 12:29-42; 14:5-31)同時にこの預言者は,王シホンと王オグの支配下にあったアモリ人に対して,イスラエルに勝利を得させるためにエホバが行なわれたみ業を目撃していました。それに加え,エホバがイスラエル人のために戦っておられたので,モーセは,神が他の敵の王国を打ち倒しご自分の民に約束の地をお与えになるという確信を抱いていました。(申命 3:1-22)そして神は確かにその通りにされました。神は約束を守られる方だからです。(ヨシュア 23:1-5)では,「エホバを愛する者たち」は,神の信頼性とその救出の業を考える時にどう感ずるべきでしょうか。今日の神の民の側に,苦痛となる思い煩いの根拠があるでしょうか。全くありません。エホバは忠実であり,「敬神の専念をいだく人びとをどのように試練から救い出すか」をご存じだからです。―ペテロ第二 2:5-9。
9 もちろん,これらご自分に全く献身している者たちのために神が行なわれることは,救出の業だけに限られていません。それでもこうした行動は,『エホバがご自分の民を見捨てられない』ことの証拠です。(詩 94:14,新)それで,神がご自分の民を助けて,生活の思い煩いに対処できるようにしてくださることを確信できるのです。
『自分たちの請願を神に知っていただく』
10 フィリピ 4章6,7節にある使徒パウロの言葉によると,わたしたちは「平和の神」との絆をどのように強めることができますか。
10 神の言葉を定期的に研究すれば,誠実な人々は一層エホバに引き寄せられます。ご自分に忠実に仕える者たちのためにみ父が示される愛ある方法や力あるみ業について黙想することも同じ結果をもたらします。しかし,わたしたちと「平和の神」との絆を強化する別の方法があります。クリスチャンの使徒パウロは仲間の信者たちに励ましを与えた際,この点を次のように明らかにしました。「何事も思い煩ってはなりません。ただ事ごとに祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたがたの請願を神に知っていただくようにしなさい」。その結果,人知の及ばない,神から与えられる平安がもたらされます。―フィリピ 4:6,7。
11 エホバが「祈りを聞かれる方」であることを証明するために,どんな聖書的な例を挙げることができますか。
11 パウロがこれらの言葉を書き記すはるか前に,エホバは愛があり,信頼できる「祈りを聞かれる方」であることを示されました。(詩 65:2,新)その崇拝者たちは自らの請願が聞かれるとの確信の下に,様々な思い煩いをエホバにゆだねることができました。例を挙げてみましょう。アブラハムの従者エリエゼルの祈りは聞き届けられ,主人の息子イサクの妻を見いだすよう導かれました。(創世 15:2; 24:10-27,62-67)石女だったハンナは,涙ながらに,『長く祈った』結果一人の息子サムエルを与えられ,感謝してその子を『一生涯エホバに貸しました』。(サムエル前 1:4-28,新)瀕死の病人だったヒゼキヤ王は涙にむせびながらエホバに祈願し,病を癒されました。(列王下 20:1-11)ネヘミヤは幾日もの間断食をし,祈りました。そして進退きわまった時に静かに「天の神」に祈願し,荒廃したエルサレムを再建するための王の認可を与えられるという喜ばしい結果が得られました。(ネヘミヤ 1:1-2:8)忠実なアンナは,神殿で「断食と祈願とをもって」夜昼神聖な奉仕をささげていましたが,幼児イエスがそこに連れて来られた時にその場に居合わせるという報いを得ました。(ルカ 2:36-38)キリストは地上におけるその生涯の最後の晩にエホバに懇願し,自分のために差し出された「杯」を飲むための力を天のみ父から与えられました。―マタイ 26:36-47。
12 エホバの僕たちが何かの思い煩いを経験しているとき,確信をもって神に祈れるのはなぜですか。
12 信仰告白,賛美,感謝の表明など聖書中に記録されている他の多くの祈りについても考えてみてください。そして現代のエホバの僕たちも,幸福で感謝にあふれていようと,困難や思い煩いを抱えていようと,祈りを込めて神に頼るべきではないだろうかと自問してください。確かに,天の父は彼らの謙遜で誠実な嘆願や言葉を聞いてくださるという確信の下にそうする必要があります。
13 使徒パウロが仲間のクリスチャンたちに,「何事も」思い煩ってはならないと勧めることができたのはなぜですか。
13 仲間のクリスチャンたちに,請願を神に知っていただくようにと助言したすぐ前のところで,使徒パウロは「何事も思い煩ってはなりません」と勧めました。(フィリピ 4:6)ここでパウロはイエスの助言を繰り返しています。イエスは,『自分の魂のことで思い煩うのをやめなさい』,『何を言おうかと前もって思い煩ってはなりません』と述べられました。(マタイ 6:25。マルコ 13:11)パウロは,天の父がご自分の崇拝者たちを気遣ってくださること,神が是認された事柄を行なう際にはエホバの聖霊の助けが得られることを知っていました。
14 祈りに関連して,「請願」とは何ですか。
14 今,敬神の生活を追い求めるわたしたちは,エホバが「祈りを聞かれる方」であることを知り,次のパウロの諭しを確信をもって受け入れることができます。「ただ事ごとに祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたがたの請願を神に知っていただくようにしなさい」。わたしたちの祈りは多くの場合「請願」です。つまり,その祈りには特定の物事を請い求めたり,明確な願い事をすることが関係しています。明確な願い事をして神に聞かれた忠実な人の中にエリエゼルとハンナがいますし,イエスは特定の仕方で神に請願するのは正しいことであると指摘されました。例えばキリストはご自分の弟子たちに対し,「その日の必要に応じてその日のためのパンをわたしたちにお与えください」と父に願い求めることを勧められました。―ルカ 11:2,3。
