第18章
今日生きる多くの人が死を経験しないでよいのはなぜか
神の王国が地上のすべての物事を管理しはじめる時は近づいています。あなたは,その王国が人類にもたらす壮大な祝福を目撃する人々の中に入ることができます。これは根拠のない主張ではありません。あなたご自身がご覧になったものを含め,これを裏付ける証拠はたくさんあります。
幾世紀も前,エホバ神は,人類世界の王としてご自分が指名する者に支配権の授けられる時がいつであるかをはっきり啓示されました。エホバはその啓示のために象徴を用い,また情報の一部を夢の形で示されました。
この重要な情報を人間に伝えるために神がそのような伝達手段を用いたことを疑問にする必要はありません。情報伝達のために今日の人々がどのようなことを行なっているか考えてください。秘密の音信が空間を通り,暗号のかたちで送られます。その後,暗号化された音信は人手か機械によって解読されます。このような方法で情報を伝達することには意図があります。その情報の意味を,資格のない人からは秘めておくのです。
同じように,神が象徴的表現を用いたのも目的のないことではありません。そうした象徴を理解するためには勤勉な研究が求められます。しかし,神と真理に対する真実の愛がないために,時間をかけてそれを理解しようとしない人が多くいます。こうして,「王国についての神聖な奥義」は,そのような人々からは隠されたままに残ります。―マタイ 13:11-15。
古代の預言的な夢
そうした「神聖な奥義」の一つが聖書のダニエル書の中に含まれています。その書は,神の任命を受けた王が王としての実際の権威をいつ与えられるかを知るのに重要な手がかりを提供しています。その書の第4章には,バビロンのネブカデネザル王に神が与えた夢の内容が記されています。この夢およびその成就にはどのような目的また意味がありましたか。記録はこう述べています。
「至高者が人類の王国にあって支配者であり,ご自分の望む者にそれを与え,人類のうち最も低い立場の者をさえその上に立てられるということを,生きている人々が知るため」― ダニエル 4:17。
その夢の内容はおおむね次のとおりです。一本の巨大な木が,「聖なる者」つまりみ使いの命令のもとに切り倒されました。次いで,芽が出ないようにするため,その切り株にはたがが掛けられました。切り株はこうしてたがを掛けられた状態で「野の草」の中に置かれ,「七つの時」を経過することになりました。―ダニエル 4:13-16。
この夢にはどのような意味がありましたか。ネブカデネザルに対する,預言者ダニエルの霊感の説明は次のとおりです。
「あなたがご覧になった木,……王よ,それはあなたです。あなたは大きくなって強くなり,あなたの威光は大きくなって天に達し,あなたの支配権は地の果てにまで及んだからです。
「そして,王は,ひとりの見守る者,そうです,聖なる者が天から下って来て,その者がまた,『その木を切り倒し,それを破滅させよ。ただし,その根株は地に残し,鉄と銅のたがを掛けて野の草の中に置き,また天の露にぬれさせ,七つの時がその上に過ぎるまでその分を野の獣と共にさせよ』と言うのをこ覧になりましたから,王よ,これがその解釈であり,至高者の定めはわが主なる王に必ず臨むところのものです。そしてあなたを,彼らは人間の中から追いやり,あなたの住みかは野の獣と共になり,彼らは草木をまさにあなたに与えて雄牛のように食べさせるでしょう。そして,あなた自身は天の露にぬれ,七つの時があなたの上に過ぎ,ついにあなたは,至高者が人間の王国にあって支配者であり,ご自分の望む者にそれをお与えになる,ということを知るようになります。
「また,彼らはその木の根株を残しておくようにと言いましたから,天が支配していることをあなたが知った後に,あなたの王国はあなたにとって確かなものとなるでしょう」― ダニエル 4:20-26。
こうして,この夢はまずネブカデネザル王に成就しました。「七つの時」の間,つまり文字どおり七年の間,ネブカデネザルは正気を失っていました。しかし,その王国は彼のために確保されていたため,健全な思いを取り戻してすぐ,彼は再び王としての職務に就きました。―ダニエル 4:29-37。
「人類のうち最も低い立場の者」に与えられる王権
