偉大な教え手から学ぶ
1 物事を学ぶのは,あらゆる年齢の人々にとって大きな喜びであるべきです。なぜですか。
若くても年とっていても,学ぶことはわたしたちにとって大きな喜びとなりますし,またそうなるべきです。なぜでしょうか。なぜなら,物事を学ぶとき,わたしたちの思いの窓が開かれるからです。学ぶということは,単調さと不活発さの敵です。学ぶべきことはたくさんあります。わたしたちの住んでいる地球は,興味深い人々,興味深い場所,そして驚くほど変化に富んだ動物や植物で満ちています。そうです,星の輝く空を取り上げるまでもなく,地球そのものが知識の宝庫です。それは,一千生涯,否それ以上研究し続けられる課題を擁しているのです。―箴 9:9。
2 物事を学ぶ結果として,どんな能力を身につけるよう努力すべきですか。なぜですか。
2 しかしわたしたちは,単に物事について学ぶ以上のことを行なえます。学ぶことによって,物事を行なう能力を身につけることができます。それは自分自身のため,また他の人のためであり,結局のところ,人の生活は物事を行なうことによって成り立っているのです。この点でも,人が学んで行ないうる価値ある物事はほとんど無限にあります。学ぶことは人を大いに富ませ,また生活の興味と喜びを一千倍にも増しうるのです。このことに疑問の余地がありません。―伝道 3:12。
『知恵と知識との宝』を見いだす
3 学ぶということは,どれほど重要ですか。
3 しかし,わたしたちすべてにとって最も大切な点として,学ぶことは命と死の違いをも意味しうるのです。箴言 8章35,36節〔新〕において,霊感を受けた筆者は知恵を擬人化して,こう述べています。「そは我[知恵]を得る者は生命をえ,エホバより〔善意〕をうればなり我を失ふものはおのれの〔魂〕をそこなふすべて我をにくむものは死を愛するなり」。あなたは命を得たいと思われますか。では,知恵を得ることが必要です。どのようにして得られますか。どこから得られますか。神のみ子は次のように述べて,その方法を示されました。「永遠の生命は,唯一の真の神に在す汝と,汝の遣し給ひしイエス・キリストとを知るにあり」― ヨハネ 17:3。
4 (イ)真の知識はすべてだれから来ますか。なぜですか。(ロ)コロサイ書 2章3節は神のみ子について何と述べていますか。
4 宇宙とその中のあらゆるものの創造者,エホバ神は,学ぶことすべての真の源であられます。エホバは知るべきことすべてを知っておられ,それは人間がどうにか学びうるところをはるかに越えています。しかし神は,わたしたちが最も重要な事柄を学ぶための方法を備えられました。(箴 2:6)そのみことば聖書の中で,わたしたちの学ぶべき事柄,わたしたちの現在と将来の幸福な生活にとって最も重要な事柄を与えておられます。エホバはまた,わたしたちのために偉大な教え手,ご自身のみ子キリスト・イエスをお立てになりました。このみ子について,コロサイ書 2章3節は意味深くもこう述べています。『キリストには知恵と知識とのすべての宝かくれあり』。これはどういう意味でしょうか。
5,6 (イ)イエスの知識はどれほど広範にわたるものですか。(ロ)使徒ヨハネの書に示されているとおり,イエスはその知識を人類を益するためにどのように用いられましたか。
5 イエスは神の初子ですから,ご自分の父について,他のだれよりもよく知っておられます。神の子たちすべての中でも,『天にあるもの,地にあるもの,みな彼によりて造られたり』ということばがあてはまるのは,このみ子だけです。(コロサイ 1:15,16)その理由でイエスは,宇宙の歴史について,ただご自分の父に次ぐ知識を持っておられるのです。彼はご自分の父が物事をなさる方法について他のだれよりもよく知っておられます。彼が地上に来た目的の一つは,それまで以上に神をよりよく知るよう人々を助けることでした。使徒ヨハネが述べているとおりです。「言は肉体となりて我らの中に宿りたまへり,我らその栄光を見たり,実に父の独子の栄光にして恩恵と真理とにて満てり。未だ神を見し者なし,ただ父の懐裡にいます独子の神[すなわちイエス・キリスト]のみ之を顕し給へり」― ヨハネ 1:14,18