15 (イ)祈りとの関連において,「祈願」は何を意味しますか。(ロ)ヘブライ 5章7節はイエス・キリストの祈りについて何を教えていますか。
15 多くの事柄について思い煩いが増し加わってゆき,「祈願」が必要になることが時々あります。この語で強調されているのは,必要なものが不足している状態,そして謙遜で熱烈な懇願です。したがってそれは,ばく然とした祈りによってうやうやしく神に語りかけるというだけのものではありません。時には請願と祈願の両方が必要になります。次のように書かれています。「キリストは,肉体でおられた間,自分を死から救い出すことのできるかたに,強い叫びと涙をもって,祈願を,そして請願をささげ,その敬神の恐れのゆえに聞き入れられました」。(ヘブライ 5:7)必要不可欠なものを知っておられたイエスは,心から懇願し,み父に熱烈に祈願をささげられました。さらにキリストはエホバに請願と明確な願い事をされました。―ヨハネ 17:9,10,15-21。
16 クリスチャンは自分の祈りが聞かれたときに,どんな影響を受けることがありますか。
16 クリスチャンの特定の願い事がかない,その熱烈な懇願に答えが与えられると,人はエホバが共にいてくださることを知るようになります。こうして神の助けに関する理解を得ると,ヨブの場合と同じような反応が生じることでしょう。ヨブは試練を耐えた後に「うわさで私はあなた[エホバ神]のことを聞いていましたが,しかし今,わたしのこの目があなたを確かに見ております」と語りました。(ヨブ 42:5,新)ヨブと同じく,理解と信仰と認識の目をもって,わたしたちは自分に対するエホバの処遇の仕方を見,今まで経験したことのない方法でエホバを「見る」ことができます。天の父とのこうした親密な関係から何とすばらしい思いと心の平安がもたらされるのでしょう。
「感謝をささげつつ」
17 なぜわたしたちは祈りの中でエホバに感謝すべきですか。
17 パウロは仲間の信者たちに,「感謝をささげつつ」,祈りと祈願によって神に請願を知っていただくようにと勧めました。(フィリピ 4:6)至高者に感謝し,至高者を賛美するいわれは実に数多くあります。(歴代上 29:10-13)イエスは主の夕食に用いた表象物としてのパンとぶどう酒,および食物に対する感謝を表わして,追随者たちに模範を示されました。(マタイ 15:36; 26:26,27。ルカ 22:19,20)神への同様な感謝を表明することに加えて,わたしたちは「人の子らへのそのくすしいみ業」に対して,「義にかなった司法上の定め」に対して,またそのほか多くのことに対して「エホバへの感謝を捧げる」べきです。(詩 33:2-5; 92:1,2; 100:4,5; 107:1,8,15,21,31; 119:62,新)比類のない真理のみ言葉に対して神に感謝するのは実に当を得たことです。そしてエホバとの和解を可能にしたみ子の犠牲に対してわたしたちは心から感謝すべきです。―ローマ 5:6-11。
18 もしわたしたちが忠実に神のご意志を行なっているなら,思い煩いによって打ち負かされてしまう理由はありません。なぜですか。
18 神は本当に気遣ってくださるので,「エホバを愛する者たち」はそのことも神に感謝することができます。使徒ペテロはこう書きました。「それゆえ,神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となりなさい。そうすれば,神は定めの時にあなたがたを高めてくださるのです。同時に,自分の思い煩いをすべて神にゆだねなさい。神はあなたがたを顧みてくださるからです」。(ペテロ第一 5:6,7)ペテロもパウロも,何事も思い煩うことなく心配事をすべてエホバにゆだねるようにと仲間の信者たちに勧めました。何と適切な諭しなのでしょう。至高者にとって,ご自分に専心の献身をしている人々のために物事を行なえないとか調整できないとかいうことは全くありません。(マルコ 10:27; 12:29,30)神の許されることが何であろうと,忠実な人々は神が『いっさいの事に対する力』を与えてくださるので耐え忍ぶことができます。(フィリピ 4:13。コリント第一 10:13)詩篇作者が「あなたの道をエホバにゆだね,これに頼れ,主が自ら行動してくださる」と述べたのももっともなことでした。(詩 37:5,新)ですからどうぞ忠実に神のご意志を行なってください。そうすれば思い煩いによって過度に動揺したり,それに打ち負かされてしまうことはありません。それどころか,患難や窮境のただ中にあっても,内面的な平和を得る確かな理由があるのです。それにしてもその平和はどれほど豊かなものでしょうか。
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「いっさいの考えに勝る神の平和」ものみの塔 1981 | 2月1日
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「いっさいの考えに勝る神の平和」
「いっさいの考えに勝る神の平和が,あなたがたの心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださる」― フィリピ 4:7。
1 敬神の思いを抱く人が過度に思い煩うべきでない理由を使徒パウロが理解していたのはなぜですか。
クリスチャンである使徒パウロは,敬神の思いを抱く人々には,エホバが共にいてくださるので過度に思い煩う理由のないことを経験から理解していました。パウロは投獄され,殴打され,石打ちにされ,何度も死線をさまよい,偽兄弟たちの間でさえ数多くの危険を経験しました。しかし神は決してパウロを見捨てることはなさいませんでした。この使徒は熱心な祈りによって絶えず天の父に頼り,思い煩いを神にゆだね,決して失望を感じることはありませんでした。―コリント第二 4:7-9; 11:23-27。
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