しかし,切り倒された木に関するこの詳しい記述は,ただネブカデネザル王にのみ実現するのではありません。なぜそのことが分かりますか。なぜなら,この幻そのものの中で述べられたとおり,これは,神の指名を受けた者による神の王国と支配権とに関するものだからです。では,その王権のために神が選ぶのはだれですか。ネブカデネザル王に与えられた答えによると,それは,「人類のうち最も低い立場の者」です。―ダニエル 4:17。
人間の政治支配者たちは低い立場の者となってはきませんでした。これは歴史の事実によって否定の余地なく証明されます。人間の立てる政府とその支配者たちは自らを高め,互いに対して血なまぐさい戦いをして,自ら獣のような記録を残してきました。したがって,聖書が不完全な人間の政府や王国を獣になぞらえ,そのすべてがやがて支配権を奪い取られることを示していても不思議ではありません。(ダニエル 7:2-8)だれがそれに代わるかについて,聖書は預言者ダニエルの次の言葉を記録しています。
「わたしが夜の幻の中で見つづけていると,見よ,天の雲と共に人の子のような者が来るところであった。そして,彼は日を経た方に近づき,彼らは彼をまさしくその方のすぐ前に連れて来た。そして彼に,支配権と尊厳と王国が与えられたが,それは,もろもろの民,国民集団,言語すべてがまさしく彼に仕えるためであった。彼の支配権は,定めなく続く,過ぎ去ることのない支配権,彼の王国は破滅に至らされることのない王国である」― ダニエル 7:13,14。
ここに描写されているのはイエス・キリストにほかなりません。イエスは聖書の中で,「人の子」とも,「王の王,主の主」とも呼ばれています。(マタイ 25:31。啓示 19:16)彼は天における自分の高い立場をすすんで捨て,「み使いたちより少し低(い)」人間となりました。(ヘブライ 2:9。フィリピ 2:6-8)人間としてのイエス・キリストは,極度の挑発のもとでも,「柔和で,心のへりくだった者」であることを示しました。(マタイ 11:29)「彼はののしられても,ののしり返したりしませんでした。苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁くかたに終始ご自分をゆだねました」― ペテロ第一 2:23。
人類の世界はイエス・キリストを取るに足りない者のようにみなし,彼に当然価した誉れを与えようとしませんでした。その状況は,まさに預言者イザヤの予告したとおりでした。『彼は侮られて人にすてられ 悲しみの人にして病患を知れり また面をおほひて避くることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりき』― イザヤ 53:3,文語訳。
イエスは,「人類のうち最も低い立場の者」の描写に適合します。この点に疑問はありません。したがって,切り倒された木に関する預言的な夢は,イエスが人類の世界に対する支配権を与えられる時のことを指しているに違いありません。それは「七つの時」が終わったときです。この「七つの時」とはどれほどの長さですか。それはいつから始まるのですか。それはいつ終わりますか。
「七つの時」の長さ
ネブカデネザルが夢を見てから六世紀以上後にイエス・キリストは活動の場面に現われ,「天の王国は近づいた」と宣明しました。(マタイ 4:17)イエスは,指名を受けた王として存在していたゆえにそのように言うことができました。しかし,イエスはその時に人類世界に対する王権を受けたのではありません。それゆえ,ある時,「神の王国がいまやたちどころに出現するもの」と誤った結論を下していた人たちに対して,イエス・キリストは,自分が王としての力を与えられるまでにはまだ長い期間のあることを例えで話されました。(ルカ 19:11-27)したがって,ダニエルの預言の大きな成就において,「七つの時」が,ただ七年だけでなく,幾世紀もの長い期間を表わしていることは明らかです。
実際の証拠から言うと,この「七つの時」は2,520日,つまり,一年を360日とする預言的な七年です。そのことは,「時」,「月」,「日」などについて述べる聖書の他の部分から確証されます。例えば,啓示 11章2節は,「四十二か月」つまり三年半という期間について述べています。次の節の中で,その同じ期間は「千二百六十日」と述べられています。さて,1,260日を42か月で割ると,一か月は30日になるはずです。したがって,12か月から成る一年は360日です。これに基づいて計算すると,「七つの時」つまり七年は,2,520日の長さになります。(360×7)