6 イエスの教えは人々の思いを開き,かつて一度も理解したことのないすばらしい真理を学ばせました。そうした教えは,実際には神ご自身の教えでした。イエスはこう言われたからです。「我はわが父の許にて見しことを語り…わが汝等にいふ言は己によりて語るにあらず,父われに在して御業をおこなひ給ふなり」。(ヨハネ 8:38; 14:10)わたしたちは今日,わたしたちの益のためにみ子の生涯とその業とことばとを人々に記録させそして今日のわたしたちもまた神が備えられたこの偉大な教え手から学べるようにしてくださったことに対して,神に感謝できます。
7 イエスの行なわれた教えるわざとソロモン王のそれとを比べなさい。
7 イエスの教えるわざは,その人間としての死をもって終わったわけではありません。復活させられて天に帰った彼は,エホバの油そそがれた王として神の右に座しておられます。マタイ伝 12章42節には,南の女王がソロモン王の知恵を聞くため地の果てから旅をしてきたというイエスのことばを引用しています。そしてイエスは,『見よ,ソロモンよりも勝る者ここにあり』とつけ加えられました。ソロモン王は,忠実であったとき,賢明な格言とことばと裁きをもってその民を教えました。より偉大なソロモンであるキリスト・イエスもまた,信仰をもってご自分に頼り,その王としての支配を受け入れる者すべてを教えられるのです。―ヨハネ 14:25,26。
8 (イ)それで,イエスについてはなぜ,『キリストには知恵と知識とのすべての宝かくれあり』といえますか。(ロ)これはどうしてそのみ父の立場を低くするものではありませんか。
8 それで,コロサイ書 2章3節にあるとおり,『キリストには知恵と知識とのすべての宝かくれあり』と言えるわけがわかりますか。それは,イエスが,神の目的すべての啓示と達成において鍵となる人物であられるからです。使徒パウロもまたイエスのことを,「神の能力,また神の知恵」と言えたのはそのためです。そうです,神の思慮深い目的がこのみ子を通して力強く表明され,またみ子のうちに要約されているからこそ確かにイエスは,『神に立てられてわたしたちの知恵と義と聖と救贖とに」なられたのです。(コリント前 1:24,30)これは全知の神としてのみ父の地位をなんらかの点で卑しめるものでしょうか。決してそうではありません。神の目的を成就し,また偉大な教え手として仕える点でキリスト・イエスは終始注意を真の神に向け,そのみ名を尊んでおられるからです。そして,わたしたちを神に導いておられます。
9 箴言 8章35,36節を読んで,その意味を神のみ子との関係において説明しなさい。
9 さて,箴言の書の8章の中で,知恵が,『我を得る者は命を得』と語る者として表わされているのを思い出してください。知恵は神のみ子のうちに体現されていますから,イエスは実質的にそれと同じことを,すなわち,「われは道なり,真理なり,生命なり,我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし」と言えました。(ヨハネ 14:6)わたしたちは命に導く知恵を見いだしたいと思いますか。では,神が私たちのために立てられたこの偉大な教え手から学ばなければなりません。ほかに道はありません。この方から学びそこなうのは,箴言が次いで述べるとおり,『おのれの魂をそこなう』ことであり,『死を愛する』ことになるのです。―箴 8:35,36。
あなたはほんとうにその方の弟子のひとりですか
10 偉大な教え手から学んできた事がらを幾つか述べなさい。将来にかんするわたしたちの見方はどのように影響を受けてきましたか。
10 あなたはこの偉大な教え手から学んでこられましたか。わたしたちすべてはそうする機会にあずかってきました。そのような機会をとらえた人たちは,神の意志とその道は何か,神の定められた規準は何か,神と人とに対してどのよう振舞うべきか,道徳的な清い生活を送るにはどうすればよいかを学んできました。そして,イエスから学んだ事がらのゆえに,将来に対する明るい希望,義の新秩序で生きるという,実に輝かしい希望をいだいています。
11 イエスは,わたしたちがこの希望をだれと分かち合うよう,教えられましたか。
