恐れそれとも愛情 ― どちらを植えつけますか
あなたはどちらを教えますか。仲間の人間に対する明るくて心あたたまる愛情と,不安で不健全な人間への恐れとには著しい相違があります。私たちは心の底では,自分と関係のある人に,特に少しでも自分に依存しているか,あるいは自分に責任のある人の心に愛情をそそごうとします。ところが,そのような良い意向をもっているにもかかわらず,私たちは反対のことをするかも知れません。なぜでしょうか。思いやりや洞察力が欠けていたり,ちょっとした利己的な野心があっても,そういうことになります。
独裁者は恐れで支配します。「悪しき者が起るときは,民は身をかくす」。恐怖は人を向上させるものではありません。ですから,独裁者の勢力は概してはかないものです。―箴言 28:8,新口。
雇主とか監督は,この点に注意がいります。事あるごとにくびにするぞ,とおどしたり,勝手で無分別な雇主が,雇用者の心に愛よりも恐怖心を植えつけるのは容易なことです。結果として雇用者は,見られている時にだけ働くようになります。同じく,両親,会衆の監督,教えることをするクリスチャンの奉仕者たちも,自分の世話にまかされている人々との関係に注意を払わねばなりません。
父親のなかには ― 特に中央ヨーロッパの ― 家族の心に恐怖心を植えつける傾向のある人がいます。家族のかしららしく愛情のこもった世話もしないで,絶対の服従と,最大の尊敬を払うことを要求するのです。また,どちらかというと妻や母親の方がいばっていて,夫はごたごたを避けたいばかりに自分の役割を放棄するというような国もあります。ところがその母親が,子どもに対する親の権威を放棄して,子どもを恐れるのです。
世界の社会的秩序がひどく乱れているのも当然と言えるでしょう。
使徒ペテロは,まさにこの点に関して,クリスチャンの監督たちに勧告を与えています。神の群れに君臨するのではなくて,模範となりなさいと彼は告げています。支配者のように行動する者は恐怖心を植えつけ,模範を示す者は愛情を植えつけます。―ペテロ前 5:3。
もし私たちが不注意であれば,人に恐怖心を植えつけがちです。表情そのものが原因になるかも知れません。相手がほほえんでいるのに,あるいは微笑しようとしているのに,にこやかに返礼しないで,いつまでもそっけない無表情な顔をしているなら,その人に対して何か悪意をいだいているのではないかという疑念と恐れを生じさせます。ほほえむことは少しも骨が折れません。しかし何という大きな働きをするのでしょう!
声の調子でも恐怖心を植えつけるかも知れません。がさつで,きつい声,きびしくてこわい口調に人はおどおどし,恐怖心を起こします。生まれつきの声が耳ざわりで,しやがれ声の場合もあるでしょう。また声に力を入れすぎているかも知れません。もしそうなら,声の性質を改善するように心がけるのがよいでしょう。注意と自制とによって,暖かみと親しみのある声,耳に快い声,恐れではなくして愛情を植えつける声にすることができます。
それから,忙しくてほかの人などかまってはいられないというような様子も,人の心に恐れを植えつけるでしょう。人のことを聞いているひまなどないというようなそぶりをしているので,問題をかかえている人々も近づくのを恐れます。私たちにとって,その時になしうる一番重要なことは,彼らの問題を聞いて,助言や励ましを与えることかも知れないのに,彼らは私たちのじゃまになることを恐れます。
気が短いですか。それもまた人の心に恐怖を植えつけます。じゃまをされて不きげんになったりいらだったり自制心がないために急に怒り出したり,激しい言葉をはいたりするなら,おそらく愛情よりも恐れを植えつけることになるでしょう。自分も傷つけられたくないし,私たちのきげんもそこねたくないと思う人たちは,私たちを恐れるようになります。それは私たちを怒らせはすまいかという恐れです。
私たちが無意識に人に恐怖心を植えつける最もありふれた場合として,思いやりの不足,他の人の立場になって考えて見ないこと,相手を理解しないことなどがあります。「あなたは分かってはいないのだ」という言葉をなんとしばしば耳にすることでしょう。理解の不足は他の人に恐れの心を起こさせます。理解がないと私たちは,まちがった判断をします。そしてそれが自分と他の人の間の垣になってしまいます。
もし私たちが,無思慮に,あるいは理解せずに行動するなら,良い意図をもっているにもかかわらず,愛情でなくて恐れを植えつけのは容易なことです。自分の責任を果たすに際しては,常に人の感情に支配されねばならぬというのではありません。そうではなくて,むしろ自分の責任を最大限に効果的に果たすというのが私たちの願いです。私たちは何が自分の責任であるかを知っています。他の人が私たちに責任があるのと同じく,私たちも他の人に対して責任があることを知っています。しかし,その責任を認識する一方,それを果たす方法も考慮することができます。場合に応じてはき然とした態度も必要です。しかしそうありながら親切であることはできます。天が下にはすべての事に時があります。粗暴とか無慈悲の反対の極端に走って気の抜けたような人間になる必要もありません。こらしめを与えねばならない時は,怒るにおそくあるべきことを思い出して,理性に訴えるようにしましょう。
聖書には,恐怖ではなくて愛を植えつけた人々のよい例がたくさんあります。その中のひとりは,人間の中で最も偉大なかたであったイエス・キリストにほかなりません。イエスは,親切で,思いやりがふかく,理解がありました。そしてこう言われました,「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである」。―マタイ 11:28-30,新口。
この点でイエスに従うという模範を私たちに残したのは,使徒パウロでした。彼がどのように他の人の心に愛情を植えつけたかに注意して下さい。「あなたがたの間で,ちようど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。このように,あなたがたを慕わしく思っていたので,ただ神の福音ばかりでなく,自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに,あなたがたを愛したのである」。―テサロニケ前 2:7,8,新口。
こうしたよい模範に従う時に私たちは,自分と,また自分と交わる人とに幸福をもたらすでしょう。