この計算が正しいことは,啓示 12章6,14節から実証されます。そこでは,1,260日のことが「一時と二時と半時」つまり『三時半』(「三年半」,新英語聖書)と呼ばれています。七は三つ半の倍ですから,「七つの時」は2,520日になります。(1,260×2)
ダニエルの預言の「七つの時」は,イエスが人類世界に対する王権を受けることに関するものです。したがって,これが24時間を一日とする2,520日よりずっと長い期間に及ぶことは言うまでもありません。これらの「日」の各一日の長さを知る方法がありますか。あります。預言的な日に関する聖書の公式は,『一日を一年とする』ことです。(民数 14:34。エゼキエル 4:6)これを「七つの時」に当てはめると,それは2,520年になります。
「七つの時」の始まり
「七つの時」の長さが分かりましたから,わたしたちは次に,それがいつ始まったかを調べます。そして,切り倒された木についての預言的な夢の成就としてネブカデネザルに起きた事柄に再び注意を向けましょう。彼の身に起きた事柄について考えてください。
正気を失った時,ネブカデネザルは世界の支配権を行使していました。バビロンはその時,地上第一の強国であったからです。ネブカデネザルの場合,象徴的な木が切り倒されたことは,世界の主権者としての彼の支配が一時的に中断することを意味していました。
神がネブカデネザルに行なった事柄には,神ご自身の選んだ王による支配にかかわる目的がありました。したがって,ネブカデネザルがその王座を「七つの時」のあいだ失ったことは何かの象徴であったに違いありません。何のですか。神の取決めによる支配もしくは主権の行使が一時的に中断されることです。ネブカデネザルの場合,彼が世界支配者の地位を得ることを許し,その後一時的にその地位を彼から取り去ったのは,王自ら認めたとおり,エホバ神であったからです。(ダニエル 4:34-37)それで,ネブカデネザルに臨んだ事柄は,神の王国から主権が取り去られることの象徴であったに違いありません。したがって,木そのものは,地上における世界支配を表わしていました。
一時期に,エルサレムをその都とした政府は神の王国を成していました。ダビデ王家の者であったその支配者たちは,「エホバの座」にすわる者と呼ばれ,エホバの律法に従って統治するようにとの命令のもとにありました。(歴代上 29:23)したがって,エルサレムは神の統治を代表する場所でした。
それゆえ,ネブカデネザル配下のバビロニア人がエルサレムを滅ぼし,エルサレムの統治下にあった土地が完全に荒廃した時,世界支配権は異邦人の手に渡り,異邦人が,エホバの主権を代表する王国による干渉を受けないで世界を支配するようになりました。至上の主権者は,そのような形でご自身の支配権を行使することを控えられました。神がご自身の王国による,地に対する主権の行使をこうして控えたことは,木の切り株にたがが掛けられたことによって表わされました。エホバの主権の表現としての政府の所在地であったエルサレムは,その滅びと完全な荒廃の時以来「踏みにじられ」はじめました。つまり,「七つの時」は,ネブカデネザルがエルサレムを滅ぼし,ユダの地が完全に荒廃した時に始まった,という意味です。その出来事はいつありましたか。
その出来事があったのは西暦前607年です。聖書と世俗の歴史に基づいてそれを確証できます。a その証拠は以下のとおりです。
バビロンは西暦前539年にペルシャ人クロスの前に倒れました。世俗の歴史家はこの点で意見の一致を見ています。この年代は入手しうる古代のすべての歴史的な記録によって立証されています。聖書は,クロスが,その治世の第一年に,流刑になっていたイスラエル人のエルサレム帰還および神殿再建を許す布告を出したことを明らかにしています。その前にメディア人ダリヨスの短いバビロン統治がありましたから,クロスのバビロン統治の第一年は西暦前538年から537年にまたがったはずです。(ダニエル 5:30,31)かなりの距離を旅行しなければならなかった点を考えると,イスラエル人がそれぞれ自分の都市に戻って,エルサレムとユダの地の荒廃を終結させたのは,西暦前537年(前538年ではなく)の「七月」であったに違いありません。(エズラ 3:1,6)それでも,彼らは依然として異邦人による支配のもとにあり,そのために,自分たちのことを,『自らの土地にいる奴隷』と呼びました。―ネヘミヤ 9:36,37。
聖書の歴代志略下(36:19-21)は,エルサレムの滅びおよびその支配地域の荒廃から復興までに70年が経過したことを示しています。その部分はこう述べています。
『[ネブカデネザルは]神の室をやき エルサレムの石垣を崩し そのうちの宮殿をことごとく火にてやき そのうちの貴き器をことごとくそこなへり また剣をのがれし者どもはバビロンにとらはれゆきて かしこにて彼とその子らのしもべとなり ペルシャの国のおこるまでかくてありき これエレミヤの口によりて伝はりしエホバのことばの応ぜんがためなりき かくこの地つひにその安息をうけたり すなわちこれはその荒れをる間安息してつひに七十年満ちぬ』― 文語訳。
イスラエル人が自分の都市に戻った時つまり西暦前537年から70年をさかのぼると,それは西暦前607年になります。したがって,神の統治を代表した都エルサレムが異邦人によって踏みにじられはじめたのはその年です。
「七つの時」の終わり
弟子たちに対するイエスの次の言葉は,エルサレムがこうして踏みにじられていることに言及したものです。「エルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」。(ルカ 21:24)ここで言う「定められた時」は,西暦前607年から2,520年たった時に終了します。それは西暦1914年になります。では,エルサレムを踏みにじることはその年に終わりましたか。
確かに,地上のエルサレム市は,西暦1914年にダビデの系統を引く王が復位するのを見ませんでした。しかし,それは予期すべきことではありませんでした。なぜですか。地上のエルサレム市は,神の観点からする場合,もはや神聖な意義を有していなかったからです。地上におられた時,イエス・キリストはこう語りました。「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた者たちに石を投げつける者よ ― めんどりがひとかえりのひなをその翼の下に集めるように,わたしは幾たびあなたの子らを集めたいと思ったことでしょう。それなのにあなたがたはそれを望みませんでした。見よ,あなたがたの家はあなたがたのもとに見捨てられています」。(ルカ 13:34,35)さらに,イエス・キリストの手にゆだねられる王国は,エルサレムその他の都市を都とする地上の政府ではありません。それは天の王国です。
したがって,「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配する」という啓示 11章15節が西暦1914年にその成就を見たのは,見えない天においてのことでした。エルサレムが表わしたもの,つまり,神の是認のもとに支配する,メシアによる政府は,その時以後もはや踏みにじられてはいません。再びダビデ王朝の者が王となり,その者が,神の任命のもとに,人類世界の物事に対して支配権を行使するようになりました。聖書預言の成就として西暦1914年以来この地上で起きている,目に見える出来事は,これが真実であることを証明しています。
そうした預言の一つは,「ヨハネへの啓示」の第6章に出ています。その中では,イエス・キリストに王としての権威を与えることとそれに続く出来事が象徴的な言葉で描かれています。
イエスが王権を受けることに関して記述はこう述べています。「見よ,白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。そして,その者に冠が与えられ,彼は征服しに,また征服を完了するために出て行った」。(啓示 6:2)後に,啓示の書は,この馬の乗り手がだれであるかを疑問の余地なく示して,次のように述べています。「見よ,白い馬がいた。そして,それに乗っている者は忠実かつ真実と称えられ,その者は義をもって裁きまた戦う。……そして,彼の外衣に,実にそのもものところに,王の王また主の主と書かれた名がある」― 啓示 19:11-16。
イエスが人類の世界に対して実際に活動する王として「冠」を受けた後にこの地上で何が起きるかについて,啓示の第6章はさらにこう述べています。
「別の,火のような色の馬が出て来た。そして,それに乗っている者には,人びとがむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された。そして大きな剣が彼に与えられた。また,彼が第三の封印を開いた時,わたしは,第三の生き物が,『来なさい!』と言うのを聞いた。そして,見ると,見よ黒い馬がいた。それに乗っている者は手に天びんを持っていた。……また,彼が第四の封印を開いた時,わたしは,第四の生き物の声が,『来なさい!』と言うのを聞いた。そして,見ると,見よ,青ざめた馬がいた。それに乗っている者には“死”という名があった。そして,ハデスが彼のすぐあとに従っていた。そして,地の四分の一に対する権威が彼らに与えられた。長い剣と食糧不足と死の災厄をもって,また地の野獣によってそれを殺すためである」― 4-8節