11 しかし,イエスは,この希望を他の人々,自分の家族,友人,一般の人々などに,どこにいても,またあらゆる所で分かつべきことをも教えられました。事実,イエスは,ご自分にとって花嫁のようなその会衆に対する主要な配慮に加えて,人類史上最大の教育運動を自ら指導し,ご自分の王国の良いたよりを人の住む全地で宣べ伝えさせ,すでに幾百万の人々の生活に影響を与えてきた,弟子を作るわざを監督しておられるのです。―使行 1:8。マタイ 28:19,20。
12 イエスの真の弟子であるとはどういう意味ですか。
12 もしわたしたちがこの偉大な教え手から学んだなら,その方はわたしたちに,その真の弟子であることを実証する責任を課されます。あなたは真の弟子ですか。そうであることをどのように示しておられますか。その方の真の弟子であるということは,その方と同様な生活を送ること,つまり霊感による神のみことば聖書と全く一致した生活,神の聖霊の実を反映し,わたしたちの天の父の誉れとなる生活をするという意味です。それはキリストのような愛をもって仲間の兄弟たちを愛することであり,隣人が命を得られるように最善をつくして助けることを意味しています。それはまた,人類の世の中のまだわたしたちの兄弟ではない人々に良いたよりを宣べ伝える者となること,また喜んで教えを受けようとする人々すべてを弟子とするわざに加わることをも意味します。どうすれば,このすべてを行なう正しい方法を知ることができますか。イエスが地上におられた時,偉大な教え手として自ら模範を残れたので,それがわかるのです。―ヨハネ 15:8,12。
独身にかんするその助言に従う
13 (イ)イエスはどんな目標を念頭において独身を薦められましたか。(ロ)パウロは独身のどんな利点に注目しましたか。
13 人間としてのイエスは,ご自分の父から与えられたわざ,つまり神のみ名を立証し,人類のための贖いを備えるわざに,心をこめ,ひたすら打ち込まれました。彼は結婚されませんでした。そして,「〔天の王国〕のために自らなりたる閹人あり」と言われました。また,「之を受け容れうる者は受け容るべし」と述べて,この独身の道を薦めることさえされました。(マタイ 19:10-12〔新〕)その使徒パウロも同様に,余念なく「主のこと」に意を注げるよう,独身を薦めました。パウロは,独身の立場が可能にするいっそう大きな自由のゆえに,クリスチャンにとっては,結婚するよりも独身のほうが有利であることを示しました。―コリント前 7:32-35。
14 (イ)独身者がイエスやパウロの助言にほんとうに従っているかどうかを見るには,何を考慮すべきですか。(ロ)独身者の中には独身の立場をどのように有効に活用している人たちがいますか。
14 あなたは独身かもしれません。それはあなたがイエスやパウロの助言に従っているという意味ですか。必ずしもそうとはかぎりません。問題は独身の立場で何を行なっているかということです。ご自分の自由をどのように用いておられますか。パウロが述べたように,『ひたすら,主に事へ』るためにその自由を活用し,物質的なものよりもむしろ霊的な物事を真剣に考えていますか。(コリント前 7:35)聖書を真剣に勉強したり,他の人たちと討議したりして自分をいつも霊的に強めていますか。他の人々の霊的な福祉に寄与し,他の人々が神の霊の実を生み出すように助け,またこの面で自ら良い模範を示していますか。イエス・キリストをかしらとしていただく会衆に対してどんな奉仕をしておられますか。会衆外の人々つまり人類の世の人々に対してどんな奉仕をしておられますか。今日,独身者の中には土地の会衆内でりっぱな奉仕をしている人もおれば,世界の各地にあるものみの塔協会のベテル・ホームで奉仕している人たちもいます。また,開拓者として全時間宣教のわざに携わったり,遠く離れた所で宣教者として奉仕したりしている人々もいます。霊的な事柄に専心することにより,彼らはイエスが言われた意味で独身の道を「受け容れ」ていることを示しています。そして,豊かな祝福をかち得ており,少しも後悔していません。
結婚および親の立場についてイエスの教えられた事がら
15 結婚した夫婦は自分たちが偉大な教え手の献身的な弟子であることをどのようにして示せますか。
15 エホバの証人の中の他の大勢の人々は結婚しています。だからと言って,それらの人々は,偉大な教え手の真の弟子としては多少でも劣りますか。いいえ,そうではありません。イエスの使徒たちも多くは結婚していたからです。(コリント前 9:5)ここでもまた問題なのは,その結婚した状態で何を行なっているかということです。それら既婚者の中には,土地の会衆内で,またはベテル・ホームで,あるいは外国での奉仕を含め福音宣明活動においてりっぱな奉仕をしている人々がいます。神とみ子への奉仕の生活,仲間の兄弟たちへの愛,そして命を与えるみことばをしっかり把握して,人類の世の羊のような人々に対して示す同情心とによって自分たちがイエスの真の弟子であることを示しています。―ピリピ 2:12-16。
16 イエスは,親であるということを,弟子の立場と関連させてどのように考えられましたか。
16 それら既婚者の中には子どものいる人もおり,いない人もいます。子どもを持っている人は偉大な教え手の真の弟子としては,独身者や子どものいない夫婦より多少でも劣りますか。いいえ,少しも劣りません。すでに見たとおり,イエスはご自身のことば,およびその使徒パウロを通してクリスチャンにとっては結婚するよりも独身でいるほうが有利であることを示されました。一方,結婚した人々に対してイエスは,子どもを持つかどうかを全く当事者の問題とし,そのいずれかを特に促すということをされませんでした。
17 (イ)では,マタイ伝 24章19節にしるされているイエスのことばは何を意味していますか。(ロ)しかし,そのような婦人は何を警戒しなければなりませんか。
17 しかしイエスは,大かん難に関する預言の中で,「その日には孕りたる者と乳を哺する者とは禍害なるかな」と言われたのではありませんか。(マタイ 24:19)確かにそうです。なぜなら,最初の適用の場合,その預言は,エルサレム市およびユダヤ州に臨むかん難のことを述べていたからです。きたらんとする荒廃を免れるには,その地域から山岳地方に逃げることが必要でした。ぐずぐずするのは愚かで,危険なことでした。もしクリスチャン婦人が脱出をのばし,逃げるための機会がほとんど終わろうとする時になって,みごもっていたり,乳飲み子をかかえていたりしていたならどうでしょうか。むずかしい事態に立たされたことでしょう。しかし,現代におけるその成就において逃げるということは,文字どおりの市や州から文字どおりの山岳地方へ実際に逃げることではありません。それは霊的な意味で逃げること,つまり対型的なエルサレムであるキリスト教世界,ならびにキリスト教世界がその一部となっている象徴的な大いなるバビロンすべてから完全に離れ去ることです。それらは皆,きたらんとするかん難において荒廃に帰することが定まっているからです。イエスの預言のこのより大規模な成就においても,音信は依然として同じです。すなわち,対型的エルサレム,つまりキリスト教世界からの脱出をのばしてはならないのです。しかしながら,今日このことは,地理的な意味での実際の移動をなんら必要としません。みごもっている婦人や幼い子どもをかかえた人々が文字どおりに旅行を求められるわけではありません。この意味において,キリスト教世界および大いなるバビロンの他のあらゆる領域から必要な霊的脱出をするのに特に不利なことはありません。しかし,もし家族の事柄にすっかり気を奪われて,エホバとの良い関係をつちかえなくなるなら,問題は別です。そのような婦人たちや他の人々すべてにとって,大切なのは,危険地帯から霊的な意味でのがれることをおくらせてはいけないということです。もし待っているなら,予測しなかった事態が生じて,のがれることがもっとむずかしくなるかもしれないからです。
18 (イ)聖書全巻を通じて,親であるということはどのようにみなされていますか。(ロ)それは,家族をかかえている人たちが他の人々の行ないうる奉仕と同じ種類のそれをすべて享受できるという意味ではありません。なぜですか。(ハ)事情がどうであれ,わたしたちはみな,神とそのみ子に対する奉仕をどのように行なうべきですか。
18 神のみことば聖書は,「子輩はエホバのあたへたまふ嗣業にして胎の実はその報のたまものなり」と述べています。(詩 127:3-5)このことは今なお真実です。親であるということは,聖書全巻を通じて誉れあることとされています。神から遣わされた偉大な教え手は,そのような誉れを減ずるようなことは少しも述べませんでした。一方,ある種の仕事,つまり使徒パウロが行なったような,広範な旅行や,弟子や他の人々に長時間宣べ伝えたり教えたりすることを伴う仕事となると,世話すべき大きな家族をかかえる人にとっては,そのような仕事をするのは明らかにほとんど不可能ですから,問題は結婚したクリスチャンがどの程度事情を調整できるかに応じて,神へのどんな奉仕に自分を役だてることを願い求められるか,あるいは自分の事情からすれば何を行なうことができるように思えるかということです。しかし,何を求めるにしても,また事情がどんなものであり,またどうなろうとも,わたしたちは神とそのみ子に対する奉仕に専心すべきです。それは,わたしたちが偉大な教え手の忠実な真の弟子であることを保証するものとなります。―ルカ 10:27。
自分の子どもをキリストの弟子にする
19 親であるということは,特権であるとともに,ほかに何であるといえますか。説明しなさい。
19 親であるということは,確かに,神から与えられた特権です。しかし,それはまた重い責任をも伴います。それもまた,神から与えられたものなのです。子どもの誕生と同時に,ある父親が“20か年計画”と呼んだもの,つまり成人に達するまでその子どもの世話を見る仕事が始まります。それは容易な仕事ではありません。子どもをいつも清潔にさせ,衣食住を備え,危害から守り,病気の際に看護し,教育を受けさせるなど,ひとりの子供の養育に要する時間とお金と労働のすべてを計算することは困難です。それは大へんな投資であり,深い愛と自己犠牲とを求めます。しかも現在の地上の状態 ― 犯罪や少年非行の増加,不安定な経済事情 ― は,すべて結婚した人々が子どもの養育に対していだく真剣な心配を増し加えるものとなります。
20 子どもが単に身体面の世話と教育を受けられるように取り計らうだけでは親の責任は十分に果たされません。なぜですか。
20 今日,世の多くの親は,子どもの身体面の世話をし教育を受けさせて知能の発達させることだけで満足しています。しかし,それが親の責任のすべてですか。決してそうではありません。もし親が偉大な教え手の弟子であれば,子どもが身体的に健康で,知的によく教育されて成長したとしても,子どもの思いが腐敗し,心が真実でなく,義にかなっていないなら,なんにもならないということを知っています。自分の子どもに人生のりっぱなスタートをさせたいと誠実に願う親は,近視眼的な態度でこのことを見すごしたりはしません。
21 (イ)子どもたちがイエス・キリストの弟子になるには,親は何をしなければなりませんか。(ロ)この世的な慣行に対するクリスチャンの見方をどれほどしばしば子どもと話し合う必要がありますか。
21 親である皆さん,あなたはご自分の責任を果たしておられますか。あなたのお子さんを弟子としておられますか。お子さんを偉大な教え手に導き,とこしえの命に至らせる知恵をその方から教えていただけるようにしておられますか。(ルカ 18:15,16)親がキリストの弟子であるからといって,単にそれだけで子どもが自然にキリストの弟子になるなどとは考えないでください。そうなるように子どもを教えないなら,子どもはイエス・キリストの追随者にはなりません。おそかれ早かれ,子どもたちは家庭外の人々と接するようになります。近所や学校での子どもたちと接するようになります。お子さんは,それら他の子どもたちから偉大な教え手について学ぶでしょうか。わたしたちはそう考えるような愚かな人間ではありません。子どもたちは,卑わいなことばを口にしたり,うそをついたりする人々と接することになるのです。品行の悪い人々と接することになるのです。品行の悪い人々,神の霊の実ではなく,堕落した肉のわざを生活態度に表わす人々を見ることになるのです。あなたはお子さんをこの面で備えさせましたか。そうしたものに染まらないようにするのに必要な霊的な強さを持つようお子さんを助けていますか。『はい,わたしはそうした危険について子どもと話し合いました』と言われるかもしれません。しかし,どれほどしばしばそうしてこられましたか。一度ですか。二度ですか。数回ですか。お子さんはそうした事柄に一度や二度や数度ではなく,何度も何度も,来る日も来る日も接するのです。このことを忘れないでください。こうした日ごとの圧力に耐えて,屈しないためには,お子さんは,そうした圧力に見合うように定期的に霊的な見方と強さとを新たにされる必要があります。
22 どうすれば,学校で生ずる試練に対処できるよう子どもを強化できますか。
22 子どもたちはおそらく学校で進化の理論を聞かされることでしょう。また,国家主義的な精神を示すよう,圧力を加えられるかもしれません。偽りの宗教の儀式や,異教に由来する他の祝祭に加わるよう誘われるかもしれません。お子さんは,こうした試練に会っても,偉大な教え手の教えおよびその父エホバ神に忠実を保つ覚悟ができていますか。あなたは,そうするようお子さんを備えさせましたか。それとも,お子さんが学校でそうした問題の一つに直面して,それに対処する心構えができていなかったので当惑して恐れ,もしかすると,まちがったことをしてしまったのではないかと思って泣きながら家に帰って来るまで手をこまねいて待っていますか。それが小さな子どもをどれほど当惑させるものとなるかを知ってください。お子さんに対して憫れみ深くあってください。皆さんはご自身の人生経験から,お子さんの生活にどんな問題が起こるのが必至かをご存じのはずです。天の父が何を望んでおられるかを知るよう,愛をもってお子さんを助けてください。ほかのだれにもまさってエホバ神を喜ばしたいという欲求をお子さんのうちに築かせ,ほんとうに大切なのは神がわたしたちをどう見ておられるかという点であることを認識させるようにしてください。―箴 29:25。詩 119:11。
23 (イ)クリスチャンの親はどんな点で,この世的な知恵だけで導かれている人々よりも有利ですか。(ロ)人生に首尾よく対処するには,子どもには何が必要ですか。それはいつ必要ですか。
23 偉大な教え手の弟子として,クリスチャンの親である皆さんには,この世的な知恵だけで導かれる人々に比べて,はかり知れない利点があります。世の人々には,神のみことば聖書の与える知恵と慰めと励みがありません。クリスチャンの親であられる皆さんは,子どもたちに対する供給者,保護者,教育者,訓練者としての任務を果たすにさいして,神の後ろだてに頼ることを知っています。皆さんは,ただお子さんに衣食住を与え,お子さんを学校に送れば,それで自分の務めは終わったのだと考えるような愚かな人ではありません。お子さんが人生に首尾よく対処するには,道徳上の指針,つまりそれにのっとって生活する原則が必要なことを皆さんはご存じです。そして,必要な導きと保護を受けるには,お子さんはそうした指針や原則を幼少の時に学びはじめることが必要です。
24 聖書の箴言は,適切な訓練を子どもに与えることの大切さをどのように強調していますか。
24 神のみことば聖書は,「子をその道に従ひて教へよ然ばその老たる時も之を離れじ」と命じています。(箴 22:6)一方,「任意になしおかれたる子はその母を辱しむ」,また,「愚なる子は其父の憂となり亦これを生る母の煩労となる」と述べています。(箴 29:15; 17:25)もちろん,愚かさは知恵の反対です。もし親が自分の子どもを偉大な教え手に,つまり『知恵と知識とのすべての宝がかくされている』方に導かないなら,子どもが無分別で愚かなこの世の道に従う場合,その親は重大な責任を負うことになるのではありませんか。そうです,子どもが助けを受け入れず,また生涯のじゅうぶん早い時期に助けを受け入れないと,痛ましい事態が起こるおそれがあり,またまさしく起きているのです。
[328ページの図版]
時おり人々を尋ねて「良いたより」を他の人とわかち合っているからといって,それで独身にかんするイエスの助言に従っているといえますか。あなたの生活の中でほんとうに大事なのは何ですか。神のわざに心から打ち込んでいますか
[330ページの図版]
子どもの身体面の成長に心を配ったり,子どもを学校にやったりするだけでは不十分だということを親は決して忘れてはならない。子どもの思いと心を義の道に導くために,あなたは何をしておられるであろうか