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エホバに頼ることによってのみ成功するものみの塔 1978 | 5月1日
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に戦ってくださることの必要性を認めました。そのようにして初めてエホバはベニヤミン族を彼らの手に渡されたのです。―士師 20:20-29。
士師記を読むなら信仰が強められます。士師記は,エホバ神の神聖さ,および清い崇拝に対する神の強い要求,また誠実さと真理をもって神を呼び求める者に示してくださる大いなる憐れみの強い証しとなっています。この書は『自分のわざを神にたくす』ことによって勝利が得られるという確信を読者に与えます。障害がどれほど大きくても,エホバに信頼を置く者たちには,神の任命された指導者,また偉大な裁き人イエス・キリストを通して救出がもたらされるでしょう。―箴 16:3。ローマ 8:35-39。
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読者からの質問ものみの塔 1978 | 5月1日
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読者からの質問
● 長老や奉仕のしもべの家の者である子供が「放とうの責め」を受けるような場合,その家族の頭が引き続き任命された立場で会衆に仕えることができるかどうかを決定するものは何ですか。
会衆内で仕える既婚の男子は模範的な家族の頭でなければならないことを聖書は明確に述べています。次のように記されています。「したがって,監督は……自分の家の者をりっぱに治め,まじめさをつくして子どもを従わせている人であるべきです。(実際,自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか。)」。(テモテ第一 3:2,4,5)「奉仕のしもべたちはひとりの妻の夫であり,子どもと自分の家の者たちをりっぱに治めているべきです」― テモテ第一 3:12。
会衆は,長老や奉仕のしもべおよびその家族がクリスチャンとしての生活の点で立派な模範を示すことを期待しますが,それは当然なことです。(テモテ第一 4:12; ペテロ第一 5:3と比べてください。)そうした状態が見られなくなるなら,会衆の霊的な福祉に有害な影響が及ぶでしょう。例えば,長老や奉仕のしもべの子供たちが聖書の原則を当てはめる点で手ぬるいなら,会衆内の他の子供たちはそれを見倣い,自分たちの悪行の言い訳をするようになりかねません。(コリント第一 8:9-13; 10:31,32)長老や奉仕のしもべの子供がゆゆしい悪行に携わるようなことにでもなれば,事態はますますもって深刻なものになります。
それで,そのような子供が家族や会衆に恥辱をもたらすなら,長老団はその父親が長老あるいは奉仕のしもべとして引き続き奉仕する資格があるかどうかを決定しなければなりません。家庭内でそのような事態が発展していても,当人自身はそうした立場で奉仕する資格があると考えているかもしれません。しかし,そのことによって長老団の決定が左右されるようなことがあってはなりません。
人が任命された立場で奉仕し続けてゆくためには,自分の家の者に必要とされる霊的な助けを与える能力がその人にあり,その点で著しく怠慢であるようなことはなかった,という明確な証拠がなければなりません。目ざとい父親は,普通,自分の手に負えなくなる前に,自分の家族に問題があることを見抜けるものです。自分の家の者を治める方法を知っている者として,その人は家庭内の望ましくない事態を制するための処置を取れるはずです。その人の子供が間違いを犯すとしても,子供に必要とされる導きや懲らしめを与え,『放とうな』人間にならないようにすることができなければなりません。―テトス 1:6。
もちろん,家族を霊的に助けようと父親が賞賛に値する努力を払ったとしても,子供が真理の道から離れたり,悪行に走ったりすることがあるかもしれません。その人の他の子供たちはクリスチャンとしての生活において立派な模範を示し,親から優れた訓練を受けたことを実証しているかもしれません。一方,その家に住んでいる未成年の子供たちが一定の年齢に達してから次々に深刻な霊的困難に陥り,家族と会衆に恥辱をもたらすようであれば,父親が「自分の家の者をりっぱに治め」ているかどうかは非常に疑わしくなってきます。ですから,サムエルの子たちやエサウなど,悪くなった者たちの例をただ聖書から指摘するだけで,そうした事態を大目に見ることのないよう注意しなければなりません。(創世 25:27-34; 26:34,35。サムエル前 8:2,3,5)道を踏みはずした者として聖書の中で言及されている人々の大半は,自分で決定を下す十分の能力を持つ大人になっていた,ということを念頭に置いておかねばなりません。そうした人々は家庭内の未成年の子供と同じような権威
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