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謙遜さ ― きわめて望ましい特質ものみの塔 1977 | 10月15日
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まなざしを向けたりすることはありませんでした。ダビデは自分の限界を認め,能力以上の事柄に手を出そうとはしませんでしたから,次のように言うことができました。「[エホバ]よ,わが心はおごらず,わが目は高ぶらず,わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません」― 詩 131:1,口,[新]。
こうした謙遜さを培うため,ダビデは努力しなければなりませんでした。彼は霊感の下に次のように認めているからです。「乳離れしたみどりごが,その母のふところに安らかにあるように,わたしはわが魂を静め,かつ安らかにしました」。(詩 131:2,口)ですから明らかに,一時ダビデの魂,つまり彼の全身にみなぎった情熱的な欲望は,彼が真の謙遜さを表わすために,静められる必要がありました。ダビデは,欲望と切なる思いのために,ちょうど赤子が母親の乳房をしきりに求める時のような,どうしようもない気持ちに駆られました。とはいえ,ひとたび乳離れした子供は,間もなく新しい食事の仕方に慣れ,母親の腕の中に安らぎを見いだします。同じように,ダビデは自分の欲望を静めることに成功しました。自分を高めてくださるのはエホバであることを認識したダビデは,忍耐強くエホバを待ち,仲間のイスラエル人たちにもそうするよう励ますことができました。「イスラエルはエホバを待ち望め。今から,そして定めのない時に至るまでも」― 詩 131:3,新。
同様に今日,神の民の会衆の中で,奉仕のしもべや長老として用いられることについて,謙遜な人は辛抱強さを示します。そうした人は,目立ちたいという目的で出しゃばろうとはせず,「すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いこと」を行なうよう,喜んで努力します。(ガラテア 6:10)しばらくはその人の良い特質や業が見過ごされるかもしれませんが,そうした事柄が隠されたままになることはないと確信できます。テモテ第一 5章25節はこう述べているからです。「りっぱな業も公に明らかであり,そうでないものも,隠されたままでいることはありえません」。
謙遜さは平和に役立つ
特定な立場で用いられないことに関して,謙遜な態度を保ち,それを大きな問題としない人は,クリスチャン兄弟たちの間の平和を保つことに貢献しています。たとえ誤った判断がなされたとしても,その誤りを明らかにし,自分自身の正しさを立証しようとすることは,必ずしも賢明ではありません。自分の正しさを証明できるかもしれませんが,その過程において,他の人々を傷つけることがあるからです。事実その人は,任命された長老に対する会衆の人たちの敬意を,知らないうちに損なうということもあり得るのです。もしそうだとすれば,自分が他の人々の前で恥をかかせた長老と共に働くことはその人にとって確かに難しくなります。
ですから,誤った判断がなされたと兄弟が感じるならば,こう自問すると良いでしょう。その誤りは,たとえ逆効果を招くおそれがあっても,明らかにしなければならないほど重大だろうか。それよりもむしろ,後日,事が正されるのを待つことはできないだろうか。それを問題にすることは,会衆の平和を妨げる問題をわざわざ引き起こすことにはならないだろうか。
謙遜な人は,自分も誤ちを犯すことを認めますから,進んで聖書の助言を受け入れ,それを当てはめます。自分が不当な評価を受けたならば,その経験から益を得るように努め,他の人々を扱う際に,自分自身同じ誤ちを犯さないように,一生懸命に努力します。
謙遜さをもって仕える
任命された長老や奉仕のしもべは,他の人々に謙遜に仕えるという点で,使徒パウロの模範に倣うと良いでしょう。パウロは,自分自身と仲間の働き人たちに関して次のように書きました。「また,人間からの栄光を求めたりもしてきませんでした。そうです,あなたがたからも,また他の人びとからもです。キリストの使徒として,費用の面で重荷を負わせてもよかったのですが,そうはしなかったのです。それどころか,乳をふくませる母親が自分の子どもを慈しむときのように,あなたがたの中にあって物柔らかな者となりました。こうして,あなたがたに優しい愛情をいだいたわたしたちは,神の良いたよりだけでなく,自分の魂をさえ分け与えることを大いに喜びとしたのです。あなたがたが,わたしたちの愛する者となったからです」。(テサロニケ第一 2:6-8)「栄光」を求める気持ちからではなく,喜んで仕える謙遜な態度や,自己犠牲的な愛の表われとして,自分の時間と精力を与える態度は仲間の人々にとって祝福となります。そうした態度は他の人々に訴えるものであり,その人はエホバのみ手にあってりっぱな働き人となります。
謙遜さは,他の人々に仕える精神を反映するよう人を助けるとともに,仲間の信者に対する感謝の念をも強めます。使徒パウロはフィリピの人たちに,「何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち」なさい,と勧めました。(フィリピ 2:3)この助言に従う人は,ある面では自分自身のものより優れた資質を他の人々の中に見ることができます。自分を控え目に評価する人は,性急に自分のやり方を主張したり,他の人々の推薦を無視しようとしたりしません。そうした人は,物事を取扱うのに幾通りかの方法があり,自分の判断は必ずしも最善ではないことを認めています。ですから,喜んで他の人々の感情や,見解を考慮に入れ,共に何かを行なう場合には,それを自分一人の手柄としないように注意します。そうした謙遜さによって,その人は望ましい友人となります。
確かに謙遜さは,神や仲間の人間との良い関係を保つ上で大切なものです。ですから,それは献身した神のしもべとして,わたしたちすべてがさらに一層培いたい資質です。
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賢人はどんな意味で述べたかものみの塔 1977 | 10月15日
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賢人はどんな意味で述べたか
知恵のより優れた価値
財産は貴重なものです。しかし,相続する人がその財産を正しく管理する洞察力に欠けるなら,どんな益があるでしょうか。ソロモン王は次のように書きました。「知恵に財産が伴うのは良い。それは日を見る者どもに益がある。知恵が身を守るのは,金銭が身を守るようである。しかし,知恵はこれを持つ者に生命を保たせる。これが知識のすぐれた所である」― 伝道 7:11,12,口。
このように,知恵は物質の所有物よりはるかに価値あるものとされています。知恵に欠ける人は財産をすぐに浪費してしまいます。金銭を持っていれば,必要な物が手に入るので,金銭はある程度の身の守りとはなりますが,なくなったり盗まれたりすることもあります。富んだ人は,強盗や暴力を働く人にねらわれることさえあるでしょう。一方,知恵,つまり問題の解決や,特定の目標の達成のために知識を用いる能力があれば,命をあやうくするような愚かな危険を冒さずにすみます。知恵は人を若死から守り,さらに知恵が神へのふさわしい恐れに基づいているなら,とこしえの命を得る道に導かれるでしょう。
身の守りになるという点で知恵には確かに価値があります。賢人はこう述べました。「知恵が知者を強くするのは,十人のつかさが町におるのにまさる」。(伝道 7:19,口)知恵は身を守るという点で価値があります。それゆえ,包囲されている町の住民を守る戦士全員を表わす「十人」よりも多くを成し遂げます。全人類は不完全であるという事実を考えると,わたしたちは,エホバ神がご自分のみ言葉の中に備えてくださった賢明な導きなしに暮らしてゆくことはできません。罪人である人類は,神の完全な標準にははるかに及びません。ソロモンはこう述べました。「善を行い,
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