この言葉はそのとおり成就してこなかったでしょうか。全世界的な戦争という剣が1914年以来猛威をふるってこなかったでしょうか。まさにそのとおりです。第一次世界大戦は,かつてない規模の人間の大殺りくとなりました。900万人を超える戦闘員が戦傷,疾病,その他のために死にました。戦争の直接,間接の結果による一般市民の死者はさらに幾百万を数えます。そして,第二次世界大戦は,これをはるかに上回る数の人命を消し去りました。それによって,推計5,500万人の一般市民と戦闘員が死んだのです。
食糧不足は,さながら黒い馬のように全地を駆けめぐらなかったでしょうか。そうです,ヨーロッパでは,第一次世界大戦中および大戦後に多くの地域で飢きんがありました。ロシアでは幾百万もの人が死にました。そして,第二次世界大戦後には,ワールド・ブック百科事典(1973年)が「史上最大の世界的食糧不足」と呼ぶものが生じました。そして,地上人口の三分の一は緩慢な餓死の過程をたどっている,あるいは栄養不良に悩まされている,というのが今日の冷厳な事実です。
死の災厄つまり恐ろしい疫病も多くの命を奪い取りました。1918年から19年にかけてのほんの数か月のうちに,ただスペイン風邪の流行だけでおよそ2,000万人の人が死にました。ただ一つの災厄によってこれほど多くの人が命を失ったことはかつてありませんでした。
これらはいずれも大きな出来事であり,注目を免れることはできません。ジョセフ・カーターは,「1918年,危機の年,変化の年」という本の中でこう述べています。「その年[1918年]の秋,まさに恐怖に恐怖が重なった。黙示録の四騎士のうちの三人まで,つまり戦争と飢きんと疫病がいたるところに広がっていたからである」。今日にいたるまで,象徴的な騎士たちはその行進をやめていません。
こうして,ネブカデネザルの夢の中の象徴的な切り株に掛けられていた抑制のたがが西暦1914年に取り去られたことについて,その見える証拠が存在しています。エホバ神は,ご自分のみ子つまり主イエス・キリストの王国を通して権威を行使されはじめました。では,どうしてそれによって地上の状態が改まっていないのですか。キリストが人類に対する支配権を与えられた時と地上の災いとが結び付いているのはどうしてですか。
それは,悪魔サタンがキリストによる神の王国に敵対しているからです。その王国が人類に対する権威を与えられた時,サタンはその王国に対して戦いました。しかし,サタンはその戦いに敗れ,配下の悪霊もろとも聖なる天界から放逐されました。いきり立ったサタンと配下の悪霊たちは,すべての人またすべての物事を破滅に至らせるため,可能なかぎりの難儀を人類の中に引き起こしています。天における戦争とその結果とについて描写した後,聖書の記述はさらにこう続いています。「天と天に住む者よ,喜べ! 地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである」― 啓示 12:7-12。
この,王国の敵対者に残されている時はどれほど短いのですか。イエス・キリストは,自分が王国の栄光のうちに到来することと,不敬虔な事物の体制を除き去ることとが,一世代の人々の生きている間に起きることを示しました。イエスはこう語りました。「あなたがたに真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」― マタイ 24:3-42。
したがって,西暦1914年当時生きていた人々の中には,イエスが自分の征服を完了し,地上の物事を全面的に掌握するのを目撃する人たちが必ずいることになります。これはまた,今日生きている多くの人々に,決して死を味わわないという見込みのあることをも意味しています。どうしてですか。
今日生きている多くの人々が死を経験しないのはなぜか
征服を完了するにあたり,王であるイエス・キリストは,自分の支配に服することを拒む者に対してのみ処置を取ります。迫害に遭っていた仲間の信者たちを慰めたさい,霊感を受けた使徒パウロはそのことについて次のように書きました。「あなたがたに患難をもたらす者に患難をもって報い,一方患難を忍ぶあなたがたには,主イエスがその強力な使いたちを伴い,燃える火のうちに天から表わし示される時,わたしたちとともに安らぎをもって報いることこそ,神にとって義にかなったことで[す]。彼はそのさい,神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。この同じ者たちは,主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます」― テサロニケ第二 1:6-9。
言うまでもなく,すべての人が自分の生命に関する神の権威を『知る』ことを拒む,つまりそれを認めようとしないわけではありません。すべての人が『イエス・キリストについての良いたより』に不従順な態度を取っているわけではありません。世界人口と比べると少数であるとはいえ,神に献身したしもべであり,イエス・キリストの忠節な弟子であることを実証するべく懸命に励んでいるクリスチャンの集合体があります。神からの刑執行の日にエホバ神にひたすら献身していることを見いだされる人々は,その裁きによって自分が除き去られることはない,という確信を持つことができます。聖書はこう述べています。
「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼の上にご自分の天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」― 啓示 7:14-17。
「患難」を生き残る大群衆の前にあるものは,死ではなく,命です。「子羊」つまり主イエス・キリストは,その人々を「命の水の泉」に導くのです。これは,単に70年か80年の命ではなく,永久に続く命です。イエスは,罪を贖う自分の犠牲の恩恵を彼らに適用し,彼らを罪と,死をもたらすその影響から解放します。イエスから差し伸べられる助けに従順に答え応じるにつれ,これらの人々は人間としての完全性に達し,もはや死ぬ必要がなくなります。
サタンおよび配下の悪霊集団が干渉して,この人々の進歩向上を妨げることはありません。「大患難」によって地上の邪悪な事物の体制が一掃された後,サタンは一千年のあいだ底知れぬ深みに投げ込まれます。そのことに関する聖書の象徴的描写は次のとおりです。「わたしは,ひとりの使いが底知れぬ深みの鍵と大きな鎖を手にして天から下って来るのを見た。そして彼は,悪魔またサタンである龍,すなわち初めからのへびを捕えて,千年のあいだ縛った。そして彼を底知れぬ深みに投げ込み,それを閉じて彼の上から封印し,千年が終わるまでもう諸国民を惑わすことができないようにした」。(啓示 20:1-3)こうして,サタンと配下の悪霊は死んだような状態に入って,人類に難儀をもたらすことができなくなります。
西暦1914年当時に生きていた世代は,王国がサタンからの干渉を全く受けずに支配を開始するのを目撃する世代でもあります。聖書はその点を明示しています。したがって,今日生きている多くの人は,決して死を経験しないという見込みを持つことになります。その人々は現在の不敬虔な体制の滅びを生き残り,そののち徐々に罪から解放されて人間としての完全性に達します。罪を持たない人間として,そのとき彼らは罪の報いである死から放免されます。―ローマ 6:23。
この点を考えると,あなたがもしまだそうしておられないなら,王イエス・キリストの側に立場を定め,今その忠節な民のひとりとして生きることは緊急な問題です。それこそエホバのクリスチャン証人が力を尽くして行なおうとしている事柄であり,証人たちは他の人々も同じ道を取るように助けようとしているのです。
[脚注]
a 全体的に見て,現代の世俗の歴史家は,西暦前607年をこの出来事の起きた年とは見ていません。しかし,それら歴史家がよりどころとしているのは,その出来事があってから幾世紀も後の人々の著作です。一方,聖書が載せているのは事件の目撃者たちの証言であり,一般の著作家たちの無視するさまざまな要素を提出しています。さらに,「七つの時」の終了した時点における聖書預言の成就は,この年代が誤りのないものであることを疑問の余地なく立証しています。聖書の提出する年代資料が世俗の歴史以上に信頼できる理由について,詳しくは,「聖書理解の助け」(英文)の322-348ページをご覧ください。