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祈りについてどんなことをご存じですか目ざめよ! 1974 | 3月22日
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がそのおきてを守り,神の目に喜ばれることを行なっているからです」― ヨハネ第一 3:22。
祈るときの姿勢
祈るときの姿勢には,特別に「神聖な」姿勢というのはありません。聖書は人びとが立って,両手を天にさしあげて,ひざまずいて,また王の前で臣民が平伏するように,顔を地につけひれ伏して祈ったことを告げています。ある姿勢は謙そんさを表わします。しかし,聖書時代にささげられた祈りのさまざまな場合をみると,手にせよからだにせよ,特別の姿勢を取ることは要求されていないことがわかります。―マルコ 11:25。列王上 8:22。ルカ 22:41。ネヘミヤ 8:6。
姿勢は重要でないにしても,精神の態度は重要です。神に祈りを聞いていただくためには,真剣な心が必要です。『心をつくして我に帰れ』とエホバは言われました。(ヨエル 2:12,13)神のみまえにあってはわたしたちはいかなる功績を主張する権利も,自己満悦する根拠も,何を要求する権利もありません。わたしたちはエホバのご親切に価しない者です。イエスは,「神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください」とだけ言った謙そんな収税人をよしとされました。―ルカ 18:9-14。
どこでまたいつ祈れるか
聖書中に述べられている例は,どんな場所からでも,またどんな時にでも祈ってよいことを示しています。ヘブライ人は,『すべてエホバをよぶもの 誠をもてこれをよぶものにエホバは近くましますなり』,ということを理解していました。―詩 145:18。
アブラハムのしもべは,メソポタミアで偶然ある井戸のそばに来た時に祈りました。ダニエルはへやの中で祈りました。使徒ペテロは,中東の家の平たい屋根の上で,ひとりで祈りました。イエスは,人びとの前で,またはひとりの時に,あるいはゲッセマネの園の静かなところで,そして山の上でお祈りになりました。―創世 24:10-14,26,27。ダニエル 6:10,11。使徒 10:9。マタイ 26:36。マルコ 6:46。
人びとがいるところでも,その人たちにはわかりませんが,沈黙の祈りをささげることができます。アブラハムのしもべは,『心のうちに語うこと』をして,声を出さずに祈りました。ハンナも「心のうちで物を言って」祈ったので,「声は聞えなかった」とあります。ですから神は沈黙の祈りも聞くことができるのです。―創世 24:45。サムエル前 1:13,口語。
これらの例は,創造者との親しい霊的な交わりが可能であることを示しています。祈りをとおして神に近づくのに予約をしておく必要はありません。そのための予定表もいりません。わたしたちはいつでも祈ることができます。ダビデは「終日」エホバによばわりました。使徒パウロは,「たゆまず祈り」なさい,「絶えず祈りなさい」と励ましています。―詩 86:3。コロサイ 4:2。テサロニケ第一 5:17。
祈りの特権に対する心からの感謝を培ってください。祈りが与える霊的力を味わってください。祈りの特権は軽視すべきではありません。それは,万策尽きた時にのみ用いる,最後の手段としてとっておくべきものではありません。祈りは日常生活の一部であるべきものです。個人的な祈り,家族の祈り,それに会衆の祈りは,この苦難の時にあなたを力づけるものです。祈りを通して神に語りかけるとき,神の平安がもたらされ,神の聖霊の流れが促進され,義の新秩序における生活が永遠の将来にわたって祝福されることを確信するよう助けられます。
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舌を制する目ざめよ! 1974 | 3月22日
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舌を制する
● 人間は小さな子どものとき,何年かかかって話すことを学ぶ。しかし後ほど,黙すべき時について学ぶことははるかにむずかしい。―ヤコブ 1:19